第13話 新しい王

 帝国の次期国王フェルナ・ルドゥは城の中の王の執務室でうなっていた。戴冠の儀で行う就任のあいさつの文案を考えている。

(この机もイスも大き過ぎ。使いづらいのよねぇ…)

そんなのは文案の作成がなかなか進まないことの言い訳だ…と、自分でもわかっているが、この机もイスも父が使っていた物をそのまま使っている。先王である父は、フェルナよりふた回りは大きかったので、イスに座ると床に足が届かない。さらに、机は寝台ぐらいに広い。

「父上にだって、この机は大き過ぎではありませんか?」

と、子供の頃、パテルさんに訊いたら、

「この机の広さはね、お父上の心の広さを示しているのですよ」

と言ったあとに、

「…王というのはね、自分を偉くみせる工夫も必要なのですよ」

と、こっそり教えてくれたっけ。

(ああ、ダメだダメだ。パテルさんのことを思い出しては、ダメ)

フェルナはふるふると頭を振った。

 宰相パテル・グランは、ヤの国との内通の疑いで、厳重な監視のもと自宅で軟禁されることになり、壁の剣は没収され帝国が保管することになった。フェルナとヴァリンを教え育ててくれたパテルを、兄のヴァリンと一緒に陥れ、失脚させた日の夜、フェルナは思いきり泣いた。いつまでも泣き続け、涙が尽きると床に入った。

(自分にはやらなきゃならないことがあるんだ)

そう思うと、自分でも意外なくらいあっさりと眠りにおちた。そして、目覚めると、やらなければならないことは実際にある。

 戴冠の儀の段取りはパテルが中心になって決めていた。ほとんどは決まっていたので、中止も延期もしないことになったのだが、出席者のひとりでもあったパテルが出られなくなり、さらに、帝都に戻ったヴァリンが登壇して妹の王就任に祝辞を述べることになった。これだけでも、当日に現場を取り仕切る役人たちは頭が痛いのに、主役のフェルナは、就任宣誓の文案を「自分で考えたい」と言い出した。

「『就任宣誓』だなんて、なんだか偉そうだわ。『就任のあいさつ』でいいんじゃないでしょうか?」

と、この期に及んで言い出すフェルナに、戴冠の儀を仕切る役人が、

「…フェルナさま、あなたはこの国でいちばん偉い存在になるのですよ」

と言うと、フェルナは笑いながら、

「ねっ、そうでしょ? だから、偉そうにする必要なんてないですよね」

と言った。役人たちはフェルナを説得できるのはパテルだけだったことを痛感し、

「それでは、『就任のあいさつ』の文案は早めにお願いしますね」

とフェルナに告げ、自分たちは他の業務に当たることにした。

 こうして、古い文案は破棄となり、「この国をより強くします」なんて言わないで済んだことに、フェルナは安堵したが、自分が新しく文案を作ることになって、じゃあ新王としてなにを言うのか? と、なった途端、困った。「平和な国にしたい」と言いたい気持ちはあるのだけれど、父と兄が戦場の英雄である自分がそれを言ったところで、受け入れてはもらえない。それはわかっている。

 フェルナはむやみに広い机の上に紙を広げ、ペンで文を書いて、読んでみて、丸めた。机にはくしゃくしゃに丸めた紙の玉がいくつもころがっている。戴冠の儀の日は迫っているのに文案の作成は進まない。このままだと、「じゃあ、もう最初の文案でいきましょう」となりかねない。誰かに助けて欲しいけれど、「自分で考えたい」と言い出したのはフェルナだし、兄のヴァリンは戴冠の儀での祝辞の文案を考えているので、頼れない。

「わたしは王になるんだもの。自分で頑張らなきゃ」

と、口に出して言ってみたが、追い詰められているフェルナは、

(いや、王さまってみんなに助けてもらうもんでしょ)

と思ってしまう。どうせ人間は一人ではなにもできないんだし、と開き直った。フェルナはかなり以前から、将来、王になる兄のヴァリンの手助けをしたいから国のことを学ぶのだと、街に出ていろいろなものを見て、いろいろな人に会って話を聞いていた。だからよくわかっている。国は人の集まりで、王といってもその一人に過ぎないということを。

(ダメよ、ダメ。これは王になるわたしの務めなんだ。みんなが自分の務めを果たすのが国ってものでしょ)

と、開き直って逃げようとする自分に、正論っぽいことを言い聞かせるが、それで文案の作成が進むわけでもない。でも、街の人たちと話をしてきたことは本当によかったと思う。厳しいことも言われたし、悲しい話やツラい話もいっぱい聞いた。だけど、みんなの率直な声が聞けたし、なによりも、楽しかった。泣きながら悲しい話を聞き、怒りながら不満を言い合い、笑いながら日々のことを話す――そんなことが。わたしだって、気まぐれに姿を消す兄への嘆きを聞いてもらえたことで救われたし、父を亡くし、悲しみで城の自室に引きこもっていたときに、自分が「憂いの姫」と呼ばれていることを知り、今まで話をしてきた人たちから「一人で悲しんでばかりいないで、またいっしょに話をしようよ」と言われているような気がして、外に出ることができたんだ。

(そうだ、そうよ。今までみんなと話してきたことを思い出せば、きっといい言葉が浮かんでくるに違いない)

ということで、あれやこれやと思い出していると、アフィネのお屋敷でのことが浮かんできた。アフィネと話をすると、いつも大体、ヴァリンの話になる。フェルナもアフィネもヴァリンのことは大好きだし、悪いところよりも良いところの方がずっと多いことも知ってはいるのだが、近くにいて実際に迷惑を受けている二人なので、どうしても悪口になってしまう。

(ああ、これは使えないなぁ…)

と、思い出すのをやめようとしたのだが、そのときに出されたお菓子のことが頭に浮かんでくる。それはアフィネの隣に立っている家政婦が作ってくれたものだとアフィネが言っていた。

「フェルナさまのために、作らせたんですよ。どうぞ、召し上がって」

口に入れると、あっという間に甘味が広がる。その甘い大地を、味わったことのない果物の芳醇な酸味の花が彩った。

「とっても美味しいです」

と言うフェルナに、家政婦が、

「その果物は帝都では手に入らないので、取り寄せたんですよ」

と教えてくれた。それを聞いたフェルナは、

(帝都の外にはこんなに美味しいものがあるのか…帝都でも食べられたらいいのになぁ…)

と思った。フェルナの口の中に、あの菓子の素晴しい味が蘇ってくる。が…

(あ~~、戴冠の儀のあいさつになんの関係もない!)

と、フェルナは無駄に広い机の上に倒れ込むように顔を伏せた。そして、冷たい机に顔をつけたまま、

「わたしって、ダメだなぁ…」

とつぶやいた。


「フェルナさまはねぇ…とても賢くて真面目な方なんだけれど、考え過ぎてしまうところがあってねぇ…心配だわ」

戴冠の儀の当日、開催場に来ているアフィネは、憂い顔でそう言った。

「大丈夫ですよ、アフィネさま。ヴァリンもついていますし」

と、いっしょに来ているレラがそう言うと、周囲の空気が凍りつく。

「レラさん!」

これもいっしょに来ていた、アフィネ家の家政婦が慌てて制すると、レラも慌てて言い直す。

「…アフィネさま。フェルナさまにはお戻りになったお兄さまもついていますし、大丈夫ですよ。お祝いの席で、そんな顔をされていては…」

「ああ、そうよね。フェルナさまも根はしっかりした方だし、笑って祝ってさしあげないとね…」

アフィネはそう言うと、笑顔を作った。レラは家政婦に謝罪の意で頭を下げると、家政婦は笑みで返した。レラと家政婦はすっかり打ち解けていた。

 レラがヴァリンを抱きかかえて帝都を走ったあの夜、二人はアフィネの屋敷に戻った。朝になると迎えの馬車が来て、戴冠の儀の準備のためにヴァリンは城に帰ることになったので、レラも屋敷を出ようとしたら、アフィネと家政婦に強く引き留められた。なんだか、レラとヴァリンの関係についてどうしても聞きたいと言うので、レラは少しだけ考えて、レラが狼に襲われていたところをヴァリンが命がけで助けてくれて、怪我をして両手両脚が使えないヴァリンを、食事を口に運んであげたりして看護したんですよ――と話すと、二人はすごく感動していた。レラとしては、話せない部分が多すぎるヴァリンとの旅の一部を少し嘘を混ぜて話しただけで、ヴァリンが狼ごときに怪我をさせられるわけがないことを知らない二人が不思議だったのだが。でもまあ、楽しそうだし、まあいいか、と思って今度こそ屋敷を出ようとすると、アフィネに「泊まっていきなさい」と言われた。さんざん世話になったアフィネに逆らうわけにもいかず、家政婦の作った料理を美味しく食べて、翌日を迎えると、レラが宝飾品を売った客の一人がアフィネの屋敷を訪ねてきて、

「レラさんって、ヴァリンさまと旅をしてきたんですってね? お話聞かせてちょうだいよ」

と、興奮ぎみに言った。ああ、なるほど、アフィネさんが話したのだな、と分かったが、もちろん文句は言えない。仕方なく、釣りをするわたしをヴァリンが見守っていたが、結局一匹も釣れず二人で笑った、とか、ヴァリンの腕が使えるようになって二人で手を取り合って喜んだ、とか、話せない部分は隠して適当に嘘を混ぜ、アフィネと家政婦を加えた三人に話すと、かなり盛り上がっていた。

 そんなカンジで、翌日からも毎日アフィネの屋敷には、レラの話が目当てで来客がお訪れた。そして、レラが嘘の話に疲れたところで、戴冠の儀の日がやって来てくれた。でもまあ、家政婦がレラを見る眼が優しくなって、すっかり打ち解けたし、帝都の店のまずい料理を食べなくて済んだのでよかったのだが。そして、三人は仲良く戴冠の儀の開催場にやって来た、というわけだ。


 レラから見れば退屈きわまりない、冠を新王が戴く儀式が終わった。「戴冠の儀」という言葉からすれば、こちらが式のメインのはずなのだが、実際には違う。新王のフェルナが最後に言葉を述べるのがメインだ。フェルナがヴァリンと会うためにアフィネの屋敷を訪れたとき、レラはフェルナと入れ違いになったので、フェルナを見たのはこれが初めてだったが、美しく、堂々としている。アフィネがなぜあんなに心配しているのかよくわからなかった。レラとすれば、ヴァリンの祝辞の方が心配でならない。ヴァリンは常人には理解しがたい言動をするひとだし、体がどこまで人間に戻っているのかも気になる。もう全身が人間に戻っていてもおかしくない頃だと思うのだけれど…。

 そして、いよいよヴァリンの祝辞が始まる。帝都から姿を消していた英雄の名が呼ばれ、ヴァリン・ルドゥが姿を現した。だが…ヴァリンはイスに座り、ヒザに布を掛け腰から下を隠した姿で、イスの両側を屈強な兵士に担がれて登場した。観衆がざわつくなか、ヴァリンは落ち着いた口調で声を上げた。

「親愛なる臣民のみなさま。このような情けない姿をお見せして申し訳ありません。実は、わたくしは、大きな傷を負ってしまい、王としての責務を果すことができなくなりました。ですが、妹のフェルナは必ずみなさまの期待に応える王になります。わたくしもできる限り、みなさまと新王のために働きたいと…」

ヴァリンの祝辞はこの後、フェルナを賛美して終わった。

(なるほど、なるほど。今はそういう状態なんだね、ヴァリン)

レラはその姿を見て納得し、ヴァリンが祝辞を無難に終えたことに安堵した。

 最後のフェルナの就任のあいさつの前、隣にいるアフィネから緊張がひしひしと伝わってきた。レラは「そんなに心配しなくても」と言いたかったが、そうもいかない。

(ヴァリンの姿は確認したし、変なことも言わなかったし、あとは大丈夫でしょ)

と思っていると、フェルナが登場した。観衆は拍手で迎え、それがやむとフェルナは高らかに声を上げた。

「みなさま、本日はお集まりいただきありがとうございます。この国の新しい王となるわたくしフェルナ・ルドゥはここに宣言します。この国を『楽しい国』にすることを」

(え? わたしの聞き違いかな? いま「楽しい国」って言った?)

レラは、フェルナの意外な言葉に戸惑った。観衆も同じなのだろう、静まり返っている。

(…まあ、でも、なんか面白そうじゃない…やっぱりヴァリンの妹、ってことかな)

レラはにやりと笑い、一人、拍手をした。あっけにとられていたアフィネも家政婦も観衆たちもそれにならって拍手をし、場内に拍手が広がった。

 フェルナは拍手を送ってくれている観客たちを見渡す。話をしたことのある人たちがたくさんいた。

(ありがとうみなさん。みなさんと楽しく笑い合ったこと、わたしを元気づけてくれたことは、わたしの宝物です。わたしはこの国に、そんな宝物をもっと増やしていきたいんです)

フェルナはそう思いながら、

「素晴しい文物、温かな交流、美しいもの、美味しいものを素直に楽しめる…この国をそんな国にしてゆきましょう」

と言った。観衆は大いに盛り上がり、それからフェルナが言葉を発するごとに拍手が湧いた。そして――

「みなさま、本日はありがとうございました。これからみなさまと共に歩んでいけることはわたくしの喜びです。みなさまの王になれることはわたくしの誇りです」

そうフェルナは言って頭を下げ壇上を去り、万雷の拍手がそれを送った。

「アフィネさま、フェルナさまのあいさつ素晴しかったですね」

レラが興奮ぎみにそう言ってアフィネを見ると、両手で顔を抑え、大泣きしている。

(あら、あら…)

レラは呆れながら、微笑んだ。


 その日の夜、レラは一人で宿にいた。帝都の中心から少し離れた一軒家の宿を借りている。戴冠の儀が終わってアフィネの屋敷に戻ったあと、荷物をまとめて、

「わたし、一人になりたいので、これで失礼します」

と、荷物を手にアフィネと家政婦に頭を下げた。家政婦は慌ててとめようとしたが、アフィネがそれを制した。

「レラさん、ヴァリンさまのことはあなたのせいじゃありませんよ。きっと、すぐに歩けるようになりますから…」

そう言った。どうやら、戴冠の儀でヴァリンが立たなかったことで、レラが傷ついている…と思っているらしい。レラには、ヴァリンが歩けることはわかっていたし、この屋敷を出て一人になりたいのは、今晩ここでフェルナの王就任祝いのパーティがこっそりと行われることになっていて、ここにいればヴァリンとの旅のウソ話をまたまた語らされることがわかっていたからなのだが。でも、それでパーティに出たくないというのも失礼だし、誤解されてる方が都合がいいやと思い、

「アフィネさま…ごめんなさい」

と思いっきり悲しい顔を作って頭を下げた。二人は黙ってレラを見送った。


 レラは堅苦しいドレスを脱ぎ、ゆったりとした服で、宿のベッドの上でゴロゴロと解放感を味わっていた。ドレスは馬車にしまい、念のために剣とマントだけは宿に持ち込んでいる。宿の外はにぎやかだ。フェルナの王就任を祝う大きな声が、あちこちから聞こえる。もちろん、酔っ払ってなどいないのだろうが…いや、今晩くらいは酒を飲んで少しぐらい騒いでも見逃してくれるのかもしれない。レラも、どこかで酒を飲んでしまおうかと思ったが、アフィネのパーティから逃げておいて酔っ払うのはさすがに申し訳ない気がしたので、夕食は簡単に済ませようと、まずいことは覚悟して食堂に入った。だけど、出てきた料理はそれなりに美味しかった。戴冠の儀のせいだろう、なんだか気分が乗っている味がした。新王フェルナも「美味しいものを楽しめるように」って言っていたし、帝都の料理はきっとマシになるのだろう。

「さて、わたしはどうしようかな…」

一人の部屋でレラは声を出してそう言った。一人になりたかったのには、もうひとつ理由がある。次の旅の行き先を決めたい。帝都に酒を持ち込んで売り、宝飾品を売ってかなり稼いだ、ヴァリンと約束した報酬もしっかり受け取り済みだ。これだけ稼いだんだから、当分は、のんびりしてもいいのだが、わたしには探さなきゃならないものがある。

(少し資金に余裕ができたから、遠方の知らない土地に行ってみようかな…)

求める宝飾品の行方はぜんぜん掴めない。だから、わたしがまったく知らない所に行ってみるのがいいかもしれない…と、考えていると、ドアを叩く音がした。

(うん? 誰だろ、酔っ払いかな?)

この宿にいることは、誰にも言ってない。だから、無視しようと思ったが、しつこく叩くので仕方なく、剣を携えて玄関に行きドアを開いた。

「やあ、お久しぶり~。レラ」

ヴァリンがいた。レラは「ヴァリン!」と叫びそうになるのを慌てて呑み込み、

「あなた、こんなところでなにしているのよ?」

そう言ってヴァリンに近づくと、酒臭い。

「…まさか、お酒を飲んでいるの?」

「ああ、そうさ。うん、すごくいい気分だよ」

レラは、そう言うヴァリンの腕をつかみ、強引に部屋に引き込んでソファに座らせた。

「ヴァリン、あなたなに考えているのよ、酒なんか飲んで!」

「えー、レラが言ったんじゃないか、仕事がうまくいったら酒を飲むといい、って」

うん、そりゃあ言ったよ。言いましたけれど――

「ヴァリン、自分の立場ってものを考えなさいよ、帝都は禁酒でしょ? 王の兄が酔っぱらって街をふらふらと歩いていいわけないでしょ?」

「えー、帝都に酒を持ち込んでたレラがそんなこと言うの? せっかく、いっしょに飲もうと思って来たのに~」

そう言うと、ヴァリンはレラに酒瓶を差し出した。

(そんな物、どこで手に入れたのよ…)

と思いながら受け取ると、カラだった。

(驚いた。こんな強い酒、一人で空けたの? 今日がはじめてのお酒でしょうに…)

レラは呆れながら、自分とヴァリンの前に水を入れたカップを置き、しばらく話すことにした。とにかくヴァリンの酔いをさまさせないと、どうしようもない。

「ねえ、ヴァリン、あなたここのことどうやって知ったの? 誰にも言ってないんだけど…」

そう、レラが訊くと、

「うん、それがね、シュリーさんがさぁ…」

酔っ払ったヴァリンがしどろもどろに答えた。

(シュリー? 誰だよそれ?)

とレラが思っていると、

「シュリーさんがね、レラのことを怪しんで、手配書を宿に配ってたらしいんだよ。それでお城にこの宿から連絡が来てね…」

とヴァリンの言葉はそこで途切れ、

「…それでね、わたしがここに来た、ってわけ」

かなりの間をあけてヴァリンは言った。

(なに言ってるかわかんないよ、ヴァリン。シュリーって誰だよ?)

とレラは思ったが、酔っ払いに問い返しても仕方ないなと、話題を変える。

「あなたの今、着ている服、わたしが買った物よね」

それは、帝都の直前の町で、人間に戻りかけていたヴァリンのためにレラが買ってきたものだ。

「ああ、うん。着心地がいいから、気に入っているよ」

とヴァリンが笑うと、

「ちょっと、立ってみてよ」

レラがそう言うと、ヴァリンはソファから立ち上がった。あのときレラがあけた尻部分の穴から、犬の尻尾がとび出している。

(このひと、こんな格好で街を歩いてきたのか…みっともない)

と、レラがあきれていると、

「レラは今日の戴冠の儀に来てたよね? わたしの脚がもとに戻っているの気づいていたんだね」

と、ヴァリンが言った。

「当たり前よ。布の上からでも人間の脚の形はわかったもの。あなたがふつうに歩いてしまったら『やっぱり王にはヴァリンさまがなるべきだ』って、言い出す人がいるんでしょ?」

「さすがだね、レラ」

ヴァリンは感心して言った。

「そんなことよりさ、あとはその尻尾だけなんだね、おめでとうヴァリン」

(戴冠の儀には間に合わなかったけれど、これでヴァリンは完全に人間に戻るんだ。本当にうれしい。わたしもずいぶん協力したんだしね)

と、レラが思っていると、

「いや、この尻尾はこのままだよ、レラ」

ヴァリンが言った。

「ん? なにを言っているのよ、ヴァリン」

「この尻尾は無くならない。ずっとこのままなんだよ」

「なんでよ! なにがいけなかったの? なにが足りなかったのよ?」

「いや…そうじゃないんだ、レラ。この尻尾は無くならないように、わたしが術をかけて止めた。これ以上は人間に戻らないようにさ」

レラは、ヴァリンのその言葉を呆然と聞いていた。

(なんで?! なんで?! なんで?! なんでそんなことを!)

頭の中に疑問の言葉が響くが、口を開けないでいるレラにヴァリンが言う。

「森の魔術師はね、ほんとうに凄い人だったんだよ。わたしは死力を尽くしてようやく倒したんだけれど、森の魔術師は最後に自分の命と引き換えにわたしを犬に変えたんだ。森の魔術師がその気になれば、わたしの命を奪うことも、永遠に獣に変えることもできたはずなんだ…それなのに、誰かが愛を注げば人間に戻れる魔法を使ったんだよ…なぜだと思う?」

レラは叫ぶ。

「そんなこと知らない。そんなこと関係ないでしょ。あなたは、村の人たちを殺したりしている悪い魔術師を倒したんじゃないの?」

「わたしはね、犬になってあの森で生きてわかったんだ。あの森には『魔』が生じている。迂闊に踏み込めば魔物に襲われて命を落としたり、魔に取り込まれたりしかねない。だから、森の魔術師は入って来る者を拒んだ。レラも見たよね? 魔法を使う狼を。わたしはそれを知らずに森の魔術師を倒してしまった。だから、この尻尾を残すのは戒めなんだよわたし自身へのね…わかっておくれよ、レラ」

そう言ったヴァリンに、震える声でレラは言った。

「わからないわ…わかるわけないじゃない、そんなこと。わたしはね、あなたが完全に人間に戻って、立派な王になって欲しかったの! そのために頑張ってきたのよ!

それなのに、あなたは…」

「ごめん、レラ。わたしは本当に勝手だ…ごめん」

ヴァリンがそう言うと、二人は間に沈黙が降りた。

 …しかし、しばらくして、さっきまでの言い合いを忘れたように、ヴァリンが口を開いた。

「ねえ、レラはさ、まだ旅を続けるんだよね?」

レラが明るい声で答える。

「あたりまえじゃない。世の中にはね、わたしがまだ見ていないものがたくさんあるんだよ」

「じゃあさ、わたしも連れて行ってよ。わたしも、帝国の外の世界が見たいんだ。いや、もっともっと広い世界が見たいんだよ」

「もちろん、いいわよ。ヴァリンとだったら、きっと楽しいもの」

(そうだ。ヴァリンともっと旅ができたら、きっと楽しい…)

「嬉しいなぁ、これでレラの料理をずっと食べられる」

「あら、それはダメよ。ヴァリンはもうお客様じゃないんだからね。食事当番は交代でお願いしますからね」

「ああ、うん。頑張るよ。せっかく、レラに愛を注いでもらって人間に戻れたんだもの、いろんなことをやってみたいんからね」

「いやねぇ、愛を注いでもらってだなんて、恥ずかしいからやめてよ…」

(違うんだよ、ヴァリン。あのとき、吟遊詩人が殺されて、わたしは悲しかったんだ。でも、わたしは泣けなかった…だから、犬だったあなたにすがりつくことしかできなかったんだよ…)


 気がつくと、いつの間にかヴァリンは寝ていた。無理もない。あれだけの酒を飲んだのだから。静かに寝息を立てるその顔は、まるで少年のようだ。レラはその寝姿に近寄ると、白い尻尾にそっと触れた。このひとは、本当にバカだ。こんなものを、これから生涯ぶら下げて生きようだなんて…。小さな声で語りかける。

「ねぇ、ヴァリン、わたしたち不思議だよね。お互いの酔い姿は見ているのに、杯を交わしたことは無いのだから…」

そして、レラは静かに立ちあがると、マントを羽織り、剣を手にした。

「それじゃ、わたし行くね。あなたには守らなきゃならないものがあるんだよね」

レラは、宿を出ると、帝都の街を走った。赤いマントが広がり、薔薇のように咲いた。しかし、やがて夜の闇に吸い込まれた。次の朝、レラの姿は帝都から消え。生まれてはじめての酒に酔い潰れたヴァリンは、朝まで目を覚ますことはなかった。

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