11.「絶対に好きにならない」
テーブルに水の入ったコップを置いてくれた千石は「ほんと、何歳なんですか?」と冷ややかな声を出した。いつもなら音を立てずに丁寧に置くはずのコップも、今日は心なしか乱暴に置かれた気がする。そんな些細なことにも萎縮してしまうほど、千石の声は怒気を含んでいるのに、ひやりとしていた。
「も、もうすぐ30歳……です」
消え入りそうな私の声を聞きながら、千石は即座に「年齢は関係ないですね。瑠璃子さんがだらしないだけか」と訂正を入れた。そっちの方がずっとダメな気がするけれど。
「ま、いいや。僕には関係のないことですし」
「……千石、やっぱり怒ってる?」
先ほどきっぱりと否定されたのに、同じことを聞いてしまう。だって、明らかに怒ってるんだもん。
「どうして僕が怒るの?」
「……千石はだらしない人が嫌いだから?」
そう言った私の頭の中には、リングのヒロインであり、千石の想い人でもあるカエデちゃんが浮かんだ。勝気で、周りに流されない強さを持った、凛とした女の子。事なかれ主義でだらしのない私とは大違いだ。
「まぁ、たしかに。僕はいっときの感情やその場の雰囲気に流されるような人は嫌いです」
「……ほらぁ」
だから私のことも嫌になったんでしょ?、お酒に飲まれて男の人ーーといっても信頼してる米屋だけどーーに支えられなきゃ歩けないほど酔った私のこと。
しかし私はそれらを口にすることができなかった。言葉にするとあまりにも情けなくて。自分のだらしなさをこれ以上、千石に植え付けたくなかったのだ。
「だけど、嫌いな人ならこんな風に怒ったりしませんよ」
「……え?」
思わぬところから千石の気持ちを知り、軽率に嬉しくなってしまう。そこのところをもっと詳しく聞きたくて、自然とトーンが上がった声で聞き返したけれど、「ほら、お風呂入っておいで」と言った千石はこれ以上その話を続ける気はないようだった。
「やだ、一人じゃ入れない」
「……ふっ、じゃあ僕と入るの?」
子供のような駄々をこねた私を鼻で笑った千石は、そんな風に揶揄い半分に言葉を紡ぐ。だけど、こくん、と頷いた私を見て、目をパチクリとさせた。まさか受け入れるとは思っていなかったのだろう。そしてすぐに顔を顰め「ほんと、随分酔ったね」とあからさまなため息を吐いた。
「僕は酔っ払いの言うことは何一つ信じないし、受け入れないですよ」
そんなの、言われなくてもわかってるもん、と拗ねた私に、千石が「全然分かってないじゃん」と批判めいた言葉を投げかける。
だけどそれに傷つかないのは、千石の声が想像していたものよりずっと甘かったからだ。その甘さに誘われて、すりと身体を寄せれば、「ほんと、子供みたいな人ですね」と千石が私の背中をさすった。
私、寂しかったのかな。だから酔いに任せて、こんな風に甘えてるんだろうか。なおも身体を離さない私の頭に、本日何度目かのため息が落とされた。
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朝起きて第一声、「ごめんなさい」と謝った私をチラリと見た千石は「記憶はあるんですね」と嫌味を述べた。しかし嫌味の一つや二つぐらい甘んじて受け入れよう。
「覚えてます。ほんとごめん」
「いいですよー。なんの連絡もなしに男の人に送られてきても、お風呂に一人じゃ入れないって駄々こねても、突然身体くっつけて『一緒に寝よ?』って誘ってきても」
僕、全然怒ってませんから。とにっこりと笑った千石を見て、もう一度深々と頭を下げた。……ん?ちょっと待って。
「私、一緒に寝よ?とか言ってないから!」
「ははっ、割ときちんと記憶あるんですね」
焦って訂正をした私の姿を見て、千石は溜飲を下げたようだ。薄い唇を四角に広げ、声を出して笑う姿は珍しい。
「もう怒ってない?」
「だから、最初から怒ってませんよ。でも、もうあんな風に酔うのはやめてくださいね」
千石ははっきりと言い切った。私はそれに頷き「善処します」となんとも曖昧に返す。いい加減に「はい、約束します」と言うよりは随分と誠実だとは思うけれど、千石は確実に呆れただろう。今にも特大のため息が聞こえてきそうだ。
「あそこまで酔っ払うのは、米屋の前だけだよ。なんか安心して飲んじゃうんだよね」
「……ふぅん。他の人の前ではあんなに酔わないんですか?」
「うん。一人で帰って来れるし」
私の言葉を聞いた千石は、しばし沈黙をし、考えるように指先で顎を触った。
「あなたが危ない目に遭わないなら、それでいいんですよ」
あと、米屋さんに迷惑をかけなければ、と言葉を足して、千石はフライパンに向き直る。どうやら朝ごはんを作ってくれているらしい。
そうか。千石は私が危ない目に遭わないかどうかを心配してくれていたのか。そりゃあ、あんな風にベロベロに酔っ払ってりゃ、襲われる確率も上がるだろうし、抵抗もできないもんね。なるほど。
千石の気持ちが純粋に嬉しく、私はつい頬を緩めてしまう。
「米屋は優しいから許してくれるよ」
「……ははっ、瑠璃子さんって反吐が出るほど鈍感だね」
私の言葉を聞いて、先ほどと同じ笑顔で千石は毒を吐く。
え、なにが気に障ったのだろう。唐突にガラリと態度を変えた千石に焦った。だけどその原因が分からないので、私はなにも言えず黙り込んでしまう。
「僕はあなたみたいな人、絶対に好きにならないな」
カッチーン。なにそれ。なにそれ。
突然投げ込まれた暴言は、私の怒りに火をつけた。しかも着火剤込みで投げ込まれたので、怒りは大きく燃え上がる。
「私だって、千石みたいに意地の悪い人やだ。腹の中ではなに考えてるか分かんないし」
「あ、そうですか?良かったです。好きになられたらここを出てかなきゃいけないので」
と言いながらも、千石の表情は全く困っていそうには見えない。ここを出ていかなきゃならなくなったところで、次の住まいはすぐに見つかるだろうことが分かっているのだ。
自分の顔の良さを理解して、それを利用してる人ってほんと厄介だな。
売り言葉に買い言葉。言わなくてもいいこと、というか心にもないことを言ってしまった。
後悔はしてるし、謝った方がいいことも勿論分かってる。だけど、謝ろうとするたびに、そもそも最初に酷いこと言ったのは千石だし!?、という気持ちが邪魔をする。
そうこうしてる間に千石は「じゃあ、出かけて来ますので。晩ご飯は適当にしてください」と出て行ってしまった。月曜日、祝日。千石のいない部屋はやっぱり寂しい。
だけど、「絶対に好きにならない」は酷くない?そりゃ本当にそうだったとしても、わざわざ言わなくてもいいじゃん。……傷ついた。悲しかった。思い出すと泣きたくなってきて、だけど絶対に泣きたくなくて、気分転換にと部屋の掃除を始めた。
部屋が綺麗になれば心も軽くスッキリするもんだ。しかし本腰を入れてしすぎたせいか、晩ご飯を作る体力は余っていない。ちなみにお昼はカップラーメンをすすった。
外食をするのもなんだか億劫で、スーパーにお惣菜でも見に行くかな、と出かける準備をする。
がちゃりと玄関の扉を開けた瞬間、「きゃっ」と聞き慣れない高い声が聞こえた。靴を履きながら扉を開けたので前を見ていなかった。咄嗟に「すみません」と謝りながら顔を上げれば、そこには綺麗な顔立ちの女の子が立っていた。
「ごめんなさい、前見てなくて……大丈夫でしたか?」
「いえ、たまたまなんです!わたしがインターホンを押そうとしたタイミングと、扉が開いたタイミングが合っただけで……大丈夫です!」
とりあえず彼女にぶつかっていないようで安心した。と、同時に私になんの用事があったのか、と首を傾げる。
「よかったです……で、なにかご用事ですか?」
「あ、あの、慧さんにお礼が言いたくて……もしかして彼女さんですか?」
そう言った彼女の表情は複雑だった。愛想良く笑っていながら、どこか怯えていて、そして悲しさも含んでいる。
あぁ、なんだ。千石のことが気になってるのか。いつどこで知り合ったのか知らないが、千石はこちらの世界でもおモテになるようだ。
「いえ。私はその……姉、です」
「……!お姉さん!」
私が千石の姉だと分かった途端、彼女の笑顔は純粋な嬉しさでいっぱいになった。これこそが笑顔と呼ぶに相応しいだろう。そして彼女は慌てて「寺元楓です」と名前を告げたのだ。
「カエデちゃん……」
思わず口にしてしまったのは、目の前にいる彼女の名前ではない。それは千石が好きだったリングのヒロイン、カエデちゃんのことだ。
千石が好きだった女の子。千石のことを殺した女の子。その子と同じ名前を持つ目の前の彼女は、くりくりとした大きな瞳を柔らかに細めた。
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