第6話 蒲田にて(5)

 温かい。

 もぞもぞと動くと、額に誰かの胸が当たった。ぬくもりに頬を擦り付け、れんは微笑む。

 腕を回して相手の首に巻き付かせる。彼が身を屈める気配。触れるだけの口づけが降ってくる。

 こんなにのんびりした気分で目を覚ましたのは久しぶりだ。

 思い切り伸びをすると、怜はゆっくりと目を開けた。部屋は明るくなっている。カーテンの隙間から差しこむ朝日が、視界の端を横切っていた。

 今日は何をするんだっけ。

 考えながらもう一度目を閉じた。二度寝してもいいような気がする。何よりも、こうやって誰かと一緒に……。

 はたと動きを止め、怜は目を開いた。自分がしがみついているこの男……誰だ? 夕べはトラブルのせいで眩暈を起こして……ベッドに倒れこんで夢を見た。

 おそるおそる視線を上げていくと、からかうような目で怜を見ている顔に行きつく。

 全然知らない男だった。いやもしかしたら、どこかで会ったのに自分だけ忘れているんだろうか。あるいは食堂の客?

 パニックを起こしかけた頭でグルグル考える。男は40代ぐらいに見えた。ベッドに横たわったまま頬杖で頭を支え、男はのんびりと怜を見下ろしている。

「おはよう。よく眠れたか?」

「あ……あの」

 涼しい顔で話しかけられても、どう答えていいのかわからない。記憶のどこを探っても、男の顔に見覚えはない。じわじわと恐怖が喉にせり上がってくる。オレは一晩中、この男の腕の中でうっとり寝ていたのか? しかも夢だと思っていたのは夢じゃなくて、それはつまりオレはこの男の手で……。

 そこまで考えると、怜の頬に血が上った。具合が悪かったとはいえ、どうして警戒心の欠片もなく、この男に自分は欲望を明け渡した?

「あの」

「青くなったり赤くなったり、忙しいな」

「……あの、あんた誰です?」

「ご挨拶だな。夕べは私の手の中でずいぶん気持ち良さそうだったくせに」

「それはっ……」

 あはは、と面白そうに笑うと、男はベッドから降りて立ち上がった。

「そうだな、自己紹介から始めようと思って夕べ部屋を訪問させてもらったのだが、君が大変そうだったのでね」

 話しながらデスクの所から椅子を持ってくると、男はどっかり座って脚を組んだ。

「私は木島という。夕べここへ来たのだが、食堂のトラブルの後に君があっという間にいなくなってしまったのでね。申し訳ないとは思ったが、他の連中の目を盗んで直接部屋を訪問させてもらった。そうしたら君がひどい顔でベッドに倒れこんでいた」

 ベッドの上に起き上がり、怜は毛布を胸に抱いて壁にもたれかかった。得体の知れない男は、よく見れば身なりがいい。着たまま寝たせいでワイシャツもスラックスも皺ができていたが、どちらも汚れのない清潔なものだった。爪は短く切りそろえられ、髪もきちんとしている。

「で? 木島さんはそもそも、なぜオレの部屋を訪問しようと思ったんですか?」

 木島の目が不意に光った。狼が突然の物音に耳を立てた時のように、その雰囲気が変わる。じらすようにサイドテーブルの水に手を伸ばすと、木島はゆっくりとそれを飲んだ。

「少し長くなるが、いいかい?」

「どうぞ」

 木島がペットボトルを戻すと、怜も一口飲んだ。喉が渇いていた。

「私は戦時中、北海道に出向していてね。そのまま向こうで復興の指揮を執っていたのだが、最近戻ってきた。現在は成田『政府』で、関東地方の警察機構の立て直しを指揮している。手が足りないせいで、法務省全体の手伝いもしているがね。要するに私の仕事は東京を中心とした手つかずの場所に秩序を取り戻すことだ」

 やっぱり、と怜は思った。『政府』の人間でなければ、こんな話し方はしないし、清潔な服を毎日着替えることはできない。

「さて、私の仕事には大きな障害が立ちふさがっている。君も知っての通り、東京都は核ミサイルによる攻撃を受けた都心の汚染地域を除き、現在すべてが高遠の支配下にある。あの男はすべての国家機関や地方自治体を追い出して独裁制を敷き、旧三鷹駅周辺を勝手に自分の街に仕立て上げ、多くの労働者を非常に劣悪な条件で働かせている。本人は復興に貢献していると言うだろうが、人権を無視したやり方は問題だ。売春、薬物、とにかくあらゆる犯罪が大っぴらに行われているしな。

 とりあえず私は、防塵マスクやフィルターマスクの売り方を変えるよう、厚労省などの立て直しを行っている連中に働きかけている。現在のように、ある地域の独占販売権を代表者に与え、証明手段としてライセンスペンダントを渡すというやり方は、東京に利権と混乱をもたらした」

 木島はそこまで言うと、怜に向かって手を伸ばした。水を要求していることに気付き、黙ってペットボトルを渡す。それを受け取ると、木島はまたそれを飲んだ。

 夕べ木島は自分の唇を塞ぎ、水を流し込んだ。あの甘さを秘めた優しい仕草は何だったのだろう。

 唇を触れ合わせた時、自分はどうして拒絶しようと思わなかったのだろう。

 木島は、あの人じゃないのに。

「最低限、東京都内に警察を入れ、治安を取り戻すことが必要だ。検察機構も……まぁ司法制度の方は別な者が担当しているがな。やることは山積みだ。支援物資を高遠が独占していることも問題だが、ひとつずつ解決していく必要がある。

 そこで私は、高遠の様子を見るために、彼に会いに行った」

 怜の肩がびくっと震えた。まさか……。

「こちらの事情を話したら、高遠は何と言ったと思う?」

 喉がカラカラに渇いていた。まただ。高遠周たかとおいたる。奴はまた、怜を道具にしようとしている。あの時と同じように罠を張り巡らし、人を縛り上げて踏みつける気だ。

「貯めこんだ金と見返りを与える代わりに、東京における自分の支配権を見逃せ、というのが奴の言い分だ。要するに賄賂だな。警察機構も検察機構も東京に置いていい。だが、高遠が許可した場所に置き、たとえ誰かを逮捕しても、奴の意向に沿わなければ釈放しろと」

 くらりと眩暈がした。震える声で、怜は呟いた。

「あんたがここに来たのは、つまり」

「そういうことだ。私は、2年前の抗争にたった一人で決着をつけ、高遠に東京全域の支配権をもたらした男に会いに来た。中央線の南を仕切っていた江藤の配下に潜り込んで組織を崩壊させた挙句、南側全体の統括ライセンスペンダントを奪った……奴の息子、高遠怜たかとおれんに会いに来たんだ」

 怜は目をつぶった。何があろうと、あの鮮血の夜から逃げることはできないのだ。

「今のオレは、高遠とは関係ない。あいつのために働くなんて」

 弱弱しく怜は言った。どうにかして、この男だけでも追い払えないものか。

「どうかな? 高遠は私に申し出た。奴の利権を守るなら、私には君が与えられる。奴は言っていたよ。2年前、中央線南には、大物が2人いた。トップの江藤翔也と、そして彼の親友にしてブレーンだった佐木薫だ。君はその2人を含めて多くの男を夢中にさせたそうだな。君を抱けば、他の男なんぞ物足りなくなる、とね」

「ゲス野郎」

 吐き捨てるように言うと、木島は肩をすくめた。

「それは私ではなく君の父親に言い給え。そもそも、奴を専制君主にした立役者は君だろう? 責任を取ることだ。明日の夜8時、駅近くのホテルで待っている。地図を描いておこう」

「オレが、あんたに抱かれるために、のこのこホテルに行くと思ってるのか?」

 木島の目が細くなった。

「ここは所詮、高遠のシマの中だ。君が中立地帯だといきがっていられるのは、父親が君に手を出さないと知っているからだろう? だが川を越えて江藤のシマには入れない。裏切り者は吊し上げられるからな。かといって高遠のシマの中にいる限り、君は抵抗空しく、スマキで私に献上されるだろう。そして東へ逃げれば、そこは私がいる『政府』の管轄下だ」

 指先が冷えていく。呼吸が浅くなる。どうして自分は2年前に死んでおかなかったのだろう。あの人を撃った時、自分が死ぬべきだったんだ。自分はずっと、悪夢の中でもがいている。

 木島が立ち上がった。デスクへ行き、手近な紙に地図を描く。それを持ってベッドへ戻ってくると、彼は紙を折り畳んで怜の膝に置いた。木島の指が、怜の顎をゆっくりと持ち上げる。けぶるような欲望を湛えた目が、怜の目を捉えた。

「ひとりでイけない君でも、抱かれる準備はよく知っているだろう? 待っているから、ひとりでおいで」

 そう言うと、木島は椅子の背からジャケットを取り、優雅な足取りで部屋を出ていった。

 歯を食いしばったまま、怜は沢城が様子を見に来るまで、じっと壁を睨み続けていた。


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