第2話 融解

「先生、僕に人生めちゃくちゃにされる気分はどうですか?」


「ああ、心地良いね…」


 そのまま首筋を吸われる。僕に痕をつけようと子供のように。


 先生とそんな関係になったのは、夏の暑い日からだった。セミがうるさく鳴いている学校。木陰のベンチで紙パックのジュースを飲んでいた。かげろうのなか、人が近づいてくる。知っている先生だった。美術部の顧問で無精ひげがトレードマーク。忘れっぽい僕が覚えていたのは、僕が描いた絵を見て「嫉妬してしまうな…」とつぶやいていたから。


 先生が僕を見つめている。その視線には覚えがあった。物欲しそうな目。子供がおもちゃを欲しがるような。ううん、違うな。大好きなおもちゃを好きすぎて壊したくなる、そんな感じ。


 「暑いですね」


 「ああ」


 「涼しいとこに連れてってください。先生」


 誘ったのは僕からだった。シャツを少しはだけさせて近づいた。それだけ。僕は知っていた。大人たちは僕の体をそうして求めていたから。女の恰好をしなくても、僕は女らしい。


 並んだイーゼルがバラバラと倒れても、テレビン油が溢れても気にならなかった。


 押し倒されシャツを脱がされ手を這わせていく。先生が僕を欲しがっている。そんなことだけがうれしかった。


 「まるで女の子だね」


 「…っ、…あ、…奥さんと比べて?」


 「そういうことは言っちゃだめだ」


 キスで口を塞がれる。汗と汗が混じりあう。ゆっくり深く混じりあう。僕は先生の欲望を受け止めながら、先生から漂うタバコの匂いとセミの声を感じていた。


 不思議なことに快感よりも優越感が勝っていた。自分の体を使ってくれたこと、奥さんのときより気持ちよくなってくれたこと。果てた先生の背中をさすりながら、僕は先生を愛おしく思っていた。


 それからはいろんなところに行った。互いの家で、ホテルで、学校で。


 先生の髭でチクチクするキスや愛撫にも慣れたとき、僕は切り出した。


 「先生止めましょう。もう…」


 「…いやだ」


 僕の体にすがりついて先生は泣き出した。慰めるように先生の頭をゆっくりなでる。


 なでながら思う。僕に泣きついてるこの立派な大人はなんなんだろう。


 奥さんへの裏切り、男子学生との情事、若い才能への嫉妬。先生はクズだった。そのクズを愛した僕もクズなんだろう。


 「先生は僕のためにすべてを捨てられますか?」


 なだめるように言う。こういえばきっとあきらめてくれるはず。でも先生はかすれた声で言い返した。


 「かまわない。君を失うぐらいなら…」


 意外だった。大人は何かを守っている。それを壊されると思われたら容赦なく捨てられる。いつもそうだった。でも先生は違う。じゃあ僕もいっしょに捨てなきゃ。何もかも。


 朝焼けが残る早朝の小道。まだ陽の熱が感じられないその中を僕らは歩いていた。


 ポストの前で立ち止まると僕は先生を見上げた。


 「いいんですか?」


 「ああ」


 一通は学校宛、一通は先生の家宛。中身は僕たちの情事の写真と手紙。


 ふたりで封筒を持ち、手を放す。それはポストに吸われてカタンという小気味いい音がした。


 明日には夏休みが終わる。明日には人生が壊れる。先生と手を握る。融けていく感じがした。

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