終わらない懺悔

岩久 津樹

終わらない懺悔

 一面オフホワイトの壁に囲まれた約五畳の部屋には、椅子が二脚と机が一台あるだけ。机の上には数枚の書類と、ノートパソコンだけが置かれている。この質素で無機質な部屋が私の仕事場だ。

 私の目の前には、机を挟んで向かい合うように座る一人の男がいる。

「先生、私はなんと罪深い人間なのでしょう」

 彼はおもむろに口を開いたかと思うと、涙を流しながら己の罪の告白を始めた。

「あれは去年の冬。街ではクリスマスムードが漂う時期でした」

 この話を聞くのはこれで何回目だろうか。少なく見積もっても十回は聞いている。しかし、私はそんな彼に対して咎めるでも無く、ひたすら黙って、時折相槌を交えつつ話を聞いていた。そう、それが精神科医である私の仕事だからである。

「あの日私は高熱を出し、実家の自室で寝込んでいました。カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しかったのを覚えています」

 彼は毎週月曜日の十二時に来院しては、必ず同じ話をする。そして話し終えると、まるで魂が抜けたように動かなくなるのだ。そんな彼を正気に戻して、家に帰すには毎回かなりの時間を要してしまう。投薬の治療でも症状は治る気配はなく、最近では入院も勧めてみたのだが、断固として入院は断ると言うのだ。

 何故彼がこのような状態になってしまったのかは、今彼が話している内容を知ると全て分かる。

「夕方あたりだったでしょうか。微睡みの中、突然体が浮遊しているような錯覚に陥りました。そして、キャッキャと笑う子供の声がどこからか聞こえてきたのです。声は次第に近づいてきて、ついには私の耳元で聞こえてきました」

 彼は両耳を塞ぎながら、体を震わせている。

「私はあまりに五月蝿いため、右腕を上げて振り回しました。すると今度は『痛い』という子供の声が聞こえてきたのです。私は驚き、目を覚まし体を起こしました。しかし辺りには誰もいません。熱で魘されて見た微睡みの中の悪夢だったのだろうと、ホッと胸を撫で下ろしました」

 彼は話に合わせて自分の胸に手を当てて息を吐いた。私は彼の話を、コーヒーを片手に黙って聞き続ける。

「しかし夢ではなかったのです! ああ、思い出すだけでも恐ろしい! 子供は確かに私の部屋に居たのです!」

 突然声を荒げる彼だったが、私は平静でいられた。これが初めて聞く話しであれば驚いてコーヒーも溢していたかもしれない。

「胸を撫で下ろした私は、喉の渇きを潤すために一階にあるキッチンへ行こうとベッドから降りました。すると、足の裏に柔らかなゴムのような感触があったのです。恐る恐る下を向くと、そこにはまだ幼い私の弟が横たわっていたのです。急いで足を上げて、踏んでしまって申し訳なかったと謝りました。しかし、弟は全く反応がありませんでした。そこでようやく気が付きました。弟の頭から流れるどす黒い血と、その頭のすぐ横にある本棚の角に付着した血痕に……。私は急いで一階に降りて、夕飯の支度をしていた母を呼びました。母は倒れた弟を見つけると半狂乱になりながら救急車を呼びました。しかし、救急車が駆けつけた時にはもう、弟は息を引き取っていました」

 悪夢に魘され振り上げた腕が弟に当たり、運悪く本棚の角に頭をぶつけてしまい亡くなってしまったということだ。実の弟を事故とはいえ自分の手で殺してしまったのだ。このように精神を病んでしまっても仕方ないのかもしれない。

 私は机の上に置いてある写真立てに映る妻と娘の顔を見て、もし私が自分の手で家族を誤って殺してしまったらどうなるのだろうかと逡巡した。やはり彼のようになってしまうのだろうか。

「私が……私が殺したのです」

 この言葉を最後に彼の動きは止まった。こうなってしまうと正気に戻すには、根気よく彼の名前を呼ぶしかなかった。




「……さん! ……さん!」

 誰かの声がする。霞んだ視界が鮮明に変わり、ようやく私の名前を呼ぶ声だと気が付いた。

 辺りを見回すと、そこはオフホワイトの壁に囲まれた五畳ほどの部屋で。目の前には先生が心配した面持ちで私の肩を揺さぶっていた。

「ああ良かった……落ち着きました?」

 私は小さく首を縦に振って、また辺りを見回した。壁に掛かった時計の針は二時を指していた。

 何故私がこんな部屋にいるのか思い出そうとすると、針が刺すような頭痛が襲った。頭を押さえて蹲る私の背中を先生は優しく撫でながら言った。

「大丈夫ですから」

 無意識に「先生」と呼ぶ目の前の男の事も、私は思い出せずにいた。記憶を探るため、また部屋の中を見回す。そこで机の上に積み重なった書類や壁際の本棚が目に入る。男は医師なのだろう。本の内容はどれも医学書だった。

「一人で帰れますか?」

 先生の言葉で私はまた黙って首を縦に振った。と、同時に部屋の外から何かが落ちるような大きな音が聞こえた。

 音と共に人の声も聞こえる。すると脳に亀裂が入り、そこから光が飛び出してきた。飛び出した光が部屋中を照らすと、眼前の景色が勢いよく回り出す。やがて足元に大きな暗黒が現れ、私はその深い深い暗黒の中へと沈んで行った。

 

 

 

「先生、私はなんと罪深い人間なのでしょう」

 今週も彼は来院して、いつもと同じ導入で話し始めた。どうやら私はいつもより疲れているらしい。彼の話しを聞く振りをしながら、彼の背後の壁に掛けられた絵画を呆けた表情で鑑賞していた。

 絵の具をぶち撒けたようにしか見えない絵。海外旅行に行った際に高揚した気分の成り行きで買ってしまった絵。確か数十万円はした。なんと勿体無い買い物をしてしまったのだろうか。我ながら情けなくなる。

 彼はそんな私の態度もお構いなしに話しを続けている。次第に彼の声よりも、部屋の隅に置いたウォーターサーバーの機械音の方が鮮明に聞こえ始めた。

 このウォーターサーバーもそうだ。いつでも冷たい水が飲めると思って契約したのだが、結局いつもコーヒーしか飲まない。あまりに無駄遣いが多すぎるし、物も増える一方だ。そろそろこの部屋も片付けなくてはならない。 

「しかし夢ではなかったのです!」

 不意に大声を出す彼に驚き、左手で卓上カレンダーを払い落としてしまった。いつもは驚かないんだが、今日ばかりは不意を突かれてしまった。

 そんな私の醜態の前でも、彼は表情一つ変えずに話を続けた。毎週彼の罪の告白を聞いていると、私は精神科医ではなく神父にでもなった気分になる。そう、彼は懺悔しているのだ。終わらない懺悔を。

 

 

 

「……さん! ……さん!」

 誰かの声がする。霞んだ視界が鮮明に変わり、ようやく私の名前を呼ぶ声だと気が付いた。

「ここがどこだか分かりますか?」

 首を横に振ると、隣の椅子の上に置いてあるリュックサックに目を奪われた。

「それはあなたの荷物ですよ」

 先生は優しく説明する。リュックサックは横向きに倒れて、中から衣服が飛び出し椅子から溢れ落ちている。私は急いで荷物を片付けようとしゃがみ込む。

「あぁ、いいですよ、私がやりますから。ゆっくり座って休んでください」

 先生のお言葉に甘え、椅子に座り部屋の中を見渡す。机の上には積み重なって崩れている書類と、壁際に医学書がぎっしり詰め込まれた本棚があることから、私が無意識に先生と呼んでいる男は、病院の先生なのだと推察できた。

 壁には何枚もの絵画が飾られている。先生の趣味だろうか、どれも絵の具をぶち撒けただけにしか見えない絵ばかりだ。それに床には先生が脱ぎ捨てたのだろうか、何枚ものシャツや下着も散乱している。

「片付けなくちゃ……」

 いつの間にか先生はいなくなっていた。代わりに大きなゴミ袋が現れて、中から大量の弁当の空容器などが溢れてくる。足の踏み場もないほどに……。

「片付けなくちゃ……」

 依然としてゴミは増え続ける。ゴミだけではない、本や衣類、家電などもいつの間にか部屋を覆い尽くしている。

 様々な物は、やがて息もできないほどに部屋全体を埋め尽くした。

 遠のいていく意識の中で、誰かの会話が頭の中を巡った。

 ああ、この会話は、弟の葬式を終えた翌日の朝に聞いた内容だ。

 

 

 

(可哀想に、床に転がっている洋服に足を滑らせて、頭を打ったらしいわよ)

(なんて不運なのかしらね。もし部屋が片付いていたらこんな事にもなってしなかっただろうに)

(だけどお兄さんは自分が突き飛ばしたと思っているらしいわよ)

(え、なんでかしら)

(なんでも突き飛ばす夢を見たとかで……)

(あっ、ちょっとお兄さんよ)

(あっ……)

 



 頭の中を巡る誰かの会話が終わると、いつの間にか私は自室のベッドの上に座っていた。

 乱雑に脱ぎ捨てられた服や、床に積み重ねた漫画本やCD。足の踏み場もない私の部屋。

 そうだ、あの日微睡みの中で腕を振り上げた時、何かに触れた感触はなかったではないか。つまり私が弟を殺したのではなかった。

 いや、直接ではないにしろ、僕が部屋を片付けなかった事が原因で弟は死んだのだ。私のせいだ。私が部屋を片付けていたら弟は死ななかったのだ。そうだ、早く片付けないと。片付ければ弟が生き返るかもしれない。そのためには塵一つ無いくらい綺麗に片付けないと……。

    

     

     

「片付けないと……」

 上の空でそう呟き続ける彼を、私は見守り続けることしかできないのだろうか。

 弟を自分の手で殺してしまったと思い続けている彼が、この精神科病棟に入院してから半年。彼は毎週月曜日の十二時に、自分の病室で一人きりで誰かと話し始める。内容から察するに、自らの罪を「先生」と呼ぶ誰かに告白しているのだろう。話し終えると糸が切れように動かなくなり、その後にまるで人格が変わったかのように、自分で自分を落ち着かせるような言葉を発して、また動かなくなる。恐らく「先生」の役も自分自身で補っているのだ。その後三十分ほどで彼は動き出し、まるで何もなかったかのように元の生活に戻る。

 私は彼のこの現象を「終わらない懺悔」と呼んでいる。終わらない懺悔中に一度病室に入ったことがあるのだが、その時彼は発狂して暴れまわってしまった。そのため今ではそっと見守ることしかして来なかったのだが、今日は一人の看護師が持っていたカルテを落としてしまい、かなり大きな音を立ててしまった。

 すると彼はこちらを見たかと思うと、崩れるようにその場に倒れこんでしまった。急いで病室に入ろうと思ったのも束の間、彼はすぐに立ち上がり、ベッドの上に座ると、また最初から終わらない懺悔を始めたのだ。

 しかし、それはいつもの終わらない懺悔とは違っていた。「片付けなくちゃ」という言葉を繰り返すだけとなってしまったのだ。

 つまりは弟の死の原因が、自分が腕を振り回して突き飛ばしたことではなく、自分が部屋を片付けていなかったからだと気が付いたのだ。

 もちろんそれでも彼は自分自身を責め続けるだろう。それでも彼が直接手を下した訳ではないと気が付いたのだ。これでいくらか彼の心が救われれば良いのだが……。

 そう願いながら、私は静かに彼の病室の扉を開いた。 

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終わらない懺悔 岩久 津樹 @iwahisatsuki

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