最後の嘘

井上 幸

最後の嘘【短編】

『久しぶり。今日、遅くなっても良いから会えないかな?』


 定時を過ぎたデスクの上で、そんなメッセージが光っていた。数年ぶりの彼からのメッセージ。本来なら飛び上がって喜んでしまいそうな文面なのに。私は深い溜息を吐く。

 正直に会いたくないとは書けなくて、代わりに『うん。大丈夫』とだけ返す。それでも送信するまでに、缶コーヒーが空になった。


「……何してるんだろう、私」


 夕日の差し込む窓際で、ぽつりと零してしまう。両手に持った空き缶をころころ掌に転がして。

 今日は金曜だから、同僚たちは仕事を終えてそそくさと帰っていった。だから気を抜いてぼんやりとしていたのだけれど。


「なーに、溜息なんか吐いてんの?」

「ひゃっ」


 ぽすりと乾いた音がして、頭に何かを載せられる。

 キャスター付きの椅子ごと振り返れば、一緒にチームを組んでいる先輩が悪戯っぽく笑って立っていた。


「もう、何するんですか」

「お疲れさま」


 載せられたままの何かを振り払って軽く睨んでみる。先輩はいつも距離が近い。今も私の顔を覗き込んでくる。ちょっと苦手なタイプなのだ。きっと今日も『もーもー言ってると牛になるぞ』とか、『可愛いお顔が台無しだなぁ』とか、おじさんなのかチャラいのか、イマイチ解らない揶揄いが降ってくるのだろうと思っていた。


「……なんか、あったか?」

「えっ」


 だから、いつも通りの言葉を待っていたから。予想外の言葉に思考が固まった。

 頭のどこかで警鐘が鳴る。この声は、ダメだ。囁くように心配を滲ませるその声色は、甘えてしまいそうになる。全てをさらけ出して慰めてほしくなる。


「おい、」「大丈夫ですよ」


 先輩の声に被さるように強く言う。顔は上げられないけれど、普段通りの調子で返せたはず。


「それより、先輩。ひとの頭に何載せたんですか?」

「あ、あぁ。いや。お前がこの間行きたいって言ってた展示会の招待券。手に入ったから、良ければドウゾ」


 ひらり、と封筒を見せられる。中には2枚の招待券。行きたいと言っていたことを覚えてくれていたのだと、少し苦手意識が薄らいでいく。

 我ながら単純だ。このまま泣きそうな気分なんて、どこかへ行ってしまえばいい。


「え、やった! 先輩、最高っ!」

「ははっ、調子のいいやつだなぁ。明後日までだから早めに行けよ?」


 ちょっと大げさに喜べば、先輩がふわりと微笑んだ。いつもの意地悪そうな顔ではなくて。少しだけ胸の奥が温かくなる。


 それから少しだけ残業をこなし、私は約束の場所へと向かう。相手は数年ぶりに会う、幼馴染の男の子。彼と出逢ったのは小学校に上がったばかりの頃だった。

 姉のピアノ演奏会へついて行った時のこと。子どもや付き添いの大人たちがひしめくその空間は、私にはとても窮屈だった。姉の演奏こそちゃんと聴いていたけれど、他の子の演奏なんてつまらない。私は持ってきていたスケッチブックに絵を描いて遊んでいた。

 けれど、その時耳に入ってきた音は、他の何にも邪魔のできないような圧倒的な存在感を持っていた。色鉛筆を握る手を止めて顔を上げる。周りの大人たちのおしゃべりも止んで、ただ彼の奏でるピアノの音だけが響いていた。

 私はその時、すでに彼に恋していたのだと思う。

 彼の音色の虜になった私は、姉と共にピアノ教室へ通うことにした。彼も同じ教室に通っていて、私たちは3人でよく遊ぶようになった。学校は違うけれど家は近くて、休みの日にはお互いの家を行ったり来たり。中学、高校と時が進んでも、私たちの関係は変わらなかった。

 でも音大へと進んだ彼は卒業後に留学することになった。短期ではない。数年間は会えなくなってしまう。どうしようもない焦りが私の心を掻き乱す。彼が旅立つ前の日、私は覚悟を決めて彼に告白した。

『ありがとう』そう言って、彼は私の額にキスをした。

 それ以外、言葉はなくて。

 あの『ありがとう』の意味を、私は長い間探し続けていた。


 その答えを悟ったのはつい先日のこと。

 あの別れから数年の時が経ち、彼は戻ってきた。姉の許に。

『彼と婚約したの』と幸せそうに微笑む姉に、小さくおめでとうと言うのが精いっぱいだった。

 そうか。そういうことか、とその時ようやく理解した。

 潤む瞳は嬉し涙とごまかして。その左手に輝く指輪へ賛辞を贈る。いつから、なんて無粋なことは訊かないことにした。どんな答えが返ってきても、結局辛いだけだから。

 ごめんね。お姉ちゃんの幸せを心から祝いたかったけれど。私の心にはまだ彼が残ってる。心の隅にあるほんの僅かな黒い染みが、じわじわ私を追い詰める。もう少しだけ待ってほしい。私の心の中から、彼への想いが消えるまで。きっとすぐにそうしてみせるから。ほんの少しだけ、待っていて。


「あ、いたいた!」

「お、久しぶり」


 びくりと肩を揺らしてしまう。彼だ。お姉ちゃんも一緒なのか。こぼれそうになる溜息を押し殺して、私は笑顔で大きく手を振る。


「おっそーい!」

「悪い、悪い」

「ごめんねー」


 苦笑いで彼が駆け寄ってくる。手を繋がれた姉も一緒に。つきりと胸に棘が刺さる。

 泣きそうな顔を、何とか笑みに変えて軽口を続けようとした時だった。ぽすりとさっき聞いたような音がした。


「えっ」


 驚いて振り返るとやはり先輩が立っている。ちょっと機嫌の悪そうな表情だ。


「これ、忘れてたぞ」

「あっ! すみません!」


 さっきもらった招待券。せっかくの厚意を無駄にするところだった。慌てて頭を下げれば、先輩はふっと笑って視線を移した。瞬く間に表情が変わる。すごいな、外向きの営業スマイル。


「あ、紹介しますね。こちらは私の姉と、婚約者さん。で、こちらは会社の先輩です」

「あら。いつも妹がお世話になってます。この子ちょっと抜けてるし、ご迷惑かけてないかしら?」

「ちょ、お姉ちゃん!」

「うふふ」


 姉に子ども扱いされて顔が沸騰しそうになる。ものすごく恥ずかしい。


「いえいえ。とてもしっかり仕事こなしていますよ。素直でよく働く良い後輩です」

「まぁ」

「そうだよ。昔から、」「ストーップ!」


 もう、聞いていられない。先輩からの誉め殺し。ましてや彼の口から私の話を聞くなんて、泣いてしまいそうだから。会話を強制終了して、先輩に向き直る。目が合って、口を開こうとした時だった。


「ねぇ。もしかして、二人は付き合ってるの?」


 唐突に放たれた彼からの質問に、ヒヤリと冷水を浴びせられたようだった。

 一瞬で身体も心も凍り付く。

 何故。どうして。貴方が、それを訊くの。疑問と不信感が頭の中を駆け巡る。

 何か答えなきゃ。否定しなきゃいけないのに、はくはくと動くだけの口からは言葉が出てこない。鼻の奥がツンとする。


「あ、そんなに分かりやすかったです?」


 何でもないような軽い調子で先輩が肯定する。

 驚いて勢いよく見上げると、ぽんと頭に手を載せられた。


「まだ付き合いたてなんで、あんまり言わないようにしてるんですよ。なっ?」

「……」


 ぽん、ぽんと先輩は頭を撫でて優しく微笑む。どうして今日はそんなに優しいの?

 泣きそうになった私は頷くふりをして下を向いた。先輩がこんなに察しが良いなんて知らなかった。私のためなんかに、こんなことに付き合わせてごめんなさい。


「そう、なんだ。知らなかった」

「本当なの? 私も彼氏できたなんて聞いてないぞー」

「ん、二人のおめでたい話に水を差すこともないかなーって」


 先輩の優しさに甘えて嘘を吐く。『ぽんぽん』から、『よしよし』に変わった手がとても温かい。


「でも良かった。これでも心配してたのよ。ねぇ?」

「……うん。素敵な彼氏さんみたいで、安心したよ」


 唇を噛まないように。声が震えてしまわないように。涙が滲んでしまわないように。ゆっくりと笑顔を作る。

 あの時、額に落とされたキスの意味を。

 あの時言われた『ありがとう』の意味を。

 本当はとっくに解っていたのに。

 今になるまで諦めきれなかった私は、本当に愚かだ。

 明るく笑おうとする顔に、ほんの少しの苦さが混じってしまうけれど。それでも私は笑顔で最後の嘘を吐く。


「うん。私、今とても幸せなの。こんな素敵な人が隣に居るんだから」


 それは彼を想い出に仕舞い込み、別の道を歩き出すための嘘。


「二人とも。婚約、本当におめでとう!」


 頭の上に残ったままの優しい手の温もりが私に勇気をくれたから、ちゃんと言葉に出来たんだ。自分のために泣くのは後にして。心優しい共犯者に、ちゃんとお礼をしなくちゃな。

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