2.天使の回想
シルヴィ──シルヴィア・マクガーレンは、美佳のクラスメイトであり、親友と言ってもよい存在だ。
美佳自身は母などの前では、「ワシのお気に入り」などと上から目線で呼んではいたが、天使として数千年生きてきたわりに(あるいは、だからこそ)人づきあいが下手な彼女(元「彼」だが)にとって掛け替えのない大切な存在であることは間違いない。
「おお、今朝も早いの、シルヴィア殿。感心感心。しかし、朝餉はキチンと食べてきたのかえ?」
美佳の後ろから顔を出した由梨絵が、“娘”の友人に問いかける。
「あの……ホットミルクは飲んで来ました」
「ふぅむ。何も胃に入れぬよりはよいが、朝しっかり食べることは壮健に一日を過ごす基じゃぞ? 幸い時間もまだある。ささ、上がって行きなされ」
由梨絵の目配せに「心得た」とばかりに美佳はシルヴィの手を引いて、家に引っ張り込む。
「え? え??」
狼狽えつつ、居間まで連れて来られるシルヴィ──と言うのも、朝の神光寺邸では、じつはおなじみになった光景だ。
「あり合わせで悪いが、召し上がれ」
「で、でも……」
「子供が遠慮するものではない。むしろ、そなたが食べてくれねば、せっかく作った朝餉が無駄になるのじゃが?」
そこまで言われて、シルヴィもようやく箸をつける。量的には、小食な美佳用のさらに半分くらいなのだが、それでも少女には十分なようだ。
──しかし、母娘揃って少女がモキュモキュと純和風な朝食を一生懸命食べている様子を観賞するのは、礼儀的にいかがなものであろうか? いや、確かにシルヴィの食事風景は、リスなどの小動物を彷彿とさせて、和み度は非常に高いのだが。
数分後。
シルヴィアが食休みを兼ねて湯呑に入ったお茶をフウフウしている横で、美佳は由梨絵に髪の毛を整えてもらっていた。
「しかし──美佳よ。そろそろ自分の髪くらいはひとりで梳けるようにならねば、一人前には程遠いぞえ?」
「わ、わかってるよ~。明日からは、ちゃんとやるってば!」
といった、ごくありふれたやりとりを交わす母娘を、シルヴィはどこか羨ましそうに見ている。
美佳の髪をリボンで結びながら、その視線に気づいた由梨絵は、ニコリと笑うと少女を手招きした。
「ふむふむ、美佳の金髪も見事じゃが、そなたの銀色の髪も綺麗じゃな。のう、シルヴィア殿。よければ妾に、そなたの髪を少しいぢらせてはもらえぬか?」
「え!? か、構いませんけど…あの、ご迷惑じゃ……」
「なんのなんの。シルヴィア殿、それに美佳も覚えておくがよい。大人の女性にとって、そなたらのような愛らしい女児を磨き上げ、着飾らせることは、むしろ此方から頭を下げてお願いしたいほど、楽しい行為なのじゃぞ」
故に、そなたらの方で下手な遠慮は無用──と微笑みながら、シルヴィのクセのないシルバーブロンドの髪を優しく
くすぐったいのか僅かに落ちつかなげな表情をしながらも、シルヴィはどこか嬉しそうだ。父子家庭で育ったため、「お母さんのぬくもり」や「母娘のスキンシップ」というものに憧れがあるのかもしれない。
「ほれ、これで美少女度が3割方増したわえ」
「あ、ありがとう、ございます……」
美少女と褒められて、ポーッとしながらも蚊の鳴くような声でお礼を言うシルヴィ。
「なに、妾が好きでやったこと、礼を言われるまでもないわえ。それより、そろそろ通学によい頃合いじゃと思うが?」
由梨絵の言うとおり、確かに今なら歩いてちょうど予鈴直前といったところだろう。
「ああっ、いつの間にそんな時間!? さ、シルヴィ、急ご」
「う、うん。あの……朝ごはん、御馳走さまでした」
美佳に引っ張られつつ、ペコリと頭を下げるシルヴィ。
まさに、金と銀、動と静の好対照なふたりの少女を、にこやかに見送ったあと、由梨絵はフッと短く息を吐いた。
「やれやれ。あれほど良い子が──不憫よのぅ」
* * *
吾輩は天使である。名前はミカエル。
──なに? 「元」天使の間違いではないのか、だと?
たわけが! たとえ、年端もいかぬ女子の擬体(からだ)に魂を押し込められようと、ワシが大天使長ミカエルであることに変わりはない!
それは……確かに、この体になってから、使える霊力は10000分の1になったし、
物を食わねば腹も空くし、夜も9時を回ればもう眠くてたまらぬ。
だいたい、今時の小学6年生なら10時か11時くらいまで起きてるのがジョーシキだってのに、擬体の割にヘンなところでリアルなんだから……もうっ!!
──コホン。
ま、まぁ、その程度は支障にならぬ。たとえ力の大半を奪われ、体も貧弱な女児(あくまで言葉の綾だ。身体そのものは滅多に見られないほどのハイスペックな美少女であることは、自信を持って断言できる)の身に墜ちたとは言え、痩せても枯れても大天使長(元)。いまだワシには、数千年ものあいだ人類を見守り、悪魔どもと戦い続けてきた経験と叡智がある!
──と、この身体になった当初は思っておったのだが。
ふむ、そう言えば、こうなった経緯についてまだ説明していなかったな?
一言で言えば、ワシは「ハメられた」のだよ。それも仇敵たる悪魔どもや、心ない人間などではなく、同胞たる天使、それももっとも信頼していた人物に、な。
事の始まりから話せば長くなるが、十年程前に始まった「悪魔の人間界への移住」が大本の事件ではあったのだろう。
「人間に対する悪魔の暴虐を取り締まること」を主たる任務とする我々天使にとっても、これは一大事だった。
この「移住の実現」によって、悪魔どもの間でタカ派の勢力が弱まり、穏健派といわれる一派が実権を握ったことは、まぁいい。
うるさかろうとおとなしかろうとオオカミはオオカミじゃが、ひっそりと世界の片隅で生きていくというのなら、闇の輩とて寛大に見逃してやる程度の慈悲は、我らにもある。
しかし、それに呼応して、我が盟友たる大天使ガブリエルが「天使の人間界での実体化及び常駐」という案を出してきたときには、さすがに眉をひそめた。
無論、理屈としてはわかる。移住した悪魔どもが悪さをせぬよう見張るというのは、我ら天使の大義からしても外れているわけではない。
ただ、それを従来どおり秘密裏に行うのではなく、これを機に天使の存在を人間に明かし、我らも実体を持ってコトに当たるというのは──少々リスクが大きく、また実際問題として無駄が多いようにも感じたからだ。
それでもデメリットよりメリットが大きいことなどを彼奴らに説かれ、多少引っかかるものはあるが我も決裁書に署名した。なにせ、天使における重大事は、我ら四大天使が合議し、全員の同意が得られなければ決裁されない仕組みとなっておるからな。
しかしながら、ガブリエルが人間界に連れ出した天使の数は二万と三千余名。実に全天使の4分の1に近い数じゃった。
さらに、ユリエルが「両世界のあいだの交流、及びトラブル解決をはかるための機関」として各地に大使館とその分署を設立し、さらに七千名近い人員が(常駐ではなく臨時とはいえ)人間界にその身を置くことになる。
合計三万強。これだけの数の天使を受肉させるのは、大天使二体の力をもってしても難しい……はずだったのだが、両者はこれをとある裏技でクリアーしおった。
それが、(ワシも今入っているような)人間の作った擬体を使う方法だった。
古えの世にも、錬金術師あるいは人形師などさまざまな呼ばれ方をする「霊魂を宿りうる人造の体」を作り上げた者は、少なからずいたことは確かだ。
しかし、人間の科学技術の進歩とやらは、誠に目覚ましい。
かつては、ごく一部の天才しか製作しえなかったホムンクルスやゴーレム、あるいはコッペリアなどに匹敵する「人造の体」を、大量に生産できるようになっているとは……。
そうこうするウチに、天使界でもガブリエルらに賛同する「穏健派」「融和派」と呼ばれる者が過半数を占めるようになっておった。
これは不味い。彼らと相対する派閥の頭とも言うべきワシは少々焦った。
ワシは確かに四大天使の最強のリーダー格ではあるが、同時に絶対的な力の格差が我ら四大天使間であるとは言えぬ。ナンバー2であるガブリエルとナンバー4であるユリエルが組めば、ワシをいろいろな意味で追い落とすことは可能だ。
いくつかとった方策も、勢力図を挽回するような成果はあげられなんだ。
対応に困って、両派のあいだをとりもつ中立派の頭目とされるラファエルに相談したところ、「敵対することばかり考えず、とりあえず人間界を見てから態度を決めてはどうか」とアドバイスされた。
確かに道理ではある。ワシが最後に人間界に降り立ってから千年近い時が流れているし、それからいろいろ現地の様子も変わっているだろう。自分の目で見て判断するという姿勢は、より良い結論を生むのに不可欠な過程だ。
そこで、ワシは数百年ぶりに長期休暇をとり、お忍びで人間界へと出向くことになったのだ。
その際、人間界で行動するにあたって用意されていたのが、この擬体(からだ)だった、というわけだ。
「──ワシにコレを使え、と」
思い切り嫌そうに顔しかめるワシに対して、ラファエルはキョトンとした表情で視線を返したものだ。
「何か問題でも? 最高級品で、かつ一見したところそうと悟られぬような代物を、という注文でしたので、相当苦労したのですが」
確かに、そう言った記憶はある。
そして、目の前の擬体は、ワシの眼をもってしても「ただの人間」と見間違うばかりの精巧な代物だ。並みの天使や悪魔では気づくことすらないだろうし、天使長クラスでも最初から疑ってかからねば見過ごすことだろう。
それは認める。だが……。
「小娘ではないか!」
そう、目の前で白い清楚なワンピースに身を包んで眠るように横たわった擬体の外見は、どこからどう見ても7、8歳くらいの白人の少女、いや幼女と言ったほうがふさわしい外観をしていたのだ。
「ええ、それが何か?」
激発したワシを前にしてもシレッと悪びれない態度を貫ける人物(いや、天使だが)はそう多くないが、生憎とラファエルは、そのひとりだった。
「ワシは……」
「まさか男だ、などと言わないでしょうね? 我々高位の天使に性別は存在しませんよ?」
ぐ……確かに我らは人間の女性のような乳房は存在しないが、同時に男性の徴である陰茎も持たぬ。顔立ちや肌の様子もまさに「中性的」で、人間から見ればどちらか判断に苦しむだろう。
それでも、天使自身の個性というものは、厳として存在する。
受胎告知を行ったガブリエルが女性的な姿で描かれることが多いのと同様に、有事には天使の軍団を率いて戦うワシは、パッと見は20代半ばくらいの偉丈夫に見える外観をとることが常だ。
「本来とはかけ離れた姿形にするほうがカムフラージュの効果は高いのは、おわかりでしょう?」
「む……確かに」
「天使の中で最強の武人たる貴方が、かくも無力な幼女の姿をしていると、誰も想像もつかないでしょう」
「一理ある、か」
ラファエルの説得は確かに相応の説得力はあった。
「それに、この擬体は、本来の何分の1かに落ちますが、天使の霊力を行使できるというスペシャルメイド品ですよ」
「なるほど、か弱い外観はさしてハンデにはならぬと言うわけだな」
──と言った具合に徐々に説得され、この擬体に魂を移して人間界に降り立ったのはよいが……。
「ラファエルの奴めは、地上に降りたら、まずはこの手紙を読めとか言っておったな」
肩から斜めにかけたピンクのポシェットから、か細い指で封筒を取り出す。
てっきり迎えの天使のことでも書いてあるかと思ったのだが……。
「! や、やられたーーーーーッ!」
そこにつづられていた文字は、ワシの頭を怒りと絶望で真っ白に染め上げるのに十分なだけのサイアクの内容を示していた。
1)この擬体では、現時点では霊力は本来の10000分の1以下しか発揮できぬこと。
2)この擬体からミカエルの魂が抜けだす方法はないこと。あえて言うなら「死亡」することだが、なまじ高性能なので大抵の傷は自己修復してしまうこと。
3)人間界での暮らしの手配は、ガブリエルもしくはユリエルに頼れとのこと。
いくつか細かい補足もあったが、おおよそはこんなところだったろうか。
ワシはようやく、ハメられた事に気がついた。ラファエルめ、中立派と云いつつ、実はとっくにガブリエルたちと気脈を通じておったらしい。
それでも、大天使長ミカエルの名にかけて、ワシも当初は独力で頑張ったのじゃが──結局は空腹と心細さに耐えかねて、知己たるユリエルの元を頼るしかなかった。
他の大天使たちと異なり、ワシは現在の人間界に特段のツテを持っておらなんだし、今やこの身は年端もいかぬ小娘。多少の霊力を備えているとは言え、右も左もわからぬ異郷でひとりで生きていくことなぞできるはずもない。
幸いユリエルのもとにはラファエルから連絡がいっていたらしく、フラフラになって現れたワシを「災難じゃったのぅ」と優しく抱きしめてくれた。
(あとになって問いただしたところ、どうやらこの件は、ガブリエル・ユリエルともに感知せず、ラファエルが独断で進めた策らしい)
緊張の糸が切れたワシは年甲斐もなく(イヤ、外見相応と言えばそうなのだが)、わんわん泣きだしてしまったのは、あまり思い出したくない記憶よ。
今思い返せば、アレでワシとユリエル──母上との関係が決まってしまったのだろうなぁ。
人間界では「神光寺由梨絵」と名乗っている彼女は、ワシを養女(むすめ)として引き取り、当面の面倒を見てくれることとなった。
まず始めに「美佳」と言う名前を付けてくれたのも母上だった。姓(かばね)に関して母上と同じ「神光寺」姓とせず、あえて「神威」と名乗ったのは、ワシなりにつまらぬ意地があったからだろう──今となっては、ちと後悔しているが。
一通り落ち着いてから、母上やジブリーとも話し合った結果、当面ワシは素性を伏せてこのまま「神威美佳」という少女として生きていくこととなった。
この擬体は人間同様(正確にはその半分程度のペースで)成長・老化し、およそ200年程度で寿命を迎えるとのこと。
数千年を生きる天使にとって、200年程度なぞ大した長さではない。ちょっと長めの留学にでも来たつもりで腹をくくるしかあるまい。
(そもそもラファエルとの話でも、「いつまで」人間界に滞在するかを決めた覚えはなかったな、そう言えば)
今にして思えば、おそらく彼奴は、人間の守護者を豪語しながら、人間を見下し、軽んじるワシに危機感を抱いていたのだろう。
だからこそ、一度ひとりの人間としての人生を経験してみろ、とワシをこんなふうに地上に放り出したのかもしれん。
──まぁ、彼奴の性格からして、単なる嫌がらせ、もしくは悪戯という線もいまいち捨てきれぬが。
実際、地上で無力な幼子として暮らしていくうちに知ったことや、改めて見えてきたものは、確かに少なくない。
当初こそ不本意な境遇ではあったが、今のワタシは密かにこうなった星の巡り合わせに感謝している面もあったりする──ぜったい、アイツには言ってやらないけどね!
「……かちゃん、美佳ちゃん!」
ハッ! いけないいけない。
授業が退屈なあまり、ついとりとめもない回想にフケってしまったみたいだ。
小声で呼びかけてくれていた隣席のシルヴィにニコリと微笑みかける。
「あ、うん、何、シルヴィ?」
「何って……先生に指されたよ、ホラ教科書の98ページ、第3問」
ぐぁ! よりによって、社会科の時間でかぁ。
これが算数や理科なら問題ない。国語でも何とかなる。これでも前世(もと)は、まがりなにりにも大天使。人間の初等レベルの学問くらいはお茶の子だ。
しかし、小学生の社会科は“知らない”と“堪えられない”問題が大半だ。そして、いかにワタシがミカエルの魂を持つとは言え、こんな極東の島国の地理や社会情勢に通暁しているはずもない。
そして、間の悪いことに、今ワタシがあたった問題も、まさにそういう類いの知識を問うものだった。苦心の末捻りだした答えは、先生に「ギリギリ正解」という評価を得て、無事着席することができた。
ま、まぁ、時にはこーいうこともあるけど、だいたい学校は楽しいと思うんだ! ……おもに授業時間以外が、だけど。
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