第5話 夜の街の怪物
ヴァリンとレラは「街」に来ていた。帝都への街道の途中にある街。帝都ほどではないものの、住居が建ち並び、店も数多くある。
レラは一人だけで、この街の、衣服や生活用品など雑多な品物を扱う大きめの雑貨店を訪れていた。そして、並んでいる宝飾品に目を止めた。
(そう高価なものはない。だが、いいものを揃えているな)
気になって、この店の主人に声を掛けた。
「ねぇ、もう少し高価なものは置いてないの?」
と、店の主人はニッコリと微笑みながら、
「お客さま、当店ではそのようなものは…どうか、またあらためてご来店ください」
と答え、レラに顔を近づけ、少し声をひそめて、
「また、夜にでも」
と言った。
で、夜になって、レラは再びこの店を訪れた。店の主人はレラの目の前に、昼の店頭にはなかった豪華な宝飾品を並べた。
「へえ、いいものを揃えているじゃない、隠しておくなんて、もったいないわねぇ」
と、レラが言うと、店の主人は薄く笑った。
レラも分かっているのだ、帝国は質素堅実を重んじている。それが「厳格公」と呼ばれた前王の施政だった。だから、表立って高価な宝飾品などは扱いにくい。
「じゃあ、これとこれとこれ、いただこうかな」
レラが数点の宝飾品の購入を決めると、店の主人が言った。
「お客様、帝都に向かわれるのではないのですか?」
「ええ、そうだけれど」
「…でしたら、帝都ではこのような品は、警備兵に没収されますよ。今は戴冠の儀の前で、検査も厳重になっておりますし」
「ああ、それなら大丈夫よ。ちゃんと方法は考えてあるわ」
レラは自信満々に、自慢げに、そう言った。なにせ、こちらには「厳格公」の息子がいるんだもの。少しくらいのムリは通させてもらわないと…。いろいろと苦労もしているのだし。
その自信に満ちたレラの様子を鋭いまなざしで見て、店の主人が言った。
「それでしたら、お客様にお願いがあるのですが…」
「え、なにかしら?」
「実は、当店も帝都にお得意様がおります。その方に品物をお届けいただきたいのですが…」
「え?! なんでわたしがそんなことをしなきゃいけないの? それに、それこそ警備兵に没収されたらどうするつもりなのよ?」
「没収されたら、『当店から盗まれた物だ』と申し出て、取り戻しますので」
店の主人は涼しい顔で言った。
「没収されない自信がおありなのでしょう?」
と、ニッコリと笑いながら言う主人に、レラは絶句した。
(ああ、これは…しくじったなぁ)
この男を見くびって、しゃべり過ぎた。この男の言い方から察して、たぶん帝都にも相当に力が及ぶ人物だ。もし、この依頼を断れば、帝都での仕事がやりにくくなるのは間違いない。下手をすれば、警備兵に通報されて、仕事どころではなくなるかもしれない。
「いや、でもさぁ、わたしがその品物を持ち逃げしたら、どうするの? 高価な宝飾品なんでしょ?」
これ以上のやっかい事を抱え込むのはごめんだ。なんとかして断ることはできないかと、レラが冗談めかしてそう言うと、
「大丈夫ですよ。品物はいったんお客様にお買取りいただいたうえで、お届けをお願い致しますから。わたくしが届け先に手紙を書きますので、お届けいただければ、お礼も含めた十分な金額が手に入りますよ。ああ、もちろん、品物をお気に入りいただいたのなら、そのままお届けいただかなくても結構ですよ」
と、店の主人はニコリと笑いながら言った。
(なにが、「大丈夫ですよ」だ! わたしが届けても届けなくても自分は損をしないってことじゃないか!)
だが、レラは腹立たしい気持ちを抑えた。品物の購入をすべて取り消して、店を出てしまおうか、とも思ったが、そんなことをしても、帝都での仕事がやりにくくなることに変わりはないだろう。
「…わかったよ。それでは、その届ける品物とやらも含めて、購入したものをすべて渡してくれ、代金もいますぐに払うから」
「それが…、ですね…その品物がまだ届いていないのですよ。二日ほど、お待ちいただきたいのですが…」
「なんだと! なにを勝手なことを」
さすがにレラが怒ると、主人は本当にすまなそうに謝った。
「いや、すみません。入荷が遅れていましてね。やはり運送が難しい品物ですから…ですが、戴冠の儀までは、まだ日にちがあります。十分に間に合うと思いますが」
(こちらにはこちらの都合があるんだよ!)
と、レラは口に出しそうになったが、思いとどまった。もうこれ以上、こちらの事情を明かすのはマズい。どうせ断れないんだ、黙って引き受けよう。
「わかった。では、二日後にまた来る。それ以上は決して待たないからな」
と言うと、くるりと背を向けて何も持たずに店を出ようとした。
「お客様、お待ちください」
主人がその背に声をかける。
「なんだ?」
レラが背を向けたまま答えた。
「お名前を教えてください。お買い上げいただいた品物をお預かりするのですから」
「レラ」
それだけを告げると、そのまま店を出た。
(しかし……二日かぁ…まいったなぁ)
確かに戴冠の儀までは、まだ日にちがある。だが、できるだけ早めに帝都に入っていた方がいいことは確かだろう。それに何より、あまり同じ場所に長居はしたくない。わたしが…じゃないけれど、狙われる身なのだ。
(二日間、ヴァリンがおとなしくしていてくれればいいのだけれど…)
いやいや、ヴァリンは相当に賢い男だ。ヘタなことはしないだろう。大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせるレラだった、が……甘かった。
その夜、レラが店の中で主人と話していたとき、二人の男がこの街を歩いていた。この街には夜開いている店などないし、街路灯はあるにはあったが、数は少ないし、そう明るくもない。だから、この街では夜になって外を出歩く者などほとんどいない。だが、二人の男は手持ちの小さな明かりひとつだけで、薄暗い夜の街を並んで歩いていた。彼らにしても、もちろん好きでそんなことをしているワケではない。「夜回り」という、この街で本当に必要なのかを、ほとんど実感できない役目を押し付けられて、仕方なくこなしているのだ。
「今晩もなにも無かったですね…。怪物でも出ればいいのに」
片方の若い男が笑いながら言うと、
「ああ、本当だよなぁ」
と、もう一人の年配の男も笑って答える。もちろん冗談だ。どんなに退屈でも、平穏無事がいちばん。二人は街を歩きまわり、すでに話題も尽きていたのだ。だが、それももう終わる。次の角を曲がって少し歩いたら、そこで終了。今晩も何事もなく無事解散だ。
しかし、その晩は少し違っていた。角を曲がると、人影がひとつあった。その手になにか長いものを持っている。ぼんやりとした街路灯の光に照らされ、それが一瞬だけ光った。
(剣だ!)
二人は慌てて、曲がった角を戻り、建物の陰に隠れる。
「喧嘩でしょうか?」
若い男が小声で言った。
「…いや、剣など持ち出しているんだ、喧嘩で済むことではないだろう」
と、年配の男が答えた。その判断は正しい。だから、すぐにこの場を離れて警備兵に連絡すべきだったのだが、こういう場面の経験がまったくない二人は、好奇心とわずかな責任感に負けて、その場に留まり、剣を持つ人影の監視を続けてしまう。
「相手はどこですかね? よく見えませんが…」
「うーん?」
抜いた剣を持って立っているのだ、相手がいるはずだが、闇に隠されているのか、よく見えない。それでも夜闇に眼をこらしていると、なにかが四本の脚で立っているのがわかった。獣? 狼か? いや、違う。街灯に照らされて、ふわりと銀色の光を放つ白い毛が見えた。体もそれほど大きくはない。あれは犬だろう。剣を持つ人影は犬と向き合っているようだ。しかし、何のために? わざわざ剣など持ち出して、犬を斬ろうというのか? それならば、止めなくてはなぁ…こんなところで犬を殺されては困る。
しかし、喧嘩の経験もロクにない二人に、剣を持つ人間を止めることなどできるはずがない。それに気づいて、自分たちは警備兵を呼びに行くべきだったのだと気づいたが、もう遅い。剣を持つ人影はジリジリと犬に近づき、今にも斬りかかろうとしていた。
その時、風が鳴った。その晩は強い風など吹いていなかったのに、その一瞬だけ、強い風が通り過ぎた。そして、剣を持つ人影がバタりと倒れた。
「おい、どうしたんだ?!」
夜回りの二人は、何が起きたのかわからなかったが、反射的に建物の陰から飛び出し、倒れた人影に駆け寄った。何が起きたのかわからない、安全が確認できていないなら、迂闊に動くべきではない…のだが、経験の浅い二人にそんなことはわからない。そして、二人は、この自分たちのこの行動をひどく後悔することになった。
倒れた人影に駆け寄ったとき、犬の姿を見てしまった。街灯に照らされて、亡霊のように立つ白い犬の姿。しかし、その顔は犬ではなく、人間の顔。ヒゲだらけではあったが、街灯に照らされたその顔は間違いなく人間のものだった――それを見た二人は、同時に、生まれてから一度も聞いたことのないような悲鳴を聞いた。そして、それが自分の相棒の口から発せられたものと気づいて、やっと自分の口からも悲鳴があふれ出ているのだということに気がついた。
人の顔をした怪物は、その悲鳴に驚いたのか、逃げるように走り去り、夜の闇の中に消えていった。
その少し前――
馬車の中に一人で残されていたヴァリン・ルドゥは、不満を溜めまくっていた。
いまヴァリンとレラが訪れているこの街は、帝都から距離は離れているが、帝都との人の往来は多く、つながりも深い。ヴァリンは幼いころからこの街を何度も訪れている。ヴァリンにとっては「なじみの地」だった。だから、馬車がこの街に入ったとき、「帰ってきたなぁ」と感慨が深くなり、久々のこの街を歩きたいと思った。
(レラにこの街を案内してあげたいな)
などと、考えもした。もちろん、今の自分がそんなことを言い出せる立場にはないことは、身に染みてわかっている。だから、ヴァリンは、自分がこの街を何度も訪れていて、よく知っていることをそれとなく、なんども繰り返して話し、なんとか奇跡のようなことが起きて、レラが、
「ねぇ、ヴァリン、いっしょにこの街を歩きましょうよ」
などと、言ってくれはしないかと、淡い期待をしたのだが、レラはさっさと一人きりで出かけてしまった。
もちろん、それは当然のことだ。たとえ顔を隠したとても、人の多い街の中を今の姿のヴァリンが歩くなんてありえないことだ。ヴァリンもそれはよく分かっている。だから、一人だけで出掛けるようなムチャなこともせずに、不満を抱きながらおとなしく馬車の中で待っていた。
しばらくして、レラは上機嫌で戻ってきた。
「美味しそうなもの売ってたから買ってきたわ。お昼はこれにしましょう」
と言って、持ち帰ったのは、この街の名物料理。大きめの固いパンをくりぬいてソースをしみこませ、焼いた肉や野菜や果物を詰め込んだものだ。レラはこれを切り分けて、ヴァリンの口に運んでくれた。口の中で肉と野菜と果物の味が絶妙に混ざり合いお互いを引き立て合い、パンに沁みこんだ甘めのソースがそれを包み込む。
「うん、これ美味しいわね、ヴァリン」
自分も口に運んだレラがそう言った。
「ああ、美味しいね、レラ」
と、ヴァリンも笑って答えたが…
(でもね、レラ、わたしは子どものころからこれを何度も食べているんだよ…)
とは、もちろん言えない。それに、美味しいとは言っても、レラの作る料理に比べれば、やはり数段落ちる。思うように動かせない犬の体で、人目を避けた生活をしているヴァリンにとって、レラの作る料理は唯一と言っていい楽しみだったのだが、それを食べる機会を奪われ、ヴァリンの不満はさらに溜まった。
昼食を終えて、さあ帝都に向けて出発かと思ったが、レラが馬車を動かす素振りを見せない。
「ねぇ、レラ、出発しないのかい?」
と、問うと、
「夜までこの街にいることにしたのよ」
と、レラはあっさりと言った。
(なんで? なんで、こんな人の多いところに留まるんだ? わたしは外に出れないのだけれどな…)
ヴァリンは、この街に留まる理由をレラに問いただしたかったが、どうせレラが答えてくれないことは分かりきっている。訊くのはムダだとあきらめ、黙って不満を溜めながら、馬車の中で時間を過ごした。
そして、さらに時間が過ぎ、日が沈みかけたころ、レラがまた一人で出掛けていった。ヴァリンは自分が外を歩けない理由を十分に理解しているし、レラが一人で外に出るのが当然であることも分かっている。だが、そう頭で理解していても、やはり不満は感じてしまう。
しばらくして、レラは両手に器を持って帰ってきた。
「また、美味しそうなもの見つけてきたわ。晩御飯はこれよ」
それは、穀物の粉を練って平たくしたものを、肉や野菜と辛めのスープで煮込んで食べるこの街のもうひとつの名物料理。
「わあ、この平たいの面白い食感ね。美味しいわね、ヴァリン」
レラは、スプーンで料理をヴァリンの口に運んでくれながらそう言ったが、ヴァリンは返事をしなかった。もちろん、ヴァリンはこの料理を食べたことがある。というか大好物だった。だから、
(レラ、この料理は少しでも冷めたらダメなんだよ。作りたての熱々を食べなくちゃ。「冷めても魔法で温めればいいじゃないか」なんてことを言う者もいるが、それじゃ風味が無くなっていて、本当の美味しさは楽しめない…)
と、考えていた。かなり面倒くさいこだわりがあった。
こうして、ヴァリンは不満を積み重ね、馬車から一歩も出られないまま、夜を迎えた。
そして、夜が少し深くなったところで、レラが再び外に出る準備を始めた。
(ああ、なるほど。これから誰かと会うのだな)
それが夜までここにいた理由だったのか、と納得した。レラは自分の目的のために自分がやるべきことを着実に進めているのだろう。
(それに比べて、わたしは…)
ヴァリンは情けない思いだった。
(わたしにもやらなければならない大きな目的があるんだ。それなのに、今日一日、何もできなかった。これで本当にいいのだろうか?)
そして、外に出たい気持ちが膨れあがり、ついレラに声を掛けてしまった。
「出掛けるのかい、レラ。この街の夜は暗くて、一人では危険だよ。わたしもついていこうか?」
これを聞いたレラは、後ろを振り返り、
(なにを言っているのだろう、この人は…)
という眼でヴァリンを見て、なにも言わずに馬車を出ていった。
(あああ、…わたしはなんてバカなことを)
ヴァリンは自分の言ったことを、耐えきれないほど後悔した。
分かりきったことだ。命を狙われているのはわたしなのだ。わたしがついていく方が危険だろ。それに、レラが「一人では危険」なんてあるはずもない。わたしは今、レラに守られている身なのだ。
頭を抱えたいヴァリンだったが、犬の前脚ではそれもできない。犬の体を床の上にゴロゴロと転がしながら、苦悶と懊悩を繰り返した。
ヴァリンは分かっていなかった。自分が「ガマンすることに慣れていない」ということを。王子として生まれたヴァリンだったが、けして甘やかされたわけではない。
むしろ、「厳格公」と呼ばれた父親により、厳しい教育を受けた。しかし、その父親に逆らうこともなく、父親や教育係の望む以上の結果を出した。剣も魔法も勉学もあっという間に、人の数倍の技量で身につけた。はじめて戦場に出た時も、隊長の指揮に従いながら、最適な行動をとり、期待をはるかに上回る結果を出した。犬の姿に変えられても、人の心を失っていたにも関わらず、前向きに生き抜いた。
そんなヴァリンなのだから、これからも「ガマン」などは必要もない…ハズだったが、レラという今までに出逢ったことのない強烈な個性に出逢ったことで、忍従の日々を強いられることになっている。そして、心の中に「不満」が溜まり続け、それが比類なき天才であるヴァリンの能力を狂わせていることにヴァリン自身も気づいていなかった。
ヴァリンが馬車の床の上を転がって苦悶していると、誰かが近づいてくるのに気がついた。レラではない。と、なれば、どういう者かは明白だ。
「ヴァリン・ルドゥさまはおられますか?」
馬車のすぐそばまで来ると、あちらからご丁寧に声を掛けてきた。ヤの国の刺客だ。
「ああ、いるけど。なんの用だ?」
不機嫌なヴァリンは、馬車の中からぶっきらぼうに返答した。
「外に出てください。勝負をお願いしたい。わたくしは――」
と、ヤの国の刺客は自己紹介をはじめたが、ヴァリンは聞いていなかった。
(本当に、ヤの国の連中は面倒くさいな。わたしを殺したいのなら、何も言わずに馬車に飛び込んできて、斬りつければいいものを…)
と、ほぼ八つ当たり気味に憤懣を抱きながら、馬車から出た。顔に袋を被っていなかったが、(まあ、大丈夫)と思っていた。この街に詳しいヴァリンは夜に人などいないことを知っている。ヤの国の刺客は今のヴァリンについて十分に情報を得ているはずだが、その姿を目にするとさすがに動揺した。だが、それも一瞬のこと。すぐにヴァリンをにらみつけ、殺気を身にまとった。ヴァリンは、そんな刺客を面倒くさそうに見ながら、
「あのさ、少し馬車から離れて闘おうか? 馬車の持ち主に怒られるんでね」
と言うと、(ついて来い)と、刺客に背を向けてトボトボと歩きだす。刺客は剣を抜くこともせずに、黙ってそれに従った。人家の途切れた一画にやってくると、
「じゃあ、このへんでやろうか」
と、気の抜けた声を刺客に掛けた。刺客は、ヴァリンが気ノリしていない様子であることを気にすることもなく、大いに気合を込めて、サヤから白刃を抜く。そんな刺客を見てヴァリンは、
(それなりの腕前みたいだけど、湖で襲ってきた剣士のレベルじゃあないな…)
と値踏みをした。とは言っても、油断はしない。相手の攻撃を少し受けてみて、腕を見切ったうえで倒す――いつものヴァリンならばそうしたはずだ。しかし、今のヴァリンは不満を限界まで溜め込んで、なかばヤケ気味になっている。剣で向かってくる相手に剣で相手ができないことを、恥じることも無かった。
(こちらのせいじゃない、相手がわかっててやってくるんだから、かまうものか)
と考えていた。まあ、普通の人間ならば当然の考え方ではあるが、誇り高い「光の王子」ならば、普段のヴァリンならば、剣士を魔法で倒すことにためらいを感じ、相手に十分に力を発揮させてから、やむを得ず魔法を使っただろう。だが、この日は違った。刺客が第一撃を打ち込んでくる直前、ヴァリンは魔法で突風を起こし、それに紛れて、道路の端に落ちていたレンガの破片を刺客の後頭部に高速で飛ばした。眼の前にいるヴァリンへの攻撃に集中していた刺客は、飛んでくるレンガに気づくこともできずにあっさりと絶命。前のめりにバタリと倒れた。
すると――
「おい、どうしたんだ?!」
街の人間らしい二人が建物の陰から飛び出してきた。
(え?!)
ヴァリンは驚いて立ちすくんでしまった。普段のヴァリンならば、二人の人間が近くにいることに気がつかないハズがない。だが、この時のヴァリンは気が抜けていた…としか言いようがない。自分を殺しに来た敵を眼の前にして、投げやりになり、周囲への警戒を怠っていたのだ。光の王子としてはあり得ない、生まれてはじめての失態だ。そして、はじめて経験する愚かな失態にヴァリンは茫然自失でそのまま立ちつくしてしまう。犬の姿のまま、四本の脚で。その姿を見た二人が、聞いたこともないような声で悲鳴をあげても、それを夢の中のできごとのように聞いていた。そして、ハッと気づくと…
(しまった! この二人に蠱術をかけないと…)
と、思ったが、もう遅い。眼の前の二人は、すでに犬の姿のヴァリンに十分すぎる警戒心を持っているだろう。蠱術は心のスキをつく術だ。もう、かかるはずがない。
犬の姿のヴァリンは、慌ててその場から走り去った。さすがに慎重になり、追跡してくる者がいないことを確かめながら、わざと遠回りをして馬車にたどりついた。幸い、レラはまだ戻っていなかった。
(やれやれ、まいったなぁ)
ヴァリンは馬車の床にグッタリと伏せて、
(こんなこと、レラにバレなければいいのだがなぁ…)
と、考えていた。
――しかし、もちろん、どんな世界もそんなに甘くはない。
翌朝、ヴァリンとレラの二人は、街から少し離れた草原で朝食をとっていた。その日のメニューは、大きめのパンを二つに割り、火を通した肉や野菜をはさんで、その上に甘辛いソースをかけ、さらに果物を載せて酸味を加えたもの。昨日の昼に食べた、街の名物料理を手本にしたものだが、レラの手にかかると味の配合が絶妙で、オリジナルの料理よりも格段に美味い。ヴァリンはレラが口に運んでくれる料理を至福の思いで味わった、夢中になって…と、言うより、料理の美味さに集中するしか、今のヴァリンには逃げ場がなかったのだが。
レラはニコニコとして、料理をヴァリンの口に運んでくれている…が、それ自体が、いつもと違っておかしい。普段はあまり表情を表に出さないレラが、笑顔を浮かべ続けているのだ。ヴァリンは、それがどうゆう事なのか、うすうす感づいていた。だから、料理を味わうことに集中して、審判が下る時を待っているのだ。
昨晩、レラは不機嫌そうに帰ってきた。その時のヴァリンは、先ほどやらかした騒動がもうバレたのかとヒヤヒヤしたが、レラの独り言の罵詈雑言を聞いていると、どうも先ほどまで会っていた相手が相当に気にくわなかったらしい。ヴァリンは頭から毛布をかぶり、寝たふりをした。どうせ、レラに寝たふりなど通じないだろうけど、こんな夜はもう寝てしまうに限る。明日の朝にはこの街を出るのだろうから、すべて忘れてしまえばいい。
そして、朝になった。
ヴァリンは、さあ、(すべて、なかったことにして)帝都に向けて出発、と思ったが、レラが
「この街では朝に市が開かれているらしいわね。行きましょう」
と言い出した。ヴァリンとしては、一刻も早くこの街を出たかったが、
「朝食の材料を買うのよ」
と言われると、ちょっと心が動いた。それに、レラ相手に反対をしたところで、どうせ意味などありはしない。
そして、市の開かれている広場に馬車を停めて、ヴァリンはその中で寝そべって待っていると…ドスドスと怒気をはらんだ足音を立てて、レラが市から戻ってきた。顔には笑顔が貼りついている。
(ああ、これは…)
そして、ヴァリンはすべてをあきらめた。今日が穏やかな一日にはけっしてならないことを、朝食の前から悟ってしまった――
レラが料理を、肉や野菜や果物がかたよらないように丁寧に切りとり、ヴァリンの口にはこび、自分の口に運ぶ。そして、それを呑みこむと、口を開いた。
「ヴァリン、わたしさぁ、市場で面白い話を聞いたんだけど…」
相変わらず、笑顔が貼りついたままだ。
ヴァリンは、口の中の料理を、なるべくゆっくりと呑みこんでから答えた。
「へえ、どんな話なんだい?」
「昨日の夜、街に怪物が出たらしいのよ」
きた。
ヴァリンは、料理を呑みこんでしまったことも、返事をしてしまったことも、後悔したが、こればっかりは、後悔しようがしまいがどうにもならない。覚悟を決めて、さらに言葉を返した。
「へえ、怪物ねぇ…それは、どんな…」
「うーんとね、体が犬で、顔が人間だったんだって。なんでも、その怪物を倒そうとした人間が呪い殺されたらしいよ、怖いよねぇ」
「…ふーん。それはほんと、怖い話だねぇ」
そして、レラの笑顔がパチンとはじけて、怒りに変わった。
「あ・な・た・で・しょ!!」
ヴァリンは、椅子の上でうなだれ、馬車の床を見ていた。
(どこかに、穴が空いてないかなぁ…そしたら、そこから逃げられるのに…)
だが、もちろん床に穴などどこにも空いていない。
レラは、笑顔で抑え込んでいた怒りを一気に吐き出す。
「あのさあ、もう街中でウワサになってるってよ! どうする気なの?」
(どうするって…言われてもなぁ…やってしまったことは戻せないし…)
ヴァリン・ルドゥは、生まれてから一度もひとに謝ったことなどない。
…ワケでは、もちろんない。
ヴァリンは礼儀を重んじる方だし、抜きん出た天才だからといって、なにごとも上手くやれるとは限らない。上手くやれなかったときは、身分など関係なく素直に頭を下げた。
しかし――ヴァリンは悟っていた。レラと数日を過ごして、
(このひとは、頭を下げちゃいけないひとだ)
と。一度、頭を下げてしまえば、二度と逆らえないほど、叩きのめされる。そして、帝都に着くまでの日々を、毎日毎日、馬車の床に穴が空いてないかを探して過ごすことになるだろう。だから――
「ねえ、レラ、朝食はもう終わりなのかな? わたしはもう少し食べたいのだけれど…」
と言って、にこりとレラを見た。
レラの目がつり上がった。ヴァリンをにらみつけ、ナイフを握る――そして、料理をイライラとした手つきで切り分け、ヴァリンの口に運び、自分も口にする。それをとんでもない勢いで呑み込んで、言葉を返した。
「何が起きたのかは、わかるよ。刺客が来たんでしょ? 倒したのよね? わたしがいなかったんだから魔法を使うのも仕方ないよ。でもねぇ…人に見られるって…。ヴァリン、わたしねぇ、あなたはもっとデキる人だと思っていたよ」
(まったくだ。あの時、わたしはどうにかしていた。本当に申し訳ない)
と、ヴァリンは反省していたが、言葉にはしない。したら「負け」なのだ。
「まあ、いいじゃないか。もうこの街を出発するんだろ? そしたら、もう私たちには関係の無いことさ。帝都に着くころにはウワサも消えているって」
明確に間をおいて、レラが言葉を返した。
「…まだ出発しないよ。明日の夜まで、この街にいるから」
そう言うと、また料理を切り分け、ヴァリンの目の前に差し出した。
「なんだって? 冗談だろう?」
ヴァリンは目の前に差し出された料理を口にせず、そう言った。
レラは、ヴァリンが口にしなかった料理を自分の口に放り込み、モグモグと嚙みながら答える。
「冗談じゃあないよ。出発はあさっての朝ね」
――なんで?!
ヴァリンは絶句した。昨晩の失敗はもうレラにバレてしまった。だから、レラに隠すことは無い。だが、「人の顔をした犬」のウワサが街にあふれている以上、ヴァリンはもう袋をかぶっても外に出ることはできない。それに、この街には、ヴァリンの顔を知っている者もいる。下手をすると犬の姿の怪物の正体がヴァリンだということもバレる。だから、ヴァリンはもう馬車から一歩も出ることもできずに、あさっての朝まで過ごさなければならない。レラがそう決めた以上、これはもう決定事項なのだ。けして、覆らない。
レラは(自業自得よね)という顔で、料理をモグモグと噛みながら、落ち込むヴァリンを見ている。
(なんで? どうしてこんなことになってしまったんだ…)
ヴァリンは、昨晩からのことを思い返してみる。すると、気がついた。
(さっき、「明日の夜までこの街にいる」ってレラが言ったとき、ヘンな間があったよな…)
ヴァリンは、にこりと笑いながら、
「ねえ、レラ」と声をかける。
「なによ?」
「やはり、わたしにも、もうひとつもらえるかな?」
「ああ、はいはい」
と、レラが料理を切り分けているところに、
「昨晩は誰と会っていたんだい? なんだか怒ってたみたいだけど?」
と、ヴァリンは声をかけた。
「別に、怒ってなんかないよ」
と言いながら、レラの手が一瞬止まるのをヴァリンは見逃さなかった。
「…でも、なんかイヤなことがあったんだろ? それなのに、この街に留まるなんて、おかしいね」
「おかしくなんかないでしょ? 用事があるのよ」
「もしかしてさ、昨日の夜に話をした相手に、ずいぶんとやりこめられたんじゃないのかい?」
レラは手にしたナイフを、必要以上に勢いよく置くと、料理をつかんでヴァリンの前に突き出した。
「…そんなこと…ないよ」
レラは自分が許せなかった。昨晩、あの店主にのせられて、まんまと仕事を押し付けられてしまった自分が。だから、態度をうまくごまかすことができない。途端に不機嫌な顔になり、イライラと料理をかじり始めた。
(どうやら図星だったようだな。よかった。レラには悪いが、これでわたしが一方的に責められることはないだろう…)
と、ヴァリンが胸をなでおろしていると――
「ねえ、ヴァリン、わたし思うんだけどさ…」
もう明らかにひきつった作り笑いをしたレラが話しかけてきた。
「なんだい? レラ」
ヴァリンは余裕の笑みで応える。
「あなたのことさ、この街にいる警備兵に教えた方がいいんじゃないかなって。警備兵たちは、もちろんあなたの顔、知ってるわよね? だから、わかってくれるよ。大喜びもしてくれるんじゃないかな? あなただってスグに帝都に帰れるじゃない? ――いまのあなたの姿を見たら、ちょっと驚くかもしれないけど」
これを聞いて、こんどはヴァリンの笑顔がひきつった。
「…ああ、なるほど。でもね、もしそんなことになったら、帝都に戻って、警備兵に言うことにするよ。『大きな馬車に乗った女剣士は、絶対に帝都に入れるな』ってね。レラもこの馬車も相当に目立つから、レラは永久に帝都に入れないと思うよ」
二人は、数瞬にらみあう。そして――
「…ヴァリン、お茶飲むかしら?」
「ああ、いただくよ」
レラは、二客のカップにお茶をそそぐと、ヴァリンと自分の前に置いた。互いにそのお茶をすすり、それからはもう言葉を交わさず、黙々と朝食を終えた。
賢い二人には分かっているのだ。互いの目的を成し遂げるためには、今の関係を壊すことなく相手を利用することが、最善かつほぼ唯一の方法であることを。
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