第2話 朝の誦経は馥郁と耳をくすぐる

静かに流れる誦経の声。


ふくよかで慈愛に満ちている。


時折り混じる鐘の音が涼やかに耳に響く。


母の実家に泊まりにきた時の朝の始まり。


祖父は毎朝、仏壇に向かい、お経をあげていた。


その誦経の声で、僕は目覚めた。


攻撃的な目覚まし時計とは全く違う穏やかな朝の始まり。


布団の暖かさを感じながら、その耳に心地よいお経を聞き、そして、起きる。


祖父のいる居間に近づくとお線香のしっとりとした匂いが鼻をくすぐる。


台所からは祖母が朝食を用意している気配がする。


居間の引き戸を開けると数珠を手にした正座姿の祖父が、目を閉じ、微かに唇動かしながら誦経をしている。


僕も祖父の横に正座し、手を合わせる。


お線香の穏やかな香りを嗅ぐ。


修学旅行定番のお寺巡りで、お線香の匂いが好きだと言ったら同級生に驚かれた。


“やっぱりお前は変わっているな”


そんな事を言われた。


ただ、“変わっている”と言われるのは小さな頃から慣れており、別に気にもならなかったし、そう周りに言われたい自分も居た。


中学受験のため小学3年生の時から塾に通い、中高一貫教育の進学校で、両親からは成績についてやいのやいの言われていた僕にとって、祖父母の家で過ごす時間は、心穏やかでいられる数少ない大切なものだった。


そんな祖父と僕が東北を旅することになったのは、僕が一浪して大学に入った夏のことだった。


僕の預かり知らないところで、祖父の旅行に僕が同行することが決められていた。


おそらく旅に出たいという祖父、自分は行きたくないという祖母、その二人に対し、僕を同行させればいいと母が言い出したのだろう。


母は、僕や妹の意向など構わず勝手に安請け合いをするという悪い癖があった。


そして、もはや子供が意見を挟めない状況になってから、僕らにそのミッションを課してくるのだ。


それで、うちの子供たちは反抗期もなく、素直で〜と吹聴してまわる困ったところがあった。


夏休みに一週間祖父と共に旅行することになったのも、気が付いたら既成事実として日付と共に告げられていたという感じだった。


だが、祖父と共に旅行することについては、全く抵抗はなかった。


東北地方への旅としか知らされず、どこで何をするか分からなかったが、別に一緒に遊ぶ友達もおらず、サークル活動も真剣に行なっていなかった僕としては、窮屈な思いで家にいるよりも外に出られることが有り難かった。


東京駅で待ち合わせ、大宮まで在来線で行き、当時開通して間もない東北新幹線で盛岡まで行く。


おそらく東北新幹線の開通が祖父に旅行を思いつかせた大きな要因だったのだろう。


盛岡について一泊し、翌日、青森まで行く。


青森から、弘前、八戸と巡り、盛岡に戻ったのち、仙台へ寄るという行程だ。


せっかく初めての土地を旅行するのだから、それらの土地のことを少しは調べれば良いのに、その頃の僕は本を読むことばかりが楽しみで、旅行に携帯する文庫本を何にするかを迷うばかりで当日を迎えた。


その大宮への在来線の中で、ただの観光旅行ではなく祖父にとって目的のある旅行だということを知る。


祖父の父、僕にとっての曽祖父は東北に出稼ぎに行き、その仕送りで祖父達は生活していたというのだ。


その父が働いていた場所を祖父は訪れてみたいと言う。


思わぬ旅の目的を知り、僕は驚いた。


曽祖父がどんな人なのかなど考えたこともなかった。


もともと祖父は饒舌な方ではなく、聞き役に回ることが多かった。


だから、祖父の子供時代のことなど想像したこともなかった。


これからの東北の旅の途中、祖父が働いてたという鉱山も組み込まれているらしい。


漫然と考えていた祖父との旅行に一本の芯ができた。












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言の葉は宙舞い、箱の中の箱で猫は微睡む 奈良原透 @106NARAHARA

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