第2話 入学式

 上矢山と塹江山の山間部にある村、塩ヶ崎。二つの山が、ほのかに桃色に染まり、春の訪れを感じさせる。村の中央を上矢山から流れる橋麦川が走り、橋麦川を挟み沿うように道が連なる。橋麦川の水を引いて、村には多くの田んぼがあり、小さな畦道がいくつも敷かれ、村人たちは田植えを始めていた。空を見上げれば、澄んだ青い世界を鳶が元気に甲高く声をあげながら飛び回る。

 田んぼに覆われた塩ヶ崎に商業施設はなく、個人経営の小売店がいくつかあるだけで、車などで街に出なければ、買い物も満足にできない。そんな村に、多くの人が集まれる場所は会合などで使われる集会所が一つと村の奥にある学校のみ。

 学校は山のふもとにあり、電車やバスが通れるほどの大きな道があるところには作られていないため、村に住む者でもかなりの距離を歩かなければ辿りつけない者もいる。木造でできた古びた校舎の作りは、年季を感じさせる。本校舎には今、人はおらず、騒がしい盛り上がりが体育館から響き渡る。子供たちが胸に赤いコサージュをつけ、体育館から出てくる。不安や希望、少年少女たちの表情はさまざまだが、歩く姿を見送る大人たちは満足そうに、子供たちの門出を祝っていた。

入学式に盛り上がる体育館を尻目に、離れの校舎の教壇では、新たな中学の制服を着た少女が少し不貞腐れて黒板の前に立っており、隣に立つ男の教師は元気に新たな生徒を迎えていた。

 「よし、じゃあ新入生挨拶いってみようか」少し髭を生やした、30代前半ほどの見た目の男は、笑顔を絶やさずに言葉をかけ、対して言葉を受け取った少女は、心底嫌そうにため息をついて、下を向き、顔を上げると、笑顔を作り、先生から受け取った用紙に目を落とし、書かれた言葉を読む。

 「暖かい春の日差しに包まれ、私は今日、この塩ヶ崎中学の門をくぐりました。新しい制服を身にまとい、これからの学園生活への期待や希望に胸に膨らませております。また、新たな経験をしていくにあたり、壁にぶつかり、前への進み方がわからず立ち止まることがあると思います。そんな時は、仲間と手を取り合い、時には先生や先輩方の力を借りながら、少しずつ前に進めるよう…」

 「挨拶長えよ、てか、なんで今年からこんなの始めるんだよ」一番前の中央に座る生徒が机の上に肘をつけたまま、不平をもらす。

 「ちょっと、先輩。あたしの挨拶の邪魔しないでくださいよ」

 「お前も嫌そうに読んでるじゃねえか。俺ら相手に顔を作っても、みんな気づいてるぞ。それに、顔なじみ過ぎてお前に新鮮さなんて微塵も感じねえよ」

 「おい、坂本。先生の完璧なプランを壊すんじゃない。去年は新入生がいなかったから、今年は俺が直々に式を盛大に盛り上げようと、寝ずに徹夜で考えたんだぞ」

 「なら、せめて体育館使わせてもらえよ。なんでいつもの教室で入学式なんだよ。保護者とかも誰一人来てねえしよ」

 「それはまあ…体育館は小学校の入学式で使われてるしな、秋峰の家族はどちらも弟の蓮君の小学校の入学式を見に体育館に行かれているし。結果として誰一人として来なかったわけだ。そこが計算外だった」

 「綾乃の両親はともかく、体育館が使われんのは、全然わかることだろ。一体それのどこが完璧なプランなんだよ…」呆れながら、机にうつ伏せた。

 「式が途中で止まってしまったな。秋峰、挨拶はもういいから。そうだな、自己紹介と好きなものでも発表してくれ」

 「扱い雑すぎませんか…、まるで転校生みたいな扱いなんすけど」頬を膨らませ、不満をアピールするも取り合ってもらえず、用紙をスカートのポケットにしまい、言葉を続けた。

 「秋峰綾乃です。まあ去年も何度もこっちの校舎には来てるので、感動とかもありませんが、今年から晴れて中学生になりました。好きなことは買い物。坂本先輩とあかねちゃん以外とはぜひ一緒に行ってみたいので、誘ってください。後輩なので奢ってもらうし、荷物も持ってもらいますけど」

 「頼まれたって、お前と買い物なんていかねえよ」吐き捨てるように坂本がつぶやく。

 「ねえ、綾ちゃん。坂本はわかるけど、なんで私もなの⁉私は綾ちゃんと一緒に買い物行きたいし、ご飯とかのお金だってだすよ!もちろん、荷物だって持つし。一緒にデートしたいよ」右後ろに座る少女が、席を立ちながら、目に少し涙を溜め、悲しさをアピールする。

 「だってあかねちゃんと買い物行くといつも長いんだもん。街に出る買い物のときとか始発の電車に乗ろうとするし、私が疲れてても、ずっと街にいようとして、最終のバスか電車のギリギリまで帰らせてくれないし。途中で帰ろうとすると泣いちゃうし、綾乃が疲れちゃうのはNGです」

 「そんなぁ…」崩れるように席に座り、途方に暮れる向井。そんな姿を見て、隣に座る那智田がよしよしと手を肩にのせ、慰めていた。

 「それじゃあ、挨拶も済んだことだし、質問タイムにでもするか。秋峰に何か聞きたいことある奴いるか?」教師のいきなりの提案に、誰も手を上げない。今までも付き合いがあり、改めて聞きたいことと言われると、皆すぐには思いつかない。壇上の当人は、いよいよ転校生ですね…と小言を垂れ、質問がないことを少し残念に思いつつも、早く場を切り上げ、次に進むよう教師に目を向けようとすると

 「そうだなぁ、ありきたりな質問で申し訳ないけど、綾乃ちゃんの得意な科目や苦手な科目を知りたいな。知っての通りこの学校、先生が竹道先生しかいないからさ、授業の進みが少し遅くなりやすいんだ。俺たち六人はみんな三年だし、頼ってもらえれば、少しは勉強の手助けが出来るかもしれない」右手を少し上げ、左前に座る少年は笑顔で尋ねる。

「そうですね、今まで特に勉強に困ったことはないですけど、中学から新たに始まる教科はちょっと不安です。特に英語は単語とかはわかるんですけど、文法とか発音は自信ないかもです」

 「なるほど、那智田はこのクラスで一番頭がいいから、どの教科でも幅広く教えることができるし、英語に関していえば、奥が得意だから、頼りになると思う。なぁ?」そう言うと、振り返り、後ろの席の男に同意を求める。

 目線を向けられた少年は、読んでいる本から少し目を外すと、返事はせず、こくりと頷き、また本に目を移してしまった。

 秋峰は少し苦笑いを浮かべながらも、ほっと息をつき、返事を返す。

 「一輝先輩ありがとうございます。ぜひ頼らせていただきます」

 「うん、ほかにも困ったことがあったら、俺でも誰でもいいから頼ってほしい。綾乃ちゃんは俺らにとって、妹みたいなものだし、どんなことでも手伝うよ」

 「そうっすね。ウチも綾乃っちを手伝いたいし、どんどん頼って。なんたってうちらは年上でお姉ちゃんだからね」 右前に座る少女は、少し誇らしげに、指で鼻をこすりながら笑う。

 「ふふっ、瑞樹ったら、一人っ子だからって、妹って言葉に反応しちゃって。でもそうね、奥君は中学からこの村に引っ越してきたから、まだあまり話したことないだろうけど、他のみんなは生まれた時からこの村で育ってるし、綾乃のことは昔から知ってるから、中学生になっても、かわいい妹にしか見えないわね」向井を慰め終えた那智田が、やりとりを見ながら微笑む。

 「私も弟はいるけど、妹はいなかったから、綾ちゃんが妹になるのは大賛成だよ。お姉ちゃんだから、買い物とかに付き合うのも当然ありなわけなんだし」先ほど拒絶されてしまったことにもめげずに、何とか距離を縮めようと向井が意見を続ける。

 「こいつが妹なんて絶対嫌だね。こいつは小学生の時から生意気だったし、俺への敬意が全然ねえし、胸もないしな。弟みたいもんだ。そうだ、それなら納得できるな」坂本が軽口を続けて、それに対し、瑞樹や向井が文句を言う。

 クラス内が少々うるさくなり始め、秋峰が少し戸惑っていると、本を読んでいた奥も気が付くと、秋峰のほうを見ており、目が合うとぺこりとお辞儀をした。

 秋峰も反射的にお辞儀を返し、奥との独特な距離感に安心した。このやりとりが今までの距離感だったのだ。知っているメンバーではあったが、中学入学への緊張はいささかあった。いや、知っているメンバーだからこそ、秋峰綾乃には緊張があった。中学生になろうと家族との関係は変わらない。より大人らしく、姉らしくと求められるものは変わるかもしれないが、言葉や態度の距離感が大きく変わることはないだろう。しかし、中学の先輩たちはどうなのだろう。小学生までの彼らのことを知っている。いや、彼らが中学生になってからも、本校舎から少し離れたこの校舎に、よく休み時間になれば話に来ていた。自分が中学生になることによって、言葉や態度は変えなければならないのか。

 先輩たちが羨ましかった。同級生はおろか、一つ上の学年、下は二つ下の学年まで知り合いがいない。先輩たちが小学校を出てからは二年連続の最上級生だった。悩みを相談する同学年がいない、それは思春期を迎えようとする自分には少しつらいことであった。低学年の子たちから頼られるのは嫌ではなかった。けれど、一人で抱えるにはきつい時期もあった。その悩みを聞いてもらったときに、助けてもらったことを感謝している。六人が様々な形で手伝い、負担を減らしてくれた。家族では長女でも、この中では妹でいられた。私はこの人たちと一年間しか一緒にいられないのが、辛いと入学前から思っていた。こんな素晴らしい方々と三年間も一緒にいられるのが羨ましい。

 この関係性を失いたくないと願う自分が入学をきっかけに変わってしまうのを恐れていた。私の態度が変わるのが、私への態度が変わってしまう先輩方が。そんな人たちではないと確信しつつも、最後まで晴れることはなかった。自分の言葉に失礼はないだろうか、でも、それを気にして距離感が変わったりはしていないだろうか。今までと私は違わないだろうか、それはいいのだろうか。こんなことを考える自分は既に変わってしまっているのではないか。

 自分のことばかり気にしすぎて、周りを見れていなかった。

 だが、この騒がしい光景は今まで何度も見たことあるものだった。坂本恭弥が秋峰をからかい、それに対して橋田瑞樹や向井あかねが慰めたり、怒ったりする。後方では那智田藍がそれを見て微笑む。皆川一輝があまり事態が悪化しないように、見守る。奥駿太は関与することもないが、離れることはなく、その騒動の中にそっと静かに身を置く。

 変わらなかった日常を見て、体にあったわずかな緊張がとけた。自分の居場所が変わらず、確かにここにあるのだと気づいて、幸せを嚙み締めた。

 「坂本先輩。誰の胸が小さいですって…?中学生になった今、私はこれから成長期。半年もしたら、あかねちゃんよりも大きく、大人な色気のある女性になっちゃうんですからね。その時に謝っても許しませんから」言い返す表情は明るく、中学の新たなスタートに胸を高鳴らせていた。

 「急にらしい顔に戻ったじゃねえか。おもしれえ、お前の巨乳化計画を俺も手伝ってやるよ。胸は揉んだら大きくなるらしいから、俺が揉んでやるよ。弟の胸なんて揉んでもなんとも思わねえしな」

 「坂本君、それセクハラですよ。綾ちゃんはかわいい女の子なんですから、男の坂本君にそんなことさせられません。でも同性のお姉ちゃんなら問題ないよね。これで綾ちゃんと一緒にお風呂も…」

 「あかねっち、涎でてる。綾乃っちは、今のままで充分かわいいっすよ。胸なんてあっても肩がこるし、走ったりするのに邪魔なだけっすよ。ないほうが楽でいいっすよね?藍っち」

「あら、それはどういう意味かしら、瑞樹?まるで私には胸がないみたいに聞こえるのだけど、喧嘩を売ってるなら買うわよ、私」

「お前ら、静かにしろ。まだ入学式なんだぞ。休憩時間じゃないんだから、私語もほどほどにしないと、先生も…。って、なんで先生寝てるんですか。起きてください。先生の決めた計画がぐちゃぐちゃになってるんですよ。先生!」

 各々がしゃべりはじめ、騒がしくなる離れの校舎は、去年とは違う光景に気付かない。新しく増えた一つの声は、固定を望んだ。変化を求め、進化を請い、劣化を祈り、道化を演じ、羽化を夢見る彼らの声は混ざり合い、誰にも届かず聴こえない。

 春の冷たい風が、校舎の窓をたたく。空を見ると、快晴だった空には、無数のひつじ雲。先ほどまで高く飛んでいた鳶もぐるりと円をかき、その下をツバメが飛び回る。田んぼの水面が揺れた。その数は次第に増えていく。

 「…雨だ」外を見る奥が、ぽつりとつぶやく。

 クラスの傘立てには、落ち着いた深紅の赤い傘。クラスメイトたちも突然の雨に、諍いをやめ、不平をこぼす。笑う一人に気付かぬまま。

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