12.「内緒です」
晩ご飯を食べ終え、お風呂に入ろうとしていた頃、「ただいま」という声と共に千石が帰ってきた。
「おかえり」
「今日も、これ」
そう言いながら、千石は私にお金を差し出した。この前と同じ3万円。また話を聞いたとかの報酬としてもらったのだろうか。
「千石のお小遣いに取っときなよ」
「特に欲しいものもないですし」
そんな気遣いは無用だと、千石は先ほどよりも強く、私の手元にお金を押し付けてきた。そこまで言うなら、と、「ありがとう」と素直に受け取る。
「だけど、こっちで知り合った人と遊んだりすることもあるかもしれないよ?」
言いながら、私の頭の中には寺元楓が浮かんでいた。
あの後、「さとるは今出かけてて」と寺元楓に事実を告げれば、分かり易く肩を落とした彼女は「また来ます」と帰って行った。あの感じを見るに、連絡先の交換はまだしていないのだろう。
「そんなのいないですし、これから先もないですよ」
「……寺元楓ちゃん、今日来てたよ」
「?てらもとかえで?」
私が告げた名前を丸々復唱した千石は、目を固くつむりながら彼女のことを思い出しているようだった。
「なんか、お礼が言いたいって」
その言葉を聞いた途端に思い出したのだろう。
「あぁ!あの子か。名前聞いてなかったので分からなかったです」
と小さく笑う。あ、なんかモヤモヤする。なんで。
千石の笑顔が私の心臓を柔らかな力で掴み、ざらりと撫でた。気持ち悪い。その笑顔を少しだって見たくないと思うのに、目が離せないのもまた事実。
「なに?いつの間にあんな可愛い子と知り合ってたの?」
こんなこと本当は言いたくなんてなかった。だけど悟られたくない。千石は私のことを鈍感だと評したけれど、そんなことはない。だって、この感情がしょうもない嫉妬だって、それぐらいのこと分かってる。だけど、悟られちゃいけない。
私の揶揄いを含んだ笑みに、千石は眉を寄せた。そしてまた考えるように沈黙をし、一度下唇をぺろりと舐めてから「内緒です」と微笑んだのだ。
「えー、なんで内緒?2人の秘密にしておきたいの?」
よせばいいものを。これ以上傷を広げたくなんてないのに。これじゃあ、剥き出しの心を千石の前に曝け出して、さぁどうぞ、傷をつけて粉々に砕いてやってください、とお願いしているようなものだ。
「そうですね。そんなとこです」
「あはは。やっぱり?楓ちゃん、可愛かったもんね。千石、好きそう」
「……少なくとも、あなたよりは可愛げがありますね」
その言葉に弾かれたように千石の顔を見た。この男はどんな顔でそんなことを言っているんだろうか。
「僕、察してくれってされるの嫌いなんです。言いたいことがあるならはっきりとどうぞ」
あ、ほんとやな顔してるわ。千石の顔は嫌悪感をありありと映し出していた。と、同時に、私の心の中を見透かすようなことを言われて、羞恥で顔が赤く染まる。バレた。嫉妬してること。絶対バレた。
ここで「ヤキモチ妬いちゃったの」と可愛く拗ねることができたのなら、千石は優しい笑顔を見せて私を慰めてくれただろうか。だけど生憎、私は今の今まで可愛げなく生きてきたのだ。ここで素直に甘えられるはずがなかった。
「……特になにも。私、お風呂に入ろうと思ってたの」
「そうですか。邪魔してすみませんでしたね」
千石はにっこりと微笑んだ。しかしその微笑みは無機質で体温がない、作り物のそれであった。こんな笑顔を見たいんじゃない。そう思うのに、それが言えない。ふいっと目を逸らした私の背中に、千石のため息が落とされる。そのため息にさえ責められている気がして、私は下唇をきつく噛んだ。
熱めのシャワーを浴びながら、今になって沸々と怒りが湧いてきた。
え、なんで私あんな酷いこと言われなきゃいけない?朝から、鈍感だの、絶対好きにならないだの。しかも楓ちゃんと比べて可愛げがないって!!なんなの、まじで。あいつ、やっぱ嫌い。そう思うと、一緒の空間に居ることが耐えられなくなってきた。安眠できる自信がない。
妙案が閃いたので、急いでお風呂から出て、着替えの上に置いておいたスマホを手に取る。そして通話履歴の一番上に表示されている米屋に電話をかけた。愚痴を聞いてもらいたいと思ったのだ。
脱衣所から出てくるなりクローゼットを開けた私を見て、千石は不思議そうな表情を浮かべた。
「探し物ですか?」
「え?ちがうちがう。千石、私ちょっと出かけてくるね」
「は?今から?」
「うん。今から」
あったあった、と一泊旅行に使う鞄を引っ張り出し、そこに荷物を詰める。基礎化粧品とメイク道具、歯ブラシセット。お風呂には入ったので、新しい下着はいらないか。
「なに?どっか泊まるの?ちょっと出かけるって荷物じゃなさそうですけど」
荷造りの様子を見ていた千石から疑問の声があがった。
「うん。そう。明日そのまま出社するよ」
「友達の家?どこかだけ教えておいてください」
「友達の家。なんかあったらスマホにかけてきてよ、って千石、スマホ持ってないじゃん」
楓ちゃんと連絡先の交換をしていないのも当たり前だった。千石には、そもそも交換する連絡先がなかったのだ。当たり前にみんなスマホを持ってるから、そんなことに考え至らなかった。
「じゃあ、私のスマホ置いてくよ。米屋のとこ行くから、なんかあれば米屋の番号にかけて」
「は?今から行くのって、米屋さんのとこなんですか?」
着替えを手にし、再び脱衣場に向かおうとした私に千石が声を低くして問いかけた。しかしびくりとするような声音はたった一瞬で、次の瞬間には「夜なので気をつけて行ってきてくださいね」と弾むようなものに変わっていた。
「うん、ありがと。米屋がここまで迎えに来てくれるから大丈夫だよ」
脱衣場に入った私が大きな声でそう言えば、千石はもうなにも返事をしなかった。これでいい。私の心の治安も守られるし、千石もゆっくり過ごせるだろう。
「じゃ、行ってくるから!」
「はい。気をつけて。可哀想な米屋さんによろしくお伝えください」
「?なんで米屋が可哀想?……あ、夜に急に呼び出すのはさすがに申し訳なかったね」
「ははっ。ちがうちがう。彼は鈍感なあなたの被害者です」
察してちゃんは嫌いだと言う割に、千石の言葉は遠回しだ。私の頭に浮かんだたくさんの疑問符を振り払うかのように、千石は手を振る。ゆっくり閉まる玄関の扉の向こうで、千石がうずくまったような気がした。
▼
お待たせ、と車の窓越しに手を振れば、運転席から手を伸ばした米屋が助手席の扉を開けてくれた。
「よっ」
「よっ!迎えに来てくれてありがとね」
車に乗り込んだ私を、米屋が早速「弟くんとケンカかよー」と茶化す。米屋にはざっくりと「ケンカしたから一緒に居たくない」とだけ伝えていたのだ。
「まぁ、ケンカっていうか、私が一方的に怒ってるだけっていうか……とりあえず、ほんとにありがとね。米屋がいてくれて助かったよ」
私の言葉に照れたように、米屋が「オマエに呼ばれたら、いつでもどこでも駆けつけるよ」と鼻の頭を掻いた。
「なにそれ。ヒーローみたいじゃん」
「そ。オレ、ヒーローになりたいんだよ」
幼稚園生ではあるまいに。だけど、米屋なら割と本気で思ってそうだから、面白い。
「将来の夢かなんか?」
と冷やかせば、米屋は「おー、かっこいいだろ?」と適当な返事を寄越す。ボケたなら最後まで乗ってよ、と思うけれど、運転に集中したいのだろう。それを察した私は、道路脇に等間隔に設置された街灯を見つめた。オレンジ色の光が、車のスピードによって流れるような線を描く。なぜだか千石を思い出して、わけもなく泣きたくなった。
私の住むマンションから、車で20分ほどのところに米屋のマンションはあった。夜も遅いので、音を立てないように通路を歩く。
扉を開けた米屋に促され、「お邪魔します」と小声で告げ、玄関に入る。久しぶりに訪れた米屋の部屋は、以前と全く変わってはいなかった。
「突然来たのに綺麗にしてるねー」
「オレ、汚い部屋無理だもん」
「そうだっけね。素晴らしい。結婚するなら綺麗好きな人がいいなぁ」
「……じゃあ、オレと結婚する?」
荷物をリビングに置きながらなんの気無しに言った私の言葉に、米屋が過剰な反応を示した。私は、まーたテキトーなこと言ってるよ、と鼻で笑う。
「米屋、結婚する気あったんだ?」
「まぁ、したいと思える人に出会えたら。オマエは?」
「私もそんな感じだけどー。出会えそうにないなぁ、って諦め気味」
それは間違いなく本音であった。学生時代の友人は結婚しているどころか、子供までいる子の方が多い。
私だって20代中頃から後半にかけては、結婚願望もあったし、婚活に力を入れたりもしていた。だけど、この人だと思える人には出会えなかった。そうなれば、そもそも本当に結婚したいのか?と自問自答するようになって、もうすぐ30歳になろうかという今では、しなくていいかなー、とさえ思い始めていたのだ。
「弟くんに先越されそうだな」
と米屋がぽろりと本音をこぼす。
「え、そう?あいつ性格悪いよ?」
と、これは私の本音だ。そもそも千石は弟でもないし。ましてやこの世界の住人でもないのだけれど。
「多少の性格の悪さは、あの見た目でカバーできるだろ」
米屋のこの言葉には深く納得するが、「結婚は顔でするもんじゃないでしょ」と至極まともな答えを返した。
「ま、そっか。あ、そういやさ、今度の休みに映画観に行かね?」
あっさりと納得した米屋は、さらりと話題を変える。どうやら米屋の好きな俳優が出演している映画が始まるらしい。それに頷きながら、頭の片隅で、千石は今なにしてるんだろ、と考える。
あれだけ怒って、一緒の空間にいたくないとまで思って、こうして米屋の家まで来たのに。結局千石のことを考えてしまうのだから。ここで安眠できるかどうか分からなくなってしまった。
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