第6話 昼の【怪物】
ヴァリンが「怪物」騒ぎを起こした日の二日あと、レラは、入浴施設に来ていた。だが、「入浴」とは言っても、体を湯に浸してゆっくりと楽しむことができる――というわけではない。帝都に行けば、温かい湯の中で、体を思いきり伸ばしてくつろげる施設があるのだが、あいにくこの街では、大量の水を屋内に運び込むことも、それを魔法や燃料を使ってお湯に変えることもできない。だからこの街の入浴施設というのは、部屋の中心に巨大な鍋のような容器を置き、そこに水を入れ、焼いた石を投げ込んで沸かす。すると蒸気が部屋の中に満ちてくる――そんな蒸し風呂施設だった。利用客は薄い布でできた簡易な服をまとい、鍋の中の湯を手桶で汲んで水を混ぜて適温にし、服の上から体にかける。そして、蒸し風呂の部屋の中で大きめの椅子に座ってゆっくりとくつろぐ。
(う~~ん、体が温まるなぁ。いいじゃないか、これ)
レラは、教えられた通りの作法で、薄い服の上から湯を浴び、椅子の上で体をグッタリと安らげていた。
馬車での道中で、レラは体の汚れを落とすためにときどき湯を浴びている。だが、いくら温かい湯を浴びても、体はあっという間に冷えてしまう。だから、くつろぐどころではない。しかし、この施設では、服の布が湯を吸って肌に貼りつき、体を包んでくれる。蒸し風呂になった部屋の中は熱気に満ちているので、体を包んでいる湯が冷めることもない。
(いいよなぁ…ここ。本当にいい。体がほぐれる。このままこの街に住んで、毎日通いたいぐらいだ)
椅子の背もたれに体をあずけて、そんなことを考えていた。もちろん、本気ではない。レラには帝都でやりたいことがある。だけど、ここ最近、いろいろなことがあり過ぎた。
(帝都に入るのはラクじゃあない…そんなことは、最初から分かっていたけど。でも、ここまで面倒なことにならなくたって、いいんじゃないか…)
グチのひとつも言いたくなる。今日にしたって、夜にはあの雑貨店に出向いて、あのいまいましい主人から本来の仕事じゃない荷物を受け取らなければならない。
(まったく、あの主人といい、あの薬屋といい、刺客のやつらといい、…ヴァリンといい、気に食わないヤツばっかりだ)
レラはふてくされて、椅子の上で体を横にして思いきり伸ばした――。レラのまとっている服は、水を吸いやすい薄い布でできている。だから、湯を吸うとその下の肌はほぼ透けて見える。今のレラは全裸と変わらない状態だった。そして、この施設には、男女の区割りなどない。だから、部屋の中には数人の男がいた。最初のうちこそ、レラのしなやかで美しい肢体をチラチラと見ていたのだが、レラはそれを気にする様子をまるで見せなかった。
(周囲の目など気にしない。自分がやりたいことをして楽しむのがいちばんだ)
レラは、そんなふうに生きてきた。そういう態度をとるのが当たり前になっている。ごく自然に、自分の体を隠す素振りも、恥ずかしがる様子も見せなかったので、男たちの方がかえって気おくれして、もう誰もレラを見なくなっていた。
(しかし、まあ、ヴァリンは、言ってみれば、お客様だしなぁ…それに、なんといっても、帝国の王になる男なんだ。少し媚びておいて損はないだろう)
計算高く考え、生きてきた。それもまた、レラだった。
(それに…、ここを教えてくれたのもヴァリンだしな)
レラは、椅子の上で上半身を起こし、大きく背中を伸ばした。
レラとヴァリンは、昨日は一日、朝食をとった草原で、そのまますごした。レラとしては、街で帝都の情報を集めたかったし、もっとこの街の美味しい料理を見つけたかったのだが、「人間の顔をした犬の怪物」のウワサ話を聞かされるのは気が重かった。それに、万が一にでも、またヴァリンに街で騒ぎを起こされたりしたら、今度こそ、本格的にマズい。
ということで、二人は、朝食の席で言い争いをしたあと、会話もなく、しばらく互いに沈黙していたのだが、少し時を置いて、レラが口を開いた。
「…今日は一日、ここにいることにするわ」
と、投げやり気味に言うと、
「…うん…、まあ仕方がないね」
と、ヴァリンも嫌そうな顔で、答えた。本来は行動力のある二人だから、一日この草原で動けないのはキツイ。そして、その原因を作ったのが自分たちの失敗だということも理解しているので、さらにキツイ…はず、なのだが…
「だからね、昼ごはんと、晩ごはんもここで作る。もう一度、市場に材料を買い出しに行くから、ヴァリンは馬車から絶対に出ないでね! 絶対よ!」
と、レラはきつめに言ったのだが、なぜかヴァリンはニコニコし始めた。
「ああ、わかったよ。うん。馬車の中でおとなしくしているよ。絶対にね」
上機嫌になったヴァリンを、レラは胡散臭さそうに見た。
(なんだろうな、このひと。気持ちの切り替えが早いのかな?)
そして、市場で昼食と夕食の材料を買い揃えると、同じ草原に戻り、レラはさっそく昼食の準備に取り掛かった。いつもなら、旅の途中では食事の支度に時間をかけないのだが、今日は時間がありあまっている。じっくりと料理に取り組むつもりで、市場で「穀物の粉」を購入した。それを器に入れ、慎重に少しずつ水を加え、ゆっくりと混ぜて、手で感触を確かめながら練り始めた。
「え! レラは、こんなものまで作れるかい? すごいね!」
ヴァリンが、驚きの声を上げた。
レラが作ったのは、昨日の昼食に食べた街の名物料理。平たい麺の入ったスープだ。平たい麺の食感を再現したくて、市場で粉を仕入れ、その時に、購入した店で作り方を詳しく教えてもらった。
「えっ?! これ、粉から作ったの? …レラ、君は料理の天才だよ」
レラがスプーンで料理をヴァリンの口に運び入れると、ヴァリンの顔が歓喜に輝いた。レラも自分の口にひとさじに運ぶ。
(うん。麺の食感は再現できたな。スープの味付けも、骨付きの肉を煮込んで正解だった。野菜も上手く使えた。調味料の配合もこんなものだろう。昨日は料理が冷めてしまっていてわからなかったが、作り立てならスープの油の味がこんなに楽しめるんだな)
レラは、自分の料理の出来に納得すると、ヴァリンに尋ねる。
「ねぇ、ヴァリン、街に大きな雑貨屋があるよね? あれってどんな店なのかな? なんか知ってる?」
「雑貨屋? そんなものあったかな? …そんなことより、ねぇ、もっと食べさせておくれよ、はやく。料理が冷めてしまうよ」
レラは、大きくため息をつくと、ヴァリンの口に料理を運んだ。
(このひとは、いったい何を考えているのかな…)
と、レラは、何も考えずに料理を楽しんでいるようにしか見えないヴァリンを見ながら思った。
昼食を食べ終わると、レラは雑貨屋のことを改めて訊いてみたが、
「雑貨屋? いや知らない。入ったことないな。雑貨屋は大きな店が帝都に何軒かあるから、わざわざこの街に来て入らないよ」
と、ヴァリンは答えた。
「ああ…なるほど。そうだよね」
雑貨屋の情報を得ることができずに、レラが落胆していると、
「雑貨屋なんかより、この街には面白い店がいくらでもあるよ。例えばさ…」
と、ヴァリンが勝手に話しはじめた。レラは、まあ、やることもなかったので、適当に相槌を打ちながらそれを聞いていた。その中で、入浴施設の話が出たのだ。
「でも、あそこは男ばっかりだからな。レラには関係ないよね」
と、ヴァリンが言うと、
「ああ、そうね。関係ないわ」
と、レラは興味なさそうに答えた。
そして、夕食の時間になると、レラはまた、たっぷりと時間をかけて料理を作った。昼に食べた料理を自分流にアレンジし、麺は水の量を加減して、少し薄めにして歯ごたえをよくし、スープには辛めの調味料を多く入れて、穀物の粉を加えて粘り気を出し、麺にからむようにした。
「うん?! 美味い! こんなのはじめて食べたよ」
ヴァリンに、ひとくち食べさせると、たちまち歓喜の声を上げた。
「もっと、もっと」とせがむので、レラは自身が食べるのもそこそこに、せわしなくヴァリンの口に料理を運び続けた。
レラには、自分の料理を他人にふるまった経験がない。したがって、料理をほめられたことも、当然にない。料理は自分が食べたいから作っているし、自分の料理が特別に美味しいという自覚もない。
だから――自分の料理をはしゃぐように「美味い、美味い」と絶賛してくれるヴァリンを見ながら――
(このひと、本当に味が分かっているのかな?)
と考えていた。
(王子様なんて、城の中で冷めた料理をボソボソと食べて育ったんでしょ。庶民の味がわかるのかねぇ? もしかして、舌バカ?)
と、かなり失礼なことを考えていたが、事実は違う。帝国の王族は庶民との交流を大事にしていたし、公務で帝都の外に出ることも多いので、庶民の店で食事する機会も多い。そして、過剰なほど行動的なヴァリンは、多くの店を食べ歩き、味覚も確かで、食通と言ってもいいほどだった。
そんなことを知らないレラは、料理をあっというまに平らげ、満足げな顔をしているヴァリンを、
(まったく…気楽なものよね)
と、あきれた顔で見ていた。
翌日の朝食も、それほど手間はかけなかったが、いつもより凝ったものを作った。昨日の昼食で作った麺を叩いて延ばし薄くし、布のように広げ、野菜と干し肉をくるくると巻いた。干し肉は夕食で作ったスープで柔らかく戻してある。
「今朝の料理も美味しいねぇ。干し肉から味が沁み出してさぁ…」
などという、ヴァリンの誉め言葉を聞き流して、レラが言った。
「今日は、街の中に戻るからね。あなたは馬車の中で、おとなしく留守番していてよね」
(え? 留守番?)
その言葉に反応して、ヴァリンは思わず訊いてしまう。
「…あの…、レラはどこかに出かけるのかい?」
訊いてから、(しまった)と思った。レラがそんなことに答えるワケがない。
だが――
「お湯を浴びて体を洗いたいのよ。だから、あなたが昨日教えてくれたところに行ってみるわ」
(わたしが教えたところ? 「お湯を浴びる」だって?)
ヴァリンは昨日、自分が言ったことを思い出した。
「…ああ、あそこか。まあ、あそこは女性も入れるんだけれど…でもね、男ばっかりだよ」
「そんなの関係ないわよ」
レラは、切り捨てるように言った。
(ああ、そうだ…レラって、こんな人だったよなぁ…)
ヴァリンは、料理の美味さにうかれて余計なことをしゃべり過ぎたなと、後悔した。そして、その結果、長い時間を馬車の中でひとりで過ごさなければならなくなったことに気づき、絶望した。
レラは、蒸し風呂の大きな椅子の上で体をころがし、体が潤いながら温まっていく快感に身をゆだねていた。ここに来て、もうずいぶんと時間が経っていたが…
(まだ、お昼くらいだよな。まだまだゆっくりしていよう)
と、馬車に残してきたヴァリンのことはすっかり忘れていた…というより、思い出さないようにしていた。
だが、退屈もしていた。なにせ、くつろぐ以外にはなにもすることがない。話し相手でも欲しいところだが、周囲の男たちは、みんなレラから距離を取り、話しかけてくる様子はない。
(仕方ない、こちらから声をかけてみるか、街の情報も欲しいしな…)
と、レラは考えたが、わかっていない。ほぼ全裸の、知り合いでもない女性に話しかけられて、まともな会話ができるほど度胸のある男など、まずいないことを。
その時、蒸し風呂の部屋の中で交わされていた男たちの会話がピタリとやんだ。男たちはみな、新たに部屋の中に入ってきた人物に視線を奪われていた。
――女性。めったに女性客など来ないこの施設に、今日二人めの女性だ。両手に大きなグラスを持ち、体に薄布の服をまとっているが、優雅な体の稜線はハッキリとわかる。それに見惚れていた男性客の一人と眼が合うと、女性はニッコリと微笑んだ。男性客は全員、慌てて彼女から視線をそらした。
女性はレラのそばにやってくると、
「お隣、よろしいでしょうか?」
と、声をかけた。レラは女の顔をチラリと見た。知り合いではない。もとより、この街に知り合いなどいるハズもないが。にこりと笑って言葉を返した。
「ええ、どうぞ」
すると、女は手に持っていたグラスのひとつを差し出し、
「喉が渇いていませんか? よろしければ、これ、いかがですか?」
と、言った。
「あら、ありがとう」
レラは、知り合いでもない女性から差し出された飲み物を、なんの遠慮もなく受け取り、すぐに口をつける。
(ああ美味しい。冷たいお茶に果実を搾って入れているのね。甘味と酸味がちょうどいい。わたし、ずいぶんと汗をかいていたみたいね。体にしみこむわ)
そんなことを考えながら、お茶をもうひとくちすすり、近くにあったテーブルにグラスを置いた。そして、隣に座った女のほうを向き、周囲に聞こえないように声をひそめ、
「それで? 『ヤの国』の人が、わたしになんの用かしら?」
相手の眼を悠然と見ながら、こともなげに言った。
「あら、バレてしまいましたか。実は、わたしはあなたを殺しに来たんですよ」
ヤの国の女も平然とそう言い、レラの飲んだグラスを指さして、
「それに毒を入れておきました。もうじきに効いてきますよ」
と言った。レラは、フンと鼻を鳴らして、そのグラスを再び手に取り、残りのお茶を一気に飲み干した。
「つまらない冗談はやめて。あなた、わたしを殺すつもりなどないよね。それくらい、わかるわよ」
ヤの国の女は、薄く笑みを浮かべ、頭を下げる。
「失礼しました。わたし、あなたとお話がしたくてまいりました」
「どんな話かしら? まあ、飲み物をおごってもらったから、少しなら聞くけど」
実のところ、なにもやることが無く、考えごともしたくないレラは、話し相手が欲しかった。相手がなに者であろうとも。
「なるほど。わたしのような者が来ることは覚悟していた、ということですね?」
と、ヤの国の女が言うと、
「いいえ、それは違うわ。まさかもう来ない、と思っていたんだけれどね」
と、レラは答えた。
「あなたたち、おとといの夜に、街でヴァリンと闘って騒動を起こしたわよね? 街はそのウワサであふれているわ。こんな状況で、まさかもうこの街では襲ってこないだろう、と思っていたのだけれどね」
ヤの国の女は、黙って微笑んだ。ヴァリン・ルドゥは、犬の姿にされたことを恥じて…なのだろう、帝国に知らせずに帝都に戻ろうとしている。だから、ヤの国は邪魔されずにヴァリンを暗殺できる機会を得たのだ。それなのに、この街でこれ以上騒ぎを大きくして、ヴァリンのことが帝国にバレてしまったら、ヤの国はせっかくの好機を失うことになる…。だが、それでも――
「わたしもね、困るのよね。ヴァリンのことがバレると。だから、あなたたちも、もう少しうまくやって欲しいんだけどね」
と、レラが興奮気味に、しかし、周囲には聞こえないように、声をひそめてそう言うと、ヤの国の女が、
「…それでは、あなたがヴァリン・ルドゥを殺してくれませんか?」
と言った。レラはあきれたような仕草をして答える。
「バカ言わないでよ、そんなことしてわたしになんの得があるの?」
「報酬はできる限りお支払いしますよ」
「いくらおカネを貰ったって、王子を殺して帝国に一生追われるんじゃ、割に合わないわ。つまらない冗談はやめて、と言ったでしょ」
と、ヤの国の女が真剣な顔になり、声をしぼり出すように言った。
「…冗談ではありません。ヴァリン・ルドゥは、わが国の敵です。わが国を滅ぼし、この世から消そうとしています。だから、わたしたちはヴァリン・ルドゥを殺さなくてはならないんですよ」
その真剣さに、レラは少しの間、言葉を失った。そして頭の中に、レラの料理を無邪気に食べるヴァリンの顔が浮かんだ。
(あれが、「国を滅ぼす」とか、「この世から消す」とか、そんなこと考えている人なのかねぇ…)
と思い、
「あいつは、本当にそんなスゴイやつなの?」
と、言葉が出た。
「あなたは、戦場でのヴァリン・ルドゥを見たことがないのでしょう? 私は、相対したことがあります。腕の立つ多くの戦友たちが殺されました。あれは、まさに、わたしたちの国を、民ごと喰らい尽くしかねない【怪物】です。そんな敵を放っておけるわけがないでしょう?」
「なるほどね」
レラは、椅子の上で体を起こす。
「…でも、それっておかしくないかな? 戦場で数人がかりで倒せない相手を、どうして一人で倒せると思っているのよ?」
ヤの国の女は、冷たく笑って、答えた。
「今、ヴァリン・ルドゥは犬の姿。剣を振れないのでしょう? ならば、勝機は今しかない。それに、今回は一人ではありませんから…」
「ああ、そうか、そうゆうことね」
レラは、椅子から立ち上がると、手桶をとって、部屋の真ん中の大鍋から湯をすくい、水で適温に薄めて体にかけた。そして、椅子に戻るとどっかりと腰をおろす。
「あなたは、わたしの足止めに来たのね? 今、何人かでヴァリンを殺しに行っている…。そんなところかしら?」
ヤの国の女は、酷薄な眼でレラを見た。
「その通りですよ…。今から、ヴァリン・ルドゥを助けに行きますか? それならば…」
ヤの国の女は、立ち上がろうとしたが、レラは椅子に掛けたままで、それを手で制した。
「ああ、いいわ、いいわ。今回はあなたに免じて、手出しはしないよ。なんか、いろいろメンドくさそうだし…でもね」
レラは、背もたれにぐっと体をあずけた。
「あなたは、今の、剣を持てないヴァリンのことを知らないんでしょ? あれも十分に【怪物】だと思うのだけれどね」
馬車に一人で残されたヴァリンは、ボソボソとパンをかじっていた。
レラが出掛けるときに、
「お昼はこれで、済ませておいてね」
と、小さく切ったパンと干し肉を皿に載せ、テーブルの上に置いていった。それをヴァリンは椅子の上に乗って、皿に顔を突っ込んでかじっている。もはや、人間としての尊厳など、どーでもいい。魔法を使ってパンを口に運ぶ気になどならなかった。
昨日はよかった。一日、馬車の中から出られずに過ごしたが、レラが毎食、とびっきりの料理を作ってくれた。今朝の朝食も美味かったし。なのに…、昼食がパサパサのパンと固い干し肉。なんだ、この落差。ヴァリンは、レラに見放されたような気持ちになり、不満が増しに増した。
「それじゃあ、食べなきゃいいんじゃないの?」
と、レラは言いそうだ。ヴァリンも(こんなの食べるものか!)と思っていた。最初は。しかし、やることが無いのだ、どうしようもないほどに。馬車の中をグルグルと歩き回ってみたり、椅子の上に乗って下りてを繰り返したり、床の上をゴロゴロと転がったりと、なんとか気をまぎらわせようとしたが、それもすぐに限界を迎えた。そして、まったく腹は減っていないのに、テーブルの上の皿に顔をつっこんで、パンと干し肉をかじり始めたのだ。ほとんどヤケくそで。
(レラもさあ、今日も一緒にいて、昼食くらい作ってくれてもいいんじゃないか?)
と、まったくわがままなことを考えた。ヴァリンだってわかってはいるのだ。レラにはレラの都合があり、目的がある。「帝都まで連れて行って欲しい」と頼んだのはこちらの方だし、レラにしてみれば、ヴァリンのことは「ついで」でしかない――そこまで思いいたって、ヴァリンはひどく腹立たしくなり、皿の上のパンと干し肉を同時にほおばって、もしゃもしゃと噛み始めた。口の中がざらざらと、急激に渇いていくのを感じた。
――と、そのとき、馬車に近づく者がいることに気づいた。
馬車は街の中の人通りのほとんどない場所に停めてある。とは言っても、昼の街の中だから、近くを通りかかる人間がいてもおかしくはない。だが、人の気配は三つあり、ほぼ同時に馬車に向かって迫って来ている。
(ヤの国の刺客か? でも、まさかな…)
ヴァリンもレラと同様に、ヤの国の刺客がこの街で襲ってくることはもうないだろうと考えていた。まして、昼の街の中だ。騒ぎを起こせば、この街にいる少なくない数の警備兵が駆けつけてくる。そうなれば、どんな手だれの刺客であろうが、苦戦はまぬがれないだろうし、ヤの国の刺客が帝国の領地内で誰かの命を狙ったことがバレれば、それこそ再び「戦争」にもなりかねない。そんな危険を冒してまで――
そのとき、三つの人影が馬車の中に飛び込んできた。やはり、刺客だ。
(そんな危険を冒してまで、わたしを殺したいのかねぇ。どうもヤの国の者たちの考えることはわからないな…)
だが、飛び込んできた三人がヴァリンを狙った刺客であることは、その姿からも明白だった。三人はそろって肩のあたりまで覆う金属の兜をつけて、全身をレラが身につけている赤いマントと同じ布で覆っている。その布には魔法を込めた糸が織り込んである。魔法が他の魔法を拒絶し、弾き返すのだ。兜にも魔法を防ぐ効果をもたせているだろうから直接に魔法を当てても敵を倒すことは難しい。だからといって、小石を魔法で飛ばしたくらいでは、全身を厚い布で覆い、頭部を硬い金属の兜で守っている相手を倒すことは不可能だ。そして、刺客は三人いる――。そのうちの一人が短い剣を取り出し、ヴァリンに斬りかかってきた。ヴァリンは跳び退いて避ける。
(おやおや、挨拶もせずに斬りかかってるとはな … ヤの国の者らしくもない礼儀知らずじゃないか…)
ヴァリンが、おとといの晩に自分が刺客の挨拶をまったく無視したことなどは忘れて、そう考えていると、すぐに二人目が斬りかかってきた。それも跳んでかわすと、そこに三人目が斬り込んでくる。それも跳んでかわしたが――
(ふーん、見事な連繋だな。魔法を防ぐ装備を万全にした上に、さらに魔法を使うスキも与えないつもりか…。これは厳しいな)
そのうえ、今までヤの国の刺客を倒してきたレラは足止めしてある。ヤの国の者たちから見れば「完璧な布陣」だ。敗れる理由が見つからない。あとは反撃するすべのないヴァリン・ルドゥを追い詰めるだけなのだ。
(まいったよなぁ…)
ヴァリンのほうも手詰まりを嘆いていた。そうしている間にも攻撃は間断なくやってくる。それをひとつでも避けそこねたら、そこで終わりだ。
(仕方がない。あれを使わせてもらうか。レラには怒られるだろうけど…)
ヴァリンは、(レラに怒られる)覚悟を決めて、敵の攻撃を跳んでかわしながら、詠唱無しで魔法を使った。
――と、ヴァリンを取り囲む刺客の背後から何かが飛んできて、一人の背中に突き刺さった。その一人はたまらず膝をついて、背中に何が刺さったのかを手で確認するが、他の二人はヴァリンから視線を離さず、攻撃を続けていた。
(へえ、すごいな。倒れた仲間を助けたりしないのか)
と、ヴァリンが感心していると、攻撃を受けた刺客が叫んだ。
「矢だ! 矢が背後から飛んでくるぞ、気をつけろ」
背中に刺さった矢を、いきなり抜いたりはしていない。手で触れて、それがなにかを確認したのだ。
(そうだよ、矢が飛んでくるんだ。だから、気をつけなくちゃね)
ヴァリンはまた魔法を使った。二本の矢が同じ方向から飛来して、残りの刺客たちを襲った。二人はそれを慌ててかわして、飛んで来た方向を思わず見てしまった――
そこには、誰もいなかった。ただ、ボウガンだけが宙に浮いていた。二人の刺客は唖然として、それを見た。
「ダメだ! ヴァリン・ルドゥから視線をはずすんじゃない。攻撃をやめるんじゃない!」
最初に矢を受けた刺客が倒れたままで、叫んだ。
(ああ、ダメだよね。でも…もう遅いよ)
刺客たちの連続攻撃が一時的に止まったことで、少し集中して魔法を使う余裕のできたヴァリンはニコリと笑った。
宙に浮いているボウガンは、レラのもの。戦闘のとき左腕につけて使っているものだ。魔法によって矢を装填し放つことができる。矢はあらかじめ用意して近くに置いておかなければならないので無限に射てるわけではないが、ほぼスキを作らずに連続して攻撃できる。そして、レラのような特別に魔法に優れた者でなくても扱える。魔法に熟達した者ならば、ボウガン自体を宙に浮かせて矢を放つこともできる。そして、ヴァリン・ルドゥのような、ずば抜けた魔法の力をもつ者ならば――
刺客の二人が呆然と見つめる先で、ボウガンが数十挺になり、一斉に矢を放った。ヴァリンが魔法でボウガンを数十挺に分裂させた――と、言えなくもないが、もっと正確に詳細に言えば、ヴァリンは、ボウガンから矢を放って、ほぼ時間を置かずにボウガンを移動させ、矢を再装填して、そこから矢を放つ。そして、また移動させて、矢を装填して放つ……それを、ひと呼吸の集中で数十回繰り返したのだ。
ほぼ一斉に放たれた数十本の矢を、すべて避けられるはずもなく、三人の刺客たちはそれぞれ数本の矢を受けて床に倒れた。頭部は兜に守られ、体に当たった矢も厚い服地のおかげで致命傷にはなっていない。だが、起き上がろうとしても、立つことはできない。脚に数本の矢が当たっており、また、別の数本の矢が厚い服の布地を貫いて床に刺さり、刺客たちを縫い留めていた。慌てて、矢を抜こうとする刺客たちに、ヴァリンが四本の脚でゆっくりと歩いて近づき、魔法の詠唱をはじめた。刺客たちは、その詠唱に聞き覚えがある――「冷気の魔法」。すべてを凍てつかせてしまうような強力な魔法ではない。だが、人から確実に熱を奪う。ヴァリンが詠唱を終えると、矢によってあけられた服の穴から冷気が忍び込み、刺客たちの体を包み込んだ。人の命を奪うのに体を凍りつかせる必要はない。少しずつ体から熱を奪ってしまえば、命は動きを止める。もうすぐ自分たちに死が訪れる。そんな恐怖が三人の刺客を支配したが、すぐに、それも消えた。すべての心の動きも止まった三人の瞳には、静かに佇む人の顔をした犬の姿が映っていた。
「ああ、その雑貨屋なら知っていますよ。いい品物が揃っていると評判ですから。
わたしも『仕事』が無ければ、行ってみたかったです」
レラを足止めしている、ヤの国の女はそう言った。
「へえ、そうなんだ。…でも、ああいう店って、どんな人がやっているのかしらね?」
レラがそう言うと、
「さあ? どうなんでしょうね」
と、ヤの国の女は興味なさそうに答えた。
(…なるほど、ね。あの雑貨屋の主人はヤの国の関係者ではないようね)
以前の「薬屋」の件があるので、レラは目の前にいるヤの国の人間に探りを入れたのだが、どうやら、雑貨屋はヤの国の者ではないらしい。
(しかし、有益な情報だ。話をした甲斐はあったな)
刺客が数人でヴァリンを殺しに行っている――と、聞かされても、焦る気配も見せないレラを、監視役のヤの国の女は最初、厳しい目つきで見ていた。しかし、レラが「さっきのお茶は美味しかったわ」とか「この街に来てからなにを食べたの?」とか、どうでもいいようなことを聞いてくる。答えないと周りに不自然に思われると、適当に答えを返していたら、気がつくとごく普通に会話をしていた。「話術」はレラの方が遥かに巧みだった。
しばらくして、ヤの国の女はスッと椅子から立ち上がると、
「そろそろ行きますね。もう『仕事』も片付いているころでしょうから」
と言った。ヤの国の女は確信していた。自分たちの『仕事』の成功を。
「あら残念。もう少しお話ししたかったわ」
と、涼しい顔で応えるレラに、ヤの国の女は顔を近づけ、声をひそめて言った。
「…あなたは、ヴァリン・ルドゥが死んでいない…そう思っているのですね?」
レラは、声をひそめることもせず、むしろ大きめの声で答えた。
「あたりまえじゃないの。アイツは犬にされても生き延びるようなヤツよ。簡単に殺せるもんですか」
ヤの国の女は冷たく笑って頭を下げ、蒸し風呂の部屋から出て行った。
(さて、と…)
残されたレラも椅子から立ち上がって、部屋を出た。だが、まだ馬車に戻るつもりはない。さきほどのお茶をおかわりしようと、施設の中の売店に買いに立ったのだ。
「やあ、お帰りレラ。ずいぶんとゆっくりだったね」
夕方になって、レラが馬車に戻ると、ヴァリンがそう言って迎えた。
「留守番している間に急な来客があってね。丁重におもてなししたよ。レラのボウガンをちょっとだけ借りたんだけれど…いいよね?」
ヴァリンは平静を装っていたが、もちろん、心中は穏やかではない。なにせ、すべてそのまま、なのだ。散乱した数十本の矢も、三体のヤの国の刺客の死体も。外に出られないヴァリンにはそれらをかたづけるすべはなかった。
レラは馬車の中に入ってそれを目にすると、
(ああ、これは…かたづけが大変だな…)
と思った。そして、
(…でも、まあ、それは後回し、っと)
持っていた袋をテーブルに置き、ベッドにどっかりと腰を下ろすと、
「ヴァリン、夕食買ってきたわよ。食べるでしょ?」
そう言った。
「うっわ、なにこれ! すっごい美味しいじゃない」
レラは買ってきた料理を皿に切り分け、その一切れを口に入れると、感嘆の声を上げた。レラは街の中で聞き込みをして、美味しいと評判の店を見つけてきた。大きめのかたまり肉の表面に塩と調味料で味をつけた油を塗り、じっくりと長時間弱火で炙り、最後に表面を強火で焼く。そうやって肉汁を閉じ込めておいて、あえて十分に冷ましてから、切り分けて食べるのだ。
(肉の脂が口の中で溶けるのね。見た目は派手じゃないけど、すごい手間がかかっている…。ああ美味しい)
レラは一切れ口に運ぶたびに歓喜した。もちろん、ヴァリンの口にもこの料理を運んでいるのだが、ヴァリンは黙々とそれを食べている。何度もこの街を訪れたことのあるヴァリンは、この料理も食べたことがある。昔の思い出のままの味。変わることなく美味しい。懐かしさに涙を流してもおかしくはないところだ。でも――
(なんで、レラは怒らないんだ?)
怒らないどころか、まるで平静なままなのだ。そんなレラの態度を理解することができず、食事を楽しむどころではなかった。
ヴァリンは知らない。レラが、ヤの国の者に足止めされていたことを。ヴァリンが襲撃を受けていることはヤの国の者から知らされていた。だから、馬車に戻ったらどんなことになっているかは大体想像がつき、心の準備もできていた――それが、レラが平静でいられる理由だ。しかし、「怒らない」理由はまた別にある。レラにとっては自分の仕事がうまくいくことが第一。ヴァリンが殺されたり、ヴァリンのことが帝国にバレたりすれば、自分の仕事がうまくいかなくなる恐れがあるので困る。だが、ヤの国の刺客が襲ってきても、ヴァリンが死んだり、大騒ぎになったりしなければ、問題はない。刺客と闘わされたり、後始末をさせられたりは面倒だが、それは「仕事のうちだ」と割り切っているので、怒る理由にはならない。それに今日はこれから、あの雑貨店の主人の所に行って仕事の話をしなければならないのだ。そちらに気持ちを集中して、気合を入れたい。そのために、夕食に「肉」を買ってきたのだし。
レラは、また一切れ、肉を口に入れ、噛みしめる。肉汁が口の中に広がり、気合いが湧いてくる…そんな気がした。
「ヴァリン、これ、ほんとに美味しいわね」
と、レラは言ったが、
「ああ…うん…」
と、ヴァリンは気のない返事をした。レラの態度を理解することができず、戸惑っていたのだが…
(ああ、やっぱり、この人は味が分からないんだなあ…)
と、レラは、せっかく買ってきた美味しいものを喜んでくれないヴァリンに失望していた。
(でも、まあ、いいんだけどね、そんなことは)
レラは、もう一切れ、肉を口に入れて噛みしめる。今晩はこれから「勝負」なのだ。
「なんなの? この金額は?」
レラは雑貨屋の主人に渡された請求書を見て声を上げた。目の前には、レラが帝都に運ぶことになっている宝飾品が置かれている。それは、素晴しい品だった。高価な宝石を何点も使っていて上品で精緻な細工が施してある。レラがおとといこの店で購入した宝飾品より、数段、質が高い。
「あなたは、二日前、わたしにこれを『いったん買い取って』帝都に運べ、って言ったわよね?」
レラがその宝飾品を指して言った。
「ええ、言いましたよ。二日前には、ね」
主人は微笑んで、そう答えた。
「だったら…、この金額はなに? こんな金額でこれが買えるわけないでしょ? わたしをからかっているの?」
「いえ、からかってなどいませんよ。ただ、この品物を買い取っていただくのはやめました。請求書は先日お買い上げいただいた商品のみの金額です。この商品はわたくしのお得意様にお届けをお願いしたい」
「あのね――」
レラは嘲るような視線をわざと主人に向ける。
「わたしにこんな高価な物を預けて、持ち逃げしないと本気で思っているの?」
主人はまっすぐにレラの眼を見て言葉を返す。
「思っていますよ」
と、ニコリと微笑んだ。
「レラさん、あなたは帝都でやることがあるのでしょう? だから、わたしの理不尽な願いも引き受けたんじゃありませんか? あなたは、目先の欲で持ち逃げなどして、自分の仕事をダメにするような愚かなことはしない。そうではありませんか?」
レラは、主人に鋭い視線を向ける。しかし、すぐにそれをはずし、ため息をひとつついて、言った。
「…わたしを、試したわね?」
主人はレラに深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。どうしてもこれを帝都に持ち込む方法を思いつかなくて…そこにあなたの話を聞いたら…つい、ね」
(「つい、ね」って…まったく…抜け目ないなぁ…)
レラは、思わず感心してしまう。しかし――
「騙すようなマネをするなんて…ひどいじゃありませんか?」
そう言って、非難の眼を向けた。
実際のところ、レラはもう怒ってはいない。騙されたのは不愉快だが、騙された自分が悪いのだし、ここで怒ってもなんの得にもならない。
「いや、本当にすみません。でも、ああでも言わなければ、お断りになったでしょう?」
何度も頭を下げながら、そう言う主人を見て
(まあ、それは、そうだよなあ)
と、レラは思っていた。おとといの晩にあんな脅すようなことを言われなければ、すぐに買い物をやめて店を出て、そのまま街からも出ていただろう。そうしていれば、「犬の顔の怪物」のウワサからも逃れることができたし。
「どうかお引き受け願えませんか? お詫びに、報酬は十分に差し上げますよ」
そう雑貨屋の主人が詫びるのを聞きながら、レラはまだ渋い顔をつくっていた。だが、心の中では…
(そうそう、そうこなくちゃ。いろいろと苦労したんだからね)
と、思っていた。もうすでに二日間待たされてしまった以上、引き受けない理由はない。意地になって断ったりすれば、ガマンした二日間がムダになる。
レラはさんざんゴネてから、仕事を引き受けた。
「こんなにいただいていいのかしら? これじゃあ、こちらの利益がないでしょうに?」
レラは、雑貨屋の主人から渡された報酬に驚いて、率直にそう言った。運ぶ宝飾品がいくら高価な物でも、こんなに運送費をかけるのは普通ではない。念のため、そのことに警戒もしている。
「いえいえ、いいんですよ。あなたへのお詫びもありますが、お届け先は昔からお世話になっているお得意様で…今回はわたしの利益は考えていませんから」
(ふーん、あれだけの品を利益を考えず売るなんて…さぞや、相手は名家なんだろうなぁ…これ、使えるな…)
と、レラが少しだけ口元をゆるめていると、
「レラさん、お届け先の方は帝都の名士なので、あなたの力になってくださるかもしれません…でも、くれぐれも失礼のないようにお願いしますよ」
と、主人に釘を刺された。
(抜け目ないないぁ…)
と、レラはまた感心してしまう。この人は実直な商売人だ。わたしより一枚上手なので、おとといは騙されたけれど。
(わたしは人を見る目がないなぁ)
と反省していると、主人が尋ねた。
「それで…、レラさん。お仕事をお願いするのですから本当の名前を教えてはくれませんか? おっと、わたしも名乗ってませんでしたね、セハン・ドルシエです。よろしくお願いいたします」
レラはニッコリと笑って答える。
「『レラ』が親からもらった本当の名前ですよ、セハンさん。家の名前は捨てました」
そう言われて、セハンは言葉に詰まった。それ以上、訊くこともできない。
「…そうですか」
そう言ったきり、セハンは口を閉じた。今度はレラが尋ねた。
「実はわたしは、ある宝飾品を探しているんです。なにかご存じだったら、教えてはもらませんか?」
そして、その宝飾品の姿形をセハンに詳しく説明した。
「ふーん…それは素晴しい品物ですねぇ…ですけど、そのような宝飾品の話は聞いたことがありませんねぇ…」
「…そうですか…それは残念です」
と、レラはまたニコリと笑った。
セハンは、職業的な興味で「その宝飾品ことはどこで知ったのですか?」と訊こうとしたが、訊くのをやめた。レラがほんの一瞬だけ、つらそうな顔をしたように見えたからだ。
翌朝、レラはいつもより遅く起きた。馬たちに「遅くなってごめんね」と言いながらエサと水をやり、馬車の床に寝転んでいるヴァリンに「朝食はガマンしてね」と声をかけると、そのまま市場に向かい、当面の食糧などを買い揃えて、街を出た。
(いろいろ大変だったけど、まぁ、いい街だったかな…のんびりもできたし、食べ物も美味しかったし)
などと思いながら馬車を進め、街から離れた森の中で、遅めの朝食…少し早めの昼食の支度を始める。レラは、昨日の晩に食べた肉料理を作ってみようと考えて、市場でかたまり肉と油と調味料を手に入れていた。もちろん、わかっている。あの料理は多くの手間と時間をかけて作られたものだ。そんな簡単に作れるものではない。だが、作ってみたかった。
レラはかたまり肉に油と調味料を配合したものを塗った。たき火をおこし、最初は弱火の遠火でじっくり時間をかけて焼き、最後は火を勢いよく燃え上がらせてその炎を肉に直に当てる。肉と油と調味料が焼けて香ばしい匂い放った。
このできあがった料理は、すぐに食べるつもりだ。もちろん、昨晩の料理が、十分に時間をかけて冷ましてあるからこそ美味かったということはよくわかっている。しかし、今は時間がなかったし、料理のできをすぐに確かめたかったのだ。
馬車のテーブルの上に、切り分けた肉料理をのせた皿を置き、一切れをフォークで刺してヴァリンの口に運び、そして、自分の口にも入れた。
(うん、まあまあ美味しい…かな)
調味料の配合は間違っていなかった。焼けた肉の表面が香ばしい。だけど…
(最初のひと口は美味しいんだけど、噛むと肉汁が出過ぎて味がかすんじゃうわね。脂も多すぎてなんだかしつこいな…)
やはり時間が足りなかったな。でもまあいい。今日は試しということにして、今の仕事が片付いたら、いつか、じっくり時間をかけて作るとしよう。そう心に決めた。
そして、ヴァリンはといえば、黙々と料理を食べている。
(まあ、この人は、なあ…)
とレラは思い、料理のことを訊くのはやめて、他の話をすることにした。
「ヴァリン、さっきの街の雑貨屋に『行ったことない』って言ってたよね。わたしは入ったよ。あの店はいい店だよ、品揃えが良くってさ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、機会があったら入ってみるよ」
「そのときは、店の主人に『レラの紹介で来た』って、言っておいてよね」
「え?! …ああ、わかったよ」
意味がわからず、不思議そうな顔をするヴァリンを見ながら、レラは想像していた、
(帝国の王がやってきて「レラの紹介」なんて言ったら、セハンさんはどんな顔するかな?)
これで、あの人に騙された仕返しができるなぁ、と愉快だった。
「ところで…レラ、あのさ…」
と、ヴァリンが声をかけてきた。
「え、なにかしら?」
「この料理って、昨晩の料理を参考にしたんだよね?」
「…うん? まあ、そうだけど……」
「この料理は…時間が足りていない気がする。昨晩の料理はすごい時間と手間をかけて作るものだからね…それに比べるとちょっと…」
それを聞いて、レラは驚いた顔でヴァリンを見つめた。
「…あ、ごめんね、レラ…せっかく、作ってくれたのに」
ヴァリンがすまなそうに、言うと
「…あはは」
レラは、突然、少しだけ笑った。
「え、レラどうしたの?」
「いや…、私は、やっぱり人を見る目がないなぁ、と思ってさ」
ヴァリンには、その言葉の意味がわからなかった。でも、レラがなんだかとても愉快そうなので、
(まあ、どうでもいいのかな)
と、思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます