第2話 蒲田にて(1)
「
その声に顔を上げると、入口から沢城がのぞき込んでいた。咄嗟に時計を見る。午後8時。夕食のピークが終わる頃だ。
「どうしたんだ?」
「ちょっと」
沢城は手招きしながら、1階の食堂の様子に気を取られている。怜はメールを書いていたノートパソコンを閉じると事務室を突っ切って入口に向かった。
「トラブルが起こってます。川崎の連中が食べに来てたんですが、三鷹の方から来た奴が喧嘩をふっかけて」
「またか」
怜はそれだけを言うと階段へ向かう。下りていくと、1階は緊迫した雰囲気だった。ほとんどのテーブルが埋まっている中、奥のテーブルにいた4人組と、外から入ってきた6人ほどのグループとが睨み合い、他の客は乱闘になった時の身の振り方を考えてじっとしている。ガタイのいい従業員が数人、厨房の出入り口を守っていた。
「何してる」
怜が声を出すと、全員が一斉に顔を向けた。入口側のグループの汚い男がひとり、奥の4人を指差した。
「あいつら、2年前に江藤のところにいた奴らだ。俺は覚えてる。江藤のシマは川の向こうなのに、なんでここにいる。ここは高遠さんのシマだ」
うんざりした顔で、怜は腕を組んだ。
「ここは中立地帯だ。高遠も江藤も関係ない。都内の復興事業に参加している人は、誰でもこの食堂で食事してかまわない。喧嘩は禁止。それが守れないなら出ていけ」
入口の連中は鼻で笑った。まだ若く細身の怜をバカにして、彼らは一歩踏み込んできた。安い酒の匂いが、ぷんと怜の鼻をつく。
「兄ちゃん、あんた高遠さんのシマでそんなこと許されんのかよ。俺が三鷹に行って高遠さんに報告してもいいんだぜ」
「したければ勝手にしろよ。この食堂にはこの食堂のルールがある。シマ争いなんぞクソくらえだ。出てけ」
汚い男の顔が怒りで赤くなった。腰に手が伸びる。その瞬間、怜は自分も腰からグロックを抜き、男の顔に狙いをつけた。
一行の目に怯えが走る。銃口の奥から連中を睨み据え、怜は淡々と言った。
「肉はいつでも足りてないんだ。なんならここで、お前が食料になるか? 戻って高遠に言っておけ。マナーを守れない奴を飼ってると、仕切ってる奴の頭が悪いのがバレるぞって」
沈黙。統率のとれた従業員全員が、怜を中心に自分たちの様子をじっと見ている。ち、と舌打ちをすると、男は怜に背を向けた。
「覚えとけ」
これみよがしに近くのテーブルに唾を吐き、他の5人をぞろぞろ連れて、そいつは食堂を出ていった。
ぴしゃりと引き戸が閉められた途端、全員がほっと息を吐いた。屋内の銃撃戦なんて正直ごめんだ。厨房の入口にいた従業員が「ヒヤヒヤさせないでくださいよ」と残して戻っていく。
沢城が怜の肩を叩いた。
「大丈夫ですか? にしても、怜さんってすごい迫力ですよね」
「知るかよ。まったく」
溜息をつくと、怜は奥のテーブルに向かった。喧嘩を吹っかけられた側の4人は、安堵した顔で食事を再開している。怜が近づくと、彼らは手を上げて怜をねぎらった。
「お騒がせして大変申し訳ありません。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ありがとう。えぇと……」
「ここの責任者をやってます。怜です。お騒がせしてしまいました。何か一品、卵焼きでもおつけしましょう」
「いや、あんたのせいじゃねぇだろ、気にしないでくれ。こうやって食堂頑張ってくれてて、俺らの方が助かってる」
怜は微笑んだ。防塵マスク・フィルターマスクの独占販売権、支援物資の分配権、そして復興事業の受注。そういったもののせいで、戦後、汚染周辺地域は縄張り争いが激しい。戦前の企業体は武装した集団に駆逐され、第二次世界大戦後にも似た無法地帯が東京だった。
高遠と江藤のグループは、以前は中央線を挟んで睨み合っていたのだが、2年前の大規模な抗争でその分布図は変化した。現在、江藤の防衛線は多摩川まで下がってしまい、彼らは神奈川県まで撤退している。東京都のほとんどは、今では『政府』も手をつけられない高遠の独裁体制となっていた。
怜はそうした争いの隙間を衝いて、ここ蒲田に食堂を作った。すぐそばに2大勢力の境界線である多摩川がある。最近、この辺りでは復興作業が本格化していて、建物の解体や除染作業を行う日雇い労働者が大量に出入りしていた。
底辺で働く人たちに温かい食事を。
2年前の抗争以来、怜はこの場所で運送業、料理関係、様々な職種の人たちを少しずつ集めてきた。今ではこの食堂を中心に、残った建物を利用した商店街ができている。
この場所は、怜が初めて自分で作り上げたものだった。あの悪夢の夜から、怜は這いずるようにしてここまで辿りついたのだ。
邪魔されてなるものか。
怜の静かな気迫を、集まってきたすべての仲間が共有していた。
誰もが悲しみの夜が明けるのを待っている。怜もまた、あの日自分で
「卵焼き、皆さんにおひとつずつオマケしま~す」
厨房から出てきた若い従業員が、大きなトレイを両手で持って声を張り上げた。怜と話していた男たちが、笑って怜の腕を叩いた。
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