カフカを読んだ友人
ヤマダヒフミ
※
「カフカを読んだよ」
友人がそう言ったのは九月だった。どうして季節を覚えているかって? 喫茶店から見えたのが銀杏だったから。色づいた銀杏だったから。
「しかし、あれはよくわからんね」
彼はカプチーノを手に取って、口につけた。私は毎度感心したものだが、彼のコーヒーの飲み方は上品そのものだった。彼の佇まいも、彼の姿勢も、いつもピリッと締まっていた。私とは正反対だった。私はいつも背もたれにぐったり寄りかかったり、紙ナプキンを折り畳んで奇妙な創作物を作ったりした。
「何を読んだんだ?」
「『変身』だよ。一番有名だろ?」
彼はカプチーノを皿に置いた。彼は窓の外を見た。人々が歩くのが見えた。人々は駅に向かって一心不乱に歩いていった。人々は私には、秋の風景に全く溶け去っているように見えた。
「あれはどういう小説なんだ?」
彼は疑問を口に出した。私は、彼が普段小説など読まない人だと知っていた。
「あれはああいう小説さ」
私は彼の頭を見た。白髪が混じっている。彼は四十の年に差し掛かっていたが、独身だった。最も、常に女はいたようだ。複数いた事もあったらしい。
「あれはああいう小説だよ。主人公がある日、虫になる。その感覚がわからなければ永遠に……わからない。そういう小説なんだよ」
「わからんね。私には。ああいう小説を書く人間の心理というものが。知り合いが勧めてきたから読んだんだが……どうしてああいうものを書くんだろう」
彼はカプチーノを飲んだ。口元に泡がついた。紙ナプキンで、綺麗に拭った。
「ああいうものを書くには書くだけの必然性があるんだよ。人間は…有用性だけで終わるもんじゃない」
「私にはわからんね。人間は働いて、社会に尽くして、そうして世界の一部として、世界に貢献して生きていくべきだ。私には…こういう作品を書く気持ちがわからない」
「私はカフカをよく知っているから言うけどね、正に君のような思想に抗する為に彼はああいうものを書いたのさ。自分は虫だ。しかし、自分は人間だってね。君や君のような考えを持った人が排除した人間が、暗がりでああいうものを作る。だけどね、それも世界の一部分だ」
「君はわかっているような事を言うね」
「本当にわかっているからね」
彼はフッと鼻で笑った。彼は笑いさえも上品だった。
「私も四十だからね」
彼は窓の外を見た。話を変えたな、と私は思った。
「結婚しようと思っているんだ」
「へえ、そうか。おめでたいな」
「おめでたくはないよ。君もわかっているだろう? …相手は十八才さ。羨ましいかい?」
「羨ましいね」
「君には望むべくもないだろうからね」
彼は私を見て微笑した。私はそれを「冗談」だと解した。
「まあね」
「相手はいいとこの子だよ。向こうは私をさっぱりした、金持ちの紳士だと思っている。別に間違っちゃいないがね。どう思う?」
「どうって? …別にいいんじゃないか?」
「君は私がどんな人間かを知っているだろう? その見地からどう思うか、聞きたいんだ」
「今更、良心の呵責でもあるって言うのか? 君の醜業をその女に逐一知らせでもしたらいいのか? …しかし、そんなもの、誰だってあるだろう? 誰だって、過去は暗いさ」
「私は…部下を自殺に追い込んだ事がある」
彼は深刻な顔をした。彼は俯いた。私はじっと見ていた。
「まだ、血気盛んだった頃だ。私は…部下を自殺に追い込んだ。間違いなく、私の責任だ。しかしだな、自殺は本人のせいにされた。精神病だとさ。会社が遺族をうまくまるめこんだ。証拠がなかったのもラッキーだった。みんなこの件についてはだんまりだよ」
「そんなに気になるんなら、警察に自白でもしたらいいんじゃないか?」
「一体何の罪で? 私は公的には何の罪も犯していないんだ。…だかね、いいか君。病んでいるのは私だけじゃないぜ。上司に、部下を自殺に追い込んだのを自慢している奴がいる。彼は本当にそれを自慢しているんだ。飲み屋でも、平気でそんな話をするよ。『プロジェクトが厳しすぎて、ついてこれない奴がいた。そいつは自殺したが、俺達はその先まで行った。俺達は厳しい環境を耐えて、プロジェクトを完遂させた。そういう厳しさがなければ、トップにはなれない。一人くらい死ぬ奴は出る。ここは戦場だ』 彼はそう言っているよ。いつもね。で、現に彼はトップに近い所まで辿り着いた。…こんなのおかしいと思わないか?」
「今更、そんな事におかしいて言ったって遅いんだよ」
私は若干、苛ついていた。
「今更だろ。君はそういう道を選んだんだ。例え、遺族に復讐されて、ナイフで刺されたって、文句言えないぜ。人生ってそういうものだろ。それが人生だろ。それを甘受するんだ。君は、自分のしてきた事のおかげで、十八のいいとこの子と結婚できるし、良心の呵責に悩む事にもなった。全部自分だろ。自分を受け入れるんだ。ろくでもない人生になったとしても、それも人生の一つだろ」
「君は…いつもわかったような事を言うな」
彼はがっくりとうなだれた。上品さに綻びが現れた。
「知っているか?」
「何を?」
「私は君が羨ましかったんだ」
彼は机の上でピアノを弾くような仕草で、指を遊ばせた。私は自分自身を見ているような気がした。
「君は学生時代から、自由闊達だった。自分の意志を持って生きているように見えた。内心では君が羨ましかったんだ」
「嘘をつくなよ」
私は嘘だと思った。
「本当だよ。君が羨ましかった。でも、同時に、全然羨ましくなかった。君のようにだけはなりたくはないとも思っていた」
「そりゃそうだろう」
「…とにかく、私は君が想像しているよりもずっと君の事を気にしていたんだぜ」
「そりゃどうも」
私と彼の間に沈黙が流れた。私は窓の外を眺めながら、もう別れる時だ、と思った。
彼はその空気を読んだように立ち上がった。彼は伝票をさっと手に取った。
「これは払うよ。色々話を聞いてもらったからな」
「そうか。ありがとう」
「…いいよ。それより、今日は話を聞いてくれてありがとう。少し気持ちが軽くなった」
「それは良かった。…ところで、次会う時は、結婚式かな」
彼は微笑した。その時の微笑はどういう訳か、淋しげなものに見えた。その微笑が今も私の脳裏に刻みついて離れない。
「どうかな」
彼はレジに向かった。私もついていった。
私と彼は店の前で別れた。「じゃあな」互いに言って、それぞれ違う方向に歩き出した。彼は駐車場に止めていた高級車に向かい、私は駅に向かった。
私達はそうやって別れた。私は電車に乗り、扉近くに立って、窓の外をじっと見た。電車は駅を離れ、次の駅に向かう。窓の外にはビル群があった。もう暗く、ビルの灯が夜の中で輝いていた。
あの中で色々なドラマが起こっているんだろうな、と私は思った。しかし、それらと私はまるで関係がないように思えた。私は来月の家賃も心配の身なのだ。
電車から外を見ていると、ふと、眼下に彼が乗っている高級車が見えた気がした。高架下の道路に、彼の乗っている車がある…。真っ黒でゴツい外車だ。私には車種などわからない。それが彼の車なのか、別の誰かの車なのか……もちろん、彼のものではないだろう。彼がこの道を使っているはずはないし、時間も距離もデタラメだ。勘違いだろう。
私は窓の外を見続けた。風景は変わっていった。私は子供みたいに、手で影を作って、そこから外を見続けた。ずっと見続けた。
※
彼の次からの便りは、結婚式の招待状ではなかった。私に届いたのは、自殺の報だった。彼は私と話した一ヶ月後に、自宅で首を吊って自殺したらしい。
十八才の婚約者はひどく動揺して泣いたという。私はそれらの事を、彼に近い人物から聞いた。私はそれら全てを飲み込んだ。
私は大して驚かなかった。そんなものだ、と思った。
私に後悔がなかったわけではない。あの時、もっと何か別の事を話していれば良かった、別の言葉をかけるべきだった。そんな気もした。しかし、それは偽善であるような気もした。
私は彼の自殺を思った。彼にも自殺するだけの雅量はあったのだな、と死んでから、彼を称えたい気持ちもした。
葬式は三日後だと彼に近い人物は教えてくれた。私は葬式に行かねばならないと思っていた。
私はあの後、バタイユのカフカ論を読んだ。そこには、「カフカを焚刑に処すべきか?」という疑問が語られていた。カフカの書物は「消滅される為に書かれたもの」だと断じられていた。カフカの書物の最後には、それを「燃やす」のがふさわしい。カフカの書物はその為に書かれていた。彼の作品の全内容が見えざる消尽、焚刑に向かって走っている。バタイユはそう言っていた。
私は、奇妙な結論を出すに至った。彼が自殺したのは、カフカを読んだ為だと。彼がカフカを全く理解できなかったとはいえ、そもそも彼とカフカは水と油のような存在だったのだ。それが、カフカを手に取るとは。そして読むとは。
私は、次のような決意をした。葬式では、是非、これだけは絶対に実行しなければならない。すなわち、カフカの書物を棺に入れる事。彼の死体と一緒にカフカを炎上させる事。
そうすれば、彼にとってカフカは大切なものとなるだろう。自殺した「後」の彼は、カフカを理解するのも容易だろう。今や彼は楽にカフカを読めるだろう。
彼もカフカに近づいたのだ。自死する事によって。
そのような結論を出すと、私は深夜にも関わらず、アパートを出た。私は棺に入れるカフカ「変身」を手に入れるつもりだった。どうしても、それを手に入れなければならない。それも、今、この時。それは必ず棺に入れなければならない。それが彼への鎮魂となるだろう。地獄か天国かへ行くまでの道のり、暇にならずに、「変身」を読んで退屈を潰せるだろう。死んだ彼には「カフカ」が読めるのだ。燃やされたカフカを読む事ができるのだ。死んだ彼には。今や、彼にも理解ができるだろう。人間は時には虫にならねばならない事を。世界に居場所がなければ、虫にでもなって、そうして片隅でゴミのように死んでいくものであると。
私は狂気の表情で深夜の街に向かって走り出した。
カフカを読んだ友人 ヤマダヒフミ @yamadahifumi
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