第3話 人形
僕は人形が好きだった。テレビで見るヒーロー達が自分の手で動いてくれる。僕の世界で動く彼らは、いつも強くてかっこいい、正義のために世界を守ってくれるんだ。こんな英雄達がいつか本当に僕の目の前に現れて、僕を悪から守ってくれる。そんな期待を抱きながら、僕の両手は世界を作る。
「…ただいま」
「おう、えらく遅かったな、おかえり」
「ねえ、お父さん。なんで先に帰ってるの?綾乃も乗せて帰るって言ってたじゃん!」
「おぉ、すまんすまん。てっきりもう帰ったのかと思ったんだよ。あそこの駐車場、学校からかなり遠い所にあるだろう?だから中学の様子が分からなくてな、すっかり勘違いしてしまった」
「駐車場は遠くても、同じ敷地内なんだから、帰ってるかどうか確認しに見に来てくれたらよかったじゃん」
「いや、そうしようとも思ったんだが、小学校を出た時に、ちょうど制服を着た子が学校から出ていくのが見えたんだよ。中学の子たちも帰り始めてるのかと思って駐車場に向かったら、お前がいないから」
「いないなら、待ってくれれば良くない?」
「蓮が疲れて眠ってたし、ちょうど、向井さんのご家族も駐車場におられて、向井さんのお父さんが乗せてくださると言ってくれたから、ご厚意に甘えて先に帰ったんだよ」
「確かにあかねちゃんの家の車に乗せてもらったけどさ…。何か一言くらいあってもいいんじゃない?」
「そうだな、すまなかった。」
「…今度、新しい人形買って」
「やれやれ。蓮の入学準備ばかりで、綾乃にはあまり構ってあげられなかったからな。わかったよ、今度買い物行ったときにな」
「うん、お父さん大好き!」
「お父さん、また綾乃を甘やかして。もう中学生なんですからね。少しは厳しく言いつけるとかしてもらわないと困ります」
「以後気を付けます」
「えー」
「文句を言わない。もうすぐご飯ができますから、お父さんは先にお風呂に入って、綾乃はその間に着替えてきなさい」
「…はーい。あれ、この匂いはもしかして」
「今日のご飯はハンバーグです」
「綾乃に一番甘いのはお母さんかもな」
「余計な事は言わんでよろしい。二人とも早くご飯にしますよ」
「「はーい」」
「蓮、ご飯はいるの?起きないなら、お母さんたちが食べちゃうからね。後でないって文句言っても………」
「じゃあね、綾ちゃん。また明日」
車から出ていく秋峰に手を振り、家に帰っていく彼女を見送る。玄関の前に立つと振り返り、再度感謝を示すお辞儀をして、家に入った。帰宅を見送ると、車が動き出す。先ほどまでの車内とは打って変わって、帰路につく車の中は静かな時間が流れた。
「お母さん、迎えに来てくれてありがとうね」
母にお礼の一言を述べる。返事はない。
「さっきの子がね、新入生の秋峰綾乃ちゃんっていうの。すごくかわいいでしょ。って、小学校のときに見たことあるか、ごめんね」
「そう」
車に当たる雨音とそれを拭うワイパーの音が二人の会話の邪魔をする。
「お父さん、学校に来てたんだってね。大地の入学式は去年だったのにね、学校も近くないのにそんなに大地と一緒にいたいのかな」
「お母様が去年病気で行けなかったから、今年は見てみたいって言いだされたのよ」
「…あ、そうなんだ。おばあちゃん、去年の大地の入学式行けなくて、すごく残念がってたもんね」
「………」
雨脚が強くなる。それにつられて車のスピードも少し上がった。
再び車内に沈黙が訪れる。こんな狭い車内ではため息さえつけない。いや、聞かれたところで母は感情を表に出すことはないだろう。むしろ、喧嘩でもできたならば少しは親子らしくなれるのではないだろうか。窓に対して息を吐く。しかし、窓が白く曇るばかりで、彼女の吐息は届かなかった。
二年前の中学の入学式を思い返す。あの日も雨が降る帰り道だった。小学校の仲間だけだと思っていた入学式は、校舎に入ると見慣れぬ男子が先に席に座っていた。眼鏡をかけた物静かそうな少年は、とっつきにくい印象を持ったが、話かけるとちゃんと返事を返してくれる優しい少年だった。あの時も母が迎えに来てくれた、その日の出来事を喜々と母に話したことを覚えている。話し続ける私の言葉を母は黙って聞いていた。あの時は聞いてくれていると思っていた。今ではあの時の違和感の正体に気付いている。
二年前から家族での立ち位置は変わらない。悪くなってないだけいいのかもしれない。運転席を眺めると、二年前と変わらず、母は運転に集中するように、前だけを見ていた。
「ごめん、お母さん。少し止めてほしい」
母に頼むと、車はスピードを落とし、ハザードランプを焚きながら、傘を持つ少女に並ぶように、車が止まった。
「あら、あかね。随分あの後話してたのね。てっきり、私が家にいる間に抜かれてるのかと思ったわ」
「藍ちゃん、これから病院?私の車に乗っていく?」
バックミラー越しに母が私を見ているのがわかる。何かを訴えかけるような圧がある。しかし、それには目を向けず話を続けた。
「雨も強くなってきたし、女の子が一人なんて危ないよ。変な人とか出るかもしれないし」
「変質者だって、こんな辺鄙なところまでわざわざ来ないわよ。むしろ野生動物とかの方が危ない村だしね。でも大丈夫。この雨なら動物だってこんな下までは下りて来ないでしょうし、駅までもあと少しだから」
「なんだったら、病院まで送ってあげるよ。私の家、街から近いし、それに、駅の電車なかなか来ないしさ」
母の視線がより険しくなるのを感じる。
「そんなの申し訳ないわ。ありがとね、あかね。でも大丈夫。あっちの駅で少し買いたいものもあるし、今回は遠慮させてもらうわ」
「…そう、ならしょうがないね」
「ええ、ありがとう。また明日学校でね」
手を振りながら、那智田が歩き出す。車の窓を上げ、見送る。真っ赤な小さい折りたたみ傘を差す彼女の後ろ姿は、雨の景色と共に、とても絵になっていた。
カチッカチッとハザードランプの音は止まない。一度止まった車は動かない。母は何も言わず、ハンドルから手を離さない。
「ありがとね、お母さん。」
母からの返事はない。
「藍ちゃん、偉いよね。お母さんが入院されてるから、いつもお見舞いしに街の病院まで行ってるんだって」
まるで独り言のように、返事を返さない車に対して、会話を続ける。
「あんなに綺麗なのに、勉強もできて、博識だし、優しいし。私の憧れなんだ、藍ちゃん。才色兼備っていうのかな、本当にすごいんだよ」
車内の会話は止まらない。彼女の魅力を伝え、母がそれを黙って聞いてくれている。これはれっきとした会話なのだ。わざわざ車を止めて娘の会話に耳を傾けてくれているのだから。
「藍ちゃんだけじゃなくて、クラスのみんな、本当に優しい人ばっかりなんだよ。瑞樹ちゃんはすごく運動神経良くて、何でもすぐにできちゃって、未来のオリンピック選手になるんだって言ってて、それでも私なんかとも話してくれて、恭弥くんもよく人をからかったりするけど、本当はすごく真面目で困っている人がいたら見捨てないっていうのかな、頼りになってくれる男の子で、一輝くんはリーダシップがあって、クラスのみんなをいつもまとめてくれてて、先生も一番頼りにしてて、同い年に見えないくらいたくましくて、駿太くんは普段は寡黙なんだけど、周りを常に見てて、私が勉強に困ってた時に参考書を貸してくれたり、一緒に問題解いたりしてくれたんだ。それにね、担任の竹道先生もこの間………」
パァ——————————————————
返事のないはずの車から、返事が返ってきた。
突然の返事に、思わず言葉が詰まる。
母を見ると、右手をクラクションに押し込み、顔はうなだれるように下を向いていた。母の感情が音となって溢れ出る。
「…ごめんなさい」
再び車が動き出し、沈黙が流れる。雨は止む気配はなく、永遠に降り続けるのではないかと思わせる。
向井あかねは目を閉じる。これからの世界に居場所はない。彼女の世界は学校の中にしかなかった。少女は短い眠りにつく。感情を消し、意思を持たなければ何も思わない。人になりたいと進化を請うた。人形の身には過ぎた願いだった。その願いは叶わない。誰も人形に感情など求めていなかった。父はもちろん、母でさえも。だから少女は夢を見る。人として生きる向井あかねを、甘く儚い夢を見る。
私は人形が嫌いだ。幼い時、人形遊びに夢中だった。母には男のくせに女々しいと𠮟られ、人形をよく取り上げられた。しかし止められなかった。母の目を盗んでは、部屋に隠れて、自分の思うままに人形を動かし、遊びに興じていた。ある日、一つの人形を手に入れた。背中にかかる長い黒髪、透き通るような白い肌。その人形は今までのどの人形より美しかった。何より、瞳が気に入った。人形遊びの延長として、肉体の関係をもった。私の何かが変わるのではないかと少し期待もあった。だが、あくまで人形は人形、特別な感情などは何も湧かなかった。
ある日、実家に帰省すると、人形があった。どうやら、新しい人形を身籠ったらしい。母の顔は明らかに動揺していた。母が私を責め立てる。家の中で小言が絶えず、これからどうするのかと聞いてくる。人形の瞳は涙に溢れていた。意思のなかった瞳が、意思を持とうとしている。それに少しイラついた。俺の気に入った人形に埃が付き始めたと。
新たな生活が始まった。埃の付いた人形はいらない、人形の手入れが始まる。優しくした、容姿を褒めた、紅をさした、長い髪を梳いた、ドライブをした、話を聞こうとした、癖を直せと注意した、目つきが気に入らないと言った、生意気な顔を殴った、邪魔な髪を切った、外出しないよう軟禁した、意思を持たないように何度も体を交えた。
私の気に入った人形の瞳は、日が経つに連れて戻り始め、初めて見つけた時と遜色ないようになってきた。だが所詮、人形。いくら良くなろうと、人形に対して、愛などあり得ないと気付いた。そう思うと、一気に冷めた。いままで気に入っていた瞳でさえ、気持ち悪くなってきた。見るだけで吐き気が湧き始めた。しかし母は、人形を気に入っていなかったが、人形が新しい男を産んだことに満足していた。私にも世間の目がある。今更捨てることはできなくなった。だから遊ばないことにした。人形は動けない、誰かに遊んでもらわなければ彼女の世界は作られないのだから。
「それでね、あかねちゃんのお母さん、すごい美人さんなんだよ。お話はできなかったんだけど、目がぱっちりした人でね、お人形さんみたいな顔立ちなんだ」
「綾乃わかったから、ちゃんと飲み込んでから話しなさい」
「お父さんもかっこいい人だったな、ハキハキと話す人で、仕事でご一緒したことあるが、礼儀正しい人だったぞ」
「そういえばお父さん、私、車乗せてもらったけど、あかねちゃんのお父さんは乗ってなかったよ」
「そうなのか。一度先に帰られて、改めて迎えに来られたのか?」
「あかねちゃんの家、街のすぐ横らへんだよ?片道に一時間はかかるしそれはないでしょ」
「でも、おまえかなり長い間学校でおしゃべりしてたんだろう?娘さんが連絡して来てくれたんじゃないか?」
「うーん、あかねちゃんが携帯を持ってきてる感じなかったけどなぁ、学校の電話借りてる感じもなかったけど…」
「まぁ、無事に帰って来れたからいいじゃないか、今度お礼をもっていかないとな」
「そうですね、秋峰さんの家には蓮もお世話になるかもしれませんし、また今度ご挨拶にいかないと。はいじゃあ、食べ終わったら洗面台に食器をつけといてね。私は蓮を布団に寝かせて来ますから、片付けお願いしますね」
「はーい」
「そういえば、校門付近で見た子は誰だったんだろうな」
「あー、お父さんが勘違いした理由ね」
「赤い傘を差した子だったな」
「うーん、今日傘を持ってきた先輩二人いたけど、先に帰られたのは、藍先輩だけだから、那智田先輩じゃない?」
「あの子が藍ちゃん⁉いや~見違えたな、昔は活発そうな女の子ってイメージだったが、何というか中性的な見た目で、スカート見えてなかったら、最初はかっこいい男の子かと勘違いしたよ」
「…それ、藍先輩が聞いたら、お父さん怒られてたよ…」
「いやー、仕事が忙しくてここ何年かお前らの学校行事に参加できなかったからな、しばらく見ない間に変わるもんだなあ」
「どうなんだろう、私はほぼ毎日会ってたから変化気付きにくいのかなあ。それでも藍先輩が活発って、どれだけ昔のイメージな訳?中学…いや小学校高学年くらいからあんな感じだよ」
「わからんもんだなぁ、俺も歳をとったな」
「お父さん、爺臭い」
「これが大人になるってことだ。片付けは俺がやっとくから、子供は早く寝るんだな。流石のお前も疲れたんじゃないか?」
「私もう中学生なんだよ!子供扱いしないでよね」
「中学生でも綾乃は綾乃だからな。俺らの子供であることはずっと変わらんぞ」
「そういう意味じゃないんだけど!もういい、お風呂入って寝る」
「おう、おやすみ」
「おやすみ」
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