第4話 ひらけ新しい扉

青い空。青い海。白い砂浜。

そして人の手が入っていないと一目でわかる、原生林。

突然だがマリアは南の島に拉致されていた。

もっと正確に言うなら、謁見後に勇者に連れられて自室まで戻り、動きやすい服に着替えさせられ、宮廷魔導士の転移魔法でここまで強制連行されたのだ。

この場にいるのはマリアと勇者だけ。当然のように無人島だった。

夏の眩しい日差しに脳みそまで漂白されそうな気分になりつつ、マリアは自分の服装を見下ろす。

カーキ色の長袖のシャツとズボンに、ブーツ。そして日よけの帽子。まるで一般兵の訓練服のような味気ない格好は、もちろん彼女にとって生まれて初めてするものだ。

ちなみに傍らに立つ勇者はビキニに薄手のシャツにパレオという、完全な地球のリゾートスタイルをしている。勿論この服は元々この世界にあったものではなく。マリアに目を付けた召喚日当日に、この特訓を思いついて城のお針子に特注で頼んだものだ。

自分の知識にはないが、明らかに状況を楽しんでいることだけはひしひしと伝わってくるその華やかな恰好に、マリアは穏やかな作り笑いを浮かべつつ勇者へ話しかけた。


「……勇者様、その、わたくし詳しい話を聞いていないのですが……?」

「夏合宿よ。特訓といったら定番よね」

「さようでございますか……」


きっと異世界の定番なのだろう。自分は知ったこっちゃないが。

マリアは内心そう思ったが、あわてず騒がず静かに頷いた。

なにせ荷物は全て、勇者が持っている巨大な背嚢の中にある。城へ転移して戻るための魔法道具もだ。衣食住と生殺与奪の権限を握られている状態で反発するのは、あまりにも愚かな選択というものだろう。

せめて朝昼晩お腹いっぱい食べたいな、とマリアが呑気な希望を胸に抱いているのを知ってか知らずか、勇者は浜辺をマイペースにすたすたと歩き、話し始めた。


「ねえマリア、勇者様だなんて他人行儀な呼び方はよしてちょうだい?」

「ではリョウさま、いえ、リョウさん?」

「その呼び方だけはやめて」

「えっ」

「その呼び方だけは本当にやめて」


これまでになく真剣な顔でそう言われ、マリアはこくこくと首を縦に振った。

彼女には理解できないが、これは年頃の女性としてはかなり真っ当な部類の要求であるため仕方がない。


「で、ではリョウさまと」

「よし。それはさておき、一通り王家についての話は聞かせてもらっているわ。前国王は国内に並ぶ者のいない剣の達人で、王妃様は元々は宮廷魔導士をしていらっしゃったそうね」

「は、はい。恋愛結婚でしたが魔力の相性もたいへんよく、兄上も二人の長所を継いで頑強な肉体と豊富な魔力を持ち、将来を嘱望されておりました。まあ期待が重すぎてグレたのですが……」

「この際お兄さんのことはどうでもいいわ」

「あっはい」

「あなた、その環境でも、全く戦いの知識は教えられなかったのよね? 魔術も?」

「ええ、私は女ですもの。それにお母様は魔導士でしたが、早くに亡くなられましたから、特に手ほどきを受けるということもなく」

「なるほどね。それならやっぱりこの方法が一番かしら」


一人で結論を出しているリョウの様子に嫌な予感がし、マリアはうつむきがちだった視線を上げる。

なにも考えずに彼女の後に付いてきたマリアは、海岸から少し離れたヤシの木陰の、シダに囲まれた洞窟の前へとやってきていた。

入口付近の植物は踏み荒らされた跡があり、動物の住処だろうかとマリアは首を傾げる。

まさか食料を現地調達するなどとはさすがに言いだすまい、とは思うものの、マリアは元気に我が道を行く変わり種の勇者が何をしでかすのか、いまいち予測がつかない。

彼女はおそるおそる小首を傾げ、洞窟の入口に立って中を覗き込んでいるリョウに話しかけた。


「あのう……。なにをしておいでなのです?」

「ちょっと確認をね。ああ、いたわ」


たったそれだけの返事をし、リョウはおもむろにその繊手の上へ、拳銃を出現させた。

勇者というものはこの世界では、召喚された際にいくつかの能力を手に入れることができる。

身体能力や保有する魔力の向上、ステータスを見る力、そして勇者独自の魔法の発現。

彼女が手にした魔法は、武器の具現化という、それはそれは火力大正義な能力だった。

洞窟の奥にひょいと照準を定めたリョウは、気軽な動作で引き金を引く。

鳴り響く発砲音。そしてそれと同時に洞窟の奥から発された、猛獣の咆哮。

あっけにとられているマリアの肩を、リョウはぽんとフレンドリーに叩いた。


「この島、狂暴なモンスターの巣窟らしいの。さあ、ちゃんと逃げないと怪我するわよ?」


リョウがそう言った直後、洞窟から巨体が飛び出してきた。

見た目は猪に似ているが、全長3mはあろうかという身体は額や背中がメタリックな光沢を放つ甲羅で覆われており、そして言うまでもないが非常に興奮している。

目を血走らせてよだれを垂らし、マリアの目の前で凶悪な牙の生えた口を大きく開け、猪型のモンスターは再び大きく咆哮を上げた。

そして同時にマリアも叫んだ。


「オアッ!? あああああああ!?」


女王らしからぬビビリ顔で悲鳴をあげ、マリアは走った。

なにせ後ろから興奮しきった巨大なモンスターが追いかけてくるのだ。怠惰でどうしようもないマリアといえど、これは本気で逃げる。

その横を華奢なサンダルで平然と並走しながら、リョウはうふふと微笑んだ。


「ほら思った通り。ちゃんと動けるじゃない」

「えっ!? あ、ええ!?」


言われたとおり、マリアは爆走するモンスターを振り切りそうな勢いで走っていた。

一国の姫として生まれ尊い貴婦人として育てられ、インドア趣味で大人しい性格から、これまでの人生で本気で走るどころか小走りしたことすら稀だったマリアは、それはもう見事に爆走していたのだ。

環境と本人の特性が相まってこれまで一切活かされることのなかった肉体のポテンシャルは、過酷な環境に放り込まれることにより、生まれて初めて発揮されたのである。

マリアは自分自身の知らなかった側面に、腹の底から驚愕した。

いや、まさか。そんな。なにかの間違いでは?

そう疑問に思いながらも、本能的な危機感を煽られているせいで足は全く止まらない。

なんだかよくわからないが、とにかくこのまま逃げ切れればいいのだが。

そんなマリアの期待をあざ笑うかのごとく、進行方向に高い崖が現れた。

夢中で走り回っていたせいで気付かなかったが、いつのまにか周囲は切り立った岩場になっていたようで、マリアは袋小路に逃げ込んでしまっていたのだ。


「リョウさま! こ、ここからはどうすればいいのですか!?」

「決まっているでしょう。あのモンスターを倒すのよ」

「いやいやいや無理ですからね!?」

「じゃ、私は上から見てるから、頑張るのよ?」


無情にもそう言い残し、リョウはひょいと気軽な動作で崖を蹴り、壁走りをして上まで走り去ってしまった。

マリアはそれを呆然と見上げ、後ろから迫ってくる足音にはっとして振り返る。

全速力で突進してくる巨大なモンスターに、マリアはひぃと小さく悲鳴を上げた。

そんなの絶対に無理。と心が叫び声を上げ、やらなきゃ死ぬぞと本能が情け容赦のない現実を突きつける。

マリアはこれまで、全力で走ったことも、剣を持ったことも、誰かを叩いたことも、生き物を殺したこともない。

そんなことをする必要のある人生ではなかったし、しようとも思わない人生だった。

やりたくない。やれる気がまったくしない。

帰ってふわふわの部屋着に着替えておやつでも食べてごろごろしたい。

そんな切実な願いが叶うわけもなく、マリアを殺る気満々で眼前に迫りくるモンスターが止まってくれる気配は微塵もなかった。


マリアは冷や汗を流し、引きつりそうな呼吸をしながら、生存本能から拳を強く握りしめた。

やらなければやられるという状況が、彼女の怠惰で気弱な性根を強引に引きはがす。

その下から現れたのは、追い詰められた動物の、炎のような闘争心だ。

足場の悪い砂浜の上でマリアは大きく足をひらき、重心を下げた。

大きく息を吸い、少しだけ留め、目の前の敵を見つめたマリアは腕を大きく振りかぶる。

誰に教えられたわけでもないのに、彼女は腰をしっかりと捻り、体全体の力を正確に腕へと収束させ、鋭い呼気とともにあまりにも美しい動作で拳を振り抜いた。


一撃。

眉間へ叩きつけられた女王の拳が、敵の突進を真正面から受け止める。

ぶつかり合った力の反動でぶわりと浮き上がったモンスターの体が、ずしんと重い音を立てて浜辺に倒れ伏した。

力なく横たわる巨体を見下ろし、マリアはぜえぜえと肩で息をする。

自身の何倍も大きな生き物を叩きのめした己の拳を見つめ、モンスターを見つめ、そしてマリアは。


「ぐへぇ」


めちゃくちゃにしまらない呻きをひと声漏らし、そのままぱたんと砂浜に倒れた。

女王とモンスターのタイマンが終了し、立っているのは楽しそうなサイコ女王様勇者のみ。

頬に砂粒をつけてストレスのあまり失神しているマリアと、彼女が見込み通りに倒したモンスターを見下ろし、リョウは心底満足げに微笑んだのだった。

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