第3話 白百合を携える 純黒なる死の天使
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カイムはマツダに、立襟のタイトな上衣を着せ掛けられる。艶の無い純黒の上衣。カイムは大きめな丸い銀ボタンを留めながら、巨大な姿見をぼんやりと見ていた。
ステルスハウンド、その猟犬の主がまとう最高礼装。
少し裾丈の長い立襟の上衣は、漆黒で
マツダから漆黒のベルトを受け取ると、上衣の
カイムの身に付ける上衣と下衣は、双方艶の無い完全なる純黒。縁飾りと下衣の脚側面に入る直線だけが階調の違う漆黒だ。
マツダは既に白い手袋を持ち待機している。カイムは受け取ると指を通す。
「お持ち致しました」
マツダが礼装用の刀剣を恭しく捧げ持つ。刀剣は銀で装飾されていて、鞘には二尾の蛇が巻き付き、複雑な意匠が施されていた。カイムは受け取るとベルトのホルダーへ備える。更に制帽を渡されてカイムは、その帽子をまじまじと見詰める。形は国軍で採用されているような、よくあるツバ付きの正面頭上に高さが出る制帽だ。だが、その色もやはり純黒。帽章はヨルムンガンド双生児が互いを尾から喰い合う純銀の意匠だった。
着飾った自分の姿を眺める。
――何度、見ても嫌なものだ。
この礼装姿は殆どカイムにとって喪服に等しかった。何も葬儀に出る時だけの装いではないのだが、圧倒的に猟犬を送り出すような時に着る方が多かった。
――ラスティンとランドルフを送らねば。
カイムが居間へ行くと、ジェイドとチェスカル、そしてランシズが背筋を伸ばして、制帽を脇に携えて立っている。三人もカイムと同じように黒の制服をまとっているのだが、黒の色味が僅かに異なり、黒が淡く浅いので灰色が差している。また、猟犬の制服はカイムと違うところがあって、縁飾りが血のような緋色で、下衣の脚に入る線もまた鮮血のようだった。
影の副隊長であるチェスカルと――元副隊長ランシズ――の襟章は円を二つ噛み合わせた簡素な漆黒の意匠で、立襟の左右に同じ物を付けている。肩章は円が二つ並ぶので左右で合計四つ、これもまた漆黒だった――黒い襟章、肩章は影を表している。また、制帽の帽章は漆黒の真円である。二人が携えた刀剣は、カイムの物と違い、黒い簡素な柄と鞘だ。
隊長のジェイドだけは襟章と肩章、更に制帽の帽章と礼装用刀剣が違う。襟章は噛み合わせた輪に剣交差、肩章は噛み合せた円を、それぞれ左右対称に取り付けている。制帽の帽章は噛み合せた真円で、日蝕で陽が喰われ尽くす寸前のよう。刀剣にも僅かに装飾が施されていて、やはりその全てがやはり艶のある漆黒だった。
「またせたな」
「行くか、待ってる奴もいる事だし」
「行ってらっしゃいませ」ランシズが礼を取った。
カイムはランシズを見て頷く。
――もう猟犬では無い。
「すまないな、待っていてくれ」
「勿体ないお言葉でございます。もう一度猟犬の礼装へ袖を通すお許しを頂けた事を、幸福に思っております……深く御礼申し上げます」
カイムはランシズに見送られながら、二頭を従えて主人専用のエレベーターで、一息に一階へと降りる。エレベーターホールからロビーへ出ると、行き交っていた猟犬が直ぐカイムに気付いて、一斉に頭を垂れながら後退り、道を開けて最高の礼を取った。
「……皆、僕を見て緊張しているな。あと、恐がってる。結構辛いなこれ」
「それはそうだろう。正装の主人など普段より更に畏れ多い、というか本当に、俺ですら怖いと思うぞ」
正面玄関を出て行くと、やはり同じように猟犬達が礼を取る。
車止めに既に車が手配されている。
「車で行くのか?」
「いや、逆に歩くのかよ」
「慰霊碑への距離ぐらい歩かないか」
「カイム様……以前のようにあまり正装でうろつかないで下さいね。猟犬が怯えますから」
「チェスカル、もう少し主人に優しくしてくれ」
カイムは渋々用意された車に乗った。
慰霊碑の手前で車を降りると、歩きで慰霊碑広場へ向かう。
「誰が来ているものかな」
「影全員と、雑用が数人です。個人的に付き合いのある方達に……あと、奥方」
「ランドルフの妻はリディア・マクレガーだな、子供も今年でニ才くらいだったか」
リディアも猟犬だが、カイムは彼女へ希釈をしていない。
「お子さんは、女の子のクルーラちゃんですね」
「会うのは辛いな」ジェイドがため息をつく。
広場へ近付いて来ると、円形に石畳を敷き詰められた場所が現れ、中心に黒い石版が佇んでいるのが見えてくる。カイム達のように正装した猟犬が、数十人いる。その中から直ぐにリディアの“真名”を見付けて、そのまま女性の元へ行く。
カイムに気付いた猟犬達が皆、主人へ礼を取った。
リディアは二十ばかりの若い女性だ。金茶の髪を一つに括り、顔立ちはほっそりとしていて、更に頬が削げてしまっているので、病人のように見えてしまう。以前に会った時は、もう少しふっくらしていたから、ランドルフが亡くなって心身共に調子を崩している――それをカイムは、開殻した時から毎日自分の事の様に、感じ続けていた。
リディアも猟犬なので制服をまとっている。ジェイド達と服の形は一式同じだが、上衣の縁飾りと下衣のラインは一般兵なので青い。
一般兵の襟章、肩章、ベルト、帽章は全てシンプルな円型で、数や組み合わせ方で階級や所属が決まる。刀剣は装飾の無い実用的なもので、明らかに礼装用の剣ではない。
「リディア久し振りだね。中々会えなくて悪い事をしたと思う。ランドルフを君の元へ帰してやれなくて、ごめんよ」
「カイム様、お会い出来て光栄です……夫はカイム様のお役に立つ事が出来ましたでしょうか」
カイムは純白の手袋を外し、チェスカルへ持たせる。
「リディア、手袋を外してごらん」
彼女はカイムの言葉のままに手袋を外すと、隣にいたハルヒコがさり気なくその手袋を受け取った。
カイムはリディアの手を、自分の両手に包んで優しく握る。彼女の手を取ると、カイムには更に彼女の悲しみが流れ込んで来る。
――同化してしまいそう。
それは痛みとしか言いようの無い悲しみだった。支え合って来た愛するヒトを亡くす悲しみと、子供を独りで育てなければならない不安が入り混じり、心が欠落してしまいそうだった。
――やはり希釈をした方がいいのだろうか。
カイムは迷っていた。たとえ感情の希釈でも、彼女の愛するヒトの記憶を弄ってしまえば、無にしてしまう気がするのだ。
これから猟犬の主人として、もう一度新たに猟犬と向き合わなければない。これはやはり逃れようの無い、カイム最大の仕事であり役割だ。誰にも相談出来ない。全ては主人であるカイムが、責任を持って決めなければならない。
カイムは目を瞑り、じっと、リディアの手を握り締め続ける。
暖かな光が見えた――。
ランドルフと娘クルーラが一緒にお人形遊びをしている光景が見える。
カイムは静かに微笑み一つ頷くと、リディアの手を優しくぽんぽんと叩く。
「……ランドルフは良い猟犬だった。今まで良く働いてくれたと思う。いつまでも僕は彼を思う――これからランドルフの“真の名前”を、彼の愛するリディアへ返そう。ご苦労だった」
リディアは静かに潤んだ瞳で俯く。
「リディア。いいかい、君は独りではないよ。クルーラがいる――そして、僕もいるよ。リディアは猟犬として沢山辛い事を背負っているだろう。それに、これからも苦難は絶えないと思う、でもね……だから僕が側にいるんだ。いつも見ている。感じているよ。困った事があったら遠慮なく言いなさい。ランドルフの代わりにはなれないけれど、ただ、側にいて護ろう」
リディアは無言で何度も何度も頷く。カイムの前でだからだろう、懸命に自分の感情を抑えようとして顔を歪めないようにしている。
「すみません、すみません……カイム様」
「さあ、ランドルフと、ラスティンを送り出してやろう」
カイムは慰霊碑の前に立つ、背後には猟犬が完璧に足並みを揃えて並ぶ。
花を持って遠く控えていたジェイドが、中世の西方衛兵式の硬く切れの良い歩行で、主人の元へ花束を捧げる。
花束は純白の百合だけ。
ステルスハウンドの亡き猟犬へ捧げるのは、白い百合の花だと決まっている。白く無垢なる者へ帰れるように、血に溺れる猟犬が救われますように。
――僕達に神はいないのだから。
カイムは慰霊碑へ花束を捧げる。
その慰霊碑には何も刻まていない。黒く艷やかに磨かれた無記名の石碑が、ただぽつんと立っているだけだ。
カイムは制帽を取り、手を胸に――心臓へ添えて頭を深く垂れる。カイムがこの最高立礼を取っていいのは、死した猟犬達へだけだった。
背後の猟犬達も主人に倣い礼を取った。
どこか貴族的な所作は、ステルスハウンドの猟犬が軍人ではないからだ。しかし軍属的な部分もあれば、敬礼が軍と異なるという面もあり、完全に白黒別けられる存在ではなかった。
カイムは威儀を正し石碑を見る。ただ石碑を目に収め続けた。猟犬達は今も礼を取ったままだ。
花束を亡くなった猟犬へ捧げるのは本来カイムの仕事ではないし、そもそも主人は先頭に立って猟犬の式典に出る事さえ、求められるような存在ではなかった。
――猟犬を弔うのは、また猟犬のみ。
そう言われる時代もある程、主人は猟犬へ心を寄せる事は無く――或いは恒例で許されないという厳しい世代もあった。
そして今でも、主人と猟犬以外は式典を見る事すら禁じられている。それが夫婦や子供という最も身近な家族さえ許されなかった。
それに対する主人の配慮等の特例は存在しない。何故なら主人自身がそれを嫌うのだから。これは主人の
だからカイムはオルスタッド――ランシズはもう猟犬では無いと判断したので、どれだけ死者に縁が深かろうと参列を許可しなかった。カイムは本能的にランシズを部外者と判断していた。
カイムの所有物以外が混ざったと判断した時、嫌悪や怒り、苛立ちという不快感が生じるのだろうと、一度もその無礼を経験した事が無いというのに、彼は自然とその様が想像出来る程だった。
もし破る者が居れば罰則を科す。これは罪に他ならない。
カイムは石碑に触れる。手袋をしていても冷たい石面は、ヘルレアの唇を思い起こさせる。
――死を想起する冷たさが心地良い。
カイムは静寂を乱さぬよう心で唱え、そして囁く。
――ラスティン・フリューゲル。
「クリストフ・トルスファイ」
――ランドルフ・ベイゼン。
「ユーリ・スタンド」
「名前を返すよ。長い間、ご苦労だった……」
慰霊碑は合葬墓も兼ねているが、ここに二人の遺体は無い。彼等は今も東占領区に残されたまま。だが、猟犬は殆ど死んでも遺体が帰って来ないものだった。この石碑はそんな行き場のない猟犬への思いを、受け止める為に存在する。そして、無記名なのは名前忌避の故に、遺す事が許されなかったのだ。
カイムは振り返る。
猟犬が最高礼を尽くしながら、整然と並んでいる。誰一人として身動きせず、場は森閑としている。カイムが視線を外し無言で広場を離れようとすると、ジェイドとチェスカルのみが姿勢を正して、主人へ続く。
カイムが去るまで猟犬は延々と礼を取り続けた。
寂しい式典だと思う。カイムがただ一人花束を捧げて礼を取り、祈りの言葉もなく死者へ名前を返すと、主人は猟犬が頭を下げ続けるのを背に、静寂の中を気ままに去って行く。
――これが猟犬の一生、その最期だ。
これでもカイムが自身の世代で、猟犬への弔い方法を改善したのだ。これ以上は許されなかった。そしてカイム自身も赦せなかった。
その絶望――。
主人の理性と本能、ノヴェクを支配する戒め、それ等が強く葛藤して、その限界が今の虚しい式典だったのだ。
そして、今回は
この寂しい式典で特例とされる扱いならば、一般兵の猟犬となると、更に侘びしいものになるのは簡単に察せられるというもの。
猟犬としての一生涯、カイムに会えずに終わる者も居るのだから――。
車の座席にカイムは身をもたせ掛けていた。慰霊碑と館はそう遠くは無いが、カイムはどうしても距離関係無く、歩くべきではないとされてしまう。
対面の座席にジェイドとチェスカルが座っている。
「大丈夫か、カイム?」
「どうかした」カイムはゆったり微笑む。
「いや……また完全に閉殻をしているから気になった」
「それぞれ一人にしてやろうと思ってね……だから、僕は何も知らない、何も見ていないよ」
ジェイドがうっすらと寂しげに微笑み、無言でチェスカルと共に
車は僅かな距離を走るばかりで、直ぐに帰館した。
猟犬は主人へと、亡き猟犬を思う涙を、見せる事や、感じさせる事すら忌まれていたのだ――。
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