第2話 愛しい痛み

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 執務室には影の猟犬ゴーストハウンドの面々が全員集められていた。猟犬は皆不思議そうにしているが、主人の前で姿勢を正している。


 カイムは、オルスタッドがヘルレアの綺士になった事はまだ影達へ話していなかった。それは、ヘルレアとオルスタッド自身の希望であったからだ。



 ……自分でした事の責任は、自分で果たさなければいけないと私は考えます。もうカイム様の猟犬では無くなってしまったのですから、説明責任は自ら取ります。



 カイムが無言でいると、やはり猟犬も同様に沈黙を守る。カイムは猟犬がいないもののように、本を読み耽っていた――実際、カイムは猟犬をまるでいないと感じている。


 それが平均身長百八十センチもある、六頭の巨大な雄の猟犬共であろうと、何らカイムに取って、気を引き、または削がれる存在ではなかった。


 カイムは大欠伸あくびをして伸びをすると、本を閉じる。


「今、何時?」


 チェスカルが時計を素早く確認する。


「十五時四十五分三十二秒です」


 カイムは気の抜けた顔で笑う。


「だから、秒数までいらないって……もう、何をしているか分からないからな。同じ館に居ると分かっているのに、気配がないとやきもきするものだ」


 カイムの無駄にデカい独り言へ、さすがにジェイドが表情だけで反応しているが、カイムは無視する。


「ちょっと行ってくるから、待っていてくれ」


「待った、せめて猟犬を一匹だけでも連れて行け」


 ジェイドが主人を睨み付けている。


「ええ? 面倒臭い気がする」


「気がするとはなんだ。今一、煮え切らない変な表現をするな。後ろに引き連れるだけだろうが」


「――待っていなさい」


 カイムははっきりと猟犬への命令に変える。


「クソが! 碌な命令しないな」


「カイム様、変なところで命令を利用なさらないで下さい」


 猟犬共がざわざわとしている。猟犬でも一応文句を言う自由はあるのだ。しかし、それはカイムが許しているから、という現実があるのだが。


 カイムはほろ苦く微笑む。


「まあ、待っててよ。館の私室内を行くのだし、そのように気にするな。じゃあ……」


 カイムが机から離れようとすると、扉が豪快に開いた。押す力が強すぎて扉が壊れそうだ。


 カイムはもう既に、ノックの無い不遠慮な訪問者に慣れていた。むしろ逆に、ほっと、息をつく。


「ジェイドと同じような事を言うのは癪だが、カイム、お前も相当碌な主人じゃないな」


 ヘルレアが堂々と執務室へ入って来る。後ろにはオルスタッド――ランシズは居ない。


「お待ちしていました。飽きて来たので、お呼びしに行こうと思ったところです」


「それは悪かったな。ほら、謝ったから良いだろ。本題に行くぞ、いいか猟犬共、覚悟しろよ」


「いきなり入って来て何なんだ、お前は。それは、謝ったとは言わん。覚悟とは――戦争でも気か、相手になるぞ、ヨルムンガンド」


 ヘルレアが高らかに笑っている。


「こんな弱っちいワン公共と、戦争になどなるものか。紐引いて散歩でもしてやろうか。マーキングを忘れるんじゃないぞ、雄犬共め」


 猟犬共の気が立ち始めて、カイムは少し鎖を引いた。彼等は驚いてカイムへ振り返る。


「カイム……お前」


猟犬共おまえたち、ヘルレアの話しを黙って聞きなさい」


 猟犬は何事もなかったように鎮まると、再びカイムへ向き直り姿勢を正す。


「……なるほどな、中々の見物だ。こんな荒々しい雄猟犬イヌ共が、こうも優男な坊っちゃんの一言で、居住まいを正すとは」


「この仔達は皆、ですから」


 猟犬共の心が三者三様として動くのを感じる。明らかに何かを言いたがっているが、カイムはそれを許さなかった。


「何か吹っ切れたようだな。私の知った事ではないが、些かヤバい臭いがするぞ」


「ご心配には及びません。今までがだったのです。これが本来の在るべき主人猟犬の姿なのですから――さて、僕の話しはこれまでにして、王から重要なお話しがあるのでは?」


「いいだろう、おい、来るんだランシズ・クレイン」


 猟犬共の表情に思案の色が出る間際、時を置かずにランシズが執務室へ入って来る。


 さすがの猟犬も身動いでランシズを出迎えた。


「オルスタッド、歩けるように……いや、?」


 ジェイドが険しい顔で、僅かにカイムの側へと後退る。ランシズとカイムの間に入って、明確な警戒を見せている。やはりジェイドは優秀な猟犬だ。ランシズがもう既に猟犬では無い事を、会って即座に本能で嗅ぎ取った。


「オルスタッドは歩けないはず、それに隊長が仰るように、何かが違いますね……猟犬を阻むものがある。――人間のような、でも、それもやはりどこか違う」


 チェスカルの仏頂面が更に悪化している。


「お前等会っただけで分かるんだな。そうだ、察しの通りこいつはもう猟犬オルスタッドじゃない……私の綺士ランシズだ」


「何だと? まさか、オルスタッドは綺士になったと言うのか。それで、ランシズ・クレインは“真の名前”なのか」 


 ジェイドの言葉にランシズ自身が頷く。その肯定に猟犬はそれぞれの反応を示していた。単純なルークは嬉しそうにしていたが、他の猟犬共は殆ど複雑な表情を浮かべている。特にハルヒコなどは明らかに険しい、嫌悪感を含んだ顔を隠さず顕にしている。


「猟犬として死んだ自分をヘルレアは拾って下さいました。たとえ、猟犬の道に反していたとしても、私はもう一度カイム様のお役に立てるのならば、と、再び戦場へ戻る為に、綺士となって戻って参りました」


 ジェイドは変わらずランシズを睨み付けている。猟犬は誰一人として反応しなかった。


 カイムは口出しせず、じっくりと猟犬の心を感じ、計る。


 判断は彼らに任せたかった。排斥するのか、受け入れるのか。たとえ主人であるカイムがいようとも、猟犬、それぞれの思いでランシズの存在を消化して欲しかったのだ。カイムが上から押し付ければ、猟犬は幾らでもランシズを無条件に受け入れる――その態度を取れる。それがたとえ、猟犬個人の思いに反していたとしても、だ。結局カイムは今でも完全に、主人として猟犬へ振る舞え無い面があるのだと、自覚していた。猟犬の意思を大事にしたいと思ってしまうのだ。


「主人の私ではなくて、カイムの為だといけしゃあしゃあと言いやがる」


「カイム様が主でおられる時を忘れたわけではありません。形は変われど、猟犬である自身も確かに、心に留め置かれております。綺士である自分が、今の主であるヘルレアへ尽くそうと思うように、カイム様へも出来る限りご助成申し上げたいと、願う気持ちは嘘ではございません」


「……人を喰う化物が、何を言おうが説得力など無い」チェスカルが眼を細める。


猟犬共おまえらがどう思うかは知らないが、私はランシズへ人間を喰わせるつもりはない。人を喰うと穢れる」


「穢れる?」ジェイドが眉をひそめる。


「おそらく人を喰えば、ランシこいつズがランシこいつズでなくなる。多分、今以上にヒトでない者になる。私はランシズ・クレインが気に入って下僕にしたんだ。他の何かへ変えるつもりは毛頭ないね」


 エルドが険のある鋭い目でランシズを見る。


「主であるヘルレアの姿勢がそれでも、本当に今まで通り副隊長は、猟犬のように……いえ、ヒトとして振る舞えるのですか。綺士として血に酔う恐れはないのですか」


「猟犬の棲家で血に狂われてもな」チェスカルがため息をつく。


 ヘルレアは部屋に居る面々をじっくりと見渡す。


「何も保証は無い、私とて綺士を把握出来ていないのだから」


 ジェイドは固く口を引き結ぶ。


「それでは、危険過ぎるのではないか」 


「やはり綺士という未知の存在を、カイム様のお側へ置いておきたくはありません」チェスカルが眉根を寄せる。


 ランシズは俯いてしまう。


 今まで黙り込んでいた大男のハルヒコが、遠慮勝ちに低く手を挙げる。カイムが頷いてやると、緊張が僅かに解けたようだった。


「生意気な事を申し上げるかもしれませんが――ヘルレアがオルスタッド副隊長を自身の下僕にした事により、全快に至った――それが敵であるヨルムンガンドの所業であろうと、憶測だけで今直ぐ危険と判断して、全てを否定出来ましょうか。決めるのは今現在では無く、これからに係っているのではありませんか。俺達が居ればカイム様をお守りし、危機から遠ざけて差し上げるだけの力は十分にあるはずです」


「ハルヒコ……」ジェイドが驚いている。


 それどころか猟犬全員が驚いていた。何故なら影の中で世界蛇へ嫌悪や侮蔑を明確に表して、真実から忌避していたのは、このハルヒコだったからだ。


 彼の抱える複雑な心情へ、カイムは薄く微笑む。


「皆、どうかな? ハルヒコの声を考えてみてはどうだろう。僕はランシズとの関わり合いについては、それが仕事でない限り強制するつもりはないよ。、自分自身でよくよく考えてみるといい。それにランシズを危険と判断したら、勿論、僕の側へ置くつもりも無い。ヘルレアへは綺士の接近をご遠慮願う」


「カイムが考える自由を許すのなら、俺も何も言うまい。カイムとランシズ、その二人だけで居させる気は、始めから更々ないのだから、これからどうなろうと何とかなるだろう。どうだ、ヘルレア。ランシズを一人でカイムの元へ動かすのだけは、止めてくれるか」


「そうなんだよ、そもそも私が綺士こいつを動かすのだから、私に引っ付いて来るカイムを襲わせるもクソもないだろう。ランシズにカイムを襲わせるなんて、そんなまどろっこしい事などしないで、いざとなったら側に居る私が直接襲ってやるから安心しろ」


 ジェイドとヘルレアが軽く睨み合っている。


 猟犬は取り敢えず納得したようで、緊張が緩む気配が部屋に満ちた。


 ジェイドも安心しているのが伝わって来る。実のところ彼は自身の心情よりも、部下達の判断を懸念して立ち回れるように、思考し動いていた。そのような働きをジェイドはすると、カイムは分かっていたから、安穏としていられたのだ。主人のカイムには猟犬の鎖を引くのは簡単だが、一番に考えるのはやはり、ヒトらしさであり、物事が大きければ大きいだけ、伴う力も相対的に大きくなる。それを行使すればする程、損なわれていくものを意識せざるおえない。


 ユニスが眉をひそめる。


「我等の秘密が漏れはしませんか」


「私が猟犬の掟を口にしないと約束したとしても、やはり何の保証にもなりますまい」


 オルスタッドは頷く。


「ただの口約束で元猟犬を放置するなど、ノヴェクは許すのか」


 ジェイドがカイムを見詰める。


「――僕に逆らえるノヴェクなどいない」


 部屋が一瞬で凍り付いた。ヘルレアさえ無言だ。カイムはおおらかに微笑むと、じわじわと猟犬から怯えが滲み出て来るのが伝わって来た。そのあまりにも懐かしい恐れの感覚に、微笑みを残したまま僅かに眼を伏せる。


「さて、猟犬共おまえたち何か言っておきたいことはあるかい。ヘルレアも何か仰られたいことはございますか」


 しばしの沈黙を挟んでジェイドが頷く。


「何もございません」


「よろしい、では散会を許す。そしてヘルレア、わざわざご足労頂き感謝致します」


 ヘルレアがカイムへ怪しく笑むと、ランシズを従えてさっさと去って行った。だが、猟犬共はカイムの言葉を聞いても、その場から動こうとはしない。しばしの沈黙の後――おそらくは、世界蛇が十分な距離に遠退いた後――ジェイドはカイムへ近寄り姿勢を正す。


「カイム、何があった」


「……もう皆はなんとなく気付いていると思うけど、僕は完全な閉殻を止めようと思う――潮時だ」


 猟犬が今までに無い程動揺を見せて、主人の前だというのに猟犬同士で好き勝手に話し始めてしまう。ルークは一人腕を組んで難しい顔をしているが、この仔はあまり物を考えてはおらず、場の乗りでそれらしいポーズを取っているだけだった。


「静まりなさい」


 話し声がぴたりと止むと、執務室に静寂が戻る。


「もう既に強固な閉殻は行っていない。自然のままに心身が開く状態にある。猟犬共の心も自然に感じられる」


「ヘルレアの影響か?」


 カイムは微笑むだけで何も言わなかった。


「放って置いても、いずれゴースト以外の猟犬にも知られるだろう。だが、これから能動的に僕の方針を行き渡らせるつもりだ」


「……本当にそれでいいのか? 俺達だけが知る今なら、まだ引き返せるぞ。いくら主人でも猟犬全体へ方針の転換を伝えたら、この二十年分が全てチャラになってしまうに等しい。お前の苦労はどうなる」


「僕の苦労など考える必要などない。掛かった労力など、もう意味の無いこと。考えるべきは常にこれからの事であり、過去の価値を計る意味は無い。全ては最良である為に、これからの事を考えなくては」


 猟犬共は眉をひそめていた。


 皆、主人であるカイムをおもんぱかっている。今までの悲しみと辛さを、カイムの代わりに感じてくれている。それだけでカイムは心穏やかでいられるのだ。自分と同じ痛みを背負ってくれる存在というものは、どれ程人に救いをもたらすものか。


 カイムは静かに微笑み、我が仔の愛しい痛みに心を寄せる。



 ――ありがとう。



 猟犬が、はっと、してカイムを見詰める。


 カイムは猟犬共の心へ、約十年振りに自身を開放し、言葉を贈った。


 心と思考だけで通じ合う、主人と猟犬だけの世界。


 カイムは遠くを眺めるような心持ちで、視野を広げる。果ての無い闇がカイムと影の猟犬を取り残すと、直ぐに主人の周囲で星々と雲が煌めき出す。


 主人は一つ息をつき頷く。



 ――皆、聞こえるだろうか。



 ――僕は長い間、君達猟犬から心身を閉ざして来た。



 ――そうする事によって、君達がヒトと同じように生きられるよう距離を置いた。



 ――しかし、もう僕達がその優しい世界に生きられる時間は、とうに過ぎ去ってしまった。



 ――主人と猟犬へ帰ろう。



 ――夢は終わった。



 星が様々に色を変え、激しく瞬く。混ざり絡み合う感情と思考の波が、何十万とカイムへ一気に押し寄せて来た。それは喜びであり、安堵であり、悲しみであり――激しい痛みであった。これと一つに絞れない、息づく千差万別の複雑な猟犬の心。カイムはもう一度、この仔達一頭々と独りで向き合わなければならない時へ、帰らねばならなくなった。


 カイムは心身を矮小化して、思考を閉ざす。ごく、個人的な精神へと帰すと、猟犬との繋がりを断った。


 鼻を啜る音を聞いて部屋へ意識を向けると、ルークが泣いていた。それに誘われてか、次々に影共が皆俯き、ついには静かに泣き出す猟犬もぽつぽつと増えた。


 カイムは視線を落として、ただ穏やかに微笑み続けていると、ジェイドが胸に手を添え頭を垂れる。


「……長い間、猟犬の為に御力を尽くして頂き、真にありがとうございました」


 影共が全員姿勢を正すと、ジェイドと同じように礼を取った。



 カイムはただ独り微笑んでいた。



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