第12話 策略

「わたしのやることを手伝って欲しい」

ヴァリンはそう言うと、レラに深々と頭を下げた。

「レラにはさんざん迷惑をかけてきた。だから、もうこれ以上、頼っちゃいけない、帝都でのことは自分だけでやらなきゃいけない…そう思っていたんだ。でも、わたしの体はまだ完全には人間に戻っていない。だから外に出ることすらできない。わたし一人ではどうにもならない。だからさ、どうしてもレラに手伝って欲しいんだよ。帝都の…いや、この国の人たちのために、やらなきゃならないことなんだ。お願いだよレラ」

それを聞いたレラは、カップの水をひとくち飲み込んで、

「わたしね、旅をしていて、こんな話を聞いたのよね」

と言った。

「え? レラ、今そんな話をしなくてもいいじゃないか」

と、ヴァリンが言うのを、

「まあ、聞きなさいよ」

レラは手で制した。ヴァリンは黙って聞かざるを得ない。

「ある国の偉い人がね、敵国で食事に招かれたんだよね。だけど、料理には毒が入れられててね…それを食べちゃったその偉い人はどうしたと思う?」

「…? レラ、一体なんの話かな」

レラは、ヴァリンのこの言葉を無視して話を続けた。

「その偉い人はさ、料理をぜんぶ食べて、ついでに皿まで舐めたんだって。なんでそんなことするんだよ、って思うよね」

と、レラは笑う。ヴァリンとしては「なんでそんな話するんだよ」と言いたかったが…、黙って聞いていると、

「つまりさ、どうせ毒の入った料理を食べちゃったんだから、もうやけくそでなんでもやっちゃえ、って話らしいんだよね。…だからさ、わたしもね、ヴァリンという毒の入った料理はさんざん食べちゃったもの、もう、皿でもなんでも舐めるよ」

そうレラは言った。これを聞いてヴァリンは、

(ああ、うん、わかったよ。つまり、手伝ってくれる、ってことなんだよね。うん、嬉しいよ。嬉しいんだけどさぁ…、なんかちょっと、ひどくないかなぁ?)

と思った。しかし、「わたし、いいこと言った」みたいな感じで胸を張っているレラを見て、

(レラは、やると言ってくれているんだものな…)

と思い、少し納得がいかないまま、

「ありがとう、レラ」

と言った。


 同じ日。レラはアフィネの屋敷を訪れた。出迎えてくれたのは、昨日、料理を渡してくれた家政婦だ。

「いらっしゃいませ、レラさま」

丁重に頭を下げる家政婦に、

「昨日は料理をありがとうございます。美味しかったです。友人もとても美味しいって言っていましたよ」

とレラは言葉をかける。

「それはそれは。ご友人にも喜んでいただけるなんて、光栄です」

家政婦はそう言って頭を下げ、レラの顔を見て微笑んだ。


「あらあら、レラさん。今日はずいぶん早いのね」

アフィネはいつもの笑顔でそう言った。昨日は仕事帰りに立ち寄ったが、今日は朝に訪れている。家政婦はソファに座るアフィネの横に立ち、レラを見ている。

「はい。アフィネさまには頼みごとばかりして申し訳ないのですが…本日もお願いがありまして…」

「あら、なにかしら?」

「あの…アフィネさまはフェルナさまとご親交があるのですよね?」

「まさかフェルナさまを紹介しろっていうのかしら? それはムリだわ。フェルナさまは装飾品はお付けにならないもの」

それは、レラもよくわかっている。アフィネも冗談のつもりで言っているのだ。しかし、レラはその冗談に笑うことなく、一枚の書状を取り出す。

「ヴァリン・ルドゥさまが、フェルナ・ルドゥさまに会いたい――とおっしゃっておられます。どうかお取次ぎをお願いします」

と堅い表情でそう言って、書状を差し出した。

「…レラさん…あなた」

アフィネは慌てて書状を受け取る。署名を見ると、間違いない。ヴァリンのものだ。

「すぐに、お城に使いを出してちょうだい。フェルナさまにここに来ていただいて。ああ、でも、ヴァリンさまの事は言わないでね。…急いでちょうだいね」

アフィネは、レラの言葉に驚いて固まっていた家政婦にそう言った。

「はい!」

家政婦は慌てた様子で部屋を出て行く。レラはアフィネの言葉に舌を巻いた。

(王室に直接使いを出して、次期国王のフェルナさんを呼びつけるだなんて…。アフィネさんは、わたしが思ってたより力がある方なんだな…)

と感心していると…

「それではレラさん、あなたはすぐにヴァリンさまをここに連れてきていただけるかしら?」

と、アフィネが、笑顔のままではあるが、聞いたことのない強い口調で言った。

「いえ、あの、ちょっと事情がありまして…ヴァリンさまはフェルナさまと二人だけでお話をしたいと…他の方とは会えない、と、おっしゃっていまして…」

と、レラが慌てて答えると、

「そんなわけにはいきませんよ、レラさん。ヴァリンさまご本人の口から事情をお聞かせいただかない限り、フェルナさまとは会わせられません」

アフィネはさらに強い口調になり、そう言った。

(あー、アフィネさん怒っているんだな)

レラは自分の笑顔がひきつるのを感じながら思った。

(アフィネさんを見くびっていた…やっぱり、わたしはひとを見る目がないな…)

と反省していると、

「レラさん! 早くヴァリンさまを連れて来てちょうだい。急いでね」

もう笑顔ではないアフィネがそう言った。


「ヴァリンさま、あなたは王室の責務をどう考えているの? 前王の葬儀には出席しない、新王の戴冠には直前になってやっと戻ってくる…ご自身の立場をわかっているのかしら?」

アフィネは強い口調でヴァリンを叱責した。


 「ヴァリンさまを連れて来てちょうだい」とアフィネに言われ、レラは仕方なく近くに停めていた馬車に戻り、まだ犬のままの下半身に布を巻いて隠してから、ヴァリンを担いでアフィネの屋敷に戻った。もちろん、ヴァリンは激しく抵抗したのだが、知ったこっちゃあない。屋敷に入ると、ようやくおとなしくなったヴァリンを、さっきまでレラが座っていたソファに丁重に置いて、自分はその隣に立ち、アフィネに言った。

「失礼いたしました。ヴァリンさまは脚を傷めておいでなので…」

 レラは、アフィネに今までのことをすべて隠さずに話してしまおうかとも考えたのだが、簡単に納得してもらえる話ではないし、犬の後ろ脚がはえたヴァリンは、アフィネやフェルナには刺激が強すぎるだろうと考え、ごまかすことにした。まあどうせ、犬の脚はそのうち人間の脚に戻るのだし。

 アフィネは、レラが人間を担いで戻ってきたことに少なからず驚かされたが、担いできたのがヴァリンだと確認すると、居ずまいを正し、ソファに座らされたヴァリンと向き合った。

「ご無沙汰しております。アフィネ・ハルレさん」

ヴァリンが、何事もなかったかのように言った。

(…この大変なときに、いったいなにをやっているのかなぁ…このひとは)

と、アフィネは思い、ヴァリンに対する怒りがまたふつふつと湧いてきた。

「お久しぶりですね。ヴァリン・ルドゥさま」

と言って、アフィネはヴァリンをにらんだ。


「あなたはフェルナさまやお父上の気持ちを考えていらっしゃるの? フェルナさまがどれだけ悲しんでおられたか…」

アフィネにそう言われ、ヴァリンは深々と頭を下げる。

「申し訳ありません、アフィネさん。言い訳などできるわけもありません」

そんな二人のやり取りを見ながら、レラは、

(アフィネさんもヴァリンには苦労してきたんだろうな)

と思った。子供の頃のヴァリンのことは知らないが、今のヴァリンから容易に想像はつく。アフィネさんはヴァリンのことを大好きと言っていたが…それにしても我慢ならないことは多かっただろう。

「お父上が亡くなられたとき、なんですぐに戻らなかったのですか? 戻れない理由があったとしても、手紙くらいは書けたのではないの?」

とアフィネに問われたヴァリンは、

「父上が亡くなられたとき、わたしは大きな怪我をして意識が無かったのですよ、アフィネさん。それが、つい最近、目を覚まして、父上が亡くなったと知り…慌てて帝都に戻ってきたのです」

と答えた。それを聞いたレラは、

(へえ、うまい嘘を考えたじゃないヴァリン。ああ、でも、怪我じゃなくて犬になってた、といえば嘘じゃないのか…)

そう思い、失笑しそうになったが、アフィネに睨まれたような気がして、慌てて顔を引き締め直した。

 アフィネはヴァリンと話ながら、

(ヴァリンさま、少し変わったな…)

と感じていた。昔から話はちゃんと聞くひとだったが、真面目に話を聞くその態度が相手に威圧感を与えてしまう…そんなひとだった。でも、今日は違う。子供の頃から、怒られているときでも困ったような顔はしなかったのに…なにがあったのかしらねぇ? ふと顔を上げると、レラが隠れて笑うような仕草をしていた。眼が合うと、慌てて視線をそらし、真顔に戻った。

(ふふ、まあ…そういうことなのかしらね?)

アフィネは厳しい顔を崩さないまま、心の中で笑った。そのとき、ノックの音がしてアフィネが応えると、家政婦が入って来て、

「フェルナさまがご到着です」

と言うと同時に、部屋にいたヴァリンに気づき、目を見開いた。

「ヴァリンさま…ほんとうに」

と言って、次にレラを見たが、レラは慌てて視線をはずした。

「それじゃあ、このお部屋にフェルナさまをお通しして」

アフィネはそう言うと、レラを見て、

「ヴァリンさまは脚がお悪いそうだし、フェルナさまとお二人だけで話をしたいということですから、わたしたちがはずしましょう。ね、レラさん」

と言った。

「はい。ありがとうございます。アフィネさま」

とレラは笑顔で答えた。


(いやあ、アフィネさんのおかげで話がどんどん進むなぁ…ありがたいけど…大変だなぁ)

ヴァリンとフェルナが二人だけで話をするために、別の部屋に移ったレラはぼんやりとしていた。ヴァリンから「やらなきゃならないこと」について聞き、アフィネを頼ることを提案したのはレラなので、ここまではうまくいってくれて嬉しいが、なんだかバタバタして疲れた。今は、ヴァリンとフェルナの話し合いがうまくいくのを待つだけだから…と気を抜いていた。と、

「ねぇ、レラさん、ヴァリンさまとはどこで知り合いになったの?」

と、同じ部屋でいっしょにお茶を飲んでいたアフィネが訊いた。レラはボーっとした頭でそれを聞き、答えてしまう。

「…ああ、ヴァリン、ね。アイツとは森で出会って、わたしが拾ってやって…」

と、そこまで答えたところで、ハッと気がつき、

「あ、いやあの、ヴァリンさまには、森で狼から救っていただいて…」

慌てて言い直したが、アフィネを見ると驚いた顔でレラを見ていた。

「…すみません、アフィネさま」

そう言うと、アフィネは笑い出した。

「あはは、レラさんって面白い方ね」

レラは顔が熱くなるのを感じた。耳は痛いほど熱い。

「でも、よかったわ、ヴァリンさまにも良いお友達ができて」

アフィネはそう言うと、真っ赤になっているレラを見て、また笑った。


 フェルナは部屋に入ってヴァリンを見ると、

「兄さま」

と、ひとことだけ言ってヴァリンにすがりついた。

「ごめんね、フェルナ。心配をかけたよね」

ヴァリンはそう言ってフェルナを抱きしめ、フェルナはその胸の中で泣いた。

(やっぱり、兄さまは優しい。わたしのことをいつまででも抱きしめていてくれるんだ)

フェルナはそう思った。それはいつものことだ。フェルナは子供の頃から兄の胸でよく泣いた。そして、ヴァリンはそんな妹が泣き止むまで、黙って抱きしめるのが当たり前の日々だった。しかし、その日、ヴァリンはフェルナが泣き止むのを待たずに胸から引き離した。

「兄さま?」

くしゃくしゃの泣き顔のままのフェルナは、驚いてヴァリンを見た。

「フェルナ、王になるんだね」

ヴァリンはフェルナを見つめ、そう言った。

「そんな…兄さまが戻ったんだもの、兄さまが王になるべきでしょう?」

「だめだよ、フェルナが王になるのはもう決まったことだろ? 国のために立派な王になっておくれ」

(「国のため」…か。兄さまも、それを言うのか…)

フェルナは自分の手で涙をぬぐいながら言った。

「兄さま、わたしが王になっても、言いなりの操り人形でしかありませんよ」

するとヴァリンが、

「パテルさんの操り人形かい?」

と言った。フェルナは驚いた顔でヴァリンを見た。

「兄さま…なにをおっしゃるの?」

「パテルさんは帝国で一番の魔術師で父上とともに戦った英雄だ。そしてなにより、帝国の政治を長年にもわたって中心で担ってきたひとだ。臣下はみんなパテルさんのことを信頼している。…だから、フェルナの言う事は誰も聞いてくれない…そうじゃないかい?」

その通りだ。父である前王が亡くなりフェルナが王になると決まっても、フェルナの意見など誰も聞いてくれない。臣下はみんなパテルの意見を聞きたがり、それで決まってしまう。フェルナはすがるような気持ちでヴァリンに言った。

「だからこそ、兄さまが王になるべきじゃありませんか?」

「わたしが王になったところでそれは同じだよ。パテルさんとでは積み重ねてきたものが違う。臣下はわたしの意見など聞いてくれはしないよ」

そのヴァリンの言葉を聞いて、フェルナは絶望した。

「…兄さまはわたしに、我慢しろ、とおっしゃるのですね?」

だがそれを、ヴァリンは強い口調で否定する。

「違うよ。…パテルさんには退いてもらいたい。そう思っている」

「パテルさんに退いてもらう? それは、どういうことでしょう」

驚いて、フェルナが訊くと、

「ヤの国との戦争で、停戦の軍議があったとき、パテルさんと父上とわたしは反対したんだ。戦争を止めるべきではない、ってね」

ヴァリンはそう言った。

「でもね、もう戦いを止めたい、って意見が多くて…それを聞き入れて、父上が判断されてヤの国と停戦になった」

フェルナはその軍議には参加していなかったが、父である厳格公がそう決断したのはもちろん知っている。

「だけど、パテルさんは最後まで強硬に停戦に反対していた。だから、フェルナが王になったら、また、ヤの国と戦争を始めると思う。パテルさんに逆らえる者は誰もいなくなったからね」

「でも…兄さまもヤの国との停戦に反対だったんですよね…」

そう、フェルナが言うと、

「わたしはね…今でも、ヤの国は戦うべき相手だと思っている。だけど、戦いたくない兵たちに無理をしいて戦うべきではない。そんな戦争は楽しくないからね」

と、ヴァリンは真剣な顔で言った。

(楽しくない…か)

フェルナは、小さい頃からよくヴァリンと論争し、ヴァリンはしばしば「そんな戦争は楽しくない」という言い方をした。「戦争に楽しいも楽しくないもないでしょ」とフェルナはいつも言ったのだが、ヴァリンには改める様子がない。

(…でも、今はそんな言い争いをしている場合ではないな)

フェルナはそう思い、ヴァリンに言った。

「わかりました、兄さま。でも、どうやってパテルさんを退かせるのですか? 誰も逆らえる者などいないひとを…」

「だから…汚い手を使う」

ヴァリンは苦い顔でそう言うと、自分の考えた策略をフェルナに話した。

「…そんなひどいことをパテルさんに…兄さま、本気なのですか?」

フェルナは言った。

「本気だよ。フェルナにも嫌な役割をさせるけど、これはわたしたち兄妹がやらなきゃいけないことだと思うんだ、国のために…いや、この国の人々のためにね」

ヴァリンのその言葉に、

(兄さまは、変わったのだな)

とフェルナは思った。昔の兄ならば、そんなことを思いつかない。思いついたとしても、けっして妹にやらせたりはしなかったろう。

(わたしも…変わらないと、いけないんだ)

そう思い、

「わかりました。やりましょう。ヴァリン・ルドゥ公」

そう言った。


 帝国の宰相パテル・グランは、その日の仕事を終えて、自邸の近くまで帰ってくると、邸に侵入者がいることに気がついた。

「やれやれ、誰だろう、煩わしいことだ…」

パテルは一人暮らしだ。家族はいない。家事のための使用人も雇っていないし、警備のための人員も「不要だ」と断っている。帝都は治安が良いので、強盗や他国の刺客の心配はあまりいらないし、そんな者どもに後れなどとらない、とパテルは思っている。だから、たいして警戒もせずに邸に入り、侵入者がいるとわかっている部屋に入って灯りをつけた。すると、

「こんばんは、パテルさん。勝手にあがらせてもらいましたよ」

そう言ったのは、ヴァリンだった。ヴァリンは昔から、何度もこの邸を訪れている。その時にいつも使っていたソファに下半身に布を巻いた姿で座っていた。

「ヴァリンさま! …いつ帝都にお戻りに?」

パテルは驚いてそう言い、慌ててヴァリンの正面のソファに座った。

「先日戻ったばかりです。ああ、立ってごあいさつできなくて申し訳ない。ちょっと脚を傷めてしまいましてね」

そう言うと、座った姿勢で深く頭を下げた。

「実は怪我で長い間意識を失っていまして…つい先日、やっと目を覚ましたのです。でも、なんとか妹の戴冠には間に合いました。それで…戴冠の儀で皆様にあいさつをさせていただきたいと、お願いに伺ったのです」

ヴァリンがそう言うと、

「なにを言っているのです、ヴァリンさま。あなたが戻ったのなら、フェルナさまの戴冠の儀は中止です。王になるべきはあなたなのですから」

パテルは高揚した様子でそう言った。しかし…

「パテルさん、あなたまでそんなことを言うのですか? フェルナが王になることも、戴冠の儀も、すでに決まったことのはず。帝国の政治の中心にいるあなたが、それを守らなくて国が治まるのでしょうか?」

と、冷静な…いや、冷たい口調でヴァリンは言った。

「あなたが王になれば、国は治まるのです!」

パテルは、興奮してそう言う。

「わたしは、子供の頃からあなたに言ってきたはずです。自分が生まれた意味を知りなさいと。あなたがこの国を治める。それは天命なのですよ」

(天命…か…)

ヴァリンはまるで呪いの言葉のようにそれを聞いた。

「パテルさん、あなたは今でも、わたしがヤの国を滅ぼすことを望んでいるのですね?」

呆けたような口調でそう訊くヴァリンに、パテルは活き活きと答える。

「当然でしょう。ヤの国は戦って滅ぼすべき国です」

「パテルさん、わたしは、ヤの国の者を何人も殺しました。そのことを後悔はしていません。お互いに覚悟をもってしたことですから…でもね、思うんです。あのとき剣を交えて倒したあの者と、もう一度、闘ってみたいな…とね。話もせずに斬り伏せたあの者と言葉を交わしてみたかったな…とね。どうでしょう、パテルさん、ヤの国との戦いはやめにしませんか?」

「ヴァリンさま、弱いことを言ってはなりません。ヤの国とわれわれは相いれることなどないのですよ」

「確かに、ヤの国はわれわれには理解できない武技や魔法術を持っている。われわれが知らないような技術や文化もあるのでしょう。ヤの国を滅ぼしてしまえば、それらは永遠に失われるかもしれない。それで、いいのでしょうか?」

「…ヴァリンさま、あなたは本当にご自分をわかっていない。あなたはこの帝国の王となり、すべての国を攻め従えて、やがて世界の王となる。それだけの力を持って生まれた方なのです。あらゆる人々を導くのが、あなたの天命なのですよ」

ヴァリンは、虚ろな顔でその言葉を聞き、おもむろに口を開いた。

「パテルさん、わたしはね…みんなの前を一人で走るのにはもう疲れたよ…みんなと一緒に並んで歩きたいんだ」

「弱いことを!」

パテルはそう言うと、ソファから立ち上がり、ヴァリンから少し離れて立った。

「あなたは本当にヴァリンさまですか? ヴァリンさまはそんな弱いことを言う方ではなかったはずです」

パテルは右の手のひらを上に向けて開くと、そこに小さな魔法の炎が生まれた。

「わたしはあなたの魔法の教師でした。だが、帝国一と言われたわたしの魔術をあなたはすでに超えているはず。並ぶ者なしと謳われたお父上の剣技もすでに超えているはずです。それだけの力を持ちながら、世界を掌中に収めることを求めない? そんなことは許されない」

そう言うパテルの手のひらの上の炎はだんだんと大きくなっていく。

「ヴァリンさま。魔法の修業は怠っていませんね? わたしと闘いなさい。わたしを倒して、ご自分の力を知るのです」

パテルの手のひらの上の炎は、人の頭のほどの大きさになり、まだ膨れている。その炎を虚ろな目で見ながらヴァリンは思っていた。

(できれば説得したかったんだがな…やはり無理だったか。仕方ないな…)

 ヴァリンは、パテルを実の父と同じくらい敬愛している。いや…パテルの場合には、愛している、と言った方がよい。王の子として生まれ、飛び抜けた才能に恵まれ、その才能ゆえに奇異な行動を取り、周囲からも、実の父からも、距離を置かれてしまっていたヴァリンに、はじめて正面から向き合ってくれたのはパテルだった。その才能を認め、自分の存在の意義を教えてくれたのがパテルだった――だから、ヴァリンは少年のころ「パテルさんが世界を欲しいと言うならば、わたしが手に入れてあげよう」と本気で考えていた。ヴァリンは、自分にとってそんな存在であったパテルを、いま、裏切ろうとしている。

 ヴァリンはパテルの手のひらの上の炎が膨れ上がるのを見ていた。一人を相手にするのに、そんな大きさの火球はいらない。半分の大きさで十分に人を殺せるのだから。パテルは今、それをヴァリンに向けて放とうとしている。もちろん、パテルにヴァリンを殺すつもりはない。ヴァリンなら簡単によける。そう思っている。火球がさらに膨れ上がってから、パテルはヴァリン向けてそれを放った。自分に向かって迫ってくる巨大な火球を、ヴァリンはまだ虚ろな目で見ていた。

(ヴァリンさま、どうしたのです? 早くよけなさい!)

パテルがそう思った次の瞬間、ヴァリンと火球の間に人影が割って入る。赤いマントを広げて、魔法の火球をはじき、まばゆい光が部屋にあふれた。そして、人影はヴァリンを抱きかかえてそのまま走り、あふれた光に紛れて姿を消した。

 一人、部屋に残されたパテルは呆然と立ちつくす。

(なんだ、今のは…? ヴァリンさまを連れ去った、あれは…誰だ?)

そして、ふらふらと歩き、崩れるようにソファに座った。

「ありえない…ヴァリンさまがわたしから逃げ出すなど…」

そうつぶやいた。


 赤いマントと革鎧姿のレラは、誰もいない夜の帝都を走っていた。ヴァリンを抱きかかえながら。

「ねえ、ヴァリン、さっきのなんでよけなかったのよ? 死んでもいいと思った?」

レラがそう言うと、

「まさか。レラが助けてくれるとわかっていたよ」

と、ヴァリンは軽い口調で答えた。

「…まったく、横着しないでよね」

「それより…頼んだことはしてくれた?」

「もちろんよ。でも、わたしに盗賊みたいなマネさせて…追加料金はしっかりいただきますからね」

「ああ、だいじょうぶさ」

ヴァリンは笑って答えた。

「でさ、ヴァリン、そろそろ降りて自分で走ってくれないかな?」

レラがそう言うと、

「いや、やはり、誰が見てるかわからないから、こんなところで後ろ脚を使って走るのはマズいよ。もう少しこのままで…お願いだよ…レラ」

と、ヴァリンは静かに言った。レラは、

(誰も見てやしないわ。甘ったれるなよな、ヴァリン)

と思ったが、口にはせず、そのまま夜の街を走った。


 パテルは、そのままで、朝を迎えた。久しぶりにヴァリンと話をしたその部屋で、座ったソファから一歩も動かず、眠ることもせずに。

(ヴァリンさまは、なぜ逃げた…。なぜあんなことを言ったんだ…)

ずっとそれを考えていた。ヴァリンとフェルナを教え育てた日々を思い出しながら。

(きっと、ヴァリンさまは疲れておいでなのだ。王になる重責を感じて帝都を離れたが、自分の天命を捨てきれずに戻られ、わたしに心情を告げに来られたのだ…きっと、そうだ)

パテルは重い体で、ゆっくりと立ち上がる。

(…やはり、わたしが支えて差し上げないと…そろそろお城に行こう。お城に行って、ヴァリンさまを探し出し、もう一度、話をする…。そうだ、戴冠の儀を中止にしなければならないしな…)

そう考えながら、ふらふらと歩き出すと、玄関から、邸に訪問者があることを知らせる音がした。

(ヴァリンさまだ! ヴァリンさまが戻って来てくださったに違いない)

パテルは小走りで玄関に向かい、扉を開くと、そこにいたのは、ヴァリンではなく妹のフェルナだった。

「パテルさん、朝早くからごめんなさい」

そう頭を下げるフェルナの後ろには、数人の兵と、パテルの部下…と言っていい、帝国の役人たちが数人、付き従っている。パテルが不審げに役人たちに目を向けると、皆、慌てて目をそらした。

「…フェルナさま、どういったご用件でしょう?」

パテルが威厳をつくって、そう訊くと、

「実はね、兄さまが、帝都に戻って来たんですよ」

フェルナは嬉しそうに笑った。

(…わたしの問いの答えになってませんよ、フェルナさま。それに、ヴァリンさまにはもう会いましたから)

パテルはそう思ったが、

「おお! ヴァリンさまが戻られた。それは素晴しいことです」

大げさに喜んでみせて、ヴァリンが昨晩ここを訪れたことは言わないことにした。ヴァリンがなにを考えているかわからない。隠しておいたほうがいいだろう。

「…それで、フェルナさまは、本日、どういったご用件で、わが家に来られたのでしょうか?」

パテルは、最初の問いを、もう一度繰り返す。

「はい、それがですね…兄さまが、パテルさんが国を裏切って、敵国と内通している、と言うものですから…」

そう平然と言うフェルナの言葉を、パテルは夢の中の声のように聞いた。

「…なんですと」

うなるように言葉をしぼり出したパテルに、フェルナはいつも通りの明るく落ち着いた口調で言う。

「いえね、帝都に戻られた兄さま…ヴァリン・ルドゥ公がおっしゃるのですよ、パテルさんが敵国と内通しているかもしれないから、調べて欲しいって」

「バカなことを! わたしがこの国を裏切るわけがないでしょう?」

パテルはそう叫んだが、

「もちろん、わたくしはパテルさんのこと信じていますよ。でも、兄が、戦場の英雄と呼ばれたヴァリン公がそう言うのですもの。調べるくらいはしないと…ねぇ」

フェルナはあっさりとそう言った。パテルは、フェルナに付き従ってきた兵士と役人を見た。兵士たちは堅い表情で前を見つめ、役人たちは困った顔で下を向いていた。

(なるほど、ここを家捜しするというのか…ヴァリンさまは一体どうゆうおつもりで、そんなことを…)

少し冷静さを取り戻したパテルは、フェルナに言った。

「わかりました。どうぞ、存分にお調べください」

なにも出てくるわけがない、そう思っていた。

 兵士と役人たちの家捜しが終わるのを、フェルナとパテルはソファに座って待っていた。昨日の夜、ヴァリンとパテルが座ったソファで。

「ヴァリンさまはどのようなご様子なのですか?」

パテルがそう訊くと、

「それが、脚を傷めたとかで…少し元気がなくて」

フェルナがそう答えた。

 そういえば、そんなこと言っていたな、とパテルは思い出し、あのヴァリンさまがそんな大怪我をするなんて…と今さらに思った。きっと、余程のことがあったのだろう。それでわたしが国を裏切っているなどと、あらぬ妄想を…。早急に戴冠の儀は中止にして、ヴァリンさまの怪我が治りしだい、王になっていただこう。フェルナさまも異存はあるまい…と思っていると、別の部屋を捜していた兵士が驚いた様子でフェルナのもとに駆け寄り、手にしたものを示した。

「フェルナさま、こんなものが…」

それを見て、パテルは愕然とする。

(なんで、それがここにあるのだ)

それを目にしたことがないフェルナが兵士に尋ねる。

「その剣はなんなのですか?」

戦場でその剣と戦ったことのある兵士が答えた。

「これは…『壁の剣』です。恐ろしい力を持つ、ヤの国の宝といわれる剣です」

その言葉を緊張した顔で聞き、フェルナはパテルに尋ねる。

「…そんなものが、なぜここにあるのですか? パテルさん」

パテルは理解した。壁の剣はヴァリンが…いや、ヴァリンを連れ去った協力者が邸に隠したのだ。…だが、ヴァリンがここを訪れたことを言わなかったのだから、今さらそれを言ったとしても聞いてはもらえまい。

「…パテルさん、わたくしの問いにお答えください。なぜ、敵国の宝がここにあるんですか?」

パテルは答えられずに黙り込み、頭の中で慌ただしく考えを巡らした。

(ヴァリンさまはどうやって壁の剣を手に入れたのだ? まさか、ヤの国と内通を…いや、ヴァリンさまに限ってそれはあり得ないだろう。フェルナさま、あなたはその剣の力がわかっていない。それがあれば…)

パテルがそこまで考えたところで、フェルナが静かな声で口を開いた。

「ヴァリン・ルドゥ公が言っていました。パテル・グラン宰相が敵国と内通して、叛乱を起こそうとしていると。わたくしは、信じたくなかったのですが…残念です。パテルさん」

心の底からの悲しみを映した表情でフェルナがそう言うのを聞いて、パテルは反論することをあきらめた。ここまできて、ようやくわかったのだ。フェルナとヴァリンの兄妹が自分を陥れたことを。明晰な頭脳を持つがあきれるほど純粋だった妹フェルナと卑怯な手段をあれほど嫌っていた兄のヴァリン。その兄妹がまさかこんなことをするとは…。なぜしたのかを考えても意味はない。もう、パテルに意見を述べる機会は与えられないだろうから。

 自分でも意外なくらい穏やかな気持ちで、パテルは、悲しい瞳をこちらに向けているフェルナを見た。幼いフェルナとヴァリンが自分の話をキラキラと輝く瞳で聞いていたのを思い出す。パテルが教えることを次々にやすやすと憶え、活発に鋭敏な意見を述べるフェルナとヴァリンを見ていると、

(このお二人は、まさに、帝国の宝だな)

と思ったものだ。その時は、その宝は自分の手の中にあったのだが…

(宝というものは、いつまでも一人の手の中に置いてはおけないのだな)

と、いま、パテルは思っていた。

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