第03/15話 オープニング2
三月三十日、水曜日、午後四時。
燐華は、爛崎邸にある部屋の前に立っていた。格好は、昼の散歩の時と同じだ。
燠姫は、鶯磐庭園の散歩を終えた後、仕事用の部屋に籠もって、各種の作業に取り組んでいた。燐華は、いつ、彼女から雑用を頼まれてもいいように、扉の脇にて、待機していた。
燐華は、スマートフォンを操作しており、インターネットブラウザーアプリを使って、大手マスメディアの運営している、ニュースまとめサイトを閲覧していた。燠姫は、頻繁に雑用を命じてくる、というわけではない。燐華は、数時間にわたって、部屋の前で立ちっぱなし、ということが、ざらにあった。そのため、燠姫は、燐華に、待機している間、暇を潰すことを、許可していた。
燐華は、画面をスワイプすると、ニュース一覧ページを、下にスクロールさせていった。「石狩湾新港に超巨大ゴマフアザラシ上陸」だの、「田中棋聖インタビュー:実はチェス派」だの、「琵琶湖 渇水による消失から10年」だの、さまざまな記事が出てきた。サムネイル画像の右横に、タイトル文が書かれている。
数秒後、燐華は、眉間にわずかに皺を寄せた。いったん、ページを止めると、今度は、上にゆっくりスクロールさせて、目当ての記事を探す。
しばらくして、それを見つけた。「燮永会の煤山容疑者 淡本市で拘束」というタイトルだった。サムネイル画像には、煤山容疑者であろう、四十代くらいの女性の顔写真が設定されている。
「燮永(しょうえい)会……」
燐華は、ぼそり、と呟いた。燮永会とは、九州地方にある栄柳(さかえやなぎ)県を至上主義とするテロ組織だ。栄柳県ならびに九州地方を征服し、国家として独立させることを目的としている。栄柳県そのものは、九州地方の北部に位置しており、福岡県と佐賀県に隣接していた。
「その、燮永会の会員が、捕まったのですか……」
燐華は、そう呟くと、記事のタイトル部分をタップした。本文が書かれているページに遷移し、その内容を閲覧し始める。
記事によると、昨日の深夜、燮永会の会員である煤山(すすやま)灯子(とうこ)という女性が、蛍陽道の淡本(あわもと)市で捕まったらしい。彼女は結婚しており、夫の炊男(たきお)も、燮永会に属している。炊男は、まだ捕まっていないが、灯子の所持品から、一週間前まで、長野県の餤場(たんば)市にいた、ということがわかっており、現在、その市を捜索している、とのことだった。
「……」
燐華は、記事に掲載されている、灯子の写真を、じっ、と見つめた。それの顔あたりの部分は、前のページで、サムネイル画像として使われていた。
「どこかで、見かけたような……あっ!」
燐華は思わず、独り言ちる声のボリュームを上げた。彼女の顔を、どこで目にしたか、思い出したからだ。
それは、今日の昼に拾って、管理事務所に届けた、落とし物であるスマートフォンだった。
燐華は、灯子の写真を、あらためて、まじまじ、と見つめた。よく観察してみても、やはり、あのスマートフォンの待ち受け画面に設定されていた画像に写っていた女性と、同じ顔をしていた。
「あのスマホは、おそらく、夫である炊男の物……ということは──なんですか? 煤山炊男は、鶯磐庭園に来たことがある、ということですか?
……そういえば、一昨日の晩、ここら一帯に、大雨が降りましたね……まさしく、バケツ、いや、ビニールプールをひっくり返したような雨でした」
燐華は、インターネットブラウザーアプリを使うと、今日の昼に拾ったスマートフォンのメーカーのホームページにアクセスして、その端末について調べた。結果、それには、防水機能の類いは備わっていない、ということがわかった。
「しかし、あのスマホは、故障していませんでした……ということは、煤山炊男が鶯磐庭園に来たのは、昨日、ということですか?
……とにかく、このことは、お嬢さまに報告しておいたほうがいいでしょう」
燐華は、そう考えた。つい最近、テロ組織の一員が鶯磐庭園を訪れた、だなんて、無視できる情報ではない。
燠姫の仕事が終わってからにしようか。いや。もしかしたら、こうしている間にも、庭園を標的としたテロ計画が、刻一刻と進んでいるのかもしれないのだ。失礼を承知で、今すぐ報告したほうがいいだろう。
そう結論を出すと、燐華は、燠姫の部屋の扉を、こんこん、と強めにノックした。部屋には、防音機能が備わっているため、返事を聴くことはできない。彼女が開けてくれるのを待つしかなかった。
十数秒後、燠姫が扉を、がちゃり、と開けた。「何かあったの?」眉間に軽く皺を寄せている。仕事を邪魔されたことによる不機嫌、というよりは、燐華の急用に対する不安に起因するものだろう。
「お仕事中、申し訳ございません。実は、ご報告したいことがありまして……中に入れていただいてもよろしいでしょうか?」
少し、長い話になるだろう。出入り口で、立ったまま話すより、部屋に入ったほうがいい。
「わかったわ。あ……ちょっと待ってちょうだい、いろいろ片づけるから」
燠姫は、そう言うと、扉を、ばたん、と閉めた。数十秒後、再び、がちゃり、と開けると、「もう、いいわよ」と言って、体を引っ込めた。
「失礼します」
燐華は、そう言って、室内に入った。扉を、ばたん、と閉める。
爛崎邸は、とても大きく、たくさんの部屋がある。燠姫は、それらを、寝室だの、ビデオゲーム部屋だの、トレーニングルームだの、贅沢に使っていた。
燠姫が今いるのは、それらのうちの一つ、仕事部屋だった。名前のとおり、自宅に持ち帰った仕事を処理する時に使用されるため、デザイン性よりも機能性のほうが重視されている。あちこちに、ロッカーだの書類棚だのが置かれており、まるでオフィスのようだった。
部屋の南西の隅には、簡易な応接スペースが設けられていた。安物のソファー二台が、背の低いテーブルを挟んで、向い合わせに置かれている。
燠姫は、それらのうち、奥にあるほうに腰を下ろした。「で、報告って?」格好は、昼の散歩の時と同じだ。
燐華は、手前にあるほうのソファーに座ると、「実は──」と、話を始めた。煤山灯子・炊男の件を、かくかくしかじかと説明する。
「なるほど……」燠姫は、ふう、と溜め息を吐いた。「それじゃあ、燮永会の対応もしないといけないわね……」
「しかし……煤山炊男は、どうして、鶯磐庭園に来たのでしょうか? 何か、観光とか……?」
まさか、と燠姫は言った。「テロ組織の構成員で、警察に追われる身である人間に、観光なんてする余裕はないわ。だいいち、そんなことをしていたら、警察に通報されたり、あるいは、直接、見つかったりして、捕まってしまうかもしれないじゃない」
「それは、そうですね……」
「それより……一つ、気になることがあるわ」
「気になること?」燐華は首を傾げた。「何ですか?」
「まず、煤山灯子は、蛍陽道の淡本市で捕まったわ。実は、淡本市って、談正市に隣接しているのよ。
次に、煤山炊男は、一週間前、長野県の餤場市にいたそうじゃない。この餤場市なんだけど、大きな火山があることで有名なのよ。
さらに、彼は、昨日、鶯磐庭園に来た……」
燐華は、燠姫が気になっているということを、理解した。「三箇所とも、火山地帯ですね」
「そうなのよ。さっきも言ったけれど、警察に追われている身である人間が、大した用もなく、外をうろつくわけがないわ。絶対に、何らかの強い意図があって、町を訪れたに決まっている。で、それらの町は、すべて、火山地帯……。
どうやら、燮永会は、火山に対して、何かしらの関心を寄せているようね」
「ですが……いったい、何の?」
「さすがに、そこまでは、ねえ……とにかく、この件は、一刻も早く、警察に知らせたほうがいいわね。燐華、例のスマホ、持ってきてちょうだい。今なら、まだ、事務所には、人がいるはずよ」
「承知しました」
燐華は、そう返事をすると、部屋を出た。ガレージへ行き、仕事用の車に乗り込む。爛崎邸を後にすると、鶯磐庭園に向かった。
数分後、目的地に着いた。燐華は、車を、従業員用の駐車場に停めると、すぐさま事務所に向かった。到着するなり、所員に頼んで、今日の昼、彼女が落とし物として届けたスマートフォンを、持ってきてもらった。
燐華は、それを手に入れると、行きと同じようにして、爛崎邸に戻った。ガレージに車を停め、燠姫の仕事部屋に向かう。
到着するなり、扉をノックした。燠姫は、待ちかねていたようで、すぐに扉を開けた。二人して、応接スペースのソファーに座った。
「これが、そのスマホです」
燐華は、そう言いながら、炊男の物であろうスマートフォンを、エプロンのポケットから取り出した。ケースの蓋を開け、テーブルの上に置く。真っ暗になっているディスプレイを明るくしようとして、ホームボタンを押した。
しかし、画面は、真っ暗なままだった。
「……電池切れでしょうか?」
燐華は、そう呟きながら、ホームボタンを長押しした。電池切れであれば、そのような意味のマークが、画面に表示されるはずだ。
しかし、表示されたのは、「ようこそ」「初期設定を行ってください」という文言だった。
「初期化されてしまっているわね……」燠姫が眉間に皺を寄せた。「おそらく、スマホを落としたことに気づいた煤山炊男が、端末を初期化する手続きを行ったのでしょうね。そういうサービスがあるのよ、スマホを紛失した人のために」
「そんな……」
燐華は、諦めきれず、その後も、スマートフォンを操作した。そして、初期設定を適当に完了させた後に、各種のデータを確認してみたが、何も残ってはいなかった。
「これじゃあ、このスマホが、煤山炊男の所有物だった、というエビデンスがないわね……」
「しかし、煤山炊男の物であることは、事実なんです。初期化された状態ではありますが、このスマホ、警察に提出してはどうでしょう? もしかしたら、彼らの調査によって、何らかの事実が判明するかもしれません」
「そうしたいんだけどねえ……」燠姫は顔を渋くした。「ほら、営鞍県の警察って、煩林(はんばやし)家との繋がりが、とても深いから……」
「ああ……」燐華も顔を顰めた。
煩林家とは、営鞍県において、爛崎家と同じくらい高い権力を有している家だ。彼らは、爛崎家のことを、一方的にライバル視している。警察の能力を悪用して、爛崎家を陥れようとしたことも、何度かあった。
「スマホの待ち受け画面に、燐華の言ったとおりの画像さえ、設定されていれば、いくら、煩林家の息がかかっているとはいえ、警察は、動かざるを得なくなるに違いないのだけれど……これじゃあ、ね。提出しても、黙殺される可能性が高いわ。それに……煩林家としては、むしろ、爛崎家の所有する庭園にてテロが発生することを、歓迎するんじゃないかしら?」
「煩林家なら、あり得ますね……しかし、どうすれば?」
「……とりあえず、このスマホは、預からせてもらうわね。もう少し、いろいろ、調べてみるわ」
「承知しました。お願いします」燐華は首を縦に振った。
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