第6話 主

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 カイムは純黒の礼装姿で、もうがむしゃらに訓練場へ向けて走っていた。何故か隣にヘルレアも居て一緒に走っている。


「何があったんだよ」


「あの仔が……ルークが何か悪い物を食べてしまったんですよ」


「悪い物?」


「猟犬は本来、コーヒーやチョコレート、ココア等が飲食出来ないのです。訓練をして無理に食べられるようにはするのですが、偶に一切受け付けない仔がいます。それがルークなのです」


「分かっているのになんで食べたんだ?」


「聞いてみます」



 ――誰かルークが異物を食べた理由を答えなさい。



 ヴィーが再び反応する。彼女は若い猟犬だ。なので実のところヴィーは、一度もカイムと遠距離会話をした事が無い。だというのに、この猟犬は危急時に何の苦もなく主人へ正確に事態を伝えたのだ。



【――カイム様! ルークったら仲の悪い猟犬と喧嘩して、賭事をして敗けたから、罰でチョコレート食べちゃった、え? ……あ、カイム様、ごめんなさい。赦してください】



 カイムは無表情のままで頭が、と、沸騰していた。


 ヘルレアがカイムを乱暴に叩く。


「……お前怒り過ぎだ、判かっているのか?」


 ヘルレアにカイムの怒りが伝わった事に今更驚き、はっと、してヴィーを宥める。



 ――直ぐに行くから待っていなさい。



 カイムはエレベーターホールへ辿り着くと、ボタンを押して乗り込む。カイム専用のエレベーターなので待つ事なく、地下へ向かって降りていく。


「大変な事になった」


「酔うって、そんなに不味いのか」


「いいえ、人間がお酒に酔うのに似ている部分もあるので、完全に害があるというわけでもないのです。しかし、ルークはヘルレアもご存知の通り人狼――天与の器フォルトゥナなので、あの仔の場合は獣身転化を起こして錯乱してしまうのです」


「ルーク、あいつ馬鹿だろう……そういえば、馬鹿だったな」


「お察しの通り」


 ヘルレアが頭を抱える。


 エレベーターが地下に付くと、二人は猛然と走って、以前ヘルレアとルークが手合わせをした練習場へ向かう。カイムは同階層の廊下を進めば進む程、その顔を苦く崩さずにはおれなかった。ルークの頭の中は真っ白だったのだ。


 廊下を走り続けると、荒れ狂う獣の唸りが押し寄せて来て、カイムとヘルレアは一息に訓練場の扉へと飛び込んだ。


 そこでは数頭の猟犬が天犬を抑えようと必死に動いている。体長四メートルにもなる純金の巨大な犬に、ヒトである猟犬は攻撃が出来ない以上、まったく太刀打ち出来ていない。


 猟犬達がカイムが来た事に気付いて、ルークから距離を取る。


「ルーク、鎮まれ!」


 カイムの声に天犬は止まった。だが、身体が束縛を断ち切ろうとする力に震えて、低く唸り続けていた。


「これでどうする?」


「ジェイドとチェスカルを待ちます……それから」


 カイムは意識の深淵から、何十万もの絡み合う鎖を喚起する――これを、妄想に近い思考で手繰る――その鎖は、縦横無尽にがっちりと噛み合い、鉄塊としていつも主人の心の奥底に居座っていたものだ。そうしてカイムは意識の上で、ルークの“真名”を負った鎖を、鉄塊の中から迷い無く探り当てた。一連の鎖を選び取ると、限界まで短く引き寄せる。


 主人は猟犬を強制的に拘束した。


 更に首輪を強く締め上げ、意思を弱める。


 ヘルレアがカイムを見て少し顔を引き攣らせる。不快感や嫌悪というより、それは純粋な驚きに満ちていた。


「やっぱり、お前普通の人間じゃないな。気配がおかしいわ」


 カイムがうっすらと笑う。


「お前ら大丈夫か!」


 ジェイドとチェスカルが出入口に立っている。


 カイムはひとまず息をつくと、二頭が走り寄って来た。


「お前達、僕の声があの仔へ聞こえていないようだったら、天犬をくじけるか?」


「やるしかないだろ。この阿呆でも、さすがに主人の手ずからでは憐れだ」


「僕の猟犬共、外へ出て扉を閉めて待っていなさい」


 カイムは、ジェイドとチェスカルを訓練場に残して、他の猟犬へ退出の号令を掛ける。猟犬共が直ぐにカイムの命を受けて、外へ出て扉を閉めた。そして、カイムは側に居る三頭以外の猟犬を、主人の内から追い出し、意識の内で完全に孤立させた。


「カイム、他の猟犬を追い出すなんてどういう事だ」ヘルレアがカイムに付いて来る。


「猟犬の心には良くないので、見せたくはないのです。それに、本当ならヘルレアにもお見せしたくない……あなたならば心配はないでしょうが、このまま共に来るのならば、僕の後ろから離れないで下さい」


 天犬は束縛を千切ろうと、歯向かい続けている。カイムは側に来ると、ルークの強い毛を優しく撫で、指を何度か鳴らした。


「どうかな、僕の言うことを聞いてくれるかい?」


 天犬は変わらず暴れ狂う寸前だった。牙を剥き出し鼻筋に皺を寄せ、濁った唸り声を上げる。主人の声も聞こえていない。


 カイムはため息をついて、ジェイドとチェスカルを見る。


「無理はするな。駄目だと思ったら、もう僕に任せなさい。ヘルレア、安全なところまで下がりましょう」


 カイムはヘルレアを引き連れて天犬から距離を取る。それを見計らって、ジェイドとチェスカルが天犬へ近付いて行くと、一定の間隔を保ちながら周りを歩き始めた。二人はホルスターから銃を抜くと、弾丸を入れ替え始める。


 銃を構えたジェイドが、チェスカルへ向かって頷く。瞬間、カイムの意識へジェイドの号令が立ち入って来た。



【――放て! カイム】



 カイムがルークを戒める鎖から手を放すと、天犬が跳び、弾けるように訓練場に躍った。ジェイドとチェスカルは同時に空砲を打ち出しながら、天犬へ間合いを詰めて行く。猟犬の二人は、ルークに体当たりされるぎりぎりの距離まで、近寄る事を止めなかった。


「無茶だぞ、何を考えている」


「これで、いいのです。刷り込みが上手く働けば、意識を回復出来ます」


「なるほど、こういう形で訓練されているのか」


 ジェイドとチェスカルが、それぞれ弾を装填し直して、危うい距離を保ちながら、それでも根気強く二周目、三周目とルークの周囲を周り続けた。しかし、天犬は一向に猛り続ける。


 カイムは、ジェイドが困難だと一瞬思考したと同時に、退避の命令を直ぐ二頭へ送った。そして、間髪入れずにルークの鎖を強く引く。


「ジェイド、チェスカル。外へ出ていなさい、もう駄目だ。これ以上、危険を冒させるわけにはいかない」


 チェスカルが僅かに眉を潜めている。


「カイム様、ガスを使わせて下さい。なんとか抑えられるかもしれません」


「それは許可出来ない。ぎょするという事が、どういうことなのか、しっかり考えなさい」


 チェスカルは、して、面を伏せると、カイムへ詫びるように目を閉じた。


「差し出がましいことを、失礼しました」


 ジェイドとチェスカルは訓練場から直ぐに立ち去った。ヘルレアは、もう何も言わずただ興味深そうにカイムを見ている。


 カイムは息をつくと、ルークの側へ行き、その巨体を観察するようにじっくりと見詰めた。


「仕方がないね……」


 カイムは先程とは違い、ルークの首が引き攣れるくらい強く力を込め直して御す。天犬は口角に泡を溜めてそれでもなお、自らの爆発的な攻撃性を止められないようだった。主人は天犬の躯を手のひらで強く押さえ付けた。


 それは猟犬を頭から押さえ付け屈服させる――その意思。強い力によって問答無用で猟犬の自由意思を捻じ伏せる。


「僕の可愛いルーク・トラス。言うことが聞けないのなら、君の処遇について考えなくてはいけない。どうかな、こんな失態を犯しておいて、僕が本当に君を必要だと思うかい? 笑わせないでくれ。優秀な猟犬は幾らでもいるんだよ。仲の悪い猟犬と争いを起こして、禁じられた異物を口にするなんて。安い矜持きょうじが君の首を絞めたね」


 カイムが言葉を重ねる度に、天犬の激しい抵抗が弱まって、唸り声が細く小さくなる。


「さて、どうしたものかな、ここで死を命じてもいいよ。僕は今の君では愛そうとは思えない。前後不覚に暴れ回って、猛り狂う獣のなんと醜いことか。僕は君が嫌いだよ。愚か者など、僕の猟犬でもなんでもない。さあ、自分で死ぬか? それとも僕が直々に手を下してやろうか。首輪でくびり殺して、頭を落としてやる――お前はもう


 天犬が束縛を切ろうとする激しい身震いから、小刻みに震えような、怯えを含んだ挙動に変わる。金の砂粒状をした光が天犬の躰から立ち上り、徐々に天犬の姿が影のようになると、更に勢いを況して砂になって解けていく。全てが解け切った時、黒い正装姿をした青年が、カイムに頭を押さえ付けられて、屈服するようにうずくまっていた。ルークは身動き一つせず小さくなって、カイムの手に押し潰されているかのように俯いている。


「楽にしなさい」


 ルークは呼吸を止めていたのか、吐き出すように激しく深呼吸をしている。ルークは無言で泣いている。


「どうかな、今度こそ僕の言うことが聞けるかな」


「……はい、聞けます。お赦し下さい――お赦し下さいカイム様。棄てないで下さい。どうかお役に立ちますから。ずっと、お側に居させて下さい……嫌いにならないで。いらないなんて言わないで」


 ルークが幼い仔犬のように嗚咽を漏らして泣き始めると、カイムは、ほっと、息をつく。するとカイムはルークの頭に乗せている手を離すと、そっとルークの大きな身体を両腕に包む。


「よしよし、良い仔だね、大丈夫だよ。僕はルークをとても愛しているから。絶対に棄てたりはしない。死んで欲しいとも思わない。これからもずっと僕の側にいて、守ってくれるかい? 僕の愛しいルーク」


 ルークが一生懸命頷いて何か言おうとしているが、一つもまともに言葉にならなくて、カイムにしがみついている。


 その姿は本当に仔犬――子供だった。親へ犯した過ちを告白して、安堵と後悔と罪の意識に涙する幼い子供。


 カイムとルークはタイトな黒い礼装姿で、それも大の男――双方百八十センチを超えるしっかりした体躯の――そんな二人が抱き合っていると異様な迫力があるもので。だが、当人達は我観せずといった体で、カイムは優しくルークの背中を叩いて、あやし続ける。


 ルークが少し落ち着いて来ると、カイムは頭を撫でてやる。先程の尊厳を踏み躙るような強引な力はなく、ただ幼子を慈しむように撫でてやり、ハンカチを出すと涙を拭ってやる。


「さあ、もう泣き止みなさい。今は部屋へ帰って休むと良い。この件については後日話しを聞くから、全てはその時に判断しよう。チェスカルを呼ぶから」


 扉が開いてチェスカルだけが現れる。カイムとルークの側へ来ると、部下の腕を取って立ち上がらせる。チェスカルは無言だった。カイムが叱らないようにと命じていたからだ。二人は訓練場を去って行った。


 ヘルレアが立ち上がったカイムを見詰める。


「ルークの、あれは喋り方から何まで、子供じゃないか。お前も親かよ」


 カイムはくすぐったくて笑う。


「ええ、そうです。子供――仔犬ですよ。僕には猟犬が皆仔犬に見えます。あの仔達も僕を親のように思って甘えてきますよ。本来、僕と猟犬はどのような関係性も結べます。極端に言えば、虐待する為だけの猟犬だったり、性的搾取する為だけの猟犬だったり。けれど、歪んだ道へ進まなければ、おそらく今の親子のような関係が穏やかに続くものだと思います」


「……ジェイドもお前の可愛い仔犬なのか?」


「その質問が来ると思いました。勿論、ジェイドも僕の可愛い仔犬です……秘密ですよ」


「おっさん同士でとんでもない世界だな。まだ同性愛の方が正常で普通だろう」


「そこはヘテロセクシャリティの僕としては少し辛い、繊細な話題に繋がるのです。傍から見たら、僕と同性の猟犬が持つ距離感が、近過ぎて勘違いされかねない。僕にはそういう傾向はないと自認していますから、勘違いされるのは結構辛いものです」


「人間はそうなのかもな、あまり私には想像出来ないが」


「ヘルレアに性はありませんものね」


「どっちも、というか相手が人間なら色々な性が受け入れられるからな」


「そうですね、人間もヘルレア程自由には行きませんが、過去の主人達には、その数だけ性的嗜好がありました。勿論同性愛の者、或いは嗜虐趣味で異同性どちらかを好んで、猟犬を虐待する歪んだ愛欲を満たすも者も多くいましたね」


「主人と猟犬とかいう、複雑な関係ならそうなっても仕方がなさそうだな」


「……主人と猟犬の関係というのはとても難しいものです。一度、猟犬を性的なはけ口にしてしまえば切りがありませんし、破綻する切っ掛けというのは、やはり愛欲も多いのです。だから、主人と猟犬の関係は細心の注意を払わねば。主人と猟犬、元々近い者が近付き過ぎると、過ちも起き易いのですから」


「お前でも同性愛に走る?」


「これは少し苦い例え話ですが――僕が特別にジェイドだけを寵愛し、深い関係を持ってしまったとすると、何が起こるでしょう」


「うわ、想像すると絵面がエグいな。猟犬も嫉妬するのか」


「猟犬も悋気りんきを起こします、特に雄の猟犬同士がいけません。あの仔達は一見協調性があるようでいて、互いへ恐るべき闘争心を持ちます。これは戦う上での本能と肉薄するものですから、奪い去り消す事は出来ません、互いに牽制し合い、どれだけ主人の寵愛を受けられるか戦っているのです。それも、僕に近い猟犬程、下手をすればそれが顕著になって、表れてしまいます。主人が上手く立ち回らねば、猟犬同士でいずれ殺し合いにまで発展する」


「お前達は群れた野獣かよ」


 カイムは否定出来ず苦笑いする。


「……そうですね、所詮は獣なのです。僕が獣共の躾をし、首輪と鎖で戒めて飼い慣らしているのですよ。下手な飼い主なら、猟犬共は簡単に喰い殺し合います」


「なるほどな、お人形さんでも、優男の坊っちゃんでもないはずか。それにしても、お前はマゾかと思っていたが、その純黒の軍服と相まって、見た目からして酷い真正のサドだったな」


「だからお見せしたくはなかったのです。猟犬を挫くには言葉責めが一番安全で、効果的なんですよ。あの仔達は、僕がもういらないと言えば死にますからね……」


「それは安全とは言わないだろう」


「他の躾に比べて、という事です……ああ、失敗したな」


「どうした?」


「星がかげっている。練習場にいた仔達が、僕の躾に当てられてしまっているようです」


「あの言葉責めにか?」


「相手が天犬のルークなので、頭を押さえつけ過ぎました。これはやり過ぎたな」

 

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