第7話 幸せの形が変わるだけ
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カイムとヘルレアはジゼルの元へ戻って来ていた。ジゼルは相変わらずぐっすりと眠っており、異常はなかった。ルークのチョコレート騒動で、カイムとヘルレアはジゼルを放り出して部屋を空けてしまったのだが、ヘルレアは危険はないと判断していたようだ。ヘルレアが館内に居る以上は、ジゼルと離れる行為には入らないような、そんな態度を王が取っている事にカイムは気が付いた。
カイムは純黒の礼装姿のまま、少しヘルレアから距離を取って座っている。再び剣を杖のように床へ突き、両手を乗せて体重を掛ける楽な姿勢で、やることがないのでぼんやりしている。
と、いうかヘルレアをこそこそ観察している。恐れが先に立たなくなって来ただけ、見ようとしなくても、つい、無意識にヘルレアへ視線が向かってしまう。その容貌と雰囲気が無視する事を許さない。見ているだけならこれ程甘美な芸術品もあるまい。延々と鑑賞していても、刻一刻と変化するその美は、この世で一対だけという、生命が宿った究極たる神の美術品だ。
そうして、似たりよったりな思考を延々と繰り返しては、ヘルレアの近くで好き放題、不躾に観察をし続けている。
ヘルレアの番になり夫となれば、更にその美の奥底を堪能できるだろう。表面的な美麗さだけでは無く、他人へは見せない秘された汎ゆる面を愛でられる。むしろ、それは番である、夫のものだ。
思考へも私欲が僅かながら侵食し始めた事を、カイムはしっかりと自覚している。欲と言うのは厄介で、単純にヘルレアへ性欲を抱いて、悶々としているならまだいい。理性や思考という自らを律するものへまで、欲に蝕まれてしまうようでは、誤った判断を来たしかねない。かねないのだが、これがカイム自身でもどうにもならないのだから、情けないものだった。このまま接触を続ければ、独占欲や嫉妬心すら抱き始めそうで、自らの感情に振り回されるという、どうしようもない私欲を募らせてしまいそうだ。
カイムは眉間を揉んで、漏れそうなため息を呑み込む。僅かな挙動でもヘルレアへ心情を溢してしまいそうで、下手な表現も出来ない。
――これは、よく考えると浮気も出来まい。
世界蛇の夫婦というものを現実に見て、あるいは記録として見て、詳しく知っているわけではないから、どういった距離感で夫婦生活を営むのかは知らない。だが、僅かな記述から、世界蛇夫婦がかなり濃密な関係を結んでいるような雰囲気を、カイムは個人的に感じた。
それを人間である番の夫や妻に、浮気心が芽生えて他人へ手を出したらどうなるものか。番はさすがに殺される事はないだろうが、その相手が危ういというものだ。
カイムがヘルレアの夫になったとして、そして更に、彼が浮気したとする、と。カイムは何故かヘルレアに嫉妬される自分、というものが想像出来なかった。
――というより、十三、四にしかならない子の夫になる、そんな想像をするのさえ難しいのだから、無理もないだろう。
教育でも曲げられない心情とは厄介なものだ。
「なあ、カイム。お前はああやって猟犬共を躾して支配しているのか」
「そうですよ、でも、先程の行為はかなり強引な力で押さえ付けていますから、普段から行うような躾とは大分違いますね。どちらかというと、あれは躾とはまた質が違うかもしれません。そもそも能動的な躾というのは、成獣の猟犬になるとあまり積極的にはしません、僕は」
「なら、お前がする成獣の猟犬への躾ってなんだ」
「それは……誤りを犯した猟犬へは恒例として罰を与えます。そして、また僕の意思関係なく
「なるほどな、それでか」
「ジェイドへの折檻に驚きましたか」
「そこは気付いていたんだな」
「それは勿論、主ですから。ジェイドが折檻を受けるなど、さすがに僕でも驚きましたが、猟犬の動向へ一々反応はしません。たとえ、身近なジェイドとはいえど、一猟犬であることには変わりありませんから。それがよっぽどでない限り、静観する姿勢を、僕は変わらず取り続けるつもりです」
「特別扱いはしないんだな」
「僕に特別な猟犬などいません」
ヘルレアがカイムを見詰める。その顔に表情はなかったが、疑問の声が透けて見えた。
カイムは思わず微笑む。
「僕が猟犬という獣を、誰か特別に愛するという事は、同時に他の猟犬へも順位を着けるということ。競わせ争いを招くなど、真に愚かしい。ヘルレアには僕が影を特別扱いしているように、見受けられてしまうやもしれませんが、たとえ可愛がっていても、僕の私的な面へ真に踏み込む事を許した猟犬はいません」
「だが、それでも納得いかないな。やはりお前と、ジェイドやチェスカルを見ていると、それはそれは大層仲がよろしく見えるぞ」
カイムは予想通りの問い掛けに頷く。
「それは猟犬とヘルレアでは見えているものが、また違うのです。傍から見た主人と猟犬の姿では、推し量れない関係性がそこにはあります」
「赤い糸でもあるのか」
ヘルレアが鼻で
「人には心理面での対人距離があるように、主人と猟犬にも見えない壁があります。これを感じられるのは、主人と猟犬だけ。それは部外者である人間が、主人と猟犬の親しさについて抱く距離感と、実際はかなり剥離があるものなのです。極端な話、最も愛されているように見える猟犬が、誰よりも蔑ろにされているという可能性を大いに含むという、異常な事柄も有り得ます」
「面倒臭いな」
ヘルレアがため息をついている。それでもカイムの話しを聞く姿勢は崩さず、また興味もありそうで、その青い瞳は彼を捉えたままだった。
続きを促されている感覚に、カイムは頷くと、話せる範囲の事柄を一瞬で整理した。
「……更に話しは面倒臭くなりますよ。人間同士では心理面の距離など、他人は憶測で計るしかありませんが、猟犬同士ではその距離感を、明確に感じられるようです。そしてそれを猟犬自身が、主人に関する距離として計る時、何を表しているかというと、厳格な順位付けとして感じられるようなのです」
「おい、特別は居ないと言っただろう」
「僕は猟犬へ特別に順位を付けません。けれども猟犬自身は、猟犬にしか分からない基準で主への近さを計り、必ず順位を付けます。また、主人である僕にも、判からない基準で順位が決まっているようなところも大いにあって、はっきり言って順位付けは、よく判からない側面が強い。これは僕でも動かしようの無い、猟犬の本能ですからどうにもなりません。順位を付けるなと命令するのも無理です」
「主人でも判からないものがあるのか」
カイムは曖昧に微笑む。
「そしてお察しの通り、ジェイドとチェスカルがその筆頭として、僕の側近くに仕えています。ですが、先程から僕達が言う特別という問題はそこにはありません。猟犬同士で決める序列ではなく、僕が猟犬へ踏み込む事を許す、その距離の近さが問題なのです」
ヘルレアが頷いてから小さく唸る。
「友人、恋人、家族とかいう括りのことか」
「それはとても正確な表現です。僕は猟犬を友人という部類で、時には応対します。それがジェイドだろうと遠く離れた分館に勤める猟犬であろうと、変わりありません。この表現に特別という含みが無い事はお解かりでしょう」
「つまり、お前自身は猟犬へ順位を付けないが、猟犬同士となると自ら順位を付けたがる、とかいう面倒臭い方式で、成り立っているということか。もう、ここまで来ると一括にした方が早いだろうに、どうせジェイドが一番なんだろうから、いっその事あいつへ一番と貼っといたらどうだ。そうして諦めて、カイムが順位付けを始めた宣言でもしてやれば、大分楽だろう」
「……一番と貼ってあるように見える――それは冗談では無くて、猟犬同士には実際そう見えているようですよ」
ヘルレアは固まってしまった。肩を震わせると、声高く大笑いを始めてしまう。
「それは、酷すぎないか。冗談で言ったんだぞ」
「猟犬同士では、ジェイドが最も主人の寵愛を受け重んじられている、という認識があります。あの仔は立場故に仕方がないのですが、それは僕の望むところではありません。更に猟犬以外からも、そう見られてしまいますが、はっきり言うと、僕は特別に猟犬の誰かを固執して愛しません。皆等しく、僕の愛しい猟犬です」
「……なるほどな、ジェイドがああ言った意味は、これもあるのか」
「え?」
「区別したって、選んだっていいだろう……皆同じなら、何も持たないのと同じだ」
「……ヘルレア。それは、駄目です。許されません。僕は主人ですから」
「お前は愚かではないと、私は思った。でも、自分が見えないのなら、見ようとしないのなら、それは紛れもなく愚か者だ」
「それでいいのです。愚かで、歪で、頑なでも」
ヘルレアは何も言わなかった。いつもと変わらない
部屋は
カイムは何も言えなかった。ヘルレアの優しさを感じて、自分の抱いている気持ちが混沌と渦巻いていき、ただ辛かった。
気付くとヘルレアはいつの間にかカイムを見据えていた。青く澄んだ瞳にカイム自身すら映り見えそうで、彼は眼が離せなくなった。
そうしているうちに、何の切欠も無く二人は見詰め合っていたのだ。
なんとなく雰囲気はいい、でも。
――このほぼ二人っ切りの気まずさよ。
前と別の意味で気まずくなっていた。
カイム自ら口付けをヘルレアへ申し出て、行為に及ぼうとする最中まで順調に行っていた。だが、猟犬から思考へ直接助けを求められたのに驚いて、ヘルレアを押し倒し、覆い被さってしまったのだ。
小さくて柔らかかった。あれだけ強靭な肉体を持ちながら、何故かその身体は筋肉質な感触が一切しない、女性のような肉付きの良さはないが、それでも柔らかくて、上にのし掛かれば以外とむちむちしている。ずっと触れていたいような感触に、カイムはつい心地良さを反芻していた。
「おい、礼装で格好付けて座っているのはいいが、頭の中をなんとかしろ。お前は思春期の男子か」
「なんのことやら」
カイムはへらへら笑う。
「締まりのない顔しやがって」
さすがにもう、どうやって手を出して良いのか分からなかった。キスをしようとして、押し倒し、という流れはいいのだが、いかんせんルークを無視するわけにはいかなかった。それ以上の行為はうち止めになってしまったのだ。
どうも、また少し悶々とし始めている事に気付いていた。ヘルレアへ近付き、接触し過ぎたのかもしれない。気分は良くないが、これはいい傾向なのかもしれない。ヘルレアへ手が出し易くなるというものだ。
カイムがどう異質な存在でも、普通の成人男である事には変わりなく、しかも、そういう趣味が無いので子供に手を出すのは辛い。背中を押してくれるような、欲望があれば、少しくらいの拒否感なら無視出来るようになるかもしれない。
カイムは何度目か――というより、もう数え切れない程の数で、ヘルレアを盗み見る。容貌はやはり極上だ。少女のような、少年のような、中性的な美しい顔。でも、正直カイムには女の子に見えてしまう。それはヨルムンガンドの能力だという事が分かる。自分の都合の良いように認知してしまうのだ。せめて女の子だと感じられるのは嬉しい。しかし身体は柔らかいものの肉付きが悪くて、胸もなければ、くびれもなく張り詰めた尻もない。
抱く悦びはあまりなさそうだった。
ヘルレアの性的興奮能の補助がなければ……下品過ぎる。これ以上は考えまい。
「先程から、人の事をジロジロ見て鬱陶しい奴だな」
「え? どうなさいました」
ヘルレアが椅子から立ち上がるとカイムの元へ来て、座る彼を見下ろす。
「何をまたムラムラしていやがる」
「あ、ええ? その、そんな事は……」
カイムは礼装の襟首を掴まれて、思いっ切り立ち上がらせられる。立襟なので余計に喉が詰まって苦しい。慌てていると無理矢理方向転換させられて、押し倒された。
そこはジゼルが眠っているベッドの、隣りにある空きベッドだった。
「ちょっと待って下さいなんですか!」
ヘルレアがカイムの身体に跨って来る。
「さっき、気持ちよかったんだろ、もっと気持ち良くしてやるよ。存分に発散させてやる」
「待って下さい、それは……」
カイムはもうパニック状態に陥っていた。身体が、かっと、熱くなって心臓が暴れ回っている。
まだこれといって何もされていないのに、カイムの視界には満天の星空が広がっていた。この世界にはカイムとヘルレアしか存在しないようなのに、何十万もの命の息吹を感じた。
――美しい。
覆い被さるヘルレアの呼吸が、珍しく少し乱れているような。
カイムは、ふっと、気付く。
――ヘルレアは興奮しているのか。
カイムの上衣のボタンに手を掛け始めた。
――これは不味いぞ……いや、不味いのか?
ヘルレアは躊躇なくボタンを外して行き、上衣のベルトにまで手を掛けた。
……ヘルレアはカイムの礼装姿にときめいていた。
カイムはジェイドの言葉を思い出し瞬いた。カイムの礼装でヘルレアは興奮を煽り立てられているのか。はだけた上衣からもうノーカラーシャツが覗いている。
――ヘルレアは制服フェティシズムなのか。
シャツのボタンも外されていき、細やかな障壁を剥ぎ取られて行く。
そっと肌着の上から胸を撫でられる。一瞬で全身に鳥肌が立つ。そのまま手が下りて行き、ズボンのベルトへ手を掛ける。
これでいいはずなのに、カイムは混乱した。本当にこのまま交わるのだろうか。こうして番になって、ヘルレアの夫になるというのだろうか。
何故か涙をためた瞳が蘇る。
……私は、どうすればよかったんだろう。
カイムはすうっと気持ちが冷めていった。
ヘルレアの動きが止まると、ベルトへ掛けていた手も離した。
「襲われる感覚だけで随分発散出来たみたいだな。興奮しただろう」
「え、そうですね……そう、だと思います」
ヘルレアはカイムへ背を向けてしまう。
カイムの衣服は随分乱れていて、急いで整える。
「すみません、僕は仕事があるのでもう行きます」
ヘルレアがカイムへ顔を向ける事無く、手をひらひらと振る。
廊下出るとカイムは自分の心が、微かに底冷えしている事に気が付いた。何なのか良く分からなかった。ただ、何の前触れも無く、ヘルレアを傷付けた時のエマが思い出された瞬間、自身の中で持て余していた熱が力を失い、一瞬で周りが見えるようになった。
――何故だろう。
ヘルレアの側に居る意義を反芻している自分に気が付いた。
でも、そんな事を今更しなくても分かっているはずだ。それは勿論ヘルレアの番になる為に、交わらなければいけないから、王の側にいて、触れ合っていたのだ。
全ては大義の為に。人々を救う為に。
そう――。
――僕は、カイム・ノヴェクだから。
――七才でノヴェクの当主を約束された。
――猟犬の主人。
だから、幸せの形が変わるだけ――。
それだけ、
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