鶴になった父ちゃん

一本杉省吾

 鶴になった父ちゃん 

 ~河川敷~

東急田園都市線二子玉川の多摩川の河川敷、喪服を着た一人の男性。胡坐をかいて、コンクリートの上、直に座りこんでいる。黒いネクタイを緩め、赤キャビンを吸っていた。五日前、父親が死んだ。享年、七十五歳であった。

 <フぅう!>煙草の煙を、思い切り、肺に入れて吐き出す。もう、流す涙は残っていない。昨晩、十年分の涙を流してしまった。突然の父親の訃報。十年以上も、顔を合していなかった父親。久し振りに顔を見たのが、死に顔であった。

 河川敷に、蝉の鳴きが、やたらと、うるさい! お盆が明けた季節、今年最後の悪あがきなのだろうか。今年の夏は、とにかく暑かった。毎日、テレビから流れるニュースには、必ず(猛暑、熱帯夜)と云った言葉が出ない日がないくらい、暑かった。

 陽がまだ高い河川敷、岸の向こう側には、真っ黒に日焼けした子供達が、野球をしている。鉄橋の麓には、川釣りをしている子供達の姿も見える。男性の子供の頃も、土地は違えど、日焼けをして、夏休みと云うものを楽しんでいた。そんな風景を目にして、男性は何を想っているのだろう。

 とにかく、私は逝ってしまった父親の事が、大嫌いであった。


 ~五日前~

 自宅から、車で十五分のマンションの一室が、この男性の仕事場である。

 お昼前、デスクに向かって、キーボードを叩いているところに、携帯の呼び出し音が鳴る。【奈々子】と云う名前が、水晶画面に表示されている。キーボードを叩く事を止めず、携帯を手に取る事をしない。

 何だよ!

携帯の呼び出し音が、鳴りやまない事にたまりかねて、そんな言葉を上げて、携帯を手に取る。

 「高ちゃん、早く出てよ!」

 当たり前の事であるが、妻の声である。あえて、何も言わず、折りたたみの携帯を開いた男性の耳に、慌てている妻の言葉が、叫んでいる妻の声が、耳の奥まで響いていた。それに、五十近い男に、【高ちゃん】はないだろうと、そんな事を考えてしまう。

 「仕事中だよ。やっと、イメージが…、なんだよ。」

 慌てている妻の事など、気にも止めず、怒鳴りつける。男性の氏名は井岡高志、職業は物書きである。自分のオフィスを構えているぐらいであるから、そこそこの作家なのだろう。

 「締め切りが近い事ぐらい、知ってんだろうが、電話してくんナ。」

 相当、イライラしている。締め切りが近くなると、いつもこんな感じであった。

 「ごめんなさい。でも、緊急なの。高ちゃんのお父さんが、亡くなって、電話があったの。」

 気が高ぶっている事が、冷めていく。もう十年も、顔を合わせていない父親。存在すら、忘れてしまっていた父親の顔が、頭に浮かんだ。

 「でね、今、千葉の九十九里の方の病院だって、住所聞いたから、言うね。」

 何も考えられないが、身体だけは勝手に動いている。別に、父親の死が哀しいわけではない。好き勝手に生きてきた人なのだから、どんな死に方をしても、仕方がないと思う。言葉では言い表せない、複雑な感情が、高志を包んでいた。


 ~九十九里浜~

 HONDA、インサイドに乗り込む高志。カーナビに、病院の住所を打ち込んで、高速に乗っていた。両親は、二十五年前、離婚をしていた。高志が、上京して、五年目の冬。一枚の葉書で、その事を知らせてきた父親。離婚理由は、父親の暴力だと、思っている。子供の頃、酒に酔い、母親の事を殴っていた状況を想い出す。あの時分、とにかく、父親の事が怖かった。怖くて、怖くて、仕方がなかった。父親が晩酌をしていると、姉と二人、何とも言えない緊張感に包まれていたのを、忘れはしない。

 アクアラインを通り、房総半島を横切り、三時間ほどで、目的地の病院に着いた。九十九里浜市内の総合病院。どことなく、十八歳まで住んでいた町の匂いがしている。

 父親の遺体の傍には、一人の女性がいた。年は、高志より上ではあるが、まだ六十歳にはなっていないように思えた。現在の父親の連れ合いらしい。

 <あなたが、高志君ね>その女性は、遺体安置室に現れた高志の姿を見て、そんな言葉をかけてきた。女性に導かれて、父親の遺体の横に立つ高志。顔に掛けられた白い布を右手でめくってみると、白ぽく、目を閉じた父親の顔が、瞳に飛び込んでくる。記憶に残る父親よりも、大分痩せていた。

 「胃癌だったから、大分、痩せているでしょ。」

 高志の心を読んだのか、そんな言葉を口にする女性。正直、父親の遺体を目にしても、涙は流れてこなかった。

 十一年前に、母親の死にも対面しているせいなのか、父親に対する思い入れが、あまりにもないせいなのか、父親の遺体をモノとして考えていた。高志が、物書き一本で食っていける様になった三十歳前後、鹿児島から母親を呼んでいた。他界する十年ほど、一緒に生活をしていた。離婚をしても、高志の母親であるのだから、当たり前の事であった。

 「やっぱり、親子よね。勝範さんに似てる。勝範さん、いつも、高志君の自慢ばかりだったのよ。息を引き取る間近でも、あなたの名前、ずっと、呼んでいたわ。」

 正直、そんな事を言われても、うれしくはない。女性は、しおらしく、ハンカチで目尻を押さえていた。

 (あなた、お父さんに、そっくりよ。煙草の吸い方から、歩く後ろ姿、極めつけは、<おい、酒>って言う時の仕草なんて、生き写しよ)

 十年前に、妻が言った言葉を思い出す。母親が亡くなって、しばらく経った頃、突然、鹿児島から上京して、一週間ほど、自宅に滞在していた。目的は、母親の位牌に、線香をあげる事であったらしいが、ほとんど口を聞かなかった高志には、父親の心情までは分かりかねる。

 雑誌の取材で、父親像を聞かれるのであるが、高志は、こう答えていた。

 (感謝はしているが、信用はしていない)

 物書きらしい、言い回しではあるが、取材をする記者は、ポカーンとした表情を浮かべるのである。

 (後は、あなたの解釈で、記事にしてください)

 そんな言葉を付け加え、笑みを浮かべる。言葉を武器に、飯を食っている者同士のちょっとした遊びに捉えられる事が多いのであるが、実際は違っていた。父親から、逃げる様に鹿児島から出てきた高志にとって、父親の存在は、煙たかった。言葉通り、十八歳まで、こんなひねくれ者を育ててくれたのは、頭が下がるほど、感謝をしている。しかし、父親の生き方、考えに関しては、信用をしていない。と云うよりも、認めていない。高志は、大阪で生まれいる。小学三年の時に、名古屋に引っ越し、小学六年で、父親の故郷である鹿児島に帰郷している。引っ越しの理由は、父親の仕事関係の転勤とか云うものではなく、只の父親の気まぐれである。父親からすれば、色んな理由があるのだろうが、高志には、そうとしか思えなかった。現に、気まぐれに職を変え、子供達の事を考えず、相談もせずに、実行してしまう。鹿児島に戻ってからも、何度か職を変えていた。落ち着いたのは、高志が中三の時期、道路舗装を専門にする会社であった。

 「あの、父親とは、どのような関係、何ですか。」

 思わず、そんな質問を聞き返してしまう高志。馴れ馴れしく、言葉をかけてくるこの女性に対しての嫌味でもあった。

 …

案の定、黙ってしまう。口の噤んだ女性に対して、色んな言葉を浴びせていた。父親の遺体に手を合わせず、これからの事の方が、高志にとっては大事であった。葬儀は何処でするのか、位牌は誰が持つのか、突き詰めなければいけない事が山積みなのである。女性は、高志が発する言葉に、素直に頷いてくれていた。十年、いや、両親が離婚してから数えると、二十五年は、親子らしき会話を交わしていない。姓は、父親の姓(井岡)を名乗っている以上、自分の所で葬儀を挙げなければいけない。位牌に関してもそうである。目の前にいる女性は、現在一緒に暮らしていても、籍は入れていない。父親の死より、そんな世間体の事ばかり考えていた。そして、女性は、少し強い口調で発していた高志の言葉に、全てに頭を縦に振ってくれた。最後に、遺品を送りたいと云う希望で、お互いの住所を交換する。話し合わなければいけない事が終わり、ほぼ希望通りに終わり、安堵の表情を浮かべる高志の耳に、こんな言葉が届いた。

 <高志君、さっきの質問だけど…>

女性が、父親の遺体前で手を合わせている姿が、瞳に映る。

 「勝範さんとの関係は、恋人かな。」

 六十近い女性の口から、【恋人】と云う言葉が出てくるとは思わなかった。こっちの方が、紅潮してしまう。嫌味のつもりで発した言葉に、【恋人】と返してきた女性の姿に、視線を逸らせなくなる。皺が目立つ手の平を合わせて、深く瞳を閉じている。線香の匂いが漂うこの空間に、この二人だけが居る。時間が止まったような感覚が、高志を襲う。女性が瞳を開き、口が動いた。聞こえるか聞こえないかぐらいの、視線を逸らしていれば、聞こえていなかったであろう小さな声だった。

 『勝範さん、七年間、いい思い出をありがとうね。安らかに…』

 優しい笑みを浮かべていた。そして、女性は、高志に深々と頭を下げて、部屋を出て行く。そんな女性の言動に、何とも言えない気持ちになってしまう。そんな気持ちを振り切って、病院関係者の元に足を向ける。まだ、やらなければいけない事があるのだ。



 ~川崎市郊外~

 高志の自宅は、少し騒がしくなっていた。この時代に、自宅で葬儀を行う事は少ないであろう。まあ、葬儀が出来るだけの広い自宅を所有している人間も少なくなってきていると思う。川崎市の郊外、築五十年以上の平屋。川崎市の郊外、こんな贅沢の家の造りをしているのは、もうここしかない。ここを購入する時、少しは手を加えてはいるが、古屋しての門がまえは健在である。

 父親の親戚が、ほぼ九州に在住している事もあり、連絡等々に手間取ったこともある。一日遅れて、お通夜をする事になった。福岡にいる姉にも連絡を取り、鹿児島からも、幾人かの親戚が集まっていた。ほぼ、疎遠になっていた親戚達。急な事で、飛行機代を使ってまで、ここ川崎に来る人は少なく、少人数の密葬と云う形になっていた。ここ三日間は、あっという間に過ぎていた。父親の葬儀の為に、業務的に動き回る高志。今日、集まった親戚達とも、大人の対応をしている。福岡に在住する姉とも、母親の葬儀以来であるから、十年振りに顔を合わせる。お互いに、老いていた。共通の話題と云えば、子供の頃の思い出話くらいなもので、ダラダラと時間が流れていくだけであった。

 フぅ…

騒がしい宴席を離れて、自分の書斎で、赤キャビンを咥えている。

 疲れる…

高志の本音である。この年になると、煩わしい付き合いをしなければいけない。何十年も逢っていない親戚とも、話しを合わせなければいけない。まあ、遠い九州から、父親の事を弔う為に集まってくれたのである。仕方ないと云えば、仕方がない。

 不意に、書斎の本棚の前に視線を向ける。中ぐらいの段ボールが置かれていた。見に覚えのない箱の存在に、視線を向けてしまう。

 なんだ、これは…

そんな言葉を発して、段ボールに近づく。

 宅配便か、いつ届いたんだ。

宅配便の札を目にすると、続け様に、そんな言葉を口にしていた。送り主の住所と名前を確認すると、身に覚えがない。

 「千葉県、九十九里浜市…。田中真理子…。誰だ。」

しばらく、考え込む。三日前の事を、すっかり忘れてしまっていた。

 あぁ…

九十九里での父親の連れ合いの顔を思い出す。

 「田中真理子…。そういえば、名前聞いていなかったな。遺品送るって言っていたけど、そんな事しなくてもいいのに…」

 半ば呆れ顔で、段ボールを覗いてみる。あられ、煎餅が入っていたのであろう長方形の缶に、ハードカバーの本、一通の手紙が入っていた。おもむろに、手紙の方に手を伸ばす。九十九里浜で会った、田中真理子と云う女性が書いたものであろう。

 ≪高志様

 先日は、ここ九十九里浜まで、お足を運んでいただき、ありがとうございます。勝範さんが、自慢する息子さんに逢えて、光栄に思っています。私は、七年前に、勝範さんと出会い、生活を共にさせてもらいました。男と女の事であり、息子の高志さんには、いい思いをしていられないと思いますが、私は、この七年間、勝範さんと出会った事を幸せと思い、残りの人生を、この思い出を胸に生きて行きたいと思っています。

 勝範さんの大事にしたものを送らせていただきます。それでは、失礼します。≫

 達筆の筆文字で書かれていた手紙の内容に目を通し、視線を段ボールの中身に向ける。錆ついた缶カラを手に取り、自分の机に持っていく。高志は、缶の蓋を開けるのに、躊躇している。どんなものが入っているのか、興味は湧いているが、いざ、開けるとなると、その勇気が湧いてこない。現実から目を逸らす様に、立ち上がり、また段ボールに視線を向けた。ハードカバーの本、身に覚えはある。間違いなく、高志が書いた小説である。十数冊、高志が筆を取った作品が、全て入っている。その中から、(ぼくとあなたと白い雲)を手にする。

 懐かしい

思わず、そんな言葉を発してしまう。この作品は、高志のデビュー作、あまり売れなかったもの。

 こんなもの、よく持っていたなぁ

続け様に、そんな言葉を口にしながら、ペラペラと、本を捲ってみる。

 あっ!

本の隙間から、一通な茶封筒が、落ちて行く。反射的に、茶封筒に視線を向けて、拾っていた。

 封筒の表面には、住所も名前も書かれていない。高志は、身体を机に移動させて、椅子に体重を預けた。蛍光灯の灯りに封筒を透かして見る。中身は、手紙の様である。封を切って、手紙に目を通した。紙に書かれている文字がぼやけてくる。高志自身、今自分に起こっている現象がなんであるのか分からなかった。高志の瞳に、涙が溢れていた。

 

 ~手紙~

≪高志が、作家デビューをするとは、夢にも思わなかった。私の息子が、小説家とは驚きである。多分、この手紙は、息子の元には、届くことはないだろう。息子は、私の事を嫌っている。そして、私も、この封筒をポストに入れるつもりもない。なのに、なぜ、こんな手紙を書いているのだろう。書かずには入れない、あの高志が、小説家とは…もう何年会っていないだろう。私は、それでいいと思う。高志は、私を嫌うと云う事を糧に、頑張っているのだと思う。あんな親父みたいには、生きたくないと思い、人生を歩いてきたのだと考える。そうであれば、私は、高志の前に顔を出さない事が一番なのであろう。父親としては、悲しいことだ。しかし、高志の事を思えば、私は、嫌われ役で十分である。

私は、自分勝手に生きてきた。あいつにも、迷惑を掛けた。そんな妻が、逝ってしまう。別れた私が、妻の葬儀に行っていいものなのか。行かない方がいい。でも、妻に手を合わせたい。こんな私と、少なからず、共に生きてくれたのだから…こんな手紙を書いているとは、少し酔っているのかもしれない。今日は、もう少し飲もう。妻の弔いである。≫

こんな内容の手紙。何箇所が、涙で、文字が滲んでいた。母親が亡くなった日に、この手紙が書かれていた事が想像できた。高志の瞳に熱いものが込みあがってくる。必死に止めようとするが、止まらない。高志には、なぜ、涙が溢れてくるのか分からなかった。こんな想いが、自分の心に残っていた事が信じられなかった。

うぉぉ!

鳥肌が、身体全体を覆った瞬間、叫び声を上げていた。必死に堪えようとしていた涙が、瞳から溢れだした。もう止まらない。もう止めようともしない。高志は、この瞬間、父親の死を認めた。


~缶カラ~

しばらく、高志は泣いていた。こんな涙を流したのは、何年振りであろう。この前、涙を流した事など覚えていない。

机の上にあるティッシュを手に取り、涙を拭いていると、さっき、開ける事を躊躇していた缶カラに目が行く。缶カラの中に入っているもの、鼻水を啜りながら、手を伸ばしていた。

 カラッ!

何の躊躇もなく、缶カラの蓋を開けていた。さっきのあれは、なんであったのだろう。涙と一緒に、流してしまったのだろうか。

缶カラの中身、作文に似顔絵、高志が幼い頃にかいたものである。(父さんの顔)と、読むに読めない子供の文字で、デカデカと書かれている。父親の顔は、笑っていた。

 こんなもん、いつのだ

クレヨンで描かれた似顔絵を手に取り、そんな言葉を口にする。思わず、笑みを浮かべてしまう。

「よく、こんなもん、とっていたなぁ。」

感心してしまう。他には、小学校の時の通知表は、全部とは云わないが残っている。キャラクター入りの筆箱に、下敷きもあった。

「何で、こんなものまで…あれ!」

缶カラの底に進むにつれて、ガラクタに近いものが、高志の手に取られていく。そして、高志のものでないものが、底の方に一つだけあった。

「何で、父ちゃんの腕時計が、あるんよ。」

見ただけで、父親とものだとわかる。父親が、いつもつけていた腕時計。高志は、その腕時計を手に取り、耳に近付ける。

 …

何も、聞こえない。すぐさま、腕時計を持った手を振ってみる。そして、耳に近付けてみる。

 …

やはり、何も聞こえない。ふと、高志は、考えてみる。この時計は、いつから、壊れているのだろう。いつから、時を刻まなくなったのだろう。そんな事を、考えてしまう。すると、昔の情景が、頭の中に浮かんできた。


~出水・高尾野~

HONDA・スーパーカブに跨り、国道三号線。

東シナ海が左に見て、走らせている。若き日の父親の腰に必死にしがみついている幼い高志の姿。どのぐらい前の記憶なのであろう。幼稚園、小学校低学年。そのぐらいの記憶である。防寒着に革の手袋、幼き高志も、ぶ厚いジャンパーに手袋、この服装から、冬の記憶である。ハンドルを握る父親の手首には、ごっつい腕時計が、印象的に記憶に残る。

米野津川を渡り、出水、高尾野の原野に向かっていた。吐く息が真っ白に染まっている。いつの間にか、雪が降っていた。

(高志、寒くないか)<大丈夫>

アクセルを緩め、そんな言葉を高志にかける。父親は、満面の笑みを浮かべて、(そうか)と言葉にした。こんな寒い中、こんな所まで、何をしに来たのだろう。出水・高尾野は、鹿児島の北部、熊本との県境に位置する町。鹿児島市内から、このスーパーカブだと、二時間以上はかかる距離である。南九州と云っても、冬は寒い。盆地の方は、雪も降る。そんな中でも、幼い高志は、楽しそうに微笑んでいる。

建物が全く見えない原野の道、真っ白い雪が、白銀の空から、しんしんと降っている。湖の風景が瞳に映ったのと同時に、スーパーカブのエンジン音が止んだ。

父親と手を繋ぎ、背中を見ながら、歩いていく。湖のほとりに着くと、父親が、白銀の空に向かって指を差した。

(ほら、高志、見てみろ)<わぁぁ!>

白銀の空から、鶴の群れが舞い降りてきた。雪降る空から、天使の様に、一勢に舞い降りてきた。高志は、歓声を上げる。夢中になり、舞い降りてくる鶴の群れを見つめていた。


もう、時を刻んでいない腕時計を握り締め、何十年も前、まだ、幼い頃の記憶が、頭の中に蘇った。

 父ちゃん!

父親の腕時計を握り締め、おでこに当てる。叫んだ。叫ばずにいられなかった。叫んだ後、大粒の涙が溢れてくる。もう、どうする事もできない。声を殺す事はない。思い切り、叫んだ、泣いた。自宅が揺れるぐらい、叫んだ。多分、宴席まで届いているだろう。そんな事など、もうどうでもいい。

『父ちゃん、父ちゃん!』

あの時、父親がつけていた腕時計。舞い降りる鶴の群れに向かって指を差す、手首に巻かれていた父親の腕時計。逢いたい、もう一度逢いたい、生きていてくれるだけで、本当は良かった。父ちゃんに、逢いたい、もう一度逢いたい。そんな事を想いながら、大粒の涙を流していた。


~葬儀の翌日~

親戚達と、福岡に住む姉は、朝早く、高志の自宅から、帰路についていた。昨日までの賑わいが嘘の様に、シーンとしている。妻は、気分転換なのか、飼い犬と一緒に散歩。次男は、調べものがあると言い、図書館。なぜか、長男だけが、リビングのソファーに座っていた。

(はい、すいません。今から出ますので、夕方前には、着くと思います)

父さん、何処か出かけるの

折りたたみの携帯を閉じて、リビングに顔を見せる高志に対して、そんな言葉をかけてくる長男。

「ああ、千葉までちょっとな。お前は、こんな時間に…」

いつも見かけない長男坊に姿に、少し驚いてしまう。小指を立てて、ニヤリとする。

「父さん、これに、逢いに行くの。」

女性に逢いに行くのは間違いない。女性と云っても、田中真理子。九十九里浜の女性。父親の連れ合いに逢いに行くつもりであった。昨日の葬儀の後、多摩川の河川敷で、田中真理子に電話をする。その時、【分骨】の事について、申し入れをした。真理子さんは、涙ながらに、その申し入れを受けてくれた。心境の変化、鶴の記憶を想い出した時点から、高志の想いが変わっていく。父親の話しを聞きたくなる。田中真理子さんに会い、父親との七年間の話しを聞きたくなる。

「まあ、女性には、逢いに行くが…お前も、何もなければ、一緒に行くか。」

高志は、そんな言葉を口にして、ニヤリと笑い返す。

そんなわけで、今、助手席には、その長男坊がいる。アクアラインを通り、館山自動車道で北へ、千葉東金道路に入る。

「あっ、ここで降りてみるか。」

【中野Ⅰ・C】の標識が目に入り、そんな言葉を発していた。久し振りに、長男と一緒にいる。ここ何年、大した言葉は交わしていなかった。

「俺は別にいいけど、道わかるのか、父さん。」

「カーナビもあるんだから、大丈夫だ。」

このまま、高速で行けばいいのに、なぜか、降りてしまう。ちょっとした気まぐれ。長男坊と、少し話しをしたかったかもしれない。


~サギ~

車は、広い道路を離れて、田んぼ道を走っている。インターを降りた途端、カーナビ電源が切れる。車を止めて調べてみるが、アナログ人間の高志には、故障の原因がわからず、今、農道のど真ん中に車を止めた。

(どうするの)<そんな事言われてもな>

高志は、赤キャビンの箱を手にすると、一本の煙草を口に咥える。静まり返った農道には、HONDA・インサイトのエンジン音だけが響いている。

<さて、どうしますか>

(どうでもいいけど、急がなくていいの)

急がなくてはいけない。道をわからなくては、仕方がない。

不意に、高志は、助手席の長男坊に視線を向ける。コイツは、私が死んだら、哀しんでくれるのだろうか。三日前の自分みたいに、淡々と、業務的に葬儀を行うのであろうか。正直に言うと、どちらでも構わないと思っている。私は、自分の信念に基づいて、子供達を育ててきた。この事が、理解できなければ、それはそれでいい事だと考えている。まあ、親としては、涙を流してもらいたいものである。

 あっ!

そんな事を考えていると、高志の瞳にあるものが映し出された。

<ツ…>(あっ、サギじゃん!)

高志が言葉にしようした時、長男坊が、そんな言葉を口にした。高志は、驚き、まじまじと、長男に視線を向ける。

<お、おい、あれはツルじゃないのか>

(何、言ってんの。あれは、間違いなくサギだよ。あの大きさは、大サギだね)

 そうか

長男坊は、自信満々に言葉にする。葬儀の前日、思い出した幼い頃の記憶。父親と見に行ったあの鶴の大群の事を思い出していた。

ふと、ある事を考える。高志の気持ちが変わったあの記憶。本当に、あった記憶なのだろうか。サギの事を、ツルだと勘違いした自分。四十年前の記憶、間違っていても仕方がない。父親が、幼い自分に、<ほら、鶴の大群だぞ>と言った父親は、本当に存在していたのだろうか。あの記憶自体、あった事なのだろうかと、考え出す。

<わ、はっはっは!>(何だよ。急に)

突然、笑い出す父親に向かって、そんな言葉を発した。

<すまん、すまん>としか、言葉にしない高志。笑みを浮かべている。記憶の事を不安に思う表情ではない。サギをツルだと言った父親であっても、父親らしく、それでいいと思う。自分の中にあった、父親の対する本当の気持ちに、気づいたのだから、それでいい。

<よし、行くか>サラッと、そんな言葉を発して、サイドブレーキを下ろす。

(父さん、大丈夫なのか。道がわからなくても…)

<大丈夫、大丈夫、道があるんだから…>

何処かの登山家みたいな事を口にする。高志には、もう気の迷いはない。よく考えてみれば、父親を超えたくて、上京をした。【勝範の息子、高志】ではなく、【高志の父親、勝範】と言われたくて、この道を選んだ。父親の勝範がいたから、今の自分がいる。この事は、間違いのない事実である。だから、これでいいのである。笑みを浮かべて、ハンドルを握る高志には、何の迷いもない。緑が広がる田んぼ道を、二人の親子を乗せた車が、走っていく。只、走っていた。

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