2019年3月17日(日)


「あれ? 歩叶あゆか、スマホのカバー変えた?」


 と俺が尋ねたのは、昼過ぎから上映されるプラネタリウムの、チケット販売の列に並んだときのことだった。きょとんとして顔を上げた君の手の中には、見慣れない手帳型のスマホカバー。どこか暖かみが感じられるベージュ色に、無数の星屑が降るデザインのそのカバーは、慎ましやかながらもささやかな個性と女子らしさとを併せ持ち、いかにも君が好みそうな大人びた雰囲気だった。


 が、少なくとも前日に予定を立てるべく顔を合わせたときには、君のスマホは歩く黒猫のシルエットがあしらわれた、シンプルかつ愛らしいカバーを身にまとっていたはずだ。ゆえにあのあと、ひとりでどこかへカバーを新調しに行ったのかと不思議がっていると、君は何やらほんのり得意げ、かつ嬉しそうに微笑んだ。


「あ、うん。これね、ネットで見つけたハンドメイドの作品なんだ。ちょうど昨日帰ったら届いてて、早速変えてきちゃった」

「へえ。ハンドメイドってことは市販品じゃないんだ。そのわりには作りがしっかりしてて、パッと見、店で売ってるのと変わんないね」

「うん。手作りのものを買うのって初めてだったから、実物が届くまでちょっと不安だったんだけど、思い切って買ってよかった。デザインも今日のプラネタリウムにぴったりだし」

「はは、確かに。ていうか歩叶って何気に星好きだよね。シャーペンとか筆入れとか、持ちものの大半星柄じゃない? おまけに今日も星が見たいとか言い出すし」

「だって私たちが付き合い始めて一周年の記念日だよ? いつもと同じところで、いつもと同じことをするだけじゃ全然記念日らしくないもの。それに私の持ちものが星だらけになったのは優星ゆうせいくんのせいだし」

「え? 俺のせいって?」

「優星くんの名前、星が入ってるでしょ?」

「……え。あ……そういうこと?」


 と俺があまりにも間抜けな返答を披露すれば、君は今度こそ声を立てて笑った。

 上着なしで出歩くにはまだ肌寒い、東北の春。

 あの日俺たちは付き合い始めて一周年の記念にと、わざわざ白石しろいしから二時間以上かけて公共交通機関を乗り継ぎ、仙台の錦ヶ丘にある天文台へ出かけたのだった。


 錦ヶ丘にしきがおかは仙台市の中心部からやや遠い高級団地で、俺も足を運んだのはあれきりだ。何しろ郊外の瀟洒しょうしゃな住宅街と言えば聞こえはいいが、その実態は温泉街として有名な秋保あきうへの通り道。つまり山を切り開いて造成された土地であって、車も免許も持たない学生が気軽に出かけられる先ではないのだ。


 おまけに当時高校一年だった俺たちは、たまに仙台まで足を伸ばすことはあっても、駅前の繁華街より外へはほとんど出た試しがなかった。山と田んぼばかりの田舎で育った高校生にしてみれば、駅前をちょっと歩くだけで向こう三ヶ月分くらいの娯楽を摂取できてしまうものだから、すぐにおなかいっぱいになって、それより先のどこかへ行ってみようなどとは夢にも思わなかったのだ。


 だから当時の俺たちにとって、自力で天文台までの行き方を調べ、いちから計画を立てて電車とバスを乗り継いだあの二時間はちょっとした冒険だった。一度も訪れたことがなく、まったく土地勘もない場所へ高校生ふたりだけで出かけるというのは、単純なわくわくの他に妙な背徳感もあり、やたらと胸が躍ったものだ。


 が、そこへ追い討ちのごとく君があんなことを言うものだから、俺はすっかりのぼせてしまって平静を装うのが大変だった。

 当時の俺は動転するとすぐ眼鏡を触って誤魔化す癖があったから、君にはとっくに誇らしいのと面映ゆいのとを見透かされていたかもしれないけれど。


「いや、はは……そっか。そういう理由だったのか。全然気づかなかった……じゃあひょっとして、記念日はプラネタリウムに行きたいなんて言い出したのも?」

「もちろん、優星くんと一緒に星を見たかったからだよ。優星くんの名前が〝優しい星〟なのは、星の綺麗な夜に生まれたから……でしょ? その話を聞いてから、私、ずっと星を見に行きたくて」

「待った。え、あれ? 俺、そんな話、君にしたっけ?」

「ううん。今のは清沢きよさわ先生から聞いたの。半年前くらいかな、たまたま学校で先生とふたりきりになるタイミングがあって。それで前から気になってたからいてみたんだ。優星くんの名前の〝優〟って字は、先生の優嵩おなまえから取ったんですかって」

「……毎度感心するけど、歩叶ってそういうのよく気づくよね」

「だってゆいちゃんもそうでしょ? 美結希おばさんの名前から一文字取って〝結〟」

「うん、まあ、そうなんだけど……ひょっとして俺の知らないとこで、実は結構、父さんと俺の話してたりする?」

「ううん、この話はたまたま。先生の前で自分の名前出されるの、優星くんはあんまり好きじゃないかなと思って。逆に先生は家で私の話したりする?」

「い、いや、あんまり……家でふたりきりのときなんかに、最近どうなんだ、とか訊かれたりはするけど。なんか、俺たちの関係が気になるっていうよりは、俺が君に迷惑かけてないか心配してるみたいで」

「あははっ、そうなんだ? 優星くんが迷惑なんてかけるわけないのにねえ」


 そう言って無邪気に笑いながら、君は真新しいスマホカバーの表紙を開いて、上等な白木から丁寧に丁寧に削り出したような指先ですいすいと画面を操作した。

 恐らくは一時間に一本しかないと噂の帰りのバスや、天文台を満喫したあと寄ってみようと話していた、近くのアウトレットモールの情報を調べていたのだろう。


 一方の俺はと言えば、カップルよりも子連れ客の方が目立つ列が徐々に短くなるのを眺めながら、改めて君と出会えた喜びを噛み締めていた。

 そうとは覚られないように、何度も何度も眼鏡の位置を直しながら、そんななんでもないような時間を、幸せだな、と、心から。ああ、そうだ。


 あの頃の俺にはなんてことない町の景色が、風のにおいが、知らない顔ばかりの雑踏が、君と一緒にいるだけで虹を帯びたように色鮮やかに見えた。毎日が過剰なほどにきらめいて、ひとりのときには見向きもしない路傍の花や、山や稲や北へ帰りゆく冬鳥の群まで、すべてが初めて見るもののように輝いていた。


 君が見せてくれたそういう魔法の数々を、若気の至りだったとわらって葬り去ろうとした日もある。けれど今、どこか色褪せて味気ない世界の片隅で思うんだ。

 ああいうなんでもないような日常こそが、結局のところ人生で一番の宝物なんだと。だってきっと人生の七割か八割は、ごくありふれて当たり障りのない、平坦な日々でできているのだから。


 そうした日々の営みを奇跡みたいに彩る君の存在に、俺はもっと感謝すべきだった。大切にすべきだった。そんな君が生きて笑っていることまで、という名のうやむやの中へ混ぜ込んで見失うべきじゃなかった。


 恍惚こうこつ怨嗟えんさの魔法がとけて初めてそう気づくような俺だから、君はあの冷たい誕生日に別れを切り出すことを選んだのだろうか。もしそうなのだとしたら、なるほど確かに愛想を尽かされるのも無理はないなと今、初めて他人事のように思う。


 あの頃の俺は、何故だか君も俺も永遠の命が約束されていて、この関係が一生変わることなく続いていくのだと手放しに信じていた。

 俺たちが生きながらえるための糧を与えてくれる地球さえ、五十億年後には寿命を迎えると予測される時代にありながら。


「ちなみに、さ」

「うん?」

「俺的には〝歩叶〟って名前もすごくいい名前だなーと前から思ってたんだけど。響きはもちろん、漢字の当て方がさ。センスいいよね」

「……うん。そうだね」

「歩叶の名前はおじさんとおばさん、どっちがつけてくれたの?」

「……どっちでもない」

「え?」

「実は、私もよく知らないの。名前をくれた人のこと」

「そ……そうなの? っていうと、もう亡くなっちゃった人……とか?」

「まあ……うん、そんなところ。でも、私もいい名前をもらったなって思う。望むことは何でも自分で歩いて叶える……きっと、そうやって生きていきなさいって願いを込めてつけてくれた名前だと思うんだ。その人が私に何を叶えてほしいと願ったのかは、今もまだ分からないけど」


 そう言ってスマホから顔を上げた君は、もう一、二メートルほど先まで迫ったチケット売り場を見やるふりをしながら、恐らくあのとき、もっと遠いどこかを見ていた。今にして思えば、そういう君の横顔を見て、俺も薄々気づき始めていたのだと思う。君には何か、とても透明で触れ難い硝子がらすのような秘密がある、と。


 けれども根っからの甲斐性なしで臆病者の俺は、ついにその秘密に触れる勇気が持てぬまますべてを緞帳どんちょうで覆ってしまった。俺と君とをつなぐか隔てるかする薄氷のような見えざる何かが、触れた途端に音を立て、もとの形も分からぬほどに崩れ去ってしまうことを、この世の終わりと同等かそれ以上にひどく恐れた。


 だから最後の最後まで、必死に見えていないふりを貫いたのだ。


 ひょっとしたら君は冷たい氷の中でただひとり、誰かの手が触れる瞬間を待っていたのかもしれないなどとは思いもせずに。


「わあっ、買えた! ほんとに買えたね! 開館前から並ばないと無理なんじゃないかなあって諦めてたけど、探してみてよかったあ」


 ほどなく無事に真昼の星空散歩券を手に入れた俺たちは、開演までの待ち時間にちらりと館内の売店へ立ち寄ってから、揃ってプラネタリウムホールへ入った。

 ホール内はほぼ満席と言ってよく、あちこちから子どものはしゃぎ声が響く薄闇の中、同じくらいはしゃいだ君がドーム型の天井にあるものをかざしてみせる。

 それは今や仙台市天文台の名物となっている棒つきのキャンディだった。


 無論ただのキャンディではなく、ちょうどオセロの石から白と黒とを抜き去ったような具合のあめの部分に、青く透き通る地球の写真がプリントされたその名もアースキャンディだ。このキャンディは数年前にメディアで取り上げられ、一躍話題となって以降、入荷と同時に売り切れるほどのヒット商品となっていた。


 同じシリーズに月の写真がプリントされたムーンキャンディというのもあって、俺は君と並んでそっちを買ったのを覚えている。何しろ君が手にしたアースキャンディは、売り場で見つけた最後の一本だった。それを手に入れられたことがよほど嬉しかったのか、透明のビニールに包まれた小さな地球を誇らしげに翳してみせた君からはもう、あの見えざる秘密のにおいはしていなかったように思う。


 おかげで俺も少しほっとして、一緒に買ったムーンキャンディを地軸の角度で翳してみた。もう間もなく偽物の夜に塗り潰され、星にまみれるスクリーンに、寄り添い合う惑星と衛星がひとつずつ。


 そう言えば中学の頃の理科の授業で、もしも月が存在しなければ、地球は生命の生まれない不毛の星になっていたかもしれないという話を聞いた。つまり極彩色の地球と、その上で暮らす今の俺たちがあるのは、多分に月のおかげというわけだ。

 そう思うと本当は逆の方がふさわしかったのかもしれない。

 すなわち君は暗い夜空にぽっかりと浮かんだ月で、俺はただ照らされるだけの地球だった。君なしでは、あの頃の俺はどうしたって存在し得なかったのだ。


 だからだろうか。俺は結局、君と満天の星空旅行を満喫して帰ったあとも小さな満月を食べてしまうのが忍びなく、ずっと大事にしまっておいた。


 とっくに賞味期限が過ぎて、爪痕のような後悔と苦い罪悪感を道連れに、ゴミ箱へ投げ入れる日が訪れるまで。

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