第11話 帝都の朝
朝、ヴァリンの眼の前に美しいドレスに身を包んだ女性の後ろ姿があった。
(…ああ、そうか。わたしはまたフェルナの夢を見ているんだな)
ヴァリンはそう思った。犬と人間と、あいまいな体になってから、目覚めが重い。人間に戻るために魔力を使っているからだろうか。
(フェルナ…まだ会えないんだ…ごめん)
帝都に戻っては来たが、妹のフェルナにはまだ会いに行けない。城に行けば他の者にも姿を見られる…それは困る。
夢の中のフェルナは後ろを振り返り、ヴァリンに近づいて来た。
「おはよう、ヴァリン」
と言った。
「え? あれ?」
フェルナはそんな言い方はしない…ヴァリンは気がついた。これは夢の中じゃない。
「起きたのね?」
そう言ったのはフェルナではない、レラだ。
「どうしたの? その格好」
「どうしたの…って、今日から仕事だからね。人の家を訪ねるのに、革鎧ってわけにはいかないでしょうよ」
レラの着ているドレスは華美なものではない。派手な装飾はないし、服地も落ち着いた色合いだ。だがそれでも、ヴァリンのもつレラの印象とはかけ離れている。呆然とするヴァリンにレラが訊いた。
「それでさ、どうかしらこの服装」
レラは体を回して、全身をヴァリンに見せた。ヴァリンは「綺麗だよ」と言いそうになるのを慌てて吞み込んで、
「ああ、うん、似合っているよ」
と言った。すると、レラは優雅な服装とは不似合いに、腰に手を当ててふんぞり返った。
「そういうことを訊いているんじゃないよ、ヴァリン。街には街ごとに服装の基準ってのがあるでしょ? これからこの街の名士に会いに行くんだ。この服装で失礼がないかって訊いているのよ」
レラは、帝都で有数の名士であろうヴァリンに、礼を顧みずにそう訊いた。
「ああ、うん、それなら大丈夫だよ。帝都は質実剛健を旨としているから、華美じゃなくて、きっちりとした服装が好まれる。その服装はちょうどいいと思うよ」
レラのドレス姿ですっかり目が覚めたヴァリンがそう答えると、レラはますますふんぞり返る。
(ふむ、わたしの事前調査はバッチリね。さすが、わたし)
「それで、名士って誰に会いにいくの?」
ヴァリンが訊いた。
「そんなこと…あなたに言えるわけないじゃない」
と、レラは鼻で笑う。
「それでさ、朝食は買っておいたから適当に食べてね。昼には帰るから、なにか買って来るわね。でさ…」
レラは少し間をとって言った。
「その後に、いっしょに馬車でお城に行かない? ヴァリンが、完全に人間に戻る前に人に会いたくないというのはわかるよ。だけど、そこまで人間に戻ったんだもの、ちゃんと説明すればわかってくれると思うんだ。もう、戴冠の儀までそんなに日にちはない。早くしないと、王になれなくなっちゃうよ」
そのレラの言葉を聞いて、ヴァリンはきょとんとした表情をした。
「レラ…、わたしは王にはならないよ」
(なんだと?!)
ヴァリンの言葉にレラは凍りつく。
「…ヴァリン、なにを言っているのよ」
「妹のフェルナが王になる。それはもう決まったことだ。変えられはしないよ」
「…だって、ならなんで慌てて帝都に戻ろうなんて…」
「そりゃあ、妹のために、戴冠の儀には出たいからね」
ヴァリンはあっさりと言い、レラはそれを呆然と聞いた。
(妹の戴冠の儀に出るため――だと。そんなことのために、わたしたちは命がけで旅してきたの?)
「ヤの国の連中は、あなたが王になるのを阻止するために、襲ってきたんじゃないの?」
「それは、ヤの国が、わたしが王になると勝手に思い込んだだけだよ」
(「勝手に」ね。それは、わたしも同じかな…)
レラはそう思い、言葉をしぼりだすように言った。
「わたしはねぇ、ヴァリン。あなたとの約束を守って、あなたを帝都に連れて来たよ…」
「…うん。レラには迷惑をかけたよね。だから、戴冠の儀が終わったら、わたしを斬っていい。ああ、報酬のことはさ、ちゃんとフェルナに言っておくから、心配しなくていいからね」
「ふざけんなよ! ヴァリン・ルドゥ」
レラの感情が爆発した。
「もう、あなたの顔は見たくない。王にならないなら、ここにいなくたっていいでしょ? わたしが帰って来るまでに出ていって!」
レラは仕事に持っていくカバンをつかみ馬車から飛び出した。
「ちょっと待ってよ、レラ!」
馬車の中からヴァリンの声が聞こえたが、構わず歩き出す。
(なんなんだよ、アイツ。もう知るもんか)
レラは怒りをまき散らしながら帝都の道を歩いていた。優雅なドレスを身につけた美しい女性が優雅ならざる足取りで、街をドタドタと歩いている――周囲にいた帝都の人たちは、レラから距離をとった。
そりゃあね、最初はヴァリンが王子さまだとか、王になるとか、どうでもよかったよ。自分の仕事に利用できるな、って思っていたよ。でもさ、今は違う。ヴァリンは王になるべき人だと思っている。ヴァリンは強い。そして、いつでも正しくあろうとしている。だから、王にふさわしい、そう思っていたんだ…
そこまで、考えると、レラの歩調が遅くなった。
本当にそうなのかな? わたしは、ヴァリンに王になって欲しかったんじゃないのかな? …いや…わたしは、ヴァリンのことを…、ヴァリンのことが…
レラは歩みを止めた。
「ええい!!」
声を上げ、路面に足を思いきり叩きつけた。自分の考えを踏みつぶすために。
(これから仕事だ、仕事、仕事!)
そう自分に言い聞かせながら、呼吸を整える。そして、優雅な服装にふさわしい歩調で、ゆっくりと歩きはじめた。
「アフィネさまがお持ちのなかでしたら、やはりこちらの服がよろしいのではないでしょうか?」
レラは、この屋敷の主人であるアフィネ・ハルレの姿を大きな鏡に映しながら、そう言った。きらびやかな宝飾品を手にすると、アフィネの服の胸のあたりに置いてみせる。
「これだけの立派な品ですから、装飾の多い服には合いません。シンプルな服にさりがなく飾りつけるのがよろしいですよ」
「まあ、本当にねぇ。とてもステキだわ」
その装飾品は、ヴァリンが怪物騒ぎを起こした街で雑貨商のセハン・ドルシエが、レラに帝都への持ち込みを依頼したもの。その届け先がこのアフィネ・ハルレだった。
「まだ、戴冠の儀までは日にちがありますが…。よろしければ、縫い付けてしまいましょうか?」
「あら、そんなこともしてもらえるの? じゃあ、お願いしたいわ」
レラは装飾品を糸で縫い付け、アフィネを再び鏡の前に立たせた。
「まあ、素敵。…でも、わたしみたいなおばあちゃんに、似合っているのかしらねぇ?」
「とてもお似合いですよ」
「まあ。レラさんはお世辞がお上手ね」
お世辞でもない。アフィネは高齢だが、若々しいたたずまいで、気品に溢れている。その装飾品は本当によく似合っていた。
「わたしねぇ、むかしお城に勤めていてね。いまでも王室とは懇意にさせてもらっているの。だから、フェルナさまのことは産まれたときから知っているのよ」
アフィネのその言葉を聞いて、レラは、
(へえ、そうなのか。それじゃあ、ヴァリンの小さい頃のことも知っているのかな…)
と思ったが、すぐに頭から消した。アイツのことなど、もうどうでもいい。
「あの愛らしかったフェルナさまが、立派に成長されて王になるんだもの。嬉しくてしょうがなくってね」
アフィネはほんとうに嬉しそうに、温かく笑った。その笑顔に呼応したかのように、胸に飾られた装飾品がきらきらと光った。
「それでね、いけないとはわかっているけど、精一杯おしゃれして、お祝いしたくなっちゃって…」
戴冠の儀は、公の場で行われる。もちろん、警備兵もいるし、人の眼もあるので、高価な装飾品などは身につけられない。なので、戴冠の儀が終わったあとに、こっそりと豪華な衣装や装飾品を身につけて、また集まり、新王の就任を祝おうというわけだ。そう考えている帝都の民は結構多い。
「セハンさんに相談したら、なんとかしてくれるって言ってくれて…。ほんとうにセハンさんはいい品物といい人を紹介してくれたわ。ありがとう、レラさん」
アフィネはレラににっこりと笑いかけ、頭を下げた。
「いえいえ、そんな、とんでもありません。仕事ですから」
レラは慌ててそう答えた。だが、「仕事ですから」とは言うものの、セハンに頼まれた仕事は装飾品を運んで渡すまで。こうして、コーディネートや飾り付けまでしているのは、過剰なほどの運送費をくれたセハンへの義理立てもあるにはあるが、レラ自身の思惑によるところが大きい。
「レラさん、いい装飾品をたくさんお持ちなんですってね。戴冠の儀の日のために欲しがっている人はたくさん知っているわ。ぜひ、紹介させてちょうだいね」
アフィネはそう言った。
(やった!)
レラは胸のうちで成功の喜びを叫びながら、控えめに頭を下げる。
「ありがとうございます。アフィネさま」
そう言って、上品に笑った。
「フェルナさまはね、本当に聡明でしっかりと自分のお考えを持った方なのよ。きっと素晴らしい王になって、この国を良くしてくださるわ」
アフィネがそう語るのを、レラはふるまわれたお茶を飲みながら、聞いていた。
(アフィネさんは本当に素敵な方だよなぁ。セハンさんが利益も考えずに大事にするのもわかるな)
アフィネは帝都で手広く事業をやっているらしいが、偉ぶったところはまったくない。年相応の威厳はあるが、物腰も口調も柔らかく、どこか可愛らしくもある。レラは、そんなアフィネに愛されているフェルナのことをうらやましく思った。
「フェルナさまはよくこの屋敷にも遊びに来てくれるのよ。この前は『兄さまがもうすぐ帰って来ます』なんておっしゃってね…気丈で可愛い方でしょ?」
そのアフィネの言葉に、レラは、
(さすが兄妹ってことなのかな…、もう帝都に帰ってきているんだけどね)
と思い、もう隠すこともないだろうからアフィネには話してしまおうかなと思ったが、さすがにやめた。
その後も、アフィネは嬉しそうにフェルナがいかに素晴らしい人物で王にふさわしいかを語り、レラはそれににこやかに相づちを打っていた――そして、気づかぬうちに、レラの心にわだかまりが積み重なっていった。
「…フェルナさまはね、お兄さまのヴァリンさまと比べられてしまうけれど、けっしてヴァリンさまに劣る方ではないのよ」
そのアフィネの言葉を聞き、レラのわだかまりが溢れ出た。
「…アフィネさまは、ヴァリンさまのことを子供の頃からご存じなのですよね?」
「ええ、ええ、よく知っているわ。ヴァリンさまはそれは賢くてね。小さい頃から本当に凄い方だったのよ」
「…でしたら、ヴァリンさまが王になった方が、この国がもっといい国になるとはお考えになりませんか?」
(なにを言っているんだ、わたしは――)
レラは心の中で叫んだ。
(アフィネさんはフェルナさまが王になることをあんなに喜んでいるのに…それに水を差すようなことは言っちゃダメだ)
アフィネは少しうつむいて、口を閉じてしまった。
(人の喜びを汚すようなヤツは、馬に蹴られて死んでしまえばいいんだ!)
レラは、自分を責めた。少しして、アフィネが口を開いた。
「レラさん…あのね…わたし、こんなことは言いたくないの。でもね…」
(アフィネさんは怒っているな…。わたしが悪いんだ、なんとか機嫌を直してもらわないと…)
レラがそう思っていると、
「わたしね、ヴァリンさまが王にならなくて、ホッとしているのよ…」
アフィネはそう言った。
「それは…、なぜなのですか?」
間を置かずに、レラの口からその言葉が飛び出た。
「ヴァリンさまは本当に素晴らしい方よ。強くて、優しくて、まっすぐでね。でも、思ってしまうの…わたしはこのひとについていけるかなぁ、みんなはこのひとについていけるのかなぁ…って、ね」
そのアフィネの言葉に、レラは愕然とする。
(「このひとについていけるのか」…か。ヴァリンと一緒にいて、わたしだって何度も思ったことじゃないか…)
レラの脳裏に、帝都までの旅のさまざまな場面がよみがえった。
(ヴァリンは強い。強すぎるんだ。そして、いつでも前へ進もうとする。誰もがそれについていけるわけじゃない。そんなヴァリンが王になったら…)
今度はレラはがっくりと顔を伏せ、黙り込んでしまった。アフィネは、自分の言葉でなぜレラがそこまで落ち込むのかわからなかったが、あわてて声をかける。
「わたし、いけないことを言ってしまったわね。誤解しないでね、ヴァリンさまのことは大好きなのよ。でもね…」
アフィネがそこまで言うと、レラは突然、顔を上げる。
「アフィネさま、お願いがあるのですが…」
と言った。唐突な言葉に驚いたアフィネだが、その声音になにか強い気持ちを感じ、にこやかに言葉を返した。
「あら? なにかしら?」
「厨房をお借りできないでしょうか?」
「厨房? ああ、お台所ね…いいけれど…でも、なにをするの?」
「実は、友人を待たせていまして…料理を作って持って行ってやりたいんです」
「あら、それはステキねぇ。いいわよ。…それじゃあ、わたしもひとつお願いしていいかしら?」
「…なんでしょう?」
「わたしの分も、作ってくださる?」
アフィネはいたずらっぽく笑って、そう言った。
「まあ、美味しい。こんな美味しいものはじめて食べたわ」
アフィネは、レラが作った料理を口にすると、驚嘆の声を上げた。
「ありがとうございます」
レラは頭を下げた。アフィネは立派な厨房を使わせてくれて「ここにあるものは、なんでも使っていいからね」と材料まで提供してくれた。だから、いつもより気合を入れて作った。それをアフィネは本当に美味しそうに食べてくれている。素直にうれしい。…と、料理を食べるアフィネの手が止まった。
「とっても美味しいわ、レラさん。でもねぇ、これ冷めてしまったら、味が落ちるわよね…。これから持って帰ってお友達に食べさせたら、文句を言われない?」
(アフィネさん、鋭いなぁ…)
とレラは思いながら、
「だいじょうぶですよ。アイツに文句なんて言わせませんから」
と笑って答えた。
「まあ。良いお友達なのね」
アフィネも笑って言った。
「戻ったわよ、ヴァリン」
レラはそう言って、馬車の中に入った。
「おかえり、レラ」
うなだれていたヴァリンは、安心したようにそう言った。
「あら? 出て行かなかったのね」
「うん…」
それは、当然のことだ。ヴァリンの後ろ脚はまだ犬のままなのだ。出ていくどころか、外に出られるはずもない。
「出掛けた先でさ、妹のフェルナさんのこと聞いたわよ。とてもほめられていたわ。あなたが王になるより、ずっといいのかもね」
「…フェルナはとても優秀だよ。きっと立派な王になれる」
「あなたは、もう王になる気はないのね?」
「うん…ごめん、レラ」
「謝ることないでしょ、あなたが決めたことだもの」
レラは右手に持っていたカバンを脇に置いた。
「…でもね、ウソはやめてよ」
「ウソって…」
「あなた、戴冠の儀に出るために帝都に戻ったんだ、って言ったよね? あれ、ウソでしょ?」
慌てて視線をそらすヴァリンを見ながら、レラは言った。
「あなたは、ムチャをする人だけど、自分のためだけにムチャをする人じゃない。なにか他の理由があって、帝都に戻ったんだよね?」
「ごめん、レラ、それはちょっと…」
「理由は話せない? いいわよ、話したくないなら聞かないであげる」
そう言うと、左手に抱えていた包みをテーブルの上に置いた。
「ここにも好きなだけいればいいわ。報酬はちゃんともらうからね。でも、あなたの妹からじゃない、あなた自身からもらうわよ」
「わかった…ありがとう、レラ」
「さあ、じゃあ食事にしましょうよ」
レラは包みの中身を取り出して、テーブルに置いた。
「この料理はさ、わたしが作ったのよ。台所を借してもらえたんでね」
「えっ! 本当に?!」
ヴァリンの顔が嬉しそうに輝いた。
(こんなときに…このひとは本当にねぇ…)
レラはあきれながら、
(アフィネさんは、こういうヴァリンを知っているのかな?)
と思った。そして、
「うん、とても美味しいよ、さすがレラだね」
料理を食べ始め、そう言ったヴァリンを見ていると、一瞬だけ、首をかしげるような仕草をしたのがわかった。
「…ねえ、ヴァリン。あなた今、『これ出来立てで冷めてなかったらもっと美味しかったのになぁ』って思ったよね?」
冷ややかな口調でレラが言った。
「えっ! そんなこと…あ、うん…ごめん」
「まったく。あなたってひとはこんなときに…本当にあきれるわ」
「ごめん、レラ…」
そう言うヴァリンから、あきれた素振りで顔をそむけると、レラは少しだけ笑った。
次の日の朝。ヴァリンは寝床の中にいた。頭からすっぽりと毛布をかぶり寝転んでいる。とはいっても、すでにハッキリと目は覚めている。だが――
三人の男が馬車の中に入ってきた。そのうちの二人が馬車の床に置いてあった大きめの木箱を持ち上げると、外へと運び出した。その様子を毛布の下から覗いていたヴァリンは、
(あんな大きな箱が隠してあったのか…この馬車は本当にどうなっているんだか…)
と、今さらながらに思った。
そして、残った一人の男が、立っているレラに声をかける。
「助かったよ。店の酒の在庫がもう切れかけててさ」
そう言うと、少なくない金額をレラに手渡した。
「こちらこそ。ずいぶんと上乗せさせてもらったしね…」
レラは、帝都から離れた町の酒造業者から依頼を受けて、帝都に酒を運んできたのだ。前王・厳格公の施政により、帝都での飲酒は禁じられている――表向きは。実際のところ、帝都の民たちの多くは隠れて酒を飲んでいるし、帝都へ酒を持ち込むのも普段であればどうということはない。だが今は、戴冠の儀のために警備兵による検査を受けなければならない。高価な装飾品と同様に帝都へ持ち込むのは難しい。レラにしたって、帝都に入る理由を疑われたりして警備兵に拒否されていれば、どうしようもなかったのだ。
「…でもまあ、こちらもいろいろ苦労したのよ。悪く思わないでよね」
と、ヴァリンに蠱術を使わせて、検査をすり抜けたレラが言った。
「ああ、わかっているよ。まあ、こっちも戴冠の儀でひと稼ぎするさ…」
男はニヤニヤと笑い、
「なにせ、あの麗しい『憂いの姫さま』が王になられるんだ。色気づいて乾杯したい男はいくらでもいるだろうしね」
と言った。
(この…!)
それを聞いたヴァリンは毛布の下から飛び出しそうになったが…にらみつけてきたレラと目が合い、思いとどまった。そのレラの視線の先を見た男が、
「あそこで寝ているのは、ネエさんの男かい?」
と訊いた。レラは不快げに、
「まあね…。起こさないようにしてよ。メンドくさいひとだから、起こしたらあなたもただじゃすまないわよ」
と言った。
「おお、怖い怖い。じゃあ、退散するか…。ネエさん、よかったら、夜にでも店に来ておくれよ」
男の言葉に、レラは即座に答えた。
「いやよ。帝都の店の料理はマズいんだもの」
「はは、厳しいねぇ。…でも、『出されたメシは文句言わずに食え』ってのが、前王さまの教えだからさぁ」
その言葉を、毛布の下で聞いていたヴァリンは、
(そんな『教え』などあるか!)
と思ったが、ヴァリン自身も出された食事に文句を言った記憶はなかった。
男が馬車を出て行くと、ヴァリンはかぶっていた毛布をはねのけてレラに言った。
「レラ、きみは帝都に酒を持ち込んだのか?」
「ええ、そうだけど」
「帝都では酒は禁じられている。それなのに…」
「ヴァリン…あなただってさ、帝都のひとたちが酒を飲んでいるのも、酒を出している店があるのも、気づいているわよね?」
帝都では酒が禁じられている――といっても、入ってくる酒をすべて取り締まれるわけではない。だから、大っぴらに酒を飲んだり、公然と酒場を営業しない限り、黙認するしかない。それはヴァリンもわかってはいる。
レラは続けて言った。
「それに…約束したよね。『わたしが帝都でやることには口出ししない。見たこともすべて忘れる』って」
「それは…もちろん、憶えているよ。でも、いまのは忘れられないよ…」
ヴァリンのその言葉に、レラは思った。
(妹をバカにされて怒っているのか…まあ、それはわかるけどねぇ…)
と、ヴァリンの次の言葉に驚かされる。
「『帝都の店の料理はマズい』って言われて、反論しないなんてさ!」
(…いや、ちょっと待ってよ、ヴァリン)
レラはそう思い、
「あなただって、帝都の料理は美味しくない、って言ったじゃない?」
と言ったのだが…
「そりゃあ、言ったよ。でもね、実際に帝都で料理店をやってる者は反論しないとダメだろ? 自分の仕事に誇りは無いのか? 『ウチの店は美味いよ』くらいは言うべきじゃないか?」
(ああ、うん。それはわかるよ、ヴァリン。わかるけどさぁ…)
レラは興奮するヴァリンを、あきれた顔で見ながら思った。
「あんなヤツの店は、フェルナに言って、つぶして…」
そう言うヴァリンに…
「ヴァリン!」
レラが声を上げた。
「…『忘れる』約束だよ。わかっているよね?」
「ああ、わかっているよ」
ヴァリンはそう言ったが、まだ、ブツブツと文句を言っている。レラは、そんなヴァリンを見ながら、
(ホントにメンドくせぇな…コイツ)
と思い、顔をしかめた。
「本当に素敵です。お似合いですよ」
レラは満面の笑みで心からそう言った。
「うれしいわ。こういうのを付けると、ウキウキしちゃうわよね」
レラは、アフィネに紹介された家を訪れ、持参した宝飾品の中から好みのものを選んでもらい、その家のワードローブからそれに合う衣装を選んで縫い付け、着てもらっている。
「いいわねぇ。これ、いただくわ」
「ありがとうございます」
レラは、慎み深く頭を下げた。
レラはすでに、アフィネに紹介された家を何軒も訪れているが、すべての家で宝飾品を買ってもらえた。みんな戴冠の儀の日ために宝飾品が欲しいのに、その戴冠の儀の警備のために宝飾品が帝都に入って来ないからだ。
(苦労して帝都に来たかいがあったな)
レラは仕事の成功を高笑いでもして喜びたい気分だが、落ち着いた仕草と抑えた微笑みを崩すことはない。そして、仕事が終わると「お茶でも飲んでいってね」ということになり、話題はいつもフェルナだ。
「フェルナさまはね、街に出て、いろいろな人の話を聞いてくださってね。優しくて気さくで素晴らしい方なのよ」
フェルナの支援者であるアフィネの紹介なのだから当然かもしれないが、みんながフェルナを絶賛し、同じような話を何度も聞かされた。そして、そのあと、
「ヴァリンさまは困ったお方よね」
と、みんな口をそろえて言う。
「ヴァリンさまはね、以前から公務を放り出して帝都からいなくなることが多くてね…。仕事を押し付けられて大変だって、フェルナさまはお嘆きだったのよ」
ヴァリンへの愚痴の出所は妹のフェルナらしい。レラはフェルナにいたく同情した。
(あのひとが兄だったら、そりゃあ大変よねぇ…)
と同時に、ヴァリンにもほんの少しだけ同情する。帝都で生まれ育ったヴァリンだが、いつからか帝都の外の食事の美味しさに気づいてしまい、帝都での食事に我慢ができなくなってしまった――それで、帝都をたびたび抜け出したのだろう。
「今度だって、お兄さまがいなくなって、お父さまが亡くなられて…。フェルナさまは本当におツラい顔をされていたのよ…街にもあまり出て来なくなられてね」
(それで、「憂いの姫さま」なんて呼ばれるようになっちゃったわけね)
レラはますますフェルナに同情した。
(しかし…、誰もヴァリンの心配はしていないんだな。帝都からいなくなって、ずいぶんと経っていると思うのだけど…。まあ、あのヴァリンだから、心配されないのもわからなくないけれども…)
と、また少しだけヴァリンにも同情したのだが…
「本当に、ヴァリンさまは困ったお方よね」
と言われると、レラは少し憤慨したような顔を作り、
「まったくです。困ったお兄さまですよね」
と言った。
「へえ、これ美味しいじゃないか」
その日の夜、レラが持ち帰った料理を食べながらヴァリンが言った。
「…でも、レラが作ったものじゃないよね? どこで買ってきたの?」
「買ったんじゃないわ。もらったのよ」
レラは少し嬉しそうに答えた。
その日、アフィネに紹介された家を数軒まわったあと、お礼とご挨拶のためにアフィネの屋敷を訪れた。少しだけ話をして帰ろうとすると、
「先日、わたしが不在の折にアフィネさまにごちそうしていただいたそうですね。ありがとうございます」
と、この屋敷の家政婦に頭を下げられた。
(ああ、なるほど。厨房を勝手に使われて怒っているんだな…)
レラはそう思い、
「いえいえ、こちらこそ厨房を使わせていただいて、ありがとうございます」
と素直に頭を下げると、家政婦は包みを差し出した。
「こちら、わたくしが作りました。ご友人とお召し上がりください」
(「ご友人」? ああ、ヴァリンのことか。この前、わたしがそんなこと言ったんだっけ…)
レラは、そう思いながら、
「これは、ありがとうございます」
と頭を下げて包みを受け取った。
あの時、あの家政婦がなんでそんなことをするのかよくわからなかったが、こうして料理を口にしてわかった。アフィネからレラの作った料理のことを聞いて、悔しかったのだろう。この料理からは「わたしだってアフィネさまに美味しいものを作れるんだからね」という心を感じる。レラは嬉しくなった。
(よかったな。アフィネさんのまわりには心を使って料理を作ってくれる人がいるんだ…)
その料理を美味しそうに食べるヴァリンを見た。
(…ヴァリンにだって、きっとそんなひとがいるんだろうな)
そう思い、レラはとっておきの一本をあけることにして、テーブルに置いた。
「酒?! レラ、きみは酒を飲むのか?」
眼の前に置かれた酒瓶に、ヴァリンは驚いて訊いた。
「わたしはね、ヴァリン。仕事がうまくいったときは飲むことにしているの。あなたも飲む?」
レラがそう言うと、ヴァリンはすぐに断る。
「いや、わたしは酒など…」
(そりゃあ、まあ、そうだろうな。帝都での飲酒を禁じた厳格公の息子なんだから)
そう思いながら、
「ああ、そう。それは残念。でも、ヴァリンもさ、自分の仕事がうまくいったときには、お酒を飲むといいわ。とっても美味しいんだから」
レラはそう言うと、カップに酒を注ぎひとくち飲む。自分の中に解放感が広がっていくのがわかった。だが、その姿を見たヴァリンは嫌な顔を隠さない。
「酒か…それを帝都に持ち込んで、贅沢な宝飾品を売り歩くのが、きみの仕事なのか…どちらも帝都で禁じられていることはわかっているだろう?」
そんな言葉は、普段のレラならば「わたしの仕事には口出ししない約束でしょ?」と切り捨てるのだが…
「わかってないのね、ヴァリンは。酒も宝飾品も禁じられているから高く売れるのよ。戴冠の儀で着飾ってはしゃぎたいから、みんなわたしから宝飾品を買ってくれるの。だからさ、わたしはあなたのお父さんと妹には感謝しているのよ」
と、まるでヴァリンを挑発するようなことを言った。
「レラ、きみは…」
ヴァリンは憤慨する。
「…王族の在り方というものがわかっていない。戴冠の儀のときに使う「冠」だって、宝石のひとつもついていない質素なものを使うんだよ。それが堅実に国づくりを進めていこうという帝国の意志なんだ。それなのに、贅沢な宝飾品で着飾るなんて…みんなわかっていないよ」
レラは、家政婦の作ってくれた料理を口に入れ、酒で喉の奥に落としながらそれを聞いた。
(そんなおもちゃみたいな冠を使って「帝国の意志」って…なんなのかねぇ)
と、思いながら。
「ヴァリン…あのね、帝都の人たちは妹のフェルナさんが王になるのを祝福しようとしてくれているんだよ。それなのに…」
レラのその言葉を
「そんなものいらないよ」
とヴァリンは切り捨てる。
(いらない…ね)
酔いがまわってきて、ぼんやりとするレラの頭の中に、フェルナが王になることを心から喜んでいるアフィネの温かな笑顔が浮かんできた。
(王族というのは、あれを「いらない」と言うのか…贅沢なものだな…)
レラはカップの酒を、ひとくちだけ飲み込み、
「…ヴァリン、わたしね。こう見えても、小さな頃は体が弱くってさぁ」
そう言って、カップを置いてヴァリンを見た。
(うん? なんの話だろ。…酒を飲んでいる者の言う事はよくわからないな)
ヴァリンが、唐突に話題を変えたレラに戸惑い、言葉を返せずにいると、
「あるとき大きな病気になってね。もうダメだってなったんだよね…」
とレラが言った。
(あー、わたしナニ言ってんだろ。こんな話してもしょうがないじゃん。やめよう、やめよう)
とレラは思い、そこで口を閉じて、少し多めに酒を飲み込んだ。すると、
「それで? そのあとはどうなったんだい、レラ」
ヴァリンが優しい声でそう訊いた。レラは酔いの回った頭でそれに反応し、言葉を返した。
「…ああ、うん。そのとき、父さんはもう死んでてね。ウチにはもうおカネがなかったんだよね。それで、母さんは家宝の宝飾品を売っておカネを作って、すごく高価な薬を手に入れて、わたしは助かった…ってワケ」
そこまで言うと、レラはカップに酒を注ぎ、一気にあおった。
「でもね…母さんは『なんでわが一族の宝を売ったんだ』って、親戚中から責められてさぁ…そのあと母さんも死んで、わたしは親戚に引き取られたんだけど…。何度も言われたよ『おまえのせいで、わが一族はあの宝を失ったんだぞ』ってね」
レラはまたカップに酒を注ぎ、飲み干した。
「だからね、わたしは『あの家宝とやらを見つけてやる』って、家を飛び出したわけね。見つけたらバラバラにしてやる、なんて最初は思ってね。でもね、宝飾品のこと勉強しながら旅をしてわかったんだよ。宝飾品には心を繋ぐ力がある。わたしは、あ宝飾品をつけて笑ってた母さんのこと憶えている。とても綺麗だった。わたしは、あれを取り戻したい。わたしを助けるためにあれを手放した母さんの気持ちを取り戻したいんだよ…」
そこまで言うと、レラはうなだれる。
「でも…あの宝飾品がどこへ行ったのか、ぜんぜんわからなくてね…。貯まったおカネだって、あのとき宝飾品を売り払った金額にはまだまだ足りない。まだまだなんだよなぁ、わたしは…」
そこで、レラは突然、立ち上がった。
「…いやいや、わたしがヴァリンに言いたいのは、そういう事じゃないんだ。帝都の人たちはみんな、妹のフェルナさんのこと愛しているよ。だから宝飾品を買ってくれる。宝飾品を身につけてフェルナさんが王になった日を祝えば、その宝飾品を身につけるたびに、その日のことを思い出せるじゃない。みんな心に残したいんだよその日のことをさ」
レラは崩れるように、イス代わりにしているベッドに座り込んだ。
「だからさ、わかってあげてよ、みんなことをさ。贅沢だなんて言わないで…」
そのままがっくりとうなだれ、黙り込んだが、少しして顔を上げ
「…あ、わたし酔ってるな…もう、寝るね。おやすみ、ヴァリン」
そう言うと、ヴァリンの反対側に顔を向けてベッドに倒れ込んだ。
ヴァリンは自分を責めた。なぜ、もっとレラに言葉を返してやらなかったのだ、と。
(わたしは、酒を飲んだ者と話したことなどない。どのように接すればいいか、わからなかったんだ…)
そう自分に言ってみたが、それは嘘だと自分でもわかった。
(わたしは…、レラのことをぜんぜんわかっていなかった。きっと帝都の人たちのことも…)
自分に背を向けて寝ているレラを見て、ヴァリンはそう思う。
翌朝、レラは目を覚ますと、ベッドの上で小さく声を出した。
「あーあ、やっちゃったなぁ…」
酔ってはいたが、昨夜言ったことはほとんど憶えている。酒を飲むとどうも口が軽くなる。あんなことヴァリンに言うつもりはなかったのに…
(まあ、言ってしまったことはしょうがないか…)
そう思いながら、ベッドから起き上がると、
「おはよう、レラ」
ヴァリンが声をかけてきた。昨晩とまったく同じにイスに掛けた姿勢で。
「あら、おはよう、ヴァリン。今朝は早起きじゃない」
レラはそう言って、ベッドから立ち上がり、水差しからカップに水を注いで口にした。レラにはすぐにわかった。ヴァリンはあれからずっと寝ていない。
(あーあ、ほんとうに余計なこと言わなきゃよかったな…)
レラがそう思っていると、
「いや、少し考え事をしてね…。よく寝られなくってさ」
とヴァリンは言った。そして、疲れた顔に無理に笑顔を作り、
「レラに、わたしのやることを手伝って欲しいな、って思ってさ」
と言った。
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