第1話 新たなる命
1
深夜の執務室。
本来なら既に閉じられている主人の部屋は、まだその仕事を終えていなかった。
机の間接照明だけがぼんやりと灯っている。広い部屋をそれだけで照らせるはずもなく、深い暗がりが四隅に淀んでいた。
部屋の主人、カイム・ノヴェクは独りで机に着いている。ただ座って、机へ肘を着いて何かを祈るように口元で手を組んでいた。カイムの緑色をした瞳が薄暗がりをじっと見つめている。本来、瑞々しい樹葉を想起させるはずの瞳が、
カイムは視界に入るものを見ているわけではなかった。彼だけにはこの部屋が満天の星空に見えている。果てのない闇と眩いまでの星々、塵が集まって出来た雲は、硝子の粉が瞬くように、きらめきながら流れ行く。
カイムはその中で一つの小さな星を見守っていた。その星をそっと手で包み込んであげている。――意識のうちで。
恐怖で翳らないように、悲しみで滲んでしまわないように、寂しさで消えて行かないように。
ただ優しくその時を、待ってあげる。
これがカイムの――主人から猟犬へしてあげられる、最大で最高の下賜だった。
カイムはその猟犬を自ら名付けていた。
オルスタッド・ハイルナーと。
名前の音に意味はない。また、彼の場合は人種的、民族的な独自性も持たされてはいなかった。どちらかと言えば、ただ東欧系ではないかと人々はなんとはなしに思う。その程度だった。何故なら、カイムは猟犬の名前に意味を与えてはいけないからだ。主人は猟犬へ、ただ直感で名前を与える。それはとても正しい事なのだと幼い頃に教えられた。主人には猟犬へ相応しい名前を下す能力が元々あるのだという。
そうして、主人であるカイムは猟犬へ名前を与えてやるのだが、勿論全ての猟犬へ主人が名前を付けてやれるわけではない。なので、機械的に名付けられた猟犬の方が多い。
だから主人に名前を与えられた猟犬は、末永く寵愛されるという話が言い伝えられている。猟犬は猟犬同士で羨み、嫉妬する。主人に愛されたい、特別扱いされたい。そう願って止まないのだ。
だから、名付けというものが何をおいても、寵愛の証、その筆頭となるのも必然と言えよう。
オルスタッドは奇妙な男だった。
普通の猟犬はステルスハウンドに連れられて館へ来る事の方が多い。しかし彼は、自分の意思で館へ来て、カイムに面会を願い出たのだ。
カイムは微笑む。
――オルスタッドは本来なら研究者肌なのだろうに。
もうすっかり鍛え上げられた猟犬になり、影では上位の攻撃力を誇っていた。
普通の人生を送らせてやればよかったのだろうかと、何度も考えてしまう。オルスタッドは他の猟犬と違うのだから、カイムに会っても話しをしなければ、引き返す事は出来たのだ。
星が穏やかに暖まっていく。
カイムはそれでゆっくり頷いた。
「今までありがとう。随分、苦労させた。誇りに思う――ランシズ・クレイン」
それが、猟犬オルスタッド・ハイルナーの、主人だけが知る本当の名前だった。
“
だが、オルスタッド自身はその名を今は知らない。カイムが彼の名前を取り上げ、首輪と鎖で枷をはめた。
だから、オルスタッドはカイムの物だ。そして、もう直ぐそれは過去の事になる。
主人がオルスタッドの“真の名前”を唱えた事により、名前が返還されようとしている。
猟犬としての生が終わる、その
カイムは星を送る時を静かに待つ。
そうしていると、カイムは首を傾げて、微かに眉をひそめる。
自分でも理由ははっきり分からなかった。ただ、猟犬が酷く硬直しているような。
じっと、光を見守っているうちに、手に焼けるような痛みが爆ぜる。星が爆発的な勢いで、凍り付いた。カイムは思わず手を離し、意識もオルスタッドから断ち切れそうになったが、なんとか繋ぎ止めた。
カイムは椅子を弾き立ち上がっていた。
「オルスタッド……、
四隅の暗がりから全身黒いものが一匹這い出す。人間の肢体を持つのに、その生き物は不格好に四足で床を匍っている。カイムの前に来ると腰を落としたまま二足で立ち上がると礼を取る。顔には黒いイヌの面を着けていた。
「オルスタッドの様子を調べてこい」
「御意」
番犬は主人に頭を下げたまま後ろへ下ると、闇に紛れて消えていった。
カイムは星空を改めて見る。だが、繋ぎ止めたはずの星は消え失せ、どこを探してもオルスタッドは居なかった。星の残光すら見つける事が出来ない。
「そんな、何があった」
カイムは思わず現実にある自らの手を見ていた。氷よりも冷たいものを触ったように、手が焼けるようだった。
主人は使いの知らせを待つ事しか出来ず立ち尽くしていた。
カイムが苛立つ間もなく、番犬が一匹戻って来た。しかも、先程送った番犬では無く、オルスタッドを見送るはずの番犬だった。
「……猟犬でも人でもないものがおります」
「まさか、ヘルレア?」
「あの方は、我らが居りましても、何も仰られませんでした」
「異物の姿を見たのか」
「気配のみでございます」
「オルスタッドに固着したものか……? 他に何か」
「お赦し下さい、恐れのあまり使命を忘れ、逃げ帰って来たのでございます」
カイムは眉間を押さえて、頸を振る。主人は這いつくばる番犬を、眼だけで押さえ付けるように見下ろすと、心のうちに鎖を引く金属の触れ合う音が響いた。
番犬は床に叩き付けられるように、身を投げ出してのた打ち回る。無言で番犬は苦しみ続け、呼吸を激しく乱す。
「罰は与えた、もういい、去れ」
番犬は弾かれたように身を起こすと、苦しい息で主人へ礼を取り、頭を向けたまま闇へと消えて行った。
カイムは机へ拳を叩き付ける。顔を
執務室の扉がいきなり開いた。
カイムは驚いて身を転じて、机へ座りかねない勢いで、開いた扉の先を見る。彼は青い双眸を見止めて、息をつく。
「ヘルレイア……」
「よう、お前等こそこそやってるな」
「さすがに驚きました。何故こんな時間に?」
「夜這いって言葉知ってるか」
「また、ご冗談を」
「ノリが悪いな、本気だったらどうする気だ」
「いい加減僕でも、ヘルレアの調子というものを理解し始めていますから、お話しには乗れません」
「つまらない奴。なら、本題に行くか。いいもの見せに来てやったんだ――おい、元ご主人様に挨拶しな」
カイムが訝しんでいると、ヘルレアの背後によく見慣れた顔があった。それも自ら歩いて部屋へ入ってくる。もう二度と歩けないと診断され、数分前にはベッドに横たわっていたはずの男。
――オルスタッド。
「カイム様、身勝手な行こないをお赦しください」
「待った、今は私が主人なんだ。ボンボンにへーこらするな」
「……綺士。オルスタッドはヘルレアの綺士になったのか」
「もうオルスタッドじゃないだろ」
「名前をお返し頂けました」
カイムは泣きそうに微笑んだ。
「ランシズ……ランシズ・クレイン」
オルスタッド――ランシズは静かに泣いた。
「お赦しください。こんな愚かな事ばかりして、それでもこうして何度も拾って頂けて」
カイムが二人の側に行くと、ヘルレアへ向き合う。
「主人と言いながら、僕は何もしてやれなかった。本当にありがとうございます」
王は珍しく素直に微笑んでいる。
「分かってるか? 時間は短いぞ」
「大切なのは、時間ではありません。あなたのお心が嬉しいのですよ」ランシズが微笑んだ。
カイムはランシズの腕を叩く。
「ああ、本当だ真の名前がもう見えない」
「もう猟犬ではないのですね」
「何、寂しがってるんだ。今は私が主人なんだから感情が伝わって来てるぞ」
「ヘルレア、どうかランシズをよろしくお願いします」
「頼まれなくても、もうこいつは私のものなんだ。カイムに渡すものか。一つ言っておくが、ランシズが使えなくなって殺そうとした癖に、よくそんな顔できるよな」
「王、それは……」ランシズが悲しげに首を振る。
「僕には謝る事が許されません。あの時のオルスタッドを殺めるのは僕の仕事です。他の誰が殺すのでもありません。間接であれ直接であれ、必ず僕が罪を負うべきものです。責めると仰るのなら、僕は受け入れるだけのこと。更に追求して、断罪をお望みになるのであれば、僕は戦わなければなりません」
「言うと思ったよ。で、ランシズお前はどう思う?」
「……私達はそうしてカイム様に守って頂いて来たのです。星空の痛みは、今もカイム様を傷つけているのですから」
「こっちも言うと思ったよ。じゃあ、帰るぞ。くだらない、解散! ジゼル放って来てるんだわ」
「失礼を、カイム様……お待ち下さい、ヘルレア」
二人はばたばたと執務室から去って行った。
カイムがオルスタッドを殺そうとした事実を、ヘルレアは有耶無耶にしないように、二人へ吐き出させてくれた。
――ヘルレアはこれから先も、僕がオルスタッドとの関わり合い続けられる事を、示してくれたのだろうか。
「……これじゃあ、頭が上がらなくなるな」
いつの間にか、カイムの心は落ち着きを取り戻していた。
しかし、
今度は逆に気分の高揚でそわそわし始めて、何か仕事を片付けたくなって来た。やらなくてはならない事が山程あって――。
カイムが執務室をやたら無意味にうろうろしていると、周りが何か騒がしいことに、はた、と気が付いた。部屋をつい見回しつつ、心へ意識を寄せて、あ、と声が出そうになった。
星がいつもより活発で、浮き足立って賑わいでいる。もう、真夜中だというのに、寝静まっていたあの仔達は、皆ご機嫌で活動し始めていた。
「皆、起こしてしまったな。失敗した、ごめん……」
ふっとカイムは一瞬、下世話な事が頭を過ぎって、最近自分は色々毒され過ぎだなと、独りで恥じてしまう。悶々としていた時間は、発散出来たらしい今でも、結構カイムへ影響を残しているようだ。
けれども、ああ、やっぱりと無意味に現実の目を覆う。
開殻と、今だ底で
カイムは苦く笑う。
彼は一度も経験した事が無いのに、何度も経験しているという矛盾。
猟犬の主人である以上は、幼い頃から接っしている感覚で、別段珍しくもない、ほぼ日常的に触れる自然な生理なのだが。
しかし、それは殻を開いたカイムに当てられた故に、瞬く星の数を見れば――、
さすがの主人も、固く心身を閉ざしてしまうというもの。
「まあ、いいことかな……楽しみが増えるし、かわいいよね」
こんな騒ぎは久し振りだ。カイムはまだ自分がのぼせているのかと頸を傾げた。
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