不思議の不柏義

巡屋 明日奈

夜明け

「あ、新作」

それなりに上位の大学に通う青年・不柏義ふかしぎ一哉かずやは、とある有名なカフェの前でふと立ち止まった。黒いタートルネックのセーターの襟を上げ、コートの前を少し強く握る。彼はまるで喪服のような黒尽くめの格好で、東京の騒がしい街並みの中にぽつりと立っていた。彼とカフェの間を冷たい空気が通り過ぎていく。

新作じゃなくてもいいが、何か飲みたい気分だ。

緩慢な動作で財布の中身を調べてみる。少量の小銭と札が数枚。よし、足りるな。

がー、と音を立てて開く自動ドアを通り抜け、比較的暖かい店内に入る。しかし一哉にはこの後もちょっとした用事がある。仕方なくレジカウンターでテイクアウトを頼む。注文はいつも通り暖かいミルクにキャラメルソースを乗せた飲み物だ。美味いし、高くない。

飲み口から白く湯気をあげる紙カップを片手に一哉はさっさと店を後にした。店内から出た彼を再び冷たい空気が包み込む。一哉は肩から提げていたトートバッグからマフラーを取り出した。タートルネックの上からそれを巻く。深緑色のそれは、ちょうど彼にぴったりの長さだった。誰かが彼のために作ったのだろうか。

その巻きたてのマフラーを少し下げ、一哉は紙カップに口をつけた。一気に煽ると下を火傷することは知っているので、少しずつ恐る恐るカップを傾ける。中の熱い液体が唇に触れた瞬間、その熱さに反射的にカップを離す。結局熱い思いだけし、飲むことは叶わないまま一哉はカップを胸のあたりまで下げた。この空気ではしばらくもしないうちに飲みやすい温度になるだろう。

ふう、と一哉の口からも白い空気が漏れ出した。その白い息は一哉の頭を越えるかどうかというあたりで薄れ、冷たい空気として霧散する。

「あれ、兄ちゃん」

遠くからそんなような声を聞いて一哉が振り向く。信号の向こう側に私立中学のブレザー姿の少年が立っている。一哉の弟、哉二さいじだった。こんなに寒いにも関わらず、上着の一枚も着ずに元気よく手を振っている。一哉も信号の反対側から小さく手を振ってみせた。

信号機の電灯が赤から青に変わった途端に哉二は一哉の元へと走ってきた。どうやら目的は一哉の背後にあるカフェだったらしい。

一言残すと哉二はカフェの中へと消えていく。数分待っていると、一哉と同じように紙カップを片手に持った哉二が出てきた。

「兄ちゃん、何頼んだの」

「……キャラメルの」

「相変わらずのガキ舌」

「うるさい」

カフェの前、信号の手前で軽口を交わす。特にどこに行くつもりでもなかった二人は横断歩道を渡るでもなくその場に留まっていた。

「僕さ、中学生になったら彼女って自然にできるものだと思ってたんだよね」

「実際は」

「全然できない。自分の周りはどんどんリア充化されてくのに僕だけいない」

「それはまたお疲れ様だな」

二人でげらげらと笑い、カップの中身を少しだけ煽る。冷気にさらされた液体は若干ぬるくなっていた。

「あ、でも気になる子はいるよ。すごい可愛いから僕なんて無理だろうけど」

「……やる前から戦意喪失しててどうする」

「無理なもんは無理ってわかるんだよ」

わかってないなあ、哉二が肩をすくめる。一哉がその様子を見て深くため息をついた。

「そういえば哉絵やえは?」

「部活で遅くなるってさ」

哉二は自身と同じ中学に通う妹の言っていたことを思い出して答える。じゃあ哉絵には秘密だ、と一哉が笑ってカップを傾けた。

「そうだ、本屋寄っていいか?」

「いいけど何買うの」

「見るだけ」

そう言うと一哉がくるりと身をひるがえして通りを歩き出す。哉二もそれに倣って慌てて彼について行った。



兄の部屋は、本で床が抜けそうだ。

少なくとも哉二はそう思っていた。新旧ジャンル関係なくとりあえず「本」と呼べそうなものが大量に本棚に並んでいる。しかもそれでは飽き足らずテーブルの上も本、椅子の上も本、カーペットの上も本。流石にベッドに侵食していないだけマシかも知らない、と思うほどである。これ以上買ってどうするんだ、というのが哉二の密かな疑問であり悩みであった。

「兄ちゃんの授業はどうだったの?」

「最悪」

びし、と一哉が中指を立てて見せる。その指を哉二が張っ倒した。

「朝は『興味深い講義だ!』ってはしゃいでたのに」

「はしゃいでない」

ぴしゃりと即答する。

「話し方がアホみたいにわかりにくかったんだ。要領を得ない話し方すぎてさっぱり理解できんかった」

「あらま」

すたすたと本屋の方向……とは反対方向に進みながら一哉が答える。その後ろをついて歩く哉二がふとそれに気づいた。

「逆じゃない?道」

「古本屋だからこっちで合ってる」

「古本屋かい」

軽くやりとりをしながら兄弟は歩く。やがて古本屋にたどり着く前になんとなく帰りたくなってしまった二人はそのまま回れ右をして帰路に着いた。きっと寒すぎたのが原因だろう。今度本を買いに行くときはもう少し暖かい日にしよう。



「ほえー、やっと終わったあ……」

女子中学生こと哉絵がそう言いながら暗い細めの通りをずんずんと我が物顔で進んでいた。当たり前だ、なぜならここは彼女の通学路なのである。クラリネットの入った黒いケースを担ぎながら彼女は一刻も早く家へと辿り着くため、疲れ果てたメンタルと足に鞭を打って歩き続けていた。

「ただいま!」

「おかえり」

「おかえりー」

哉絵が家、と言ってもマンションの一室、の扉を開けると男二人の返事が返ってきた。二人は彼女の兄たちである。ということは父親はまだ返ってきていないのか。

哉絵はクラリネットと学校の鞄をソファへ放り投げると自室へと引っ込んで着替えを始めた。

「まーた楽器投げたよ」

「鞄潰れた……」

先客としてソファに鎮座していたはずの潰れたトートバッグを見て一哉が呟く。そんなところに置くからでしょ、と哉二から呆れた声が返ってくる。

「哉絵ー、ご飯めんどくさかったから買ってきたんだけどどれがいい?」

哉二がキッチンに向かいながらいう。一番高いの、と返ってきた少女の声に露骨に顔をしかめてみせる。

「炭火焼肉、僕が食べようと思ってたのに」

「俺親子丼」

「ない」

「ちっ」

リビングの方からリクエストをしてくる兄から舌打ちが返ってくる。哉二は自分で見て選べ、と返した。一哉が荷物を端に寄せたソファに座り込んでこちらを見ている。

「仕方ないなー。あるのは焼肉とオムハヤシとおにぎり」

「じゃオムハヤシ」

だろうな、と哉二がため息をつく。残ったのはコンビニでも買えそうなおにぎり二つだけだ。

「後でおやつ食うか……」

「何か言った?さいにぃ」

「なーんにも」

振り向いた哉絵に哉二がなんでもないと答える。ふーん、と呟くと哉絵は一哉の座るソファの方へと向かった。

「かずにぃー、さいにぃが後でおやつ食べるって」

「……少し分けてもらうか」

「だねえ」

おやつまでもが取られてしまいそうな状況に哉二は深いため息をついた。



「かずにぃ、そんなとこいると風邪ひくよ」

「ひかない」

「どうして」

「バカだから」

ベランダに突っ立っている一哉に哉絵が声をかける。それなりに名の知れた大学に行っているのにバカとはどういう了見か。哉絵は背の高い兄にその質問をそのままぶつけた。一哉はうーん、と唸りながら首を傾げた。哉絵はその右手に煙草が挟まれていることに気づいた。だからベランダにいたのか。

「バカだからわからん」

「うわー、そういうのズルいんだよ」

人を食ったような笑みを浮かべて誤魔化す一哉に哉絵が不満そうな声を返す。すると一哉は困ったように眉を下げた。

「バカなんだから仕方ないだろ」

「じゃあなんであんな大学入れたのさ」

「……努力と気合い?」

「うわ、脳筋じゃん」

一哉の隣に並ぶように哉絵がベランダに出る。柵に腕を置いて一哉の方を向く。

「世の中は、暗記で、どうにかなる」

「あたし暗記嫌い」

「……」

んべ、と舌を出した哉絵に一哉が冷たい視線を送る。なんとなく居た堪れなくなった哉絵はくるりと身をひるがえすとリビングへと戻っていった。残された一哉は柵の淵に煙草を押し付けた。ふう、と吐いた息は煙と寒さで白い。

「……バカ、か」

自身が言った言葉をそっと反芻する。冷たくなってきた両手を合わせて袖の中に突っ込むと、一哉はベランダから見える景色を一望した。



不柏義一家の住むマンションの明かりがふっと消える。二人は寝たのだろうか。しかし東京はまだまだ明るい。夜通し営業している店も多い。

一哉は柵に手をかけて眼下に広がる街並みを眺めた。ネオンや電灯は眩しく輝いているが、当たり前だが屋根は暗い。だからこそ真上から見ると街並みも案外暗く見えたりするのだ。

「……深淵」

一哉が柵の向こう側に手を伸ばす。

「深い闇の、淵」

ベランダの淵から身を乗り出す。そのまま真下の暗闇を見つめる。

「……まあ、俺には関係ないか」

一哉はくるりと後ろを向くと、部屋の中へと入っていった。

流石に日付を越えてはいないだろうが、だいぶ夜遅くなってしまっただろう。明日も何限からだったかは忘れたが大学があるのだ、早く寝るに越したことはない。

不柏義一家の部屋がしんと静まり返る。きっとまた、夜明けごろには騒がしくなるのだろう。

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不思議の不柏義 巡屋 明日奈 @mirror-canon27

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