第7話 右腕

 右腕がはえた――

 いや、それは正しい言い方じゃない。

 右の前脚が右腕に変わった――

 というのも少し違うな。もともとは右の前脚は右腕だったのだから。

 朝起きると、右前脚が右腕に戻っていた。ヴァリンは混乱する頭でその右腕を見つめる。昨晩までは確かに犬の右前脚だったそれを。

(たった一晩で…こんな急激に変わるものなのかな?)

 ヴァリンの犬の顔が人間に戻るまでは、数日かかったらしい。戻っていく過程は自分ではよくわからなかったのだが、すべてを見ていたレラが、

「犬の顔がね、少しずつ歪んでいってさあ、人間の顔になっていったのよ。本当に気持ち悪いったらなかったよ」

と、言っていた。その「気持ち悪かった」本人であるヴァリンとしては、ひどい言われようだが、

「蠱術をかけられて心を失くしていなければ、まあ、逃げ出してたわね」

と言われれば、蠱術をかけたのがヴァリンなので怒ることもできない。

 では、犬にされたときはどうだったか? ゆっくりと人間から犬へと変わったのか、あっという間に変わったのか? よく覚えていない。気がつけば犬だったし、自分は犬なのだと思ってそのまま生きていた。レラと出逢ったあの日までは。

 改めて、戻った右腕を確かめてみると、指先までしっかりと動くし、肩も回せる。もとに戻ったのは右手の先から右肩を越えて、右胸のあたりまでだ。人間に戻った部分と犬のままの部分の境に違和感もない。

(この調子なら、帝都に着く前に全身が戻るんじゃないか?)

気分が高揚した。

 そこに、外で朝食を作っていたのだろう、料理を載せた皿を持ったレラが馬車の中に入ってきた。

「あら、ヴァリン、起きたの?」

と言うレラに、ヴァリンは取り戻した右腕を手のひらを広げて、突き出す。

「ほら、見て、右腕が戻ったんだ!」

レラは大きく目を見開くと、手に持っていた皿をテーブルの上に置き、空いた両手でヴァリンの右手を握った。

「やったじゃない、ヴァリン」

握られた右手から、レラの手のぬくもりが伝わってくる。やはり、犬の体の時とは違う。人間の体と体でふれあえたのはどれくらいぶりだろう?

「本当に…本当によかったわね、ヴァリン」

レラが、両手に更に力をこめた。ヴァリンは右手がつぶされるのでは、と思ったが、そんな感触も嬉しい。

「ありがとう、レラ。これも君のおかげだよ」

レラは自分の感情をあまりオモテに出したがらない。そのレラがこんなにも喜んでくれるなんて意外だった。

(しかし、本当にレラには感謝だな。毎日、美味しい食事を作ってくれて、それを食べさせて…くれて。…ん、あれ? ということは…)

「じゃあ、朝食にしましょうよ、ヴァリン。さあ、座って」

ヴァリンは右腕とまだ犬のままの三本の脚を使って椅子に上がる。レラがその目の前にフォークとナイフを置いた。

「今日から、自分の手で食べられるんだね。本当によかった」

「…うん、そうだね、よかったよ」

ヴァリンはフォークを握る。冷たい感触が右手に伝わってきた。これも懐かしい。けれども…

 レラといえば、ヴァリンの口に食事を運ぶという面倒な作業から解放されて、上機嫌で朝食をとっている。

 ヴァリンは、なんだか淋しい気持ちを捨てきれないまま食事を始めた。


 朝食を終え、二人はお茶をすすっていた。昨日までカップのお茶をレラに飲ませてもらっていたヴァリンは、自分の右手でカップを持って、レラといっしょにお茶を飲めるのが嬉しくて、気持ちが高まるのを抑えきれない。

「ねえ、レラ、お願いがあるのだけど…」

と、レラに声をかける。

「ん? なにかしら?」

「右腕が戻ったから、久しぶりに剣を握ってみたいんだ。ちょっとだけ、キミの剣を貸してくれないかな…?」

 レラは、カップに口をつけてお茶を飲みながら、ヴァリンを見た。まだ右腕は治ったばかりだからなぁ。剣を落とされたりしたらやだな。剣は、わたしの命…なぁんて、言わないけど、大事にはしている。あまり雑な扱いはして欲しくない。でも、ヴァリンは高名な剣士だったらしいし、そこらへんはわかっているだろう。片手でもフォークとナイフはちゃんと扱っていたし、今もカップを普通に持ってお茶を飲んでる。まあ、ちょっと剣を持つだけでしょうし、いいかな、それくらいなら。

 レラは、右手にカップを持ったまま、左手でかたわらに置いていた剣をとり、鞘の部分を握って、柄の部分をヴァリンに差し出した。

「はい。大事に扱ってよね」

とだけ言って、カップに口をつけ、興味なさげにヴァリンから視線をはずした。

「ありがとう」

ヴァリンがそう言ったのとほぼ同時に、レラの握っていた剣が急に軽くなる。

(え?!)

と、驚いて自分が左手に握っていた剣を見ると、すでに鞘だけになっていた。

(…いま、剣を抜いたの?)

鞘を握っていたレラの左手にはなんの感触も伝わってこなかった。ただ一瞬で、静かに、ふわりと剣の重さが無くなった。そして、椅子の上のヴァリンは、かすかに笑みを浮かべながら剣を振り回している。

(速い!!)

レラは声がもれそうになるのを抑えた。レラは、達人といえる剣士の太刀筋を見切るほどの眼をもっている。そのレラですら、ヴァリンが振る剣の動きのすべてを追いきれず、ときどき視線の先から刃が消えた。それは剣が速いだけでなく、速さに変化をつけ、視覚から逃げるように太刀筋を変えているからだ。そして、剣が空を斬る音がしない。風もまったく起きていない。ヴァリンが剣を理想的に扱い、無駄な動きをさせていないからだ。

(これが、今日、右腕がはえたヤツなのか? 長い間、剣を握ってもいなかったのに…。まだ左腕も下半身も犬のままで、全身を操るのも困難だろうに…)

レラが呆然とそう考えていると、左腕に握っていた鞘に重さが戻った。

(え?!)

と、レラはまた驚く。剣が鞘に納まっていた。もちろん、ヴァリンが戻したのだろうけれど、それがまったく見えなかった。音もしなかったし、手に伝わってくる振動もなかった。剣を鞘に納めるのは、剣を抜くよりはるかに難しい。しかも、他人が手に持つ鞘に剣を納めるなど、たやすくできることではない。それなのに…

「ありがとう、レラ。いい剣だね」

ヴァリンがそう言って、笑った。

「…うん、ああ」

レラは、いつもよりさらに感情をオモテに出さないように努めて、そう答えた。レラはヴァリンに恐怖を感じていた。

「久しぶりに剣を振れて楽しかったよ。でもやはり…まだまだだね」

そう言うヴァリンを見ながら、レラは思っていた。

(このひとは、やはり……【怪物】なのだな)

と。


 レラはすべての感覚を集中させていた。闇の中を飛んでくる矢に。

(来る。右寄りから一射。正面から一射)

両方よけることもできるが、次の一射がどこから来るかわからない。体の移動を最小限に抑えて、右をよけ、正面から来る矢は剣で叩き落として、またすぐに飛んでくるであろう矢に備えた――

 レラとヴァリンは闇の中で敵に囲まれていた。

 ヴァリンが、

「右腕が戻ったから、ちょっとだけ外を歩きたいんだけど…」

と、言ったのだ。

 ありえない。右腕が戻った中途半端な姿だからこそ、外に出ることなどできるわけがない。袋をかぶって顔を隠したとしても、犬の体から人間の右腕がはえて歩いているのを誰かに見られたら、ごまかしようがない。

 だが、そんなヴァリンのわがままを、レラはあっさりと受け入れてしまった。右腕が戻ったヴァリンに超絶な剣の技量を見せつけられ、圧倒されて、

(ヴァリンがそうしたいのなら、もう、そうしてもいいんじゃないかな?)

と、まったく理屈の通らない思考に陥ってしまった。そして、人のいなさそうな森に通りかかると、馬車を停めて、二人そろって森の中を歩くことにした。もちろん、最初は人の気配などまったくなかった。しかし、歩くうちにいつの間にか周りを囲まれ、矢を射たれるハメに陥った。

 レラは迫って来た矢を最小限の動きでかわすと、かたわらにいる人の腕が一本と犬の脚が三本で立っているヴァリンに声をかけた。

「ヴァリン、突破しましょう。まっすぐに馬車の方向へ走れば…」

しかし、闇の中でヴァリンが犬の体につながった首を振るのがわかった。

「…いや、それはやめたほうがいいね」

「なんで?」

「敵は――ヤの国の刺客たちは、闇の中でもこちらが見えている。だが、こちらは相手が見えない。下手に動けば、その分、矢をよけるのが難しくなるだけだよ」

「でも…このままじゃ…。矢の一本や二本刺さってもなんとかなるでしょ?」

「…いや…ね、レラ。これは『狩り』なんだよ……」

「『狩り』って? どうゆうこと?」

レラは、飛んで来た矢を剣で叩き落としながら訊いた。

「ヤの国の『狩り』は、獲物を多人数で囲んで、矢を射って相手を弱らせ、時間をかけて仕留めるのさ」

(わたしたちが「獲物」ってことかな? まったく、他人事みたいに言ってくれるよなぁ…)

と、レラはヴァリンのまだるっこしい言葉にイラつきながら、

「だからこそ、早いところ突破してしまったほうがいいんじゃないの?」

と、目前に迫っていた矢を小さくかわし、ヴァリンの声のする方に言った。

「いやいや、それこそが狩人たちのワナなんだよ」

ヴァリンは首を大きく振りながらそう言うと、

「ヤの国の者たちは『狩り』のときに、毒を塗った矢を使う。焦って突破などしようとして、矢を受けてしまうのは避けるべきだ」

(毒?!)

レラは目の前に迫っていた矢を、ことさらに大きくよけて、更に剣で叩き落とした。

(だったら! 「狩り」だの「獲物」だの言ってないで、まずそれを伝えなさいよ!!)

と、レラは叫びたかったが、その余裕はなかった。次の「毒矢」が眼前に迫っていて、それを剣で叩き落とすので精一杯だったのだ…そのとき、

「そんなことよりさぁ…」

と、ヴァリンが言った。

(「そんなことより」? いま「そんなことより」って言ったの? 暗闇のなかで毒矢を射たれて、殺されそうなのに?)

レラがあっけにとられていると、ヴァリンは平然とした口調で言葉を続けた。

「ヤの国の者たちは、どうしてわたしたちがここにいることがわかったのかな? 尾行されている気配は無かったよね? レラはどう思う?」

レラは、飛んでくる毒矢をのけぞるようによけながら、

「あのさ、ヴァリン…それって、いま訊かなきゃいけないことなのかなぁ?」

と言うと、ヴァリンは飛んで来た毒矢を軽く跳んでかわして、

「だって…いま、こうして囲まれているのは、ヤの国の者たちがわたしたちの居場所をわかっていたからだよね? どうやってそれを知っているのか、レラは気にならないの?」

――どうやってヴァリンとレラがいる場所を知っているのか? といえば、ヤの国には人間と普通に会話ができる知能をもつハヤブサがいて、上空からレラの馬車を監視しているからなのだが、それはヤの国でも一部の者たちだけが知る秘密であり、ヴァリンもレラもそのことを知らない。

「それは気になるよ。でもね、それをいま気にしても…」

と、レラが言ったところで毒矢が飛んできた。大きく跳んでかわす。

「でもね、レラ。現に、わたしたちはこうして囲まれているわけだよね。だから、その理由を知らなければ先に進めない気がするんだよ」

ヴァリンは、考え込むような口調でそう言った。

(先に進む前に、ここで毒矢をくらって死ぬだろうが!)

と、レラは叫びたかったが、「冷静になれ」と自分を抑えた。ここで言い争いになってはならない。慎重に言葉を選んだ。

「帝国の王子だったあなたが知らないこと、わたしが知るワケないでしょ? 戦争してたときに、ヤの国の捕虜にでも訊けばよかったんじゃないの?」

そう言うと、ヴァリンは悲しそうな声で、

「戦争で捕虜にした者から訊き出すだなんて…そんな卑怯なことができるわけがないじゃないか」

と、言った。レラは頭に血がのぼりそうになるのを必死に抑えた。

(卑怯?! 暗闇のなかで、多人数で取り囲んで、毒矢をブチブチと射ち込んでくるようなヤツらに、なに甘いこと言っているのよ! こんなヤツら拷問でもして、指の一本や二本、切り落として訊き出してやればよかったのに!!)

と、レラが考えていると、まるでそれを見透かしたように……

「ねぇ、レラ。敵だとはいっても相手も人間なんだ。あんまり残酷なことは考えてはいけないよ」

と、ヴァリンがまるで説教でもするように、そう言った。

レラは大きく息を吐くと、剣を握る手に力をこめる。

「はぁーっ!!!」

気合と共に、ヴァリンのいる方向に大きく剣を振るった。ヴァリンに向かって飛んで来た毒矢が三本、バラバラと地面に落ちる。そして、そのまま、レラは叫んだ。

「とにかく! 今のこの状況をなんとかして!」

「…仕方がないね。では、ちょっとだけ魔法を使うことにするよ」

と、ヴァリンは言った。

 レラとしても、いまヴァリンに魔法を使って欲しくはない。自分がいないときにヴァリンが身を守るため魔法を使うのは仕方がないとしても、自分がいるときに使われるのはなんだかプライドが傷つく。…でも、まあそうも言ってられない。

「少し詠唱に時間がかかる。頼むよ、レラ」

「…わかった」

 ヴァリンは右腕の手のひらを上に広げた状態で詠唱を開始した。レラはヴァリンに向けて飛んできた矢をはじき、自分に向かってくる矢からは体をそらした。そして、次に飛来する矢に備えて身構えると、詠唱を続けるヴァリンの手のひらに小さな炎が生まれるのが見えた。

(火球を飛ばすつもりなの? だけど、敵は複数だし、位置もわからない。それに、そんな小さな炎でどうにかなるの?)

これから、あの小さな炎が大きく膨れあがるのだろう、と期待したのだが、炎は小さいまま、ヴァリンの手のひらから飛び立った。ふわりふわりと、蛍のように闇の中をさまよう。

(おいおい、ヴァリン、それはなんの冗談かな?)

と声が出そうになったが、ヴァリンは詠唱をやめていない。小さな火球はそのまま闇の中を飛びつづけ、レラとヴァリンから離れた位置の闇の中の一点でピタリと止まった。そして、次の瞬間――その小さな火球は大きく燃え上がり、人のカタチの炎になると、ばったりと倒れ、地面を転げ回った。ヴァリンの右手から飛び立った小さな火球が、闇の中に潜んでいた術者を見つけ出したのだ。炎に包まれた術者は地面の上でばたばたともがいていたが、やがて動きが止まる。そのとき、闇が消え去り、昼の明るい陽射しが戻ってきた――


 その少し前の事――

 散歩をしょうと、レラがヴァリンと「昼間」の森の中を歩きはじめてしばらくして、突然、明るかった空が闇に包まれ二人を呑み込んだ。レラは取り乱しそうになるくらい驚いたが、ヴァリンは平然と、

「ああ、これは、ヤの国の者たちがよくやる手だよ。ヤの国には闇を生み出す術を使う者がいるんだ」

と、慌てる様子もなく、ヤの国の術者の凄さを語り始めた。ヴァリンは、何度かこの術をくらったことがあるらしい。レラが呆然とヴァリンの話を聞いていると、何かが飛んでくる気配がして、反射的にそれをよけた。矢が体のすぐ近くを通過していった。

「…ああ、術者たちが闇を術を使ったあと、弓兵たちが矢を射ってくるのが戦術なのでね、気をつけて。…でもまあ、それくらいはわかっているよね」

と、ヴァリンが軽い口調で言った。

(わかっているワケないでしょ。わたしはヤの国と戦ったことないよ!)

と、叫びたかったが、そんな余裕は無かった。そのあと次々と飛んでくる矢をよけなければならなかったから。


「闇の術」を使う術者を倒したことで、レラとヴァリンを包み込んでいた闇が晴れ、レラの視界は一気に開けた。矢を射っていた者たちの姿も見えた。慌てて木の陰に隠れる者もいたが…

(全部で五人? 六人か? …まあ、どっちでもいいや)

レラは、木の陰に隠れずに弓を構えている射手に向けて走った。その構えた弓からレラに向けて矢が放たれたが、走りながら剣で叩き落とした。他の射手たちからも矢が飛んできたが、すべてかわした。闇さえなければ、矢など当たるはずもない。レラは標的にした射手に一気に肉薄する。射手は腰にさげていた剣に手をかけたが、遅い。一撃で斬り倒した。

(さあて、残りは何人かな?)

身を隠さずに、わざと全身をさらして森を見回した。闇の術がやぶられた以上、もう弓による攻撃はレラたちには通用しない。矢を射てば自分の位置を知られてしまうだけだ。だから、レラはあえて挑発をしているのだが…。ヤの国の射手のひとりが木陰から出て矢を放った。それを合図にするように、数人が矢を放つ。レラはそれをわずかな体の動きですべてかわした。

(敵は残り五人かな? 地上に三人、木の上に二人か…)

他に、逃げ出した者や、まだ隠れている者がいるのかもしれないが、それはもうどうでもいい。闇の中で毒矢で殺されかけた恨みはあるけど、全員を追いかけて殺すのは不可能だろう。

(まあ、とりあえず…)

レラは、猛禽のような速度で駆け、地上にいる射手の一人に迫った。射手は弓を構えることもできずに斬り倒される。間を置かず、レラは次の射手に向かって走る。慌てて矢を射ってきたが、まるで違う方向に飛んで行く。レラは敵にまっすぐに走って、剣を振った。三人めは剣を抜いて構えたが、その剣を振る前に、レラの剣の一閃が体を走り、絶命した。

――と、そこに矢が飛んで来た。レラがわずかに体を動かすと、ごく近くの地面に矢が突き立った。少し離れた位置にいる樹上の射手がレラを狙ってきたのだ。

(おいおい、あなたたちの目的はヴァリンでしょう? こっちばっかり狙わないでよね)

と、レラが思っていると、ヴァリンが三本の犬の脚で、木の上の射手に向けて駆けて行った。その不自然極まりない体にもかかわらず、結構な速さだ。

(…まあ、残りはヴァリンに任せましょうか。ボウガンは持って来てないし、剣だけじゃ木の上の敵を相手にするのはしんどいしね)

レラは剣を手にしたまま、ゆっくりと歩いてヴァリンを追うことにした。


(あー、これ、しんどいなぁ…)

走っているヴァリンは思っていた。もともと、「外を歩きたい」と言ったのは、三本の犬の脚と一本の人の右腕でちゃんと歩き回れるかを試したかったからだ。もちろん「走れるのか」も試すつもりだったが、実際にやってみるとこれが相当にキツい。二本の後ろ脚と右腕がぜんぜん連動してくれない。仕方なく三本の犬の脚だけで走ると左の前脚にかなりの負担がかかるうえに、安定感がまったくない。

(これで、いきなり実戦だものなぁ)

と、ぼやいていると、木の上から矢が飛んできた。走っているヴァリンの速度を読み切った正確な一射だ。このままでは当たる。ヴァリンは走るのに使っていない右手で思いきり地面を叩き、急速に左に移動して矢をかわした。そのまま走り、射手がいる木の根元にたどりつくと、詠唱なしで風の魔法を使った。木の上にいた射手は風に体を浮かされて、地面に落ちる。体を強打して、立てないでいるところに、人面の犬の姿のヴァリンが走り寄ってきた。射手は純粋な恐怖を感じ、腰にさげていた剣を抜こうとするが、腰にあったのは鞘だけ。剣が無い。慌ててヴァリンを見ると、犬の体からはえているその右腕に剣を握っていた。

(…おい、それは…オレの剣だろ?)

と、気づいたが、それに気づいたところでどうにもならない。ヴァリンが剣を振り、射手の命はそこで終わった。ご丁寧なことに、ヴァリンはその剣を鞘に戻してから再び走りだした。

 ヤの国の刺客、最後の一人は、三本の犬の脚で駆けてくるヴァリンの「右腕」を見つめていた。

(報告では、ヴァリン・ルドゥは、頭のみ人間という話だったんだけどなぁ…)

それが、取り囲んでみると右腕も人間になっていた。ヴァリンが使った、闇の術を破る魔法は、「人間の手」に魔力を集めなければできない。右腕が犬のままだったら、闇の術は破られなかったはずだ。それに、あの魔法は詠唱に時間がかかる。闇の中でも飛んでくる矢を叩き落とせるあの女剣士がいなければ…

(やれやれ、まったく、ツイてないよなぁ…)

ヴァリン・ルドゥを倒す――それは、人生最大の勝負だったというのに…グチりたくもなる。

(…だけどまあ、最後までやることはやらないとな)

刺客は木の上から飛び降りた。腰の革帯から剣を鞘ごと抜きとり投げ捨てる。弓兵らしく、最後の勝負は弓と決めた。左手に弓、右手に矢を二本だけ持ち、走って来るヴァリンに対した。先ほどヴァリン・ルドゥは、飛んでくる矢を、右腕で地面を叩いて左に移動してかわした。しかし、あんな不自然な体の動きをすれば、移動した一瞬にスキが生まれ、動きが止まるはず。そこを狙う。

 刺客は弓に矢を一本つがえ、ヴァリンに向けて放った。そして、熟練の早技で瞬時に二本目の矢をつがえ、また放った。先ほどのヴァリンの動きを見て予測した、一本目の矢をよけて移動するであろう左側の位置に――

 一本目の矢は、正確にヴァリンに向け飛んでいる。よけなければ当たる。ヴァリンは右腕で地面を叩いた……りはせずに、大きく腕を右に伸ばして振るような動作をした。すると、走る犬の体は、なめらかに右に曲がってから加速し、刺客の視界から消えた。よけられた一本目の矢はそのまま後方に飛び去り、予測をはずした二本目の矢はなにもない空間を虚しく飛び去っていった。

(バカな! あんなスキの無い回避ができるなら、さっきはなんで…)

刺客は、もうヴァリンの姿を眼で追うのをやめ、呆然と立ち尽くしていた。最後の攻撃をかわされたのだ。もうあとは…

 と、左の腰に突然、重みが加わるのを感じた。だが、違和感はない。常日ごろから感じている重さ…これは? 左の腰の革帯を見ると、先ほど投げ捨てたはずの剣が鞘ごと戻っていた。…そして、気がついた。自分の眼の前にヴァリン・ルドゥがいることに。三本の犬の脚で立ち、右腕をぶらぶらと振ってこちらを見ている。

「剣は大事にしないといけないよ。投げ捨てたりしてはダメだ」

そう、言った。

 刺客は理解した。剣を革帯に戻したのが、ヴァリン・ルドゥであることを。しかし(なぜそんなことしたのか?)は、考えなかった。ただ兵士の本能で腰の剣を抜こうとしたのだが…すでに鞘だけになっていた。見ると眼の前のヴァリン・ルドゥが自分の剣を握っているのが分かった――(ならなんで剣を戻したりしたんだ?)とは考えなかった。考える前に命を断たれていた。


 ゆっくりと歩いていたレラがヴァリンに追いつくと、ヴァリンは森の中を駆け回っていた。すでに敵の気配はなくなっているのだが…。ヴァリンはレラに気がつくと満面の笑みでまっすぐに駆け寄ってきた。

(ヴァリン、一体なにをしているのよ?)

と、レラは訊きたかったが、直感が教えてくれた。それは訊いちゃダメだと。

「敵は倒したの?」

とレラは訊いた。

「うん、ああ、それは終わったよ。そんなことよりさぁ…」

(また「そんなことより」か…自分を殺しに来た刺客を倒すより重要なことってあるの?)

とレラが思っていると、

「今の三本脚の体でさ、よりうまく方向を変える方法がわかったんだよ。右腕を使って姿勢を制御するんだ。コツが掴めれば、もっと速く走れそうだよ。それから、負担のかかる左の前脚なんだけど…」

と、ヴァリンが得意げに語り出した。

 レラは自分の直感が正しかったことを知った。そして、それが何の役にも立たなかったことも。

「…だからさ、体の左右の重さの違いは気になるけれど、そこは体の重心をしっかり意識することで…」

夢中で話し続けるヴァリンを見ながら、レラは思っていた。

(この人、わかっているのかな? その体は何日かしたら人間に戻る。そしたら、三本の犬の脚で速く走るコツなんて、なんの意味も無くなるのだけれど…)

「…それで、もうちょっと走って練習すれば、カンペキになるんじゃないか、って思うんだよね」

ヴァリンはそう言うと、レラから離れ、再び森の中を走り回り始めた。レラはそれを止める気にもなれず、その場にペタリと座り、駆け回るヴァリンを見ていた。

 この日、レラは気づいた。ヴァリンは比類ない剣の天才である。そして、高い知能をもち、魔法にも秀でている。だけど…、いや、だからこそ、「バカ」なのだということに。

 その後もヴァリンは森の中を走り続けた。あきもせずに、延々と。草の上に膝を抱いて座り、その姿を見ていたレラは、たまらず声をかけた。

「ねえ、ヴァリン、もう帰りましょうよ」

「ああ、うん、もうちょっと。もうちょっとだけだからさ」

そう答えるヴァリンに、レラは大きくため息をつく。

(あーあ、今日は最悪だ。一体どこで間違っちゃったんだろ?)

ヴァリンはまだまだ、走るのをやめそうになかった。


 





 

 

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