第9話 壁の剣
ヴァリンは右手に剣を握り、両手を地面につけていた。まだ犬のままで人間に戻っていない左右の後ろ脚も地面につけた状態で、両手を地面からゆっくりと離すと、ふらふらと二本の犬の後ろ脚だけで体を立たせようと試みるが…危なっかしい…としか言いようがない。それでも、なんとか二本の後ろ脚で立ち、右手に持っていた剣を両手で握って振る。陽光の下、ヴァリンの周りに光がきらめき、凄まじい速さで剣が振り回されていることはわかるが、剣の軌跡はまったく眼で追えない。やがて、剣の動きは唐突に止まり、体の安定を失ったヴァリンはばったりと前に倒れる。だが、すぐに両手を突いて体を起こすと、剣を握ったままの右手と左手と二本の後ろ脚で這いつくばってイスにたどり着き、とび乗ると、剣を鞘に納め、テーブルの上においてあったカップを右手にとり、優雅にお茶をひとくちすすった――
「ねえ、ヴァリン、あなたなにをしているのよ?」
テーブルの正面にいたレラは思わず訊いてしまう。
「なに、って修練だけど…」
訊かれる意味がわからない、というようにヴァリンが答えた。
ヴァリンとレラの二人は外で朝食をとっていたのだが、食事を終え、お茶を淹れたところで、ヴァリンが突然、席から離れ「修練」とやらをはじめたのだ。あまりの唐突な行動に、思わず「なにをしている」と訊いてしまったレラだったが、
(ムダなこと訊いたな…)
と後悔した。ヴァリンがやりたいことはわかる。できれば後ろ脚で立って、両方の腕で自由に剣を振るいたいのだろう。しかし、一定の時間、しっかりと立ち上がったままでいられないなら、実戦では使えない。結局、二本の後ろ脚と左手で移動して、右腕で剣を振るしかない。ヴァリンなら、それでも十分に闘えるだろうし。そりゃあ、修練を積めば、いつかは犬の下半身で立って自由に剣を振れるようになるかもしれないけど、そのころには、ヴァリンの下半身は人間に戻っているはずだ。
(まったく、このひとはねぇ…)
と、レラが、ヴァリンのわけのわからない向上心にあきれていると、
「まだまだだけど、コツがわかってきたよ。尻尾を地面につけるくらいの気持ちで体を反らせて、剣を振ればいいんだ」
と、ヴァリンが嬉しそうに言った。
(いらない話ね。わたしには一生、尻尾なんてはえやしないし)
レラは心の中でヴァリンの言葉を切り捨てて、話題を変えることにした。
「ねえ、ヴァリン、寒くはないかしら?」
二人はいま、高台にいる。峠越えの街道を少しはずれて山道を入ったひらけた草地で一晩を過ごし、朝食をとった。平地に比べて風は少し冷たい。そして、ヴァリンはここ数日で腹の辺りまで人間に戻っている。だからいま、レラの眼の前にいるのは上半身裸でお茶を飲んでいる男なのだ。
「寒い? いや全然そんなことないよ」
右手にカップを持ったまま、あっさりとヴァリンが答えた。
(いや、そうゆう事じゃないんだなぁ。そりゃ「寒くない?」って訊いたけどさぁ。少しは察してよ、ヴァリン)
レラはため息が漏れないようお茶をひとくち飲み込んだ。
ヴァリンの右腕と左腕が人間に戻ったばかりの頃は胸の辺りまで白い犬の毛があった。だから、下半身さえ隠してしまえば、見かけた者も「ああ、変わった服を着ているな」くらいに思ってくれただろう。だが、今は上半身は裸の人間。外で食事をするには極めて不自然な姿だ。外での食事をやめたとしても、どうせヴァリンは外に出たがる。やはり、早めにどうにかした方がいい。
「ねえ、ヴァリン、ここから帝都までの間に服が買えるくらいの町はないの? そこであなたの服を買いましょう」
「…うん、まあ、あるにはあるよ、ここから少し行ったところにね。でも、静かで小さな町だから、あまり立ち寄りたくはないな。わたしが刺客に襲われて、騒ぎを起こしてしまってたら住民の皆さんに申し訳ないからね」
(…大きな街で怪物騒ぎを起こしたあなたがそれを言うの?)
と、レラは思ったが、まあ、それは置いといて…
「でもね、全身が人間に戻ったらどうするのよ? 全裸で帝都に入るつもりかしら? それに、刺客なんてもう来ないんじゃないのかな?」
ヤの国の刺客はもう来ない――レラはそう思っていた。まだ不完全とはいえ、ヴァリンは剣士としての力を取り戻してしまった。少人数の刺客をさしむけたところでヴァリンを殺せるとは思えない。それでもヴァリンと闘いたがる者はいるのだろうが、その者たちにヴァリンの居場所を教えて闘わせ続けたら、ヤの国の戦力がムダに減るだけだ。
(もうさあ、ヴァリンが王になってから、戦争でもしてどさくさに紛れて殺すしかないでしょ? それとも、どこからか魔法使いを呼んできて、もう一度、犬にするとか…。ああでも、このひとしぶといからなぁ、こんどはネズミにでもしてしまいましょうか…)
レラがヴァリンを見ながら意地悪くそう考えていると、
「まあ、そうかもしれないね。ここまでくればもう帝都の警戒域内だし、ヤの国の者たちもそんなに目立つ行動はできないだろう…。次の町に立ち寄ってみるかい?」
「決まりね」
レラがにこりと笑うと、ヴァリンが真剣な表情で、
「でもね、レラ、油断は禁物だよ。刺客の気配を感じたら、すぐに中止だ。…それに、ヤの国の刺客がもう来ないとしても、きみが本当にやりたいことは帝都にあるんだろ? この峠を越えて、次の町を過ぎたら帝都はすぐだ。今は気を引き締めるべきじゃないかな?」
と言った。
(あ~あ、そんなの言われなくたってわかってますって。このひと、ときどき説教くさいのよねぇ…)
レラは黙って立ち上がり、馬車の中に入ると、ギラギラと光るナイフを手にさげて戻ってきた。
「ん?! レラ、そのナイフどうするの?」
ヴァリンが訊くと、
「髪を切るのよ。帝都が近いから気を引き締めなきゃ…でしょ?」
レラはそう言うと、イス代わりにしている木箱をテーブルから離れたところに移動させて座り、艶やかな黒髪を無造作につまんで手際よくナイフで切り、切った髪は風に飛ばした。
ヴァリンはその様子を少しだけ見て、すぐに目をそらした。
(そりゃあ、レラは刃物の扱いには慣れているから、キレイには仕上がるんだろうけれど…女性が髪を切る姿はもっと優美なものだと思っていたんだがなぁ)
だが、レラの意気込みは感じられる。レラは帝都でやることの準備を着実に進めているのだろう。
(それに比べて、わたしは…)
やるべきことはハッキリしている。だが、どうやってそれをやるのかは決めていない。帝都に着いて、人間の姿に戻ってさえいればなんとかなるだろう…くらいの考えでしかないのだ。
(わたしは、あせっているのだな…だからレラに「気を引き締めろ」などと言ってしまう。本当に気を引き締めるべきなのはわたしの方なのに…帝都はもう目の前だ。わたしも覚悟を決めないとな…)
レラが手早く散髪を終え、ナイフを持って戻ってきた。髪は肩の辺りできれいに切り揃えられている。
「ねえ、レラ、わたしにもそのナイフを貸してくれないか?」
と、ヴァリンが声をかけた。
「いいけど…なにをするつもり?」
「わたしも髪を切って、ヒゲを剃ろうと思うんだ。帝都も近いことだしね」
「そう…でも、ヒゲ剃っちゃって大丈夫なの? ここから先はあなたの顔を知っている人が増えるんでしょう」
「そりゃあ大丈夫さ。わたしがここにいることを知っているのは、ヤの国の者たちくらいだろ? それを知らなきゃ、わたしがヴァリン・ルドゥだとは気づきはしないよ。よほどの知り合いでもない限りはね」
(ああ、なるほど、それはそうよね。このひと、こうゆうところはちゃんと頭が回るんだよなぁ…)
レラは、ヴァリンにナイフと渡すと、お湯を用意してテーブルに置いた。
「ありがとう」
ヴァリンはそう言うと、乱雑に伸びた髪を引きちぎるようにナイフで切りはじめた。その姿に興味のないレラは黙ってテーブルを離れた。
しばらくして、朝食のかたづけを終えたレラがヴァリンに声をかけた。
「ねえ、ヴァリン終わったの? そろそろ出発するわよ」
「うん…ああ、終わったよ、どう? ちゃんと剃れているかな?」
どれどれ、とレラがヒゲの無くなったヴァリンの顔を覗き込んだ。
(うーん、なるほど。顔立ちが整っているのはヒゲの上からでもわかってたけど、けっこうな美青年ね。それで「光の王子」とか呼ばれているわけか。しかし、こうなると上半身裸はますます異様だわ。早いとこ服を着せないと…)
レラはもう一度、ヴァリンの顔をじっくりと見た。すると今までの記憶がよみがえってきた。犬の姿のヴァリンが訪ねてきて、犬の姿で語りはじめたあの夜のこと。ヴァリンに心を封じられ、犬の顔が人間に変わっていく異様な光景を見せられ続けた数日。人の顔をした犬の姿のヴァリンに激しい嫌悪を抱きながら、その口に食事を運び続けた日々。そして、ヴァリンに振り回され続けたここまでの旅。
「…アハハ」
レラの心の中でなにかがはじけ、笑い声があふれ出た。
(まあ美形だわねぇ。でも、こんなやさ男が本当のヴァリンだなんてさぁ。これが 「怪物」なんて言われている男なのかしらねぇ…?)
「ハハハハハハハハハハハ」
レラは口から笑いがさらに漏れ、もう止めることができなくなった――今までのガマン、忍耐、努力の成果がこれかぁ。いや、いいんだよ。これで正解。大成功なんだけどさぁ。でも、わたし、こんなのを気味悪がったり、怖がったりしていたのかよ――あ~あ、バカみたいだな。
ヴァリンは笑い続けるレラを呆然と見つめていた。
(このひとは、こんなふうに笑うんだな…)
ヴァリンは悟った。レラは今まで、自分の前で心から笑ったことが一度もなかったということを。
(あーあ、油断しちゃったなぁ…)
レラは、眼の前に並んでいるヤの国の刺客を見ながら、そう思っていた。レラとヴァリンが「さあ、帝都へ向かうぞ」と覚悟を決めて身じたくを整え、馬車を動かし、わずかな距離を進んだところで、いたのだ。ヤの国の刺客たちが。二人が一晩を過ごし、朝食をとった高台の草原から街道へとつながる山道をふさぐように、七人の刺客たちが横に並んで立っていた。ほんの少し前に「ヤの国の刺客なんてもう来ないんじゃない」と言ったレラとしては、どうにも恥ずかしい。御者台の隣に座っているヴァリンに、皮肉のひとつも言われるんじゃないかと気にしながら、チラチラと目をやった。すると、
「あれは…『壁の剣』じゃないか…」
と、ヴァリンが驚いた顔でそうつぶやいた。
(『かべのけん』? なんのこと?)
レラは、ヴァリンがつぶやいた言葉の意味を訊きたかったが、今はそんなことより…
「ねえ、あいつらどういうつもりなの? 立っているだけで、なんでこちらを襲ってこないのよ?」
と、ヴァリンに尋ねた。ヤの国の刺客たちは、腰にさげた剣を抜くこともなく、ただ黙って立ちふさがっている。レラとヴァリンはかなり前から刺客たちの気配を感じていた。近づけばそのうち襲ってくるのだろうと身構えて馬車を進めていたのだが、見える位置まで来ても刺客たちが動く気配はない。レラの馬車は動きを止めた。
「…あいつら、なんで動かないのよ? だいたいさ、昨日の夜にでも襲ってくればよかったんじゃないの?」
レラの疑問に、少し考えてからヴァリンが答えた。
「ヤの国の者たちは、考え方を変えたのだろう」
「考え方を変えた、って…あそこにああして立っていれば、あなたを殺せるとでもいうの?」
刺客たちを指して、レラがあきれたように言った。
「殺せなくても、通さなければいい――そう、考えを変えたのだろう」
納得がいかない顔のレラに、ヴァリンは言葉を続けた。
「この道は、片側がはるか見下ろす崖、もう一方が山頂まで続く岩壁になっている。帝都へと続く街道に出るためにはまわり道はできない。だから彼らはわたしたちをここに足止めして、戴冠の儀に出席させないつもりなのだろう」
「冗談はやめてよヴァリン。戴冠の儀まであと何日あると思っているの? そんな何日もここで立ちふさがって足止めだなんて、できるわけ…」
「できるんだよ」
ヴァリンはきっぱりと答えた。
「真ん中にいる男が持っているのは『壁の剣』。わたしは戦場で何度か相対したことがある。ヤの国の宝、そう言っていい剣だ。持つ者と周囲の者に『守備の力』を与える。何日も、眠ることも飲むことも食べることもせずに、立ち続け、守り続けることができる。我々がどれだけあの剣に苦しめられたことか…」
それから、ヴァリンは帝国の兵と「壁の剣」の長い戦いの歴史を語りはじめたのだが、レラはそれをすべて聞き流した。
(まったく、こんなときにこのひとは…)
あきれながらも、レラはヴァリンの話に納得した。ヤの国の刺客たちはヴァリンを殺すことはあきらめ、戴冠の儀が終わるまでここに足止めして、帝国の王にはさせないつもりなのだろう。
(王にならなくても、ヴァリンがヤの国にとって「怪物」なのは変わらないとは思うけどねぇ)
レラはそう思ったが、ヤの国の考えもわからないではない。ヴァリンが王になったりしたら、相手をする敵国は、それはそれは大変だろう。レラは眼の前に並ぶ七人のヤの国の「刺客」たちの覚悟を理解した。
(おっと、もうヴァリンを殺す気はないんだっけ? じゃあもう「刺客」じゃないね…。でもね、わたしもヴァリンも自分の往く道をふさぐ者は殺すよ。もちろん、その覚悟はできているんだよね? ヤの国の兵士さんたち)
レラは嬉しそうにも見える笑みを浮かべて、かたわらに置いてあった自分の剣を右手で握った。そして、いまだに帝国と「壁の剣」の戦いについて語っているヴァリンの剣を勝手に左手で持ち上げると、柄の部分をヴァリンに向けて差し出す。
「さあ、ヴァリン、剣を抜いて」
「え?! なんで?」
ヴァリンは戸惑いながらも、反射的に鞘から剣を抜いてしまう。そして、レラは自分の剣を右手で抜いて、左の腕をヴァリンの裸の上半身に回すと、そのまま持ち上げ、御者台の上に立ち上がった。
「…あの、ちょっと…レラ、なにをしているのかな?」
ヴァリンがおそるおそるといった口調で訊いた。
「なに、って…このまま突っ込むよ」
と、レラは右手の剣でヤの国の兵士たちを指した。
「いやいやいや、ちょっと待ってよ」
ヴァリンはレラの左腕に担がれながら大きく首を振った。
「『待て』って、あなた本気でここで数日足止めされるつもりなの? あのくらいの人数なら、あなた一人でもなんとかなるでしょ? わたしがあそこまで運んであげるし、手助けもするからさ、とっとと突破しましょう」
レラはヴァリンを担いだまま御者台からとび降りると、ヤの国の兵士たちに向かって走った。
「ちょっと待ってって、レラ!」
ヴァリンが叫んだが、レラは無視する。
(もう帝都は眼の前なんだ、こんなところで立ち止まってられるわけないじゃない)
七人の中心にいたヤの国の兵士が「壁の剣」を抜いた。だが、剣を抜いたのはその一人だけ。敵が駆け寄ってくるというのに他の者たちはまるで動かない。レラは異様なものを感じたが、止まりはしない。さらに、次の瞬間、強い圧力を体に感じた。風だ。突然、強い風が生まれ、レラの体にぶつかってきた。
(なによ、これ?!)
だが、それでもレラは止まらなかった。右手の剣を「壁の剣」を持つ兵士に向けて振った。兵士は「壁の剣」でそれを受け止める――様子さえ見せなかった。だが、レラの剣は止まった。なにもないところで。
(?!)
レラの剣は目に見えないなにかに止められた。なんの音もなかったが、右手には剣をはじかれた痺れが残っている。レラの心の中に警戒の声が響いた。なにか自分には理解できないことが起きている、と。だが、レラの本能が命ずる、攻撃を止めるな、と。レラは剣を振り続けたが、すべて見えないなにかに阻まれ、右手に痺れが蓄積していく。ヤの国の兵士たちは反撃どころか、動こうともしない。自分に理解できないことが起きているという恐怖と自分を阻もうとするものへの破壊衝動で、レラは剣を止められない。しかし――
「レラ、無駄だよ。もうやめて」
戦いの場に似つかわしくない、静かで優しいヴァリンの声がした。レラは剣を止め茫然とヴァリンを見た。ヴァリンは右手に持った剣を振った様子もない。次の瞬間、壁の剣を持つヤの国の兵士が声を上げた。
「一歩前へ!」
ヤの国の兵士たちが、七人そろって一歩前進した。また強い風が突然生まれ、レラにぶつかった。なにか目に見えないものが迫って来たのを感じる。
「ここは、いったん退こう」
ヴァリンが穏やかな声で言った。
「でも…、ここで敵に背を見せてしまっては…」
レラがためらっていると、
「だいじょうぶ。だいじょうぶ、だからさ」
ヴァリンはもぞもぞと体を動かし、脱力したレラの左腕から抜け出すと、右手に剣を持ったまま、左手と後ろ脚で地面に立った。
「さあ、戻ろうよ」
そのまま、体を反転させ馬車の方向に走り出した。レラも黙ってその後を追う。二人が御者台に戻るまで、ヤの国の兵士たちはまったく動かず、追ってくることもなかった。
「だからさ、『壁の剣』は抜いた者とその周囲にいる者の前に見えない壁を作るんだ。その壁は剣も矢も魔法も通さない。そのことはちゃんと話したよね? レラは聞いていなかったの?」
馬車に戻ったヴァリンがそう訊くと、
「聞いてなかったわよ。あなた、話が長いのよ。戦場の話なんかだらだらしてさ。大事なことをさっさと言わないんだもの」
レラはふてくされた口調でそう言った。それを聞いたヴァリンは、
(ああ、いつものレラに戻ったな…よかった)
と、ひと安心した。
「壁の剣」に阻まれて、茫然と剣を止めたときのレラの顔――それは、ヴァリンが知らないレラだった。レラの旺盛な行動力と突破力がどこから生まれているのか、ヴァリンは知らない。だがもし、そんなレラを止めるものが現れてしまったら…。
(レラはとても強い。でも、あやういんだな…)
ヴァリンは、目の前の開き直ってふんぞり返っているレラを見ながら、そう思った。
「その見えない壁って、なんとか、すり抜けたりできないの?」
レラがそう言った。
「それは無理そうだね。『壁の剣』のつくる壁の範囲はかなり広い。七人いればこの道をふさぐには十分すぎるよ」
「そうか…無理か」
少し苦しそうに言うレラに、ヴァリンはすぐ言葉を返す。
「でもね、あの見えない壁はこちらの攻撃を遮るけれど、向こうのからも攻撃はできない。さっき逃げるときに、壁を解除して追いかけてきてくれないかと期待したんだけどね…」
「ああ、なるほど、それでヴァリンは『逃げよう』って言ったのね」
レラの顔が少しだけ明るくなる。
「うん、そうだよ」
ヴァリンは笑顔を作って、そう言った。それは嘘ではない。だけど、「退こう」と言ったいちばんの大きな理由は、なにかにとりつかれたように剣を振り続けるレラを見ていたくなかったからだ。
「なんだ。じゃあさ、わたしがあいつらに突っ込んだのだって、無駄じゃなかったよね。相手がのってこなかっただけでさ」
「ああ…まあ、そうかな」
ヴァリンはまた笑顔を作って、そう答えた。だが、それは嘘だ。ヤの国の兵士たちはヴァリンの強さ、恐ろしさを知っている。たった七人の戦力で防御をはずして襲い掛かるような真似をするはずがない。ヴァリンもレラもそのことはよくわかっている。
二人の間に沈黙が降りる。ヴァリンは、らしくもなく黙り込むレラを見ながら、あのとき、見えない壁に向かって一心に剣を振っていた姿を思い出していた。
(レラは必死なんだよな。わたしは必死になりきれてないのかもしれない…。こんな状況では、手段など選んではいられないな)
「…わかったよ、では、とっておきを使ってみよう」
そう、ヴァリンが言うと、
「なんだ、なにか手があるのね? やだなぁ、出し惜しみなんてしている場合じゃないでしょう」
と、レラが責めるように言った。
(本当に…出し惜しみなんて、していられるわけないよな)
レラの瞳に懇願するような色を見て、ヴァリンはそう思った。
ヴァリンは右手に剣を握り左腕と二本の後ろ脚で、レラは腰に剣をさげたまま、ゆっくりと並んで歩いて、ヤの国の兵士たちに近づく。中心にいる兵士は壁の剣を鞘に納めていない。見えない壁は張られたままだ。兵士たちまであと数歩というところで、二人は止まる。だが、兵士たちはこちらをにらむどころか、まったく表情を変えずに、静かな眼でこちらを見ている。それは、壁の剣に護られた者に、長期間の不動、不眠、不食を可能にさせる壁の剣の力によるもの。眼の前まで近づいても表情を変えない兵士たちを不快そうに見ながら、レラはヴァリンに訊いた。
「それで? どうするのか教えてよ、ヴァリン」
「うーん、説明はやめておくよ。長くなりそうだし…」
ヴァリンがそう答えると、
「なによ、わたしが『話が長い』って言ったの怒っているの?」
と、レラが不服そうに、少しだけ心配そうに言った。
「そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと説明が難しそうだからね。レラはいつもみたいにやってくれたら、それでだいじょうぶだからさ」
「…わかったわ。じゃあ、なにをすればいいの?」
ヴァリンはヤの国の兵士たちを見ながら答えた。
「まず、魔法の詠唱をする。少し時間がかかるから、彼らが壁を消して攻撃してくるようだったら、よろしく頼むよ」
レラが黙ってうなずくと、ヴァリンは剣を地面に置き、後ろ脚をたたんでひざまづいた姿勢で詠唱をはじめた。眼の前で魔法を使おうとしているのに、ヤの国の兵士たちが動く気配はない。
(見えない壁には魔法は通用しない。だからだいじょうぶ――そう思っているの?)
気に入らない。レラはそう思った。なにかに護られて安心しきっているように見えるその姿は、レラをひどく不快にさせた。
(壁を解いて、攻撃してきなさいよ。相手をしてあげるからさ)
実際には、ヤの国の兵士たちは壁の剣の力で感情を抑えられているに過ぎないのだが。レラは見えないはずの壁をいまいましげににらみつけた。
(こんなもの、きっとヴァリンがなんとかしてくれる。ヴァリンはいろいろなものを越えられるひとだ。こんな壁だって、きっと飛び越えてくれる…見ていなさいよ)
そして、ヴァリンが詠唱を終えた。
「それじゃいこうか」
ヴァリンがそう言うと、レラも
「ええ、いきましょう」
と、左の腰にさげた剣を抜こうと右手をかけたが…
「ああ、剣はまだ抜かないで、落とすといけないからさ」
と、ヴァリンがレラに言った。
「剣を落とす? わたしそんなことしないよ」
と、レラが不愉快そうに言うと、
「ああ、ごめん。それはわかっているよ。でも、念のためにさ」
ヴァリンはそう言いながら、二本の後ろ脚でふらふらと立ち上がり、左腕をレラの体に伸ばした。
「ちょっと、なにしているの? ヴァリン」
「ごめん、後ろ脚で立つとまだ少しふらついてさ…」
そう言いながら、ヴァリンは左腕をレラの体に回し、自分の裸の上半身に引き寄せる。ヴァリンの体の生温い感触が、革鎧のすきまからレラに伝わってくる。
「ちょっと、ちょっと。なにやってんのよ。敵の前で」
眼の前のヤの国の兵士たちは、変わらぬ無表情でヴァリンとレラを見ている。そして、ヴァリンはさらに強い力でレラを抱き寄せると、
「それじゃ、いくよ。しっかりつかまっていてね」
と言った。
次の瞬間、レラの視界が揺れた。めまいのような感覚に襲われ、一瞬だけ、気を失ったような…。気がつくと、眼の前にいたヤの国の兵士たちの無表情だった顔が驚愕に変わっていた。そして、その光景は少しずつ下へ移動する。下へ移動? いや、違う。レラは慌てて周りを見る。わたしが上へ移動しているんだ。ヤの国の兵士たちの姿はすでに自分の足元より下にある。足元? あれ? 靴底に地面の感覚がない。レラは、自分を抱きしめているヴァリンの左腕の力を思い出したように感じ、
「ねえ、ヴァリン、なにをしているの?」
と、訊いた。
「え? なにをしているって…空を飛んでいるんだけど」
ヴァリンは答えた。――レラは混乱した。
(いや、それはわかっています、って。え? いや、なにがわかっている、って? わたしは今、空を飛んでます――って、いや、それはいいんだけど――いや、よくないけれども。…落ち着け、落ち着いて、わたし)
レラは、息を整えて、もう一度、ヴァリンに尋ねた。
「ねえ、ヴァリン。わたしたちなんで空を飛んでいるのかなぁ?」
「なんでって、そりゃあ、壁の剣がつくった見えない壁を越えるためだよね?」
(うん、それは、そうだろう…いや、でも、わたしが知りたいのはそうゆう事じゃないんだよ、ヴァリン)
レラは考えがまとまらないまま、またヴァリンに訊いた。
「あなた、どうして空を飛べるの?」
「そりゃあ、昔、ちょっとがんばって修業したからね」
(ちょっとがんばって…ですって?)
レラも空を飛ぶ魔法があるという話は知っていた。だが、使う者など見たことがない。だから、「そんなのホラ話だよ」と言われたら、そうかもと思っただろう。昨日までなら。
「わたし、あなたが空を飛べるって知らなかったんだけど…。なんで言ってくれなかったのかなぁ?」
レラがそう言うと、
「え? 訊かれたことあったっけ?」
ヴァリンは本当に不思議そうに言った。
(「あなたって、空は飛べるの?」なんて訊くわけないでしょ。…ああでも、相手がヴァリンだもの、一度は訊いておくべきだったのかな…)
レラはまだ混乱していた。
二人はゆっくりと少しずつ上昇している。ヤの国の兵士たちは、驚いた顔のままで、二人を見上げている。混乱するレラの頭に疑問が浮かぶ。
「ヤの国のやつらは、なんであんなに驚いているの?」
レラがそう訊くと、
「そりゃあ、彼らは、わたしが飛べるのを知らなかったはずだからね」
とヴァリンは答えた。
(そんなことあるはずないでしょ)
レラは思った。ヴァリンと旅をして身に染みて知った。ヤの国の情報力を。「ヴァリンが空を飛べる」なんて重大な情報を、いまヴァリンと相対してる兵士たちが知らないはずがない。
「なんでよ? あなたはヤの国と何度も戦っているんでしょ?」
レラがそう言うと、
「わたしは戦場で飛んだりしないよ。飛べない相手と戦うのに、こちらだけ飛ぶなんて、そんな卑怯なことできるわけないじゃないか」
と、当然のことのようにヴァリンは言った。
(ああ、このひとって、そういうひとだったなぁ…)
レラはヴァリンの左腕の中でため息をつく。
「空を飛べるなら、壁の剣なんていくらでも攻略できたでしょうに…」
レラがそう言うと、
「いやいや、そんなことはないよ」
とだけヴァリンは言って、眼の前の宙に剣を振った。
「よし、ここまで上がれば壁はないな」
そう言って、ゆっくりと前方に移動を開始した。レラが振り返ると、ヤの国の兵士たちの背後に回ったのがわかった。見えない壁は越えた。兵士たちは首を曲げてこちらを見上げているが、もう驚いた顔はしていないし、動く気配もない。
(へえ、余裕じゃない。待ってなさいよ、今、下に降りて…)
と思ったが、ヴァリンはまだゆっくりと前方への飛行を続けている。
「ねぇ、ヴァリン、まだ降りないの?」
レラが訊くと、
「うん、まあ…まだ、もうちょっと先かな」
ヴァリンが答えた。すると、レラが、
「ねえ、ヴァリン、まさかとは思うけれど、このまま逃げて帝都まで行こうなんて思っていないよね?」
と冗談のように、少しだけ心配そうに訊いた。
「まさか。馬車で帝都に入れなきゃ、わたしは困る。レラはもっと困るだろ?」
とヴァリンが言うと、
「もちろん。わたしの大事な馬車だもの」
安心した口調で言うレラの言葉を聞きながら、ヴァリンは考えていた。
(わたしたちが馬車を捨てて帝都に行くことはない――ヤの国の兵士たちもそう思っている。だから、壁を越えられてもあそこから動こうとしない。ここまでは、想定どおりなのだが…この後は少し賭けになるな)
レラは、ヴァリンがこれからなにをしようとしているかを訊きたかったが、訊いたところでヴァリンが答えないのはわかっているので、黙って地面を見下ろした。
(うっわぁ、高いなぁ…)
怖くはない。怖くはないんだけど…早く地上に降りてくれないかなぁ…とレラが思っていると、
「じゃあ、このあたりでいいかな」
ヴァリンが言った。レラが振り返ってみると、ヤの国の兵士たちの背中からかなり離れている。なんでこんなに離れたのかと、ヴァリンに訊こうとしたが…
「ねえ、レラ、わたしをつかんでいる手を離してもらっていいかな?」
そうヴァリンに言われて、レラは、自分がしがみつくように両腕をヴァリンの体に回していることに気づいた。
(うわ!)
慌ててその手をヴァリンから離す。
「うん。じゃあ…よろしく頼んだよ、レラ」
ヴァリンはそう言うと、レラの体を抱えていた左腕を離した――
(えっ?!)
レラの体は地面に向けて落下を始める。
「ヴァ~~~~~~リ~~~~~~ン!!」
叫んだところで、落下が止まるわけではない。驚愕に続いて、迫る地面への恐怖が生まれる。バサバサと、背中のマントが大きな音を立てて、頭に響く。
――だが、それは、わずかな時間のこと。レラの頭から、他のものがすべて消えて「今、なにをすればいいのか?」それだけが残った。体を大きく広げて風を受け、両手両脚をほぼ同時に地につける。両腕はやわらかく使い、両脚はひざを曲げ、まるで猫のようなしなやかに、全身のバネで落下の衝撃を吸収した。痛みはほとんど無かった。
(次にやるべきことは…)
レラはすぐに体を起こし、走りだした。ヤの国の兵士たちに向かって。こちらに背を向けて、首だけを回してこちらを見ていた兵士たちの表情が驚きにゆがむ。痛快だ。
「全員、後ろを向け!」
中心の兵士が叫ぶと、七人全員が走ってくるレラの方へと体の向きを変えた。――そのときレラは理解した。壁の剣は兵士たちの前に見えない壁を作る。だから壁を越えられても、振り返れば兵士たちの前に壁はあるのだ、ということを。つまり、いま、自分と兵士たちの間には見えない壁がある――
(だから、どうした!)
レラは走る速度を緩めることさえしない。ヤの国の兵士たちはまた表情の無い顔に戻り、驚きにゆがんだ顔は消えた。それでも構わずにレラは走り、兵士たちの直前まで来た――その瞬間、壁の剣を持つ兵士の背後に人のカタチが降ってきた。音も無く地面に立つと、右手の剣で兵士の首を背後から正確に貫いた。
「ヴァリン!」
レラが叫んだ。
「ダメだよ。敵の位置をすべて確認しないで隊形を変えたりしちゃあね」
ヤの国の兵士たちの背後に降り立ったヴァリンは、まるでたしなめるように、そう言った。喉を貫かれた壁の剣を持っていた兵士はバタリと倒れる。
「わたしがこんなに早く戻って来られるはずがない――そう思ってくれたのかな? まあ、行きはわざとゆっくり飛んだからね」
ヴァリンは声に出してそう言った。兵士たちは一瞬あっけにとられていたが、すぐに残り六人全員がヴァリンに向かってきた。
(やはり壁の剣を持つ者を倒せば術は解除されるようだな。あとは残りの者たちを倒すだけだが…)
と考えていると、最も近くにいた二人の兵士が左右から同時に迫ってきた。
(高速で飛んだあとだし、この後ろ脚だからなぁ…)
ヴァリンは前のめりに倒れそうになる体を必死に支えていた。
(…少しキツイかな…でも、まあ…)
左側の兵士がヴァリンへと振った剣を、割り込んできた剣が弾きとばした。ヴァリンが叫ぶ。
「レラ!」
レラの剣は左の兵士の剣を弾いたあと、右の兵士の剣の一撃も止めた。その剣の上を滑らせるようにレラの剣が走り、甲高い金属音が響いてそのまま兵士の首を斬り裂いた。
(さすがだな、レラ。わたしもここで倒れるわけにはいかないよな)
ヴァリンがふらつく体をなんとか安定させようとしていると、レラが叫んだ。
「倒れてろ!」
叫んだと同時に、ヴァリンの裸の腹に思いっきり蹴りを放った。想定していなかったレラからの攻撃に、ヴァリンは尻もちをつくカタチで吹っ飛ばされる。ヴァリンへと殺到していたヤの国の兵士たちは、一瞬、あっけにとられ立ち止まったが、すぐに倒れたヴァリンに襲いかかる。一斉に振り下ろされる兵士たちの剣を、駆け寄ったレラが踊るように体を回転させ、次々と剣で弾いた。レラの赤いマントがまるく広がり、やわらかな盾となってヴァリンの体を覆い隠す。ヤの国の兵士たちは攻撃を阻まれ、レラの剣と、マントの下から伸びてきたヴァリンの激しい剣閃に命を断たれた。
「ヴァリ~ン、痛かった? あの場合、仕方ないよね。わかるでしょ?」
レラはニコニコと今までで最強といっていいつくり笑いを顔に貼り付けてそう言った。それに対してヴァリンはひと言も答えない。ヴァリンとしては珍しく、かなりふてくされていた。レラの言いたいことはわかる。あの場面でふらふらと立っているなら、倒れていた方がいい。その方がレラも戦いやすかっただろう。だけど、ヴァリンには、あの場面でも自分でなんとかできた――という剣士としての自負があるし、なんと言っても、すっごく痛かった。無言で答えようとしないヴァリンには構わず、レラが続けた。
「わたしが空から落とされた仕返をした――なんて思ってないよね? そんなことないよ。あれが作戦だってちゃんとわかってるから、怒ってないし」
レラを上空から落としてヤの国の兵士たちへと走らせ、焦って陣形を崩したところを空を高速で戻ったヴァリンが急襲する。この作戦をもちろんレラは理解しているだろう。だが、怒っていない、というのはウソだ。あの蹴りにはかなりの怒気が含まれていたし、蹴らなくたって他にやり方はいくらでもあったはずだ。
「でもさあ、わたしひとつ訊いておきたいんだよね…」
またも応えないヴァリンに、レラが言った。
「あなた一人で空を飛んで壁を越えればよかったんじゃないの? それで壁の両側から、はさみうちにすれば…」
「…そんなことをすれば」
黙っていたヴァリンがふてくされたまま答えた。
「…ヤの国の兵士たちは、壁の剣を持つ兵士を囲むように隊形を変える。それが戦場での壁の剣の使い方だ。壁の剣を持つ指揮官を守るのが本来のあり方なんだよ。それも最初に説明したんだけどね。レラは聞いてなかったの? その隊形を組まれたら崩すのは難しい。この細い山道では、脇を人が通り抜けることはできても、馬車は通れなくなる。いよいよ帝都まで歩いていくことになったハズだけど、レラはその方がよかった?」
「ふん!」
珍しく責めるようなヴァリンの口調に、レラは鼻を鳴らす。
(ちょっと言い過ぎたかな…レラは十分にやってくれたのにな…)
ヴァリンは少し反省し、まだ痛みの残る腹をさする。二本の後ろ脚で立ち上がり、ふらふらと歩くと、ヤの国の兵士たちの遺体のかたわらから、壁の剣を拾い上げ鞘に納める。
「ヴァリン、それどうするつもり?」
レラが尋ねると、
「持って行くよ。ここに置いていくわけにはいかないからね」
ヴァリンが答えた。
(そりゃあね、あれだけの力のある剣だもの…。でも死者から剣を奪うなんて、ヴァリンらしくないな…)
と、レラが思っていると、
「この剣は、ヤの国に返す。彼らの国の宝だからね」
そのヴァリンの言葉に、レラは驚く。
「なんですって! バカげているわ。それをヤの国に返したら、また、あなたの国の兵士たちが苦しめられることになるのよ」
「それでもさ、これはヤの国の者が作った彼らの国の力だ。彼らにはこれを使う権利がある」
ヴァリンは、鞘に納めた壁の剣を持って、そう言った。「この剣は、ヤの国に返す」そのヴァリンの言葉に偽りはない。だが、ヴァリンには、もう一つの思惑がある。
(ヤの国にこれを返す前に、少しだけ使わせてもらう)
それは、ヤの国の兵士が壁の剣を持っているのを見たときに思いついたことだ。しかし、ヴァリンの信念には大きく反する行いになる…。
(仕方がない。もう時間がないんだ。他にうまい方策が浮かぶとも思えないし…)
ヴァリンは壁の剣を強く握った。
「ねえ、わたし思うんだけどさ…」
レラがつくり笑いを消して言った。
「…ヴァリンにね、いろいろ譲れないことがあるのはわかるよ…でもさ、今はそれを破る決断をしなきゃならない時でしょ? わたしのためにそうしろ、なんて言わないよ。でも、ヴァリン自身のためにさ…」
「レラ…」
ヴァリンは、レラを見た。
(なんか、「いいこと言ってる」みたいな感じだけど、わたしが決断する前に、わたしを担いで敵に突っ込んじゃったのはレラなんだけどなぁ…)
と、ヴァリンは思ったが、それは口にしない。結局、決断できたのはレラの突撃のおかげなのだし。でも…
「決断できなかった理由は、それだけじゃないんだよ、レラ。空を飛ぶ魔法は大量の魔力を消費する。ここで大量に魔力を使ってしまったら、戴冠の儀までに全身が人間に戻らないかもしれない、それが不安でね」
それを聞いたレラが、
(あー、それ忘れてた。しまったなぁ…)
と思っていると、
「まあ、でもさ、レラの言うとおり他に方法はなかったろうし、使っちゃったものは仕方ないよね」
とヴァリンが言った。レラがなにかを言おうとすると、それをさえぎるように…
「ヤの国は、この戦いに国の宝まで持ち出してきたんだ、帝都を目前にした最後の決戦だったんだろうね」
レラには、ヴァリンがなぜそんなことを言うのか分からず、
「うん、そうかもしれないわね」
と、生返事をした。
「だからさ、次の町に寄っても大丈夫だよ。さあ、行こうよ。わたしに服を買ってくれるんだろ?」
ヴァリンは、右手に壁の剣を持ったまま、左の手で自分の剣を拾い上げ、馬車へと歩き出そうとした。しかし、不安定な後ろ脚と戦いの後の疲労から体勢を崩し、前のめりにバタリと倒れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます