第06/15話 ミッションスタート

 六月二十二日、水曜日、午前十一時。

 燐華は、啖瀬市にいた。車道の路肩に、エンジンをかけたままの状態で停めてある車の、運転席に腰かけている。格好は、いつもどおりで、銀髪をツインテールに纏め、メイド服を着ていた。

 車は、いわゆるツーボックスカーで、角張った見た目をしていた。直方体の形をしたキャビンの前に、それよりは背の低い、直方体の形をしたエンジンルームをくっつけたような外観だ。国産車で、メーカーにより、「エクスプロ」と名付けられていた。ボディは、明るい緑色に塗装されていた。

 燐華は、バックミラーを、食い入るように見つめていた。そこには、塀と、それの内側にある建物が映り込んでいた。

 塀は、二メートルほどの高さで、灰色をしていた。歩道に沿うようにして、立っている。途中で、数メートルばかり途切れており、そこから、人や車が出入りするようになっていた。

 塀の内側には、三階建ての施設が聳えていた。屋根の上には、「秋之川建設」と書かれた看板が掲げられている。

 こここそが、燮永会の基地だった。ガブロ・メソッドを行使するには、各種の建設機械が、それなりの数、必要となる。そのため、表向きは、土木業者を装っていた。

 燐華は、エプロンのポケットから、スマートフォンを取り出した。それのスリープ状態を解除すると、現在時刻を確認する。

 午前十一時五分。燠姫が、基地に忍び込んでから、二時間弱が経過していた。

 事前に立てた、いくつかの作戦のうち、今回、実行している、作戦Aは、以下のような内容だった。燠姫は、兵士たちに気づかれないよう注意しながら、基地に侵入する。それで、目当てのデータとノヴァニトロを手に入れた後は、基地を脱出する。そして、午前十時四十五分から、午前十一時十五分の間に、近くでエクスプロを待機させている燐華と合流。そのまま、車で帰宅する。

「何のアクシデントも起きなければいいのですが……」バックミラーを見ながら、燐華は、思わず、そう独り言ちた。

 次の瞬間、建物の三階、鏡越しに見て右端に位置する部屋が、爆発した。

 どかあん、という音が、鼓膜を劈いた。爆風が、車のウインドウにぶつかり、びりびり、という音を立て、振動を生じさせた。建物の窓ガラスが粉々に砕け散ると同時に、それらを押し退けるようにして、火柱および黒煙が噴出した。

 燐華は、あんぐり、と口を開けた。一秒後、爆発した部屋の左隣に位置する部屋の窓ガラスが、一気に開けられた。間髪入れずに、そこから、人が一人、ひゅばっ、と跳び出してきた。

 それは、燠姫だった。格好は、いつもどおりで、後ろ髪をポニーテールに纏め、横髪をストレートに垂らし、紺色のワンピースを着ていた。

 燠姫は、塀の上を越えると、歩道に、すたっ、と着地した。彼女は、右脇に、何かを抱えていた。

 その後、燠姫は、くるり、とエクスプロのほうを向くと、だだだっ、と車めがけて駆けてき始めた。燐華は、助手席側のドアを、がちゃり、と開けた。

 数秒後、燠姫は、エクスプロに到達した。彼女は、ドアの内側に、体を滑り込ませると、半ば跳び込むようにして、乗り込んだ。

「作戦Dよ! 逃げてちょうだい!」

「承知しました!」

 燐華は、そう叫ぶと、サイドブレーキを解除して、アクセルペダルを底まで踏み込んだ。エクスプロが、発進と同時に、急激に加速し始めた。慣性の法則に従い、体が、シートに押しつけられる。助手席のほうから、燠姫が、「ぐえ」というような、淑女にあるまじき声を上げたのが聞こえた。

 燐華は、ちら、とバックミラーに視線を遣った。燠姫を追いかけてきたらしい、燮永会の兵士たちが、何人か、歩道に出てきては、エクスプロの姿を認めた後、すぐさま、敷地内へ引き返していっていた。諦めたわけではなく、燐華たちを追いかけるため、ひいては、車に乗るために、戻ったのだろう。

「お嬢さま!」十字路をドリフトしつつ右折しながら、燐華は叫んだ。「お怪我はありませんか?!」

 燠姫は、さきほどまで、走り始めた車の中でも、なんとか座ろうとして、四苦八苦していたようだった。彼女は、両足を下ろして、背中をシートに、ぽす、と預けると、「ふう」と安堵の息を吐いた。

「大丈夫、怪我はないわよ。いろいろ、危ない場面もあったけれど……最終的には、擦り傷、掠り傷の類いすら、負わずに済んだ。特殊警棒やスタンガンを携帯しておいて、正解だったわ……」

「よかったです……」燐華は、ほっ、と安堵の息を吐いた。

 燠姫は、両脚の間に、巨大な円柱のような見た目をした物体を置いていた。それは、全体が橙色をしており、上面に「NOVA NITRO」と書かれていた。さきほど、彼女がエクスプロめがけて駆けてきていた時、右脇に抱えていた物だ。

「念のため、確認ですが、この後は、淡本駐屯地に行けばいいのですよね?」

 啖瀬市、談正市、淡本市は、お互いに隣接している。そのうち、淡本市には、陸上自衛隊の駐屯地があった。

「ええ」燠姫は、こくり、と頷いた。「いくら、燮永会とはいえ、自衛隊相手に、真っ向から戦おうとはしないでしょうからね。炉木(ろぎ)さんには、すでに、話を通してあるから。『燮永会に襲撃されたら、逃げ込んでもかまわない』って」

 炉木とは、淡本駐屯地に属している、准陸尉の男性である。燠姫が、駐屯地に対して、「燮永会について、話したいことがある」と問い合わせた結果、彼を紹介された。燐華も、彼女らの話し合いに付き添ったため、炉木の顔は知っていた。

「といっても、炉木さんは、わたしの話に対して、半信半疑、いえ、微信殆疑くらいだったけれどね……」

 燠姫は、そう言いながら、ドアポケットから、あらかじめしまっておいた、自分のスマートフォンを取り出して、スカートのポケットに入れた。

「これで、全信無疑となるでしょう。それでは、打ち合わせどおり、ルートAを使って、駐屯地に向かいます」

 燐華たちは、事前に、燮永会の兵士たちに追いかけられ、エクスプロで逃げるような事態に陥った場合、淡本駐屯地へ行くルートとして、AからJまでを設定していた。ルートAが最短、ルートIが最遠だ。ルートJに至っては、遠い近いの問題ではなく、とにかく、できるだけ、使用したくない。

 それからしばらく、エクスプロを走らせていると、ルートAの一部である自動車道に出くわした。進入すると、淡本駐屯地に向かって、走り始める。

 その後、数分が経過した。そこで、数十メートル後方から、車が、何台か、猛スピードで、燐華たちのいるほうに向かって走ってきていることに気がついた。

 それらは、ボディが真っ黒に塗装されているセダンだった。いずれのボンネットにも、ステッカーが貼られている。それは、一見すると、ただの模様のように思えるが、燐華のように、見当のついている人間には、すぐ、燮永会のロゴマークだとわかるようになっていた。

「追っ手の登場ですね……」燐華は、ハンドルを握っている両手に、さらに、ぎゅっ、と力を込めた。「逃げきってやります!」

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