第25話 正しい答え

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 ジェイドは主人から手を絶ち切った。


 カイムが唐突な衝撃を受けて、彼の意識が霧散しそうになった――それをジェイドは全て本能で受け止め、主人が衰弱していくのに一触れすると、思考が働くその前に、すべき事が閃光となってをした。猟犬への意識分散という、主人の負担を減らす為、一切の接触もしないように、ジェイドは主人を拒絶して孤立したのだ。


 与えられた全能を用いて、最も正しい反応を返す。そこに思考はもう介在しておらず、ただの反射だった。


 ジェイドは猟犬共が発する生きた気配すら感じず、本当にただの人に近いものとなった。カイムが自らの力で、完全な閉殻を行っている時と、比べられないくらい息苦しい。これは、主人が与えた穏やかな隔たりとは全く別の行為だ。ジェイド自らの力だけで殻に籠もって、猟犬が本来そなえた官能を閉じ切るさまは、闇に独りだけで取り残されたよう。


 ジェイドは目眩めまいを感じて、顔を無意識に覆った。


 ――カイムは無事なのか。


 何故、こんな事に。どうすれば、主人の状態を知る事が出来るのだろう。何か遭ったのだとしたら。苦しんでいたら。


 もう、会えなくなってしまったら――。


 苦しくて、苦しくて、鼓動は激しく打ち続け、口腔が渇ききって、息が詰まる。


 ジェイドは強い力で腕を掴まれ、揺さぶられた。


「ジェイド、またなのか。いい加減しっかりしろ――馬鹿かお前、これが兵士か。全滅したいのかよ。どうせ、カイムがまたんだろうが。引きづられたら、それこそボンボンが死ぬぞ。カイムの野郎ふざけやがって、只の足手まといにしかならないじゃないか」


「ヘルレア……カイムを助けてくれ」


「目を覚ましやがれ!」


 ヘルレアはジェイドの頬を平手打ちした。軽く弾くような強さになるまで、かなり弱められた一発で、高い音が廊下に上がる。


 ジェイドはそれでようやく、自分がカイムを危険に曝しているのだと気付き、頭を軽く振って小さなヘルレアへ視線を落とそうと俯く間際――。


 猟犬はこうべに、許しを授ける一触れを感じた。それは、幼子を慰撫いぶするような手つきだというのに、斬首の衝撃を下した。


 失う恐怖が激しい怒りへと姿を変え、断ち切れない怯えが、表裏を転ずるように暴力的衝動を駆り立てた。主人が害される怒り。尊い者をけがされる怒り。差し伸べられた手を払われる怒り。


 兇猛きょうもうな精神すら許された。咎め罰する手は既に無く、抱き続けた呵責も忘れ、ただ身内の怒りをたぎらせる――。


 刹那、ジェイドの世界が変わった。視野が一気に広がり背後すら見えた。視線を動かさず、焦点を当てなくても、床に座るオリヴァンの気が抜けた口角の歪みさえ見えた。耳にする音は微細な物の動きを立体的に捉え、臭気は複雑に絡み合いながらも、発する場所を明確に伝える。膚は空気の流れを敏感に追い、全身が受容器のようだった。ジェイドを取り巻く世界は、雑多な情報の塊だった。

 

 ――何があろうとお側に。


 燃え立つ怒りに支配され、理性まで喰われて狂乱する――その一歩、手前。首が熱くうずいて猟犬は、自分を見つける。ジェイドは思わず首元を撫でようとも、そこには何も無い。けれども、熱い疼きは消える事無く、赤々と燃えるさまが見えるのではないかと、空想を掻き立てた。


 膨らんだ情報は取捨選択され、己が求める世界へと狭まり集束していった。


 ヘルレアが、ジェイドを見つめている。その目は観察する理性が窺える視線であるが、しかし同時に、直ぐにでも牙を立てようと襲い来る、獰猛な意思を潜めている。今のジェイドにはそれが解る。ヘルレアはジェイドへ何か異物を見透かしている。


「……正気でいられるのか」


「主人を護る為だけの許しを授かった。だが、それでも戒められている」


「落ち込むのと、殺気立ち始めるのと、切り替えが極端過ぎるだろ。お前は情緒不安定の病人かよ。猟犬って奴らも、また厄介だな」


「俺はカイムの元へ帰る……お側に居なければ」


 ジェイドをと、笑ってくれるヘルレアの顔が何故か薄く甦った。そうしてまた再び、無邪気に笑ってくれるものなのだろうか。それはもう、判らないとのだと、懐かしむほど遠い記憶のように、淡く思考に紛れて流れる。けれども、心は伴わなくて、それ以降は、ヘルレアを利用すれば、主人を救えるものかと考えが巡るばかりだった。


 ”猟犬“が……“捨身しゃしん供物くもつ”が何であるのか――。


 ヘルレアがジェイドと向き合うさまは、態度の強さと違って落ち着いたもので、普段の凍てついたような容貌だ。


「カイムは死んだわけではないんだろう? それとも、判らないのか」


「死んで……断ち切れたわけではない。それは、解る。ただ、意識そのものが乱れる形で飛んだ。酷く弱っていると感じたから、猟犬は手放すしかなかった――と、いうか反射で全て返したから、後からそうと解った。今、カイムがどのような状態におかれているのか、もう判らない」


「襲われたか……?」


「今すぐ帰りたい。どうすればいい」


 酷く焦燥を感じて、手段も判らずに動き出してしまいたくなる。だが、何よりも大切なのは、主人を確実に護るということ。失敗は一つとして赦されず、僅かな判断の誤りが主人の死に直結する。


 ヘルレアは大きくため息をついて、その顔はもう呆れているようだった。そうして同時に、その青い瞳が虚空に据えられ、何かを懸命に考えているようだった。


「……本当に主人といい、猟犬共といい、どうしようもないな。私のツケは高いって言っただろう、このクソ野郎共」


 ヘルレアが瓦礫と崩れた部屋へ戻ると、床に這いつくばって拳で軽く叩いた。耳を澄ませているようで、ジェイドは口を噤む。


「やはりあいつら、風穴を開けやがった。どれだけ地下に下りて行けばいいものか――でも、猟犬にはもうそれすら関係ないか。どうなるか判らない。事態を悪化させるかも。打ち抜いて、どこまでも落ちて行くか、狂犬」


「エルドが話していた。敵方は聖性傾向が強い遥か格上の存在を、血と狂気の穢れで呪殺しようとしているという。それが、穴なのだろう」


「どうなっても、私は知らない。術式が崩れる可能性がある。崩壊を早めるかもしれない」


 ヘルレアは立ち上がると、ジェイドへ選択を委ねる面持ちで眼を鋭く細めていた。


「カイムを救う為には、手段を選ばない……他の何が死に絶えても、俺はどうだっていい。ヘルレアは、本当に自分が選んだ手段に自信が無いのか?」


「……本音を言うが、私がこの世で自信が無いなどと言えるのは、喧嘩だけかもな。いい加減、私も馬鹿なんだろう。お前らに関わらなければよかったとか、それなりに言ったものだが、未だグズグズ引っ付いているんだものな……縁、か。くだらない、鬱陶しい縁もあるものだ。あの顔が弛みきった馬鹿猟犬主人でも、それなりに命は惜しんでやるよ。足手まといにはなるなよ、クソ猟犬共」


「ヘルレアが主人を救ってくれると言うなら、俺は幾らでも手足になり、死んでも構わない」


「私に逃げろと、言った言葉はどうした」


「今の俺に、過去の判断を問いただすな。ヘルレアに取って正しい答えは返せない……これ以上の話しは無意味だ」


「正直、今のお前は、いつものジェイドに感じられない。酷く醜い」


「それでいい、主を護る為ならば、たとえ、何になり果てようとも恐れは無い」


 ヘルレアは何も言わずに部屋の中央へ再び屈み込むと、切り刻まれた床に両手を添えた。


「ジェイド、オリヴァン・リードのお守りでもしてろ。そいつは邪魔だ」


 ヘルレアの細い両腕へ、強い力が込められるのをジェイドが察した瞬間、猟犬の視覚は激しい衝撃に交戦と錯覚した。ヘルレアを中心に、床へゆっくりとひび割れが走り、飛散る砕片も捉えられた。床材が大小の瓦礫に刻まれると、互いに押し合うように崩れる。ジェイドが無意味な処理と判断した時には、小さなヘルレアは既に大穴へと呑み込まれた後だった。


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