【注釈】大名権力と國人衆の関係について

◉前口上


 この話は架空戦記ですが、なるべく現実の歴史研究を準拠しています。

 但し、私自身が歴史研究をやった事が無く、本に書かれている事、ネットで調べた物を読んで、まとめているだけに過ぎないので誤っている可能性は多々あり得ます。

 あくまでこの「作品世界」の設定と考えていただければ幸いです。


 長い文ですし、ご面倒であれば読み飛ばして頂いて結構です。この話が少し特殊で今までの「常識」からすると少し違和感があると思い、一応、致命的な物のみ書いています。


 「ん?おかしいな」「どう言う事?」と思った時に読んで頂ければ、有り難いです。


----------------------ー

【注釈】大名権力と國人衆の関係について


 今までの大名と國人衆(大名領国に居住する独立武士団)の関係と言えば、大名の成長する過程で敵対し滅ぼされ、或いは被官化したと言うイメージがあります。


 そう言った例もあったのでしょうが、大名権力は彼らの存在を否定するものでは無く、むしろ積極的にその支配機構を自らの支配体制に組み込み、利用していた事がわかってきました。

 それをここに記してみたいと思います。


 長くなるのでここに結論を書いておきます。

①大名権力に従属した國人衆の領域の支配は平時においては、基本的には大名は口出し出来ず、独自の家臣を持ち、國人領内を支配する独自の機構を備えていた。その独立性は従属した後も保たれた。

②大名は従属した國人衆の存続と利益を守る代償に軍役を課した。しかし、それは双務的な関係で、もし大名に國人衆の存続と利益を守る意思、もしくは実力が無いと(國人衆に)判断されれば軍事侵攻を受けた際など躊躇なく破り捨てられる関係だった。


(ここに記したのは幾つかの本を読んで得た私なりの結論ですが、正直腑に落ちていないことも多く、今後変わるかも知れません。

 それがもし本編の展開に致命的な変更を求める認識過誤でも本編は変えませんが、こちらは元の文を残した上で変えるかも知れません)




○室町時代初期〜『国人領主』(國人衆の前身)


 ①片田舎の小さな領の土豪と言うイメージではありますが、彼らは有力武士で守護被官では無く、室町将軍に直接仕える御家人でした。


 室町将軍に仕え、その御料所(将軍直轄領)の管理を任された彼らは『守護不入』(所領支配において守護が一切口出し出来ない)の特権を持ち、京に在番しては室町将軍に直接伺候し、守護から独立して幕府の命令を遂行し、また在国中は事態によっては守護と敵対し、その行動を掣肘せいちゅうする勢力として存在しました。


②彼らは土豪、荘官、地頭層などの出身であり、『荘官』※として本家、領家(京の貴族、寺社仏閣)に仕え、『武家』として室町将軍に仕えていました(主君が複数人居ました)。

 自分や家子郎党の「知行地」の他に色々な荘園の年貢収公を請け負い(請地)、その手数料として土地の一部を取りました。


 その請文(契約書)には、もし年貢を未納にした時は「武家御沙汰」(荘園領主の要請→室町幕府の命令→守護の執行)により『罪科』に処される旨、明記されていました※。

 実際、年貢納入を怠れば、幕府から沙汰を受けた守護が荘官職解任を強制執行していた例が見られます(甲斐『志摩庄』山県文雅丸の例1376年)。


 國人は知行地や請地から得た余剰の経済力で新たな土地を開墾したり、買い取ったりして、土地を広げて行きました。

 請地や買得地は本拠の近隣では無い事が多く、例えば海野荘(長野県上田市の辺り)の海野氏は筑摩郡会田御厨(現在の松本市会田)や船山郷(千曲市)などに知行、請地を持っていました。

 これら遠隔の知行、請地は常に近隣の國人領主からの横領の危機にさらされていました。

 また遠隔地の代官を任せた家子(一門衆)や郎党(家人、被官、重臣)の独立(叛乱)などもあり、当時は「自力救済」(自分の権利は自分で守る)が原則でしたが、これらの事態に國人独力で対処する事は実質的に不可能で、幕府の力で収めようと、幕府や(直接の主人では無い)守護と関係を深めて行きました。

 これを『室町期荘園制』と言います。

 これらは三代将軍足利義満や四代義持の時代に整備され、機能しましたが、関東では享徳の乱(1455〜1483)、畿内では応仁の乱(1467〜1477)が発生すると室町幕府各機関の権威が失墜し、機能不全に陥っていきます。



○戦国時代『國人衆』


 上記の応仁の乱などの室町幕府の権威失墜により、広域の地域安全保障体制が崩れると、荘園の横領が頻発し始めます。

 『自力救済』の原則に従い、遠隔の知行地を奪われ、また自らも近隣の荘園を横領した為、ある國人は衰退・滅亡し、別の國人は一円支配を完成させて強大化しました。

 勢力の小さな『國人領主』はこの過程で他の『國人衆』ないしは『大名権力』に滅ぼされ、或いは被官化され、消えていったと考えられます。


 そうして戦国時代になる頃には「國人衆」は大名権力にとっても、潰すにはある程度の痛手を伴う程の勢力を持つ事に成功していました。


 軍事的冒険を避けたかった大名権力は、出来うる限り、調略したり交渉したりして、それをそのまま大名家の支配領域、支配機構に取り込んでいきました。


 國人衆の側としても、これをね付ける事は即座に大名権力との戦争状態に突入する事を意味し、大名権力の傘下に入る事で、安全保障上の利点がある、また大名権力傘下の他の國人衆との争いが避けられる(大名権力への訴訟という形になり、戦争にならない)という点で利益があり、大名権力の傘下に入る選択をする者も少なくありませんでした。


 この為、戦国時代の國人衆の持つ特徴は以下のものになります。


一、國衆とは、室町期の国人領主制が変質し、自分の居城を中心に地域的支配権を確立した領域権力として成長を遂げたものであり、その領主制の形態は日本史上、存在した前例が無く戦国期特有のもの。


二、國衆が戦国期固有の地域的・排他的な支配領域を確立している事である。それは郡規模である事が多く「領」と呼ばれるが、同時に「国」として意識されていた。

 これらは荘園を管理する地頭職に任命される事でその土地を支配していた(支配は『荘園単位』)それまでとは異なり、もっと小さな「惣村」ごとの単位で領の境界が別れていた。

 これは武力をもって実効支配する事と共に最小政治法人格である「惣村」の支持があり、始めて成し得た。


三、國衆の支配地域は独立しており、平時においては基本的に大名の介入を受けない。その領域の支配者は國人ただ一人であり、領民にとっては将軍も大名も全く支配権を持たなかった。


四、國衆は独自に「家中」を編成し「領」の支配においては、独自に文書発給などを実施するなど行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣編成をなどを実施していた。

 そのため、國衆の領域支配構造は戦国大名のそれとほとんど変わる事がない。


五、國衆は大名と起請文を交換し、証人(人質)を提出することで従属関係を取り結ぶが、独立性は維持されたままである。


六、戦国大名は國衆を従属させ、その支配領域たる「領」の安堵と存続を認めるかわりに、奉公(軍役、国役などの負担)を行わせる。


七、しかし戦国大名と國衆との関係は双務的関係であり、大名は國衆の存続の為に援軍派遣など軍事的安全保障を実現する義務を負う。

 もし大名が援軍派遣を怠ったり、保護を十分になし得ない状況に至った場合、國衆は奉公する大名が安全保障を担えないと判断し、大名との関係を破棄(離叛)して、他の大名に従属する事を躊躇しない。


八、戦国大名は國衆を統制する為に重臣を『取次』とし、それを通じて様々な命令を伝達した。一方、國衆も大名への要望を『取次』を通じて上申した。なお國衆と『取次』は戦時に於いては「同陣(相備※)」として一体化し、國衆は『取次』を担当する大名重臣の軍事指揮に従う事になっていた。


(平山優氏著『戦国大名と国衆』の著述を中心に

改変。事例は主に甲州武田家の例)


『國人衆は従属先に年に数千貫文規模の礼銭を払っていた』

 但し、実際に戦闘、籠城となれば大名家から前線の國衆に戦争費用の援助が行われた。

(越後上杉氏、天正元年12月木戸氏、菅原氏の例{上越市史別編1})黒田基樹氏著『戦国大名の危機管理』より




 守護と國人衆の間には出自の違い(片や在地武士団、片や他所から来た幕府に任命された者)があるだけで、基本的な差は無く、双方、『室町幕府の権威失墜によって崩壊した室町期荘園支配体制』の中、何とか生き延びようと一円支配に打って出た存在であり、そこには本質的に何の違いもありません(ただし、南北朝の内乱、観応の擾乱を乗り切るために、室町幕府は各地の大名に半ば押し切られる形で闕所地処分権〈討伐した罪人の所領を奪う権利。なお守護は任国内で誰が謀反人・罪人かを“決めやすい”立場にいる〉や任国内の武士に対する指揮統率権を認めさせられている為、法的立場としても相対的に優位ではあった)。


 守護→守護大名→戦国大名や守護被官・守護代→戦国大名と言う例が多いのは、純粋に事前に抱えていた勢力の大きさの違いによります。

 元々抱えていた戦力、勢力が違った為、出遅れ、戦国大名化したそれら勢力との争いに敗れたり、その勢力下に下り、被官化したものの、そう言う存在であったが為に、独立心が強く、それを押し通す事が出来なければ、躊躇なく叛旗を翻しました。

 また、守護の力の弱い国では、それら國人衆が戦国大名化する事もありました(例、毛利氏、松平〈徳川〉氏、長宗我部氏など)。



【主要参考文献】

◉平山優 氏著 『戦国大名と国衆』

           角川選書(2018年)

 大河ドラマ「真田丸」で時代考証を担当され、武田氏研究を中心に多数の著作を出されている平山優先生の一冊。この本は長年の「大名と家臣の関係」に自分なりの結論を出すきっかけを作ってくれました。この小説のベースとなっている一冊です。


◉黒田基樹 氏著『戦国大名の危機管理』

          角川文庫版(2005年)

 「戦国大名の危機管理」とありますが、軍事的な事は余り出てきません。それがこの当時の「危機管理」の本質をよく表しています。

 この本は情報量が多く、初心者の私には読むのが大変でしたが、とても様々な情報を知ることができました。平山優先生の「戦国大名と國衆」と共にこの物語のベースとなった一冊です。


----------------------ー

◉用語解説

【荘官】

 『荘園領主』(京都の公家衆や寺社仏閣)に変わり現地で荘園の年貢の収公、荘園の維持管理を行った官。


【荘園領主の要請→室町幕府の命令→守護の執行】

 何故この様な事になったかと言うと、室町将軍が武家の棟梁として室町幕府の主催者であると同時に、征夷大将軍や他の朝廷官位によって『朝廷の守護者、擁護者』の立場にあったからです。代々の将軍は天皇家、貴族や寺社仏閣から出される要請を無下にできませんでした。


【相備】

 自力で一備(の定員兵数)を立てられない國衆が大名家重臣(取次)の兵の編成に加わる事により一備を為す事。


 今回もお読み頂き有難うございます。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る