第02/15話 オープニング1
三月三十日、水曜日、午後二時。
燐華は、鶯磐(うぐいすいわ)庭園で、燠姫の散歩に付き添っていた。彼女の体に日光が当たらないよう、日傘を差してやったり、邪魔にならない程度に、会話の相手をしたりしていた。
「ホント、いつ見ても、綺麗ねえ……」
燠姫は、瑩晶(えいしょう)池を見ながら、ふう、と感嘆の息を漏らした。池は、人間が手を加えたわけでもないのに、綺麗な楕円形をしていた。地中から湧き出ている水は、棲息しているバクテリアにより、中心部が青く、円周部が赤く着色されていた。両者の間は、虹のようなグラデーションになっている。いわゆる熱水泉で、水面からは、白い湯気が立ち昇っていた。春の陽気も手伝って、周囲は、思わず眠気を覚えるほどに、暖かかった。
池の手前では、歩道が東西に通っており、二人は、そこに立っていた。歩道の脇には、利用客が勝手に入らないよう、金属製の柵が立てられている。近くには、解説ボードだの、写真撮影スポットだのが設けられていた。
「この池には、よく訪れるのだけれど……何回、見ても、感動するわ」
鶯磐庭園は、営鞍(えいくら)県の南部にある、広大な庭園である。全域が、いわゆる火山地帯となっており、観光名所として栄えていた。ここにしか棲息していない動植物や、火山活動が織り成した独特の地形、多様な効能を有する温泉など、エンターテイメントの要素は、無数に存在した。営鞍県そのものは、四国地方の東部に位置しており、徳島県と高知県に隣接している。
燐華は、燠姫の独り言が続かないことを確認してから、「わたしも、同じ思いです」と言った。
彼女は、鳩尾に届くくらいに伸ばした銀髪を、ツインテールに纏めていた。髪を結ぶのには、蝶々結びにした、水色のリボンを使っている。瞳は銀色で、目つきからは、おっとりとした印象を受けた。身長は、同年代の平均より、一頭身ほど低く、胸は、同年代の平均より、一回りほど大きかった。
「お嬢さまの付き添いとして、この池は、何度も目にしていますが……飽きることがありません」
燐華は、黒い半袖ブラウスを着て、黒い膝上丈スカートを穿いていた。それらの上から、白いエプロンを羽織っている。頭には、白いヘッドドレスを載せており、脚は、白いハイソックスで包んでいた。いわゆる、メイド服だ。
「とても、幻想的な光景なのよね……」燠姫は、うんうん、と頷いた。「何かの、ファンタジーな物語に登場しても、おかしくないくらい」
彼女は、鳩尾に届くくらいに伸ばした黒髪のうち、後ろ髪を、ポニーテールに纏めていた。髪を結ぶのには、蝶々結びにした、紺色のリボンを使っている。横髪は、ストレートに垂らしていた。身長は、燐華より、一頭身ほど高く、胸は、燐華より、三回りほど大きかった。
「それにしても、まるで、温泉にでも浸かっているみたいね……眺めているだけで、癒されるようだわ」
燠姫は、紺色の半袖・膝上丈ワンピースを着ていた。腰には、黒いベルトを締めており、下半身は、黒いタイツで包んでいる。
「最近は、ストレスが溜まる一方だったからね……」彼女は、軽く顔を顰めた。「大変よ、この庭園を運営するのは」
「お疲れさまです」燐華は心の底から同情して言った。
燠姫の実家──爛崎家は、飛鳥時代から続いている名家であり、鶯磐庭園の所有者でもあった。庭園を観光名所として一般に公開する、という事業を始めたのは、彼女の曽祖父だ。
「昔は、お父さまに、根を詰めないよう、言ったものだけれど……」燠姫は、ふ、と過去を懐かしむような笑みを浮かべた。「今は、わたしのほうが、お父さまよりも、はるかに根を詰めちゃってるわ。それはもう、ぎゅうぎゅう詰めよ」
鶯磐庭園は、毎週水曜日を休園日と設定している。燠姫は、その日に合わせて、定期的に休暇を取得しては、庭園を訪れ、いわゆる貸切状態で、温泉だの散歩だのを楽しんでいた。
「しかし、ちゃんと報われているではありませんか」そう、燐華はフォローした。「お嬢さまが、社長として、見事な経営手腕を振るわれているおかげで、管理会社の利益は、むしろ、以前より、ずっと大きくなっているのでしょう? そういう話を、耳にしたことがあります」
先代の社長・副社長である、燠姫の父母が、交通事故で亡くなったのは、四年前の春、燠姫が中学校を卒業する直前の頃だった。その後、彼女は、高校進学を取り止めると、管理会社の社長の座に就いた。
「幼い頃、お母さまとお父さまに、経営学だの経済学だのを、びしびし叩き込まれたおかげね」燠姫は、ふ、と苦笑した。「……でも、最近は、特に忙しいわ。一週間前に起きた、あれのせいで……」
「ああ……」燐華は瞼をやや下げた。「談正(だんじょう)市の火山が、いきなり、激しく活動し始めた件ですね」
談正市は、蛍陽(けいよう)道にある市だ。全域が、いわゆる火山地帯となっており、あちこちに火山がある。市は、これらの火山を、積極的に活用していた。各種のレジャースポットを用意して、観光客を呼び込んだり、地熱発電を行い、エネルギーを調達したりしていた。蛍陽道そのものは、北海道より南東に位置する巨大な島で、北海道より一回り大きい。
「まさか、よりによって、お嬢さまとわたしが市を訪れている時に、あんな大災害が起きるとは……ひどく驚きました」
「そうね、わたしもびっくりしたわ。なにせ、畑ヶ原(はたけがはら)さんが、『MIKAGEの計算結果では、今日から一ヵ月以内に、レベル1以上の火山活動が発生する確率は、限りなく零に近い、となっています』って言った、数秒後だったから。いきなり、ごごごごご、って地面が揺れて、どどどどど、って轟音が響いて……」
MIKAGEとは、談正市にある鍬井(くわい)火山研究所が開発・運用しているシステムだ。市のあちこちに設置してある無人観測装置で取得したデータを元に、独自に構築したスーパーコンピューターにより、今後の火山活動を予測する。主任の畑ヶ原によると、運用業務がスタートしてから今まで、何度か、火山活動が起きたことがあったが、すべて、このシステムにより、前もって、発生する時刻や、規模の大きさ、火山噴出物の多さなどを、かなり正確に予測できていたため、大した問題に直面することもなく対処できた、とのことだった。
「うちの庭園も、談正市と同じ、火山地帯だからね。MIKAGEと同じ物を、うちでも運用できないか、と思って、説明を聴きに行ったんだけど……まさか、その時に、あんな大災害が発生するなんて。
……でも、所員たちにも、同情するわ。昨日、わたしも、彼らに頼んで、MIKAGEが収集・分析していた、最近のデータを見せてもらったの」
燠姫は、管理会社を経営する傍ら、火山学や地質学などについて、自主的に学んでいる。いくつか、論文を発表したこともあった。
「データ上では、あの火山活動が始まる前、それらしい兆候は、何もなかったのよ。それこそ、一分前の時点においても、普段と変わらなかったわ」
燠姫は、瑩晶池の前を離れて、歩道を進み始めた。燐華も、日傘を差しながら、ついていく。
「あれじゃあ、予測なんて、とてもできないわ。わたしが、ダナイト号から持ち帰ったデータにも、妙な点はなかったし……」
「ああ……あの、ダナイト号から……」そう言うと、燐華は、やや、じとっ、とした目を燠姫に向けた。「昔から、お嬢さまには、強引なところがありますが……それにしても、あれは、強引すぎます。まさか、研究所の近くにある火山の、火口付近に設置してある観測装置──ダナイト号に、データを取りに行く、だなんて……いくら、ちょうどメンテナンス中で、リモートではデータを取ることができず、直接、装置に付いているコントロールパネルを触って、各種の操作を行う必要があった、とはいえ」
「仕方ないじゃない……」燠姫は軽く口を尖らせた。「火山活動が始まった後、畑ヶ原さんたちが、そういう話をしているのを、偶然、聞いちゃったのよ。観測装置の中でも、ダナイト号が取得しているデータは、とりわけ重要度が高い、っていうのも、事前の説明の中で、聴いていたし」
「それは、もちろん、理解できますがね……。ダナイト号の元に着いた後、コントロールパネルを操作して、USBメモリにデータを格納したところまでは、よかったのですが……その直後、火口から、溶岩が溢れてきて、流れてきたものですから。なんとか、車で逃げきれましたが……あと、少しでもタイミングがずれていたならば、わたしたちは、溶岩に飲み込まれていたのですよ」
「だから、あの後、謝ったじゃないの……」燠姫は、少しばかり申し訳なさそうな表情になった。「危険な目に遭わせて、ごめん、って……」
「い、いえいえ」燐華は、慌てたように、首を左右に、ぶんぶん、と振った。「わたしの身なんかは、どうでもいいのですよ。お嬢さまに命じられたなら、どこへでもついていきます。
問題は、お嬢さまです。お嬢さまが、危うく、溶岩に飲み込まれるところだったではありませんか。もし、お嬢さまの身に、何かがあったら、わたし、天国にいらっしゃる奥さまと旦那さまに、顔向けできません」
「……でも、危険を冒した甲斐はあったわよ。あの時、ダナイト号から持ち帰ったデータのおかげで、今回の火山活動に関する研究が、とてもスムーズに進んでいるそうなの。もし、あれがなければ、数ヵ月、いや、数年は遅れていたかもしれない、って、感謝されたわ」
「それは、もちろん、喜ばしいですが……」
「でしょう? もう過ぎたことだし、それよりも、まだ過ぎていないことについて考えましょうよ」ここぞとばかりに、燠姫は、早口で言った。「目下の問題は、風評被害よね……うちも、談正市と同じく、各種の火山活動を売りにしているわけだから。
ここ一週間、お客さまの数が、格段に減少しているわ……なんとか、対策を講じないとね。さすがに、九月にある、愁森(しゅうもり)花火大会の時は、たくさんのお客さまを迎えられるでしょうけれど……それまで、手を拱いているわけにはいかないわ」
燐華たちは、その後も、雑談を交わしながら、歩道を進んでいった。十数分後、二人は、塋傑(えいけつ)御殿に到着した。
塋傑御殿は、戦国時代に建てられたそうで、何らかの遺産として登録されていてもおかしくないような、立派な見た目をしていた。爛崎家が所有する、いわゆる別邸であり、燠姫も、プライベートで、よく利用している。そのため、観光客の立ち入りは禁じていた。御殿自体も、彼らからは見られにくいような位置にあった。
燐華たちは、御殿に上がると、煢然(けいぜん)の間に行った。そこは、燠姫が、特に気に入っている部屋だった。彼女が、この建物を訪れた時は、たいていの場合、煢然の間で、庭をぼんやり眺めたり、昼寝をしたりして、過ごしていた。
「暑いわねえ……」
燠姫は、腰を座布団に下ろし、両脚を前に投げ出し、両手を後ろについた姿勢で、そう呟いた。燐華は、彼女の隣に置かれている座布団の上に、正座していた。
塋傑御殿は、歴史的な価値がとても高いため、各種の電気工事は、まったく行われていない。今、二人の後ろで動作している扇風機も、プラグは、携帯用大型バッテリーに挿されていた。
さらには、少しでも涼しさを得るため、襖や障子の類いは、すべて開け放たれていた。部屋の南側からは、庭の一部が眺められるようになっていた。
「何か、冷たい飲み物でも、買ってきましょうか?」
「そうね……でも、飲み物より、アイスクリームがいいわ」燠姫は、ふああ、と欠伸をした。「ラヴァブロック、買ってきてちょうだい」
ラヴァブロックとは、萩富(はぎとみ)製菓が販売している商品である。真っ黒な直方体に、持ち手である木の棒を突き刺したような見た目をしている、アイスクリームだ。ごつごつした岩のごとき印象を受ける。
「今日は、休園日だから、犖秀(らくしゅう)屋も開いてないけど……」犖秀屋とは、塋傑御殿の近くにある、売店だ。「ラヴァブロックなら、犖秀屋の近くにある、萩富製菓の自販機で売られているはずだから、そこで買ってきてちょうだい。なかったら、他の、チョコ系のアイスでいいから」
「承知しました」
そう返事をすると、燐華は、煢然の間を後にした。その後、御殿からも出ると、歩道に入った。
彼女は、記憶を頼りに、目的地を目指して進みだした。そして、数分後、十字路を左に曲がったところで、数十メートル先に、萩富製菓のアイスクリーム自販機が立っているのを見つけた。それに向かって、歩き始める。
数秒後、歩道の端に、何か、黄色い長方形のような見た目をした物体が落ちているのが、視界に入った。思わず、それに目を遣る。
それは、スマートフォンだった。黄色いケースに収められているが、それの蓋が開いているため、端末が剥き出しとなっている。真っ暗なディスプレイが、砂埃により、ひどく汚れていた。
せっかく見つけたのだし、管理事務所に届けたほうがいいだろう。落とし物の類いは、そこが扱っている。
とはいえ、本日は休園日。落とし主は、十中八九、観光客だろうが、もはや、今日は来園しない。たった数分の差だし、とりあえずは、自分の用を優先してもいいだろう。たしか、朝に確認した天気予報では、雨が降る、ということも言っていなかった。
燐華は、そう結論を出すと、いったん、スマートフォンは放置して、自販機に向かうのを再開した。数十秒後、到着したので、ラヴァブロックを購入し、御殿に戻る。
そして、燠姫にアイスクリームを渡してから、「お嬢さま」と言った。「さきほど、落とし物を見つけました。管理事務所に届けに行ってまいりますので、少し、席を外しますね」
本日は休園日だが、管理会社にとっても休日、というわけではない。事務所には、仕事のため、所員が何人かいるはずだ。彼らに預ければいい。
「わかったわ。行ってらっしゃい」燠姫は、ラヴァブロックの包装を、ぺりぺり、と剥がしながら言った。
その後、燐華は、御殿を出ると、さきほど、スマートフォンを見かけた所に向かった。到着すると、それめがけて、右手を伸ばす。
ケースには、蓋の裏側、つまり端末の左隣に、メモ帳が付いていた。それと端末の間には、短い鉛筆の挿し込まれたホルダーが備えつけられていた。
燐華は、そのスマートフォンを拾い上げた。と、直後、自分の端末を操作する時の癖で、思わず、ホームボタンを押してしまった。真っ暗になっていたディスプレイが、明るくなる。
待ち受け画面には、二人の人物を写した画像が設定されていた。片方は四十代くらいの女性、もう片方は十代くらいの女性だ。二人とも、カメラに向かって、にこやかな笑みを浮かべている。似た顔をしているので、おそらくは親子だろう。きっと、落とし主は男性で、この画像は、妻と娘の写真に違いない。
そんなことを考えたところで、ディスプレイが、ふっ、と暗くなった。燐華は、スマートフォンのケースの蓋を、ぱたん、と閉じると、それをエプロンのポケットにしまい、事務所に向かって歩き出した。
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