柚子ジャム
職場の同僚に柚子と手作りの柚子ジャムを貰った。すうが喜ぶだろう…と考えて、すっかり違和感なく馴染んだ怪異に少々苦い気持ちになる。
それに今日はなんだかついていない。会社の倉庫で片付けをしていたら、天井の隅に何かの気配を感じてずっと首筋の毛が逆立っていた。
―ねえ、聞えてるんでしょ?
―無視しないでよ。
粘り付くようなその声は会社の外にもついてきて、囁き続けている。厭な気配の其れに答える気は無かったが、うっかり気を取られてバス停にぶつかったり踏切の穴に嵌ったり散々だった。倉庫内の力仕事で疲れた事もあって、今日は柚子風呂に入ろうと思った。
昔から愛されるビタミンC豊富な柚子の効果は言わずもがな、疲労回復、美肌効果、冷え性にも効く。リウマチや関節炎にも効くと言われているので、先刻踏切の穴で捻った足首にも効くかもしれない。
―ねえ…。
そういえば、こういう声に答えなくなったのは何時からだっただろうか。小さな頃はよく誰彼構わず話していて、独り言の多い私を心配した母が病院に連れて行こうと父に言っていた記憶がある。父は「大丈夫だから」と其れを宥めていた。
思えば父にも何か聞えていたのではないだろうか。時々突飛な行動を取る彼に母は呆れていたが、後から考えるとそれなりに落ち着く所に落ち着いていた。
ある日庭で日光浴をしていた父が大きな声で笑い出した事がある。
『は、は、は、は、は』
『なにかおもしろいの?』
腰に手を当て仁王立ちで一語ずつ区切る様に笑う父に私は尋ねた。父は私を隣に立たせ同じ格好をさせた。
『口を大きく開けて笑うと身体に良いんだ。腹に力を込めて。は、は、は、だ』
『ははは』
普段は大人しく小声でしか話さなかった私は、恥ずかしくて小さな声で真似をしてみた。父は私の背と臍の下に手を添えて、大きな声を出すよう指導した。
『は、はね、破、破、破だよ』
『は、は、破!』
よく分からないが大きな声を出すと、気分がすっきりしたのを覚えている。大人しくはあったが、泣いたり怒ったりすると隣近所に響き渡る声を出す私は、その時とても大きな声を出した。
それから聞こえてくる様々な声は少し収まり、厭な気分になるものには答えなくなったかもしれない。
―ねえ…無視しないで。家の中までついてっちゃおうかな。
―お風呂とか着替え覗いちゃうよぉ。
家の門扉に手をかけた私に、粘着く声はまだ話し掛けてくる。姿は視えないにしてもセクハラにも程がある。
「破!笑えない。消えろ!」
私は腹立たしさに任せて大声で嗤い、怒鳴り返してやった。気配はすぐに消えた。
やれやれ。私は家の中に入り、すぐに給湯器のスイッチを入れた。
「柚子ジャム貰ったよ」
話し掛けるでもなく呟いて卓袱台の隅にジャムの瓶を置くと、すぐにすうの嬉しそうな声がした。
―ハッピー…
―ジャムジャム…
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