第26話 古の亡霊たち
26
大穴が天井に開いている。光はそこから漏れるばかりで、階下の天井付近は薄ぼんやりとしている。天井から瓦礫の積もる床へと、鈍い光が更に濁って、鋭利な礫片は僅かに輪郭しか表さない。
ジェイドは瓦礫の高低差を見誤る事無く、飛ぶように伝い歩くと、無機質な灰白の床へ下り立った。限界まで潜めた足音が、それでも広い空間へと微かに反響して神経に障る。立ち尽くして、階下の部屋を見回した。そこは部屋とは到底思えなかった。今まで居た部屋のようにズタズタに引き裂かれているわけではない。階下の部屋には何も無かった。ただの空っぽになった箱のように、壁があるばかりで、扉さえ設えられてはいなかった。
ジェイドは
ヘルレアが部屋を詳しく調べるように見回っている。これ程何も無い空間でも、足音一つ立てていなかった。その挙動は、今のジェイドですら捉えられない。その物理的存在感は限り無く、無に等しい。
オリヴァンが何故かストレッチを始めたが、存在感が強過ぎて、ジェイドには普段より何十倍にも不快で、まるで害虫のような嫌悪を誘う。
ヘルレアは壁に耳を当て拳で叩き、いつになく真剣に様子を窺っている。顔を顰めると壁から身体を離し、壁を拳で一発叩いた。
「こいつは、“蜂の巣”が元々備える擬装空間のように感じるものだが」
「客に対する保護目的の空間か?」
「護りなのは確かだろう。具体的にどういった用途で使うのかは判らない。外界術の痕跡すら見えないし、よく判らないモノが支配する場所なのかも」
「下へ行けるものなのか」
「行ける、が。建物の構造がおかしい。部屋が全面別の部屋と、隣り合わせになっている。箱をただ積み重ねて、並べていったような状態と言えばいいか。振動に乱れが無くて……これでは廊下も存在しないだろう。上の階では感じられなかったのに」
「単純に下りて行く意味は……」
「無意味な事はしないさ。こうするしか道は無いし、まあ、想定の範囲内だろう」
ヘルレアが指を組んでバキバキ鳴らすと、部屋の開けた場所へ向かって行く。何気ない動作で身体を折り曲げた。ジェイドは、そう思った――。
しかし、ヘルレアは、ジェイドの視界に残滓の尾を引いて、どこかへ飛び退っていた。
「瓦礫から離れろ!」
ヘルレアが言うのが早いか、ジェイドも異変を感じて何も無い背後へと、大きく飛んだ。眼の前で瓦礫が、弾丸地味た速さで逆再生と収束をし、大穴へ吸い込まれて、完璧なジグソーパズルのようにはまり込んだ。完全な暗闇の中、ジェイドは天井が傷跡一つなく修復されたのを、一拍見つめてしまう。
ヘルレアがオリヴァンを抱えて、かなりの距離を退避していた。子供が大の男を小脇に抱えるさまは、見るものへ不安定さを与え、トリックアートのようにさえ感じさせる。ふと、ジェイド自身も同じような状況に立たされたのだと思い出したが、直ぐに画素として細切れになると、分解されて散っていった。
もう、何を考えていたのか判らなくなった。
「うわ! 真っ暗だ。これ、ヤバいかもね。俺っちなんも見えん。後はバケモノ君達、よろしくネ」
「とりあえず黙っとけ、オリヴァン・リード。触りたくないが、運んではやるから、一言も喋るな」
「どんどん、扱いが酷くなるね。俺っち、優しくして欲しいタイプだから、寂しいな……その点、マゾのムー君なら喜んでくれると思うよ。よかったね~、相性バッチしだね! ヘルレア王が、ムー君のお嫁さんになったら、シバキ倒してやってね」
「うるさい……」ごりっと、凄まじい噛み締める音。青い眼が暗闇で鬼火のようだ。
「それにさ、今でも絶対ムー君には、ヘルレア王が幼い女のコっぽく見えてるだろうから、これから直ぐに張り倒してやっても喜ぶと思うよ。早速、容赦なく仕込んでやったら? やったね、ムー君! あれ? でもやっぱり、さすがの超絶紳士ムー君でも、仕込むのは自分が先にしたいかな、だってタ……」
「だから黙れって、言ってるだろが! 変なこと、想像させるんじゃない。これ以上くだらん、下ネタを喚き散らすな。顎を毟り取るぞ」
「あ、がががが」オリヴァンは顎をがっちり掴まれ、思いっきり口を開かされている。
ジェイドは迂闊に動く事も出来ず、部屋の様子へ全神経を集中させていた。部屋には何も無く、オリヴァンの図々しい気配が鬱陶しい。
部屋は何もない立方体。これ程開けた空間だというのに、空調設備が機能しているように、上階の部屋と何ら変わりのない気温と湿度を保っている。カビ臭さも感じず、ただ、大きく反響する音だけが、何も無い空洞である事を再確認させる。
オリヴァンは未だヘルレアに制裁を受けて、暴れている。言葉にならない乱れた音が、部屋へと反響し続けている。ただの無意味な音に包まれて、聴覚を更に閉じたくなり、そして拾った。
『寒い――、』
ジェイドが竦むと、ヘルレアはオリヴァンを構っていた手を既に離していた。男のような低い声音。ぽつりと呟かれて、耳に絡み付いて消えない。
ヘルレアはオリヴァンの口を塞いで、周囲の音に気を配っているのが解る。
『どうして、』
『もう、ずっと』
また、低い声。でも、声質が違う。別人の声だ。
けれども、部屋には誰も居なくて、機械を通した声でもない。確実に部屋で囁かれている声なのに、実態がない。
『早くしないと』
『失敗だ』
『術が通ったはずなのに』
『心配いらない』
『……出して』
『出して』
『出して、出せ、出せ出せだせだせ』
叩き付ける一撃が、部屋を満たして震わせ、縋る声を掻き消した。ヘルレアが足で床を踏み締めていた。
「お前らも黙れ、死に損ないの亡霊共が」
「罠だったのか……」
「長居し過ぎた。あまり、深刻に考えるな。ジェイド、このゴミの口を塞いで拘束していろ」
ヘルレアは全て解っていて、この道を選んだのだと、ジェイドははっきりと確信した。王の選択はかなり危険な道だった。そしてまた同時に、ジェイドとオリヴァンを守り切れる自信があるのだと、言葉が無くとも解った。
ジェイドはヘルレアの元へ行くと、オリヴァンが床へ確実に立てるよう介助する。暗闇の中で、オリヴァンは身体の均衡が保ち辛いようで、ジェイドは彼の身体をそのまま支えた。
ヘルレアが、ジェイド達からかなり離れた場所へ行き、立ち止まると、腕を床へ振りかぶる。ヘルレアであれば、明らかに不必要な予備動作であり、拳が叩き付けられると、耳を
床が砕け崩れて、光が一気に立ち上がった。視界が明暗に潰れかけたが、膨大な処理能力で物体の輪郭を手放す事はなかった。しかし、それも一瞬の事で、階下の強い光は、一気に弱まり薄暗くなった。
今回ヘルレアは、瓦礫と共に階下へ落ちて行く事はなく、ジェイド等と同じ階層で下を覗き込んでいる。
部屋の床を半分近く崩した状態は、既に穴と表現するには不適切で、床が抜けて崩落したと言った方がいい。そして、ジェイドの視界に飛び込んで来た階下の部屋は、更に瓦礫を積んで破綻した、上階の複製だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます