第17話 ヤクザ
時計を見ると、六時になろうとしていた。約束の時間まで、あと一時間だ。僕は、七つ道具が入ったナップサックを掴み取ろうとして、目が止まった。勉強机の上に、熊のヌイグルミが寝転んでいる。貴子お姉さんのヌイグルミだ。お姉さんは隣に住んでいるし、返そうと思えばいつでも返すことが出来る。だけど、僕は返せていなかった。キン肉マン消しゴムを買ってくれたお兄さんが、僕に預かっていて、と言った所為だ。でも、それだけではなかった。このヌイグルミが、僕とお姉さんを繋いでいる。そんな風に、僕は感じていたからだ。お姉さんがいる窓の方に振り向く。お姉さんと手紙のやり取りをしたことが、随分、昔の事のように感じた。僕は、ナップサックを握り締める。戸を開けて、階段を降りた。
「お母さん」
晩ご飯の準備をしているお母さんに、呼びかける。
「なに? ヒロちゃん」
お母さんが、手を止めた。
「懐中電灯は、どこにあるの?」
お母さんは、不思議そうな表情を、僕に見せる。
「そんなもの、どうするの?」
「花火大会に持っていく」
納得をしたのか、お母さんは食器棚に近づいた。引き出しから、懐中電灯を取り出す。
「ちゃんと持って帰ってくるのよ。何でも忘れてくるんだから……それより、晩御飯はどうするの?」
「帰ってからでいい」
「帰ってからって……それじゃ、お腹が空くでしょう。ちょっと待ってなさい」
そう言って、手早くお握りを作ってくれた。おにぎりを頬張りながら、僕は玄関に向かう。
「早く、帰ってくるのよ」
後ろから、お母さんの声が聞こえた。振り返らずに、僕は表に飛び出す。
カナカナカナカナ――――
ヒグラシが鳴いていた。僕は西の空を見つめる。鬱蒼と木が生い茂る植木団地の黒い陰が見えた。その向こうに、赤く燃え尽きようとしている太陽が、沈み始めている。とても綺麗だ。僕は、自転車に乗ると、太陽を背にして、ペダルを漕ぎ始めた。
黒いドブ川沿いに、自転車を走らせて、スーパーダイエーの横を抜けていく。その時、一人の男が、目の前に転がってきた。僕は慌ててブレーキをかける。でも、間に合わない。その男に、自転車ごとぶつかってしまった。
ガッシャーン!
自転車もろとも、僕はアスファルトに投げ出されてしまう。痛くはない。痛くはないけれど、自転車で人を轢いてしまった。恐怖で、顔が青ざめる。
「大丈夫か? ボウズ」
熊のような大男が、傍にやって来て、僕を見下ろした。いや、熊という表現も合っているのか分からない。仮面ライダーの悪役でも、逃げ出してしまいそうな、悪人面だ。僕は、人を轢いた恐怖も忘れて、後退りしてしまう。大男は、僕の手を掴むと、軽々と引き上げた。自転車も立ててくれる。顔に似合わず、案外、良い人かもしれない。
「悪かったな」
何故か、大男は僕に謝ってくれた。状況が、よく飲み込めない。その時、自転車で轢いてしまった男が立ち上がろうとした。熊のような大男は、その男の背中を、足で踏んづける。
「ウゲッ!」
「お前は、ジッとしておけ」
「スンマセン、木崎さん。必ず返しますから」
ひしゃげた蛙のような姿で、男は泣き言を言った。
「当たり前じゃ、ボケ! 返す気があるんなら、最初っから逃げるな!」
大男の怒声に、僕はすくみ上がる。僕の怯えた様子に気がついた大男は、無理に笑顔を作ろうとした。その笑顔が、また怖い。
「ボウズに怒鳴ったわけやないからな。全部、こいつが悪いんや」
「ウゲッ!」
足元で、男がうめいた。足に力を入れたようだ。大男が、すまなそうな顔を僕に見せる。
「悪かったな。俺達のもめ事に、巻き込んでしまって」
大男は、背広の胸ポケットから長財布を取り出した。その時、一枚の名刺が零れ落ちる。僕は、それを拾い上げると、大男に差し出した。ところが、大男は笑ったまま受け取らない。
「その名刺は、お前にやる。でも、あんまり人に見せびらかすなよ」
僕が不思議そうな顔をすると、大男は千円札を、僕に差し出した。
「これは詫び料や。これで、お菓子でも買え」
僕は、首を振った。すると、大男は、眉間にシワを寄せた。
「黙って、受け取れ」
大男の威圧に、息が止まった。僕は、素直に、お金を受け取ってしまう。大男は、手を伸ばすと、足元の男の襟首を掴んだ。そのまま引き上げる。
「ウゲッ、首が絞まる〜。木崎さん、堪忍や」
人形のように、男は手足をばたつかせた。
「もう、逃さへんからな」
そう言って、大男は、男を連れて立ち去っていった。その背中を見送った後、僕は、手の中にあった名刺を見る。
安達組 木崎隆
安達組……あの大男は、ヤクザなんだ。僕は、目を丸くして、その名刺を見つめた。ナップサックの口を広げると、中からノートを取り出す。そのノートの間に、大切にその名刺を挟み込んだ。何だか、凄い宝物を手に入れたような気がした。ついでに、もらった千円札も、一緒に挟み込んでおいた。
集合場所に、早めに行くつもりだったのに、時間を食ってしまった。僕は、慌ててペダルを踏み込む。学校の正門に向かって行くと、肝試しに参加する皆が、道の真ん中で集まっていた。どうしたんだろう? 集合場所にしては、変な場所だ。そこは、廃墟になった工場の敷地の角地で、丁字路になっている。
「どうしたん?」
自転車を道路の脇に止めると、僕も皆の輪に加わった。足元を見ると、一匹の黒い子猫が、死んでいた。
「あっ!」
ビックリして、声を出してしまった。皆は、その子猫を凝視したまま、押し黙っていた。
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