ラムネ

 其の日私は酷く落ち込んでいた。


 生来怠惰ではあるが、働かねば日々の糧を得る事は叶わず、仕方なく勤めている会社の上司に詰まらない事で叱責されたからだ。


 いい歳をして、と云われそうだが、大人になると云うことは、自分の中の脆い部分を捨てるという事ではないのだ。


 どぎまぎして、赤くなり、言葉に詰まり、些細な悪態にさえ傷付く柔らかい自分の感受性を、私は憎みながらも愛していた。


 畳に敷いたままの万年床で布団を頭から被り、愚図愚図と上司との遣り取りを反芻していたが、何時の間にか夢の世界へ誘われていたらしい。


 雪見障子の外を見遣れば、まだ明けない空の色は昏く、私は温もりの中に逃げ込みながら呟いた。


「明日行きたくないな…」


―だいじょうぶだよ…


 布団の隙間から見える部屋の隅に何かがよぎる。


―だいじょうぶだよ…


 小さな声は何度かそう云って、眠りの縁で微睡む私を慰めた。


 翌朝目覚めると、紅い薬包紙に載せられたラムネ菓子が三粒、枕元に置いてあった。

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