2023年8月3日(木)


 この世には神様なんていない。俺はそう確信している。


 もともと神仏を信じるたちではなかったけれど、歩叶あゆかを失ってからというもの、俺の神様嫌いはとうとう重症の域に達した。だってどう考えても理屈が合わない。

 仮にあの日歩叶の言ったとおり、俺たちの出会いが神様のお導きだったというのなら、その神は自分が引き合わせたふたりを別れさせ、最終的に歩叶を死なせた。


 たった十八歳という儚さで。


 そんな理不尽で不合理な神などいてたまるものか。

 そう思ったらもういてもたってもいられず、俺は決して神明社しんめいしゃには寄りつかなくなった。存在しないと確信する神を心の底から憎んでいた、と言ってもいい。

 けれどもあれから二年と半が過ぎて、俺の中の憎悪はようやく己の存在の矛盾に気がついたのか、さすがに当時よりは鳴りを潜めた。神が憎いと言いながら、キリスト教系の大学に進んだことも多少は影響したのかもしれない。


 もちろん今の大学を選んだのに宗教は関係なく、ただ俺の学力で専攻したい学科に入れそうなのがそこだった。ところが大学には入学した学科を問わず、キリスト教学を必修とする何とも無体な決まりがあって、しかもその講義の単位には、毎朝学内の礼拝堂で開かれる礼拝への出席率が絡んでくるという。


 おかげで俺は大の神様嫌いでありながら、異国の神の教えについて学ぶという皮肉めいた宿命を背負う羽目になってしまった。しかし単位を追い求めるうちに、神とは決して胡散臭いおとぎの存在ではなく、歴史であり学問なのだという気づきを得られたことが、深刻な神様嫌いを克服するきっかけになったのかもしれない。


 つまりこの先にあるのもまた歴史だ。白石しろいしという町がつむいできた歴史の一部がたまたま神社という形を取って、緑色に燃える木々の麓に佇んでいる。

 白木造りの二の鳥居の前で立ち尽くし、努めてそう念じてから、俺はついに神明社の境内へと進入した。二年半ぶりに踏み締めた参道は閑散としている。学生はみな夏休みの真っ只中とは言え、世間は平日なのだから当然と言えば当然だ。


 おまけに今は初詣の時期でも、七五三の時期でもない。お盆の時期にしてもやや早い。おかげでこんな爽やかな晴れの日に、親の仇でも討ちにいくような暗い顔で参道を歩いていくさまを誰かに見られずに済んだ。じっとりと汗にまで緑が滲みそうな草熱くさいきれの中、砂利を踏む俺の足音と、壮大なせみの合唱だけが聞こえている。


 問題の益岡ますおか天満宮は、そう長くはない参道をまっすぐ進んだ先にある本殿の、その脇にひっそりと佇んでいた。あの日歩叶の左右を飾っていた二本ののぼりも変わらずだ。鬱蒼と生い茂る松林の入り口で、よく日の当たる威容の本殿とは裏腹に、小柄な天満宮は木陰の中に一歩身を引き、黙然と鎮座していた。


 さらに林を奥へ入ると、赤い小鳥居を構えたお稲荷様の社もあるが、やはりそちらにも人影はない。お守りやおみくじを売っている授与所でさえも窓がぴしゃりと閉じられて、まあ神前で盗みを働く不届き者などまずいまい、といういかにも信仰者らしい希望的観測の下、無人販売のていが取られていた。


 つまり今、神社の境内には俺ひとり。野鳥と蝉と木立を抜ける風の鳴き声を意識の外へ閉め出せば、途端にしん、と孤独感を伴った静寂が下りてくる。


 ──ここにいたんだ。


 自分がひとりきりになってしまったことを今更ながらに噛み締めて、俺は優雅に木漏れ日を浴びる天神様の社を睨みつけた。


 ──ここにいたんだよ、歩叶は。なあ、神様。いるんなら見てただろ。


 あんたが寂しくないように、ほとんど毎日ここへ来て手を合わせていた彼女の姿を。実在するかどうかも疑わしい神々あんたらに、ずっと感謝していた健気な彼女を。


 なのに、あんたは彼女を──


「……ん?」


 ──見殺しにしたんだ。


 賽銭すら投げ入れず、心の内でそう怨み言を並べ立てようとした、刹那。

 俺はふと見やった小さな賽銭箱の口に異物を認めた。そいつは灯籠とうろうを模した佇まいの、石の箱の口に引っかかっているせいで、笠に隠れて覗き込まないと存在に気づけない。けれども何だこれはと目を凝らすと、異物の表面にはうっすらときらめく無数の星の模様プリントが入っていて──直後、俺は息が止まった。


 ひょっとすると、心臓さえも数秒脈打つことを忘れたかもしれない。

 何しろ自分の心音さえも聞こえなかった。驚愕のあまり五感がすべての情報を閉め出して、世界が真っ白に漂白されたかのような静寂を作り出す。

 そんな純白の視界の真ん中で唯一それだけが色づき、存在を訴えかけていた。


 私はここにいる、とかつて歩叶が使っていたのとそっくり同じスマホケースが。


「なんで……」


 と思わずそううめいた瞬間、白化した世界が色を取り戻し、土砂降りに似た蝉の声が降ってきた。そのバケツをひっくり返したような蝉時雨せみしぐれを浴びた全身が、さっきまでミュージアムで涼んでいたことも忘れて、またぐっしょりと汗に濡れている。


 ──いや、そんなわけがない。


 茫然と立ち尽くしたまま、賽銭箱の口を塞ぐ星屑を凝視して自分にそう言い聞かせた。無数の星をまとった手帳型のスマホケースは、確かに生前歩叶が使っていたものに酷似している。が、だからと言って三年も前に主人を失ったはずのスマホがひとりでにこんなところへ現れるわけがない。きっと誰かの忘れ物だ。そいつがたまたま歩叶の形見と同じベージュ色の、洒落た合成皮革をまとっているだけだ。


 そう信じたい一心で手を伸ばした。

 参拝客の忘れ物なら社務所か警察に届けなければ。カバーを開いて中を見れば、何かしら持ち主の手がかりが得られるかもしれない。

 得られなかったとしても知ったことか。俺はただ、こいつがかつての恋人の遺物でなく、また俺の狂気が生み出した幻でもないことを確かめられればそれでいい。


 そうと決めたらあとは早かった。俺は引き止めるように早鐘を打つ鼓動を振り切り、悪びれもせず賽銭箱の口を塞ぐ罰当たりなスマホを引っ掴む。まさかとは思うがひょっとすると、賽銭まで電子決済で済ませようとした今どきの客がいたのではないか。そんな冗談を頭の片隅に思い浮かべて、自嘲するくらいの余裕はあった。


 少なくともカバーを開き、中のスマホが正常に稼働することを確かめて、ロックもかかっていないホーム画面を颯爽と開いてみせるまでは。


「……なんだこれ?」


 電子決済を常用しているにしては無用心すぎる、あまりに低いセキュリティ意識への呆れはすぐに掻き消えた。何故ならあっさり辿たどいたホーム画面には見慣れないアプリのアイコンがひとつだけ。


 画面の下部には恐らくどんな端末にもデフォルトで入っているのだろう「通話」や「設定」、「アルバム」のアイコンこそ見当たるものの、その列からぽつんとはぐれ、夜空の壁紙に浮かぶそいつの名は、


『蟶?蕗驛ィ』


 ……読めない。この無秩序な文字の羅列は、恐らく俗に「文字化け」と呼ばれる現象によって生み出されたものだろう。


 アプリの名前が文字化けした状態で表示されるなんて症状は、少なくとも自分のスマホでは見たことがないものの、まあ、場合によってはこういうことも起きるのかもしれない。たとえばこれが海外製のアプリだったり、不正にインストールされたりしたものだと仮定すれば、まんざら不思議でもないような気がする。


 車輪のような太陽のようなシンボルを中心に、見たこともない九つの記号──いや、あるいは象形文字?──が円陣を組んでいるアイコンのデザインもまったく見覚えがないし。名前が文字化けしてしまっていることもあり、ぱっと見ただけでは一体何のアプリなのか予想もつかない。そこで俺は恐る恐る問題のアイコンに触れてみることにした。この不可思議な状況がたちの悪い誰かのいたずらでないことを祈りながら、親指で弾くようにタップする。すると直後、


「……あ?」


 と、自分で自分に同情するほど間の抜けた声が出た。何故ならアプリを開いた瞬間、視界いっぱいにきらめいていた星空の壁紙がすっかり消えて、代わりに見慣れた黒のスニーカーと着古されたジーンズを映す画面が開いたからだ。

 言わずもがな、それはスマホの背面カメラが写し取った俺の下半身だった。

 つまり謎のアイコンの正体は、写真撮影用のカメラアプリだったということだ。


 状況からして、もっと怪談じみた薄気味悪い展開を覚悟していた俺は当然拍子抜けした。たかだかカメラアプリひとつ開くのにビクついていた直前の自分に苦笑しつつ、俺も大概空想癖が過ぎるなと反省する。緊張が解けたら、何だか急に手の中のスマホへの興味も失せた。やっぱりこれは歩叶のじゃない。入っているアプリがひとつだけなんて確かに異様ではあるものの、きっと誰かの忘れ物だ。


 そう結論づけた俺は早速アプリを閉じて、この拾いものをさっさと社務所へ預けてしまおうときびすを返しかけたところで、


『歩叶』


 と、突然、手の中のスマホが喋るのを聞いた。


『ごめん。帰り際にのぞむに捕まって、遅くなった』


 刹那、今にもホームボタンに触れようとしていた親指の下から響くのは、他でもない俺の声で。


『ううん、いいよ。おかげで全部のお社にお参りできたし』


 次いで心臓をどっと縮み上がらせたのは、いつか聞いた彼女の答え。


『相変わらず信心深いなあ。受験生でもないのにこんなに熱心にお参りする高校生なんて、他になかなかいないんじゃない?』


 スマホはなおも俺の声で喋り続けた。否、より正確には

 俺は踵を返しかけた不自然な体勢のまま固まり、この世ならざるものを見る心境で再びスマホへ視線を落とした。

 画面にはやはり、社務所の方角を向きかけた俺の右足が映っている。

 いや、待て。おかしい。どうしてすぐに気がつかなかったのだろう。

 そう言えば俺は、今日はジーンズなんて履いてない。そもそもこれほどの猛暑の中、生地が厚くて蒸れるジーンズなんて履くわけがない。


 俺の今日の格好は重ね着したノースリーブとジャケットの下に、七分丈のクロップドパンツ。靴は確かに黒のスニーカーだが、こいつは先月、自分で稼いだバイト代で新調したもので、画面に映っているものとはメーカーもデザインも違う。

 だのに画面の中の靴に見覚えがあるのは、それがかつて俺の愛用していた登校靴だからだ。高校時代、学校への行き帰りによく履いていた安物の──


『そうかな。私は中学の頃からここに通ってるけど、たまに若い人も見かけるよ。まあ、確かに中学生とか高校生ではなさそうだけど……』


 今日の天気予報は真夏日だった。そうでなくとも盆地にある白石の夏は暑い。

 だというのに俺の全身は冷や水を浴びたようにぞおっと冷えて、震えさえ伴っていた。動悸と同期した呼吸が弾む。

 いつかどこかで聞いた覚えのある会話は、今も手の中で続いていた。


『えっ。そんな前から来てたの?』

『うん。最初にお参りに来たのは、確か中三に上がる前の春休みだったかな』

『へえ、すごいな。けどそれって他の神社じゃダメなわけ?』

『うん。私はここがよかったの』


 そこで俺はよせばいいのに、何を思ったかアプリが起動したままのスマホを持ち上げた。否、より正確にそのときの動作を表すなら、スマホのカメラを眼前の天満宮に向けてかざしてみた。たったいま画面に映り込んでいる情景は、スマホのひとつ目が見ているリアルタイムのものではなく、ひょっとすると過去に撮られた動画なのではないかという仮説が俺の無意識に働きかけたのだ。


 おかげで俺はまたしても凍りつく羽目になった。

 画面はやはり、カメラを向けた先に合わせて動く。つまり俺がいま目にしている映像は、まぎれもなくリアルタイムのものだということだ。なのに、どうして。


 どうしてカメラを向けた先に、こちらを見つめて笑う彼女がいるのだろう。


 平城ひらき歩叶。三年前に死んだはずの彼女は、白女はくじょの制服にトレンチコートを羽織った晩秋の装いで画面そこにいた。無人のはずのカメラの先を風が吹き抜け、びょうと吼え声を上げながら、辛うじてつなぎとめていた俺の正気をさらってゆく。

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