第4話 釣りをする日

 ヴァリンとレラは、二人きりの食事に慣れてきた。

 レラが、自分の口に食べ物を運び、ヴァリンの口の前に差し出す。これを交互に繰り返す。レラはせわしなく手を動かさなくなったし、ヴァリンも口を動かし続けなくてよくなった。レラはヴァリンの姿にも慣れてきて、食事中に多くの言葉を交わすようになり、ヴァリンはレラを少し理解できるようになった…気がしていた。

 だから、その日の朝食のときにレラが、

「今日は釣りをする」

と言っても、ヴァリンはレラが口に運んでくれたベーコンをわざとゆっくりと噛んで、考える余裕をもてた。

(釣りをする? なんでそんなことするんだ?)

と、率直に聞いてしまいたい、と思ったが、レラ相手にそれは意味がない。レラが「今日は釣りをする」と言ったら、今日は釣りをする。それはもう決まったことだ。疑問も反論もムダでしかない。それでも、会話を切らさない努力はしなければならない。

「へえ、なんで釣りをするんだい?」

と、ヴァリンはなるべく穏便な言い方で、なにげない口調で訊いた。

「わたし、魚が食べたいの」

レラが、自分の口に、ちぎったパンを運びながら、答えた。

(なるほど、それは真っ当な理由だな…しかし)

なぜ、刺客にいつ襲われるか分からない今の状況で、のんびりと釣りなどしなければならないのか? …だが、それを口に出してもどうにもならない。レラがやりたいことをやりたいようにやる人間だということを、ヴァリンはすでに理解していた。なので、あいまいに笑ってごまかしていると…

「だから、今日の昼食は魚料理よ。期待していてね」

と、レラが言った。

(ああ、それは確かに…)

と思ったヴァリンは、

「期待しているよ」

と声に出してしまった。


 レラとヴァリンは、近くにあった湖にやってきた。レラは昨晩この場所を見つけ、それで「釣りをする」と言い出したらしい。

(この人は行動が直感的だな…)

と、ヴァリンは、釣りの準備をするレラを見ながら思った。

 レラは岸辺に座り、釣り竿を振った。

「わたしね、釣りは得意なのよ。覚悟しておきなさいよ」

なにを覚悟しなければいけないのかは、よくわからなかったが、ヴァリンは期待していた。

 レラの料理は美味い。

 そんなに手の込んだものは作っていない。ちょっと焼いただけ、ちょっと煮て味を調えただけとか、そんなものなのだが、火加減や味付けが絶妙なのだ。

(きっと、レラはカンがいいんだろうな)

と、ヴァリンは思っている。そんなレラが、はじめて魚料理を作ってくれるというのだ。期待しないわけにはいかない。

「どうだいレラ、釣れそうかい?」

ヴァリンが問うと、

「まかせておきなさい」

とレラが答えた。その真剣な横顔を見て、ヴァリンが顔に被った袋の中で微笑む。

(ここはレラにまかせて、少し散策でもしようか)


 湖から離れ、四本の脚で森の中を歩いた。そうしていると、やはり、こんなところで、こんなことをしていていいのか? という思いが湧いてくる。しかし、あせったところで仕方ない。戴冠の儀まではまだ日にちはあるし、この体が人間に戻らなければ、どうしようもない。

(今は、落ち着こう。時が来るのを待つしかないんだ)

ヴァリンは、自身に言い聞かせ、森の散策を楽しむことに気持ちを切り替えることにした。

 木々の間を抜ける風が気持ちいい。顔に袋など被っていなければ、もっと爽やかなのだろうが、いつ人に出くわすかわからないのだ。我慢するしかない。森の中を歩くと、犬の姿で過ごしたあの森を思い出す。犬になっていた時は人間の心は失っていたが、その間の記憶はある。本当に得難い経験をしたものだ。後悔はしていない。あの村の人たちは元気にしているだろうか。

 そして、やはり、帝都のことを考えてしまう。妹は、どうしているのだろう? 

(すまない、フェルナもうすぐ帰るから)

 ヴァリンの心の中に、あせる気持ちはどうしてもあった。だが、森がそれを少しだけ癒してくれている。そんな気がした。


 散策を終えて、ヴァリンはレラのもとに戻ってきた。けっこうな長い時間を散策に費やしたが、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。

(けっして、無駄な時間じゃなかったな…)

森に癒されたヴァリンは、爽やかな気持ちでレラに尋ねた。

「レラ、釣れたかい?」

「…ヴァリン、今わたしね、会話をしてるの」

「え? なにと?」

「わたしは、この池と会話をしているの。この池が教えてくれる。池の中のことを、魚たちのことを」

(…つまり、まだ釣れてないんだな)

ヴァリンは少なからずガッカリした。犬の体を草の上にべったりとおいてその場に座り込み、両前脚を組んで、その上に顔をのせた。レラは、相変わらず真剣な顔で、水面のウキをにらみつけている。

(まあ、ここはレラに任せるしかないんだよな)

釣りの経験などないヴァリンに、できることは何もない。

 それから、静かに、だが確実に時が流れた。陽ざしが、少し高い位置から射すようになった。もう昼は近い。ヴァリンがたまらず訊いた。

「ねぇ、レラ。まだ釣れないかな?」

「ヴァリン、わたしはね、闘っているんだよ」

「え? 魚と?」

「いや、自分自身とだよ。釣りっていうのはね、自分との闘いなんだよ」

ヴァリンは袋を被っているのをいいことに、大きくため息をつく。そのまま草の上に体を転がした。陽ざしが暖かく、やわらかい。湖の水面がきらきらと輝いている。

(だいじょうぶさ。すべて、時が解決してくれる。きっと…)


 魚料理をのせた皿がヴァリンの眼の前に置かれた。

「やったね、レラ。さすがだよ!」

ヴァリンがそう言うと、レラはにこにこと微笑んだ。

「もうガマンできない。早く食べさせておくれよ」

だが、レラは笑うだけで、何もしようとしてくれない。

「ねぇ、お願いだレラ。意地悪しないで、早く食べさせて」

レラは笑顔のまま、ひと言。

「だーめ」

「なんで? なんでだよ、レラ」

ヴァリンの喉の奥から荒い息が上がってきた。唾液が口の中にあふれる。

(もう限界だ。魔法を使おう)

しかし、魔法は使えなかった。料理を口に運ぶどころか、魚を切ることもできない。

(なんでだ…? ああ、もういい!)

ヴァリンは顔を皿に近づけ、そのまま料理に食らいつこうとしたが、レラがそれを手で制した。

「ヴァリン、おあずけ!」

ヴァリンの体が動きを止めた。自分の意志で動くことができない。喉から、うなるように息が漏れ、口から唾液がこぼれそうになる。

「レラ、お願いだ、もう食べさせて!」

だが、レラは手でヴァリンを制したまま。

「待て、待てよ、ヴァリン。まだ、おあずけよ!」

「なんで? なんでなんだよ、レラ!!」

…と、叫んだところで、ヴァリンの体がビクリと震え、ゴロリと転がった。草の上だ。頭だけ起こして、周りを見渡す。湖の岸辺でレラが相変わらず真剣な顔で釣り糸を垂れている。

(…わたしは…寝てしまったのか…)

体を起こし、四つ脚で立った。陽ざしが強くなっている。また時間が経ったようだ。だが、レラの様子に変化はない。釣れた? と訊くまでもないだろう。

――そして、気配を感じた。

 ヴァリンは犬の体の後ろ脚を曲げて座り、前脚を伸ばして首を高く上げた。

(どうやら、来たようだな…)

釣り竿を握っているレラに声をかけた。

「ねぇ、レラ、来たみたいだけど…」

「ああ、そうね来たみたいね。でも…」

レラは関心なさそうに言った。

「用があるのはあなたに…よね?」

「それは、そうだと思うけど…」

「じゃあ、あなたが行ってきてね。わたしはいま、手が離せないの」

ヴァリンは、がっくりと首を垂れた。

(あーあ、レラはそういうこと言うと思ってたよ)

いろいろと気が進まない。だが、確かに自分の事だし、まあ仕方ない。

「じゃあ、行ってくるよ」

と言ったが、レラは真剣に湖面を見つめ、返事もしてくれない。ヴァリンは四本の脚でとぼとぼと歩いた。

 近づいてくる人影が見えた。ヤの国の刺客。腰に剣をさげているから、剣士だろう。背が高く痩せたその男は一歩一歩を正確に刻むように歩いてくる。人間ならば誰にでもある歩き方の個性というものがまるで感じられない。それは、相当な修練の成果なのだろうが…

(なんだか、面倒くさそうなのが来たなぁ)

ヴァリンの気持ちがさらに重くなる。

 剣士は、袋を被った犬の姿であるヴァリンと向き合うと、ためらう様子もなく訊いた。

「ヴァリン・ルドゥさま…ですね?」

「ああ、そうだよ」

ヴァリンがなげやりに答えると、剣士はひどく残念そうな顔をした。ヤの国の剣士たちと多く闘ってきたヴァリンには、この剣士が考えていることがよくわかった。

(剣を握れないわたしとは会いたくなかった。本来のヴァリン・ルドゥと剣を交えたかった、不本意だ、と…そういうことだよな。本当にヤの国の者は面倒くさいな)

と、考えていると剣士がいきなり剣を抜き、なにも言わず斬りかかってきた。ヴァリンはそれを後ろに跳んでかわす。

(…で、不本意だけど、ヴァリン・ルドゥは敵だから殺す…か。まったく、ヤの国の者はこれだから…面倒くさい)

続けて、二撃めがくる。最短かつ最適な足運びで間合いが詰められ、振りかぶりなどまったくせずに、無駄なく正確に重い剣が振られる。

 ヴァリンは再び後ろに跳ぶ。間合いを取るため、できるだけ遠くに跳ぶが、相手が的確に間合いを詰めてくるのだから、このままでは、じきに追い詰められてしまう。

(やはり、この男はかなりの腕前だ…まいったなぁ…)

三撃めがきた。また後ろに跳んでかわしたが、さっきより間合いが縮まっている。

(反撃するしかないよな。魔法で。…でも、レラになんと言われるか)

レラは、自分になるべく魔法を使わせないようにと気を使ってくれている。だから、ここで魔法を使えば怒る。レラはそういう人だ。ヴァリンにはわかっていた。だったら、この場面も助けてくれよ、と思うけど、そういう理屈はレラには通じない。

(仕方ない。小さめの魔法を使うか…)

どうせ、詠唱が必要な派手な魔法は、目の前にいる剣士が使わせてはくれないだろう。ヴァリンは詠唱なしで風の魔法を使い、つむじ風を起こす。地面の砂を巻き上げ、剣士にぶつける。剣士は両腕で顔をかばった。目つぶしは防がれたが、ヴァリンは同時にもうひとつ小さなつむじ風を起こし、小石を一個だけ宙に浮かせ回転させていた。その小石にさらに魔法を直接送り、回転を加速させる。その超高速で回転する小石を剣士の喉もとに向けて飛ばしていた――これが、当たれば喉を引き裂く。

 剣士は、剣を持った両腕で顔をかばっている。最初のつむじ風の目つぶしのせいで、あとからくる小石には気づけないだろう。もし気づいても、その体勢では、喉もとに飛んでくる小石を剣で防ごうとしても間に合わない。それがヴァリンの計算だったが…

 剣士は後ろに大きく跳び、そのまま両腕を振り下ろし、小石を弾き飛ばした。

「カ―――ン」

と、大きな金属音が森に響き渡り、小石は彼方へと飛び去った。

(へえ、やはりやるな、この男)

ヴァリンは、剣士をまっすぐに見た。少し、やる気が出てきた。


 レラは、湖面に浮かぶウキをじっと見つめていた。ウキはピクピクと水面で揺れていた。魚が、水中でエサをつついている。レラにはそれがわかった。

 レラが、「釣りが得意」というのは本当のことである。今まで旅を続けてきて、数え切れないほど釣りはしてきた。そして、いつでも結果は出してきた。それなのに、今日に限って一匹も釣れない。それどころか、釣れる気配すらないのだ。この湖に魚がいないのではない。確実にいる。それはわかる。なのに、エサに食いついてくる気配すらみせない。だからこそ、レラは感じていた。

(この湖には、会ったことのない大物がいる)

ひどく慎重で、ズル賢い大物が、水の中でこちら様子をうかがっているのだ。そして、ついに、レラの釣り竿に反応があった。ウキが水面で上下している。だが、まだ動きが小さい。敵はまだ様子を見ているだけ。エサに本気で食いついてはいない。レラは、長年の経験で得たカンでそれが分かった。

(まだだ、まだ。待て、待てだ。相手以上に慎重にならなければ…、この勝負に勝てはしない)

レラは、水面のウキをじっと見つめて、水の中の魚が本気でエサに食らいつく、その瞬間を待った。ウキがグイと水面に沈む…いや、まだ。これはウソだ。ダマされるな。敵はズル賢い。ウキはすぐに水面に上がってきた。そして、また、水面で上下してから、水中に吸い込まれた。

(いまだ!)

竿に力を込めた。確かな手ごたえがあった。長年釣りをしてきて、こんな重い手ごたえは初めてだった。スゴイぞ、これは。

(いや、まだだ。浮かれるな。勝負は釣り上げるまで。ここで逃がしては、これまでの苦労が…)

と、その時、鋭い金属音が森に響きわたった。そして、なにか小さなものが、馬鹿げた高速で飛んできて、水面で跳ね返ると、そのまま竜巻となって、湖の水を巻き上げ周囲にまき散らした。唖然としてそれを見ていたレラにも、少なくない量の水が降りかかった。

 竜巻はすぐに消えた。だが、レラが握っていた釣り竿からも手ごたえが消えた。たぶんレラの釣り歴のなかで最高の大きさであっただろう魚は、逃げてしまったようだ…。レラは静かに竿をかたわらに置いた。なにが起こったのか、詳しくはわからなかった。だが、だいたいの察しはついた。こんなことをするのは…できるのは、あいつしかいない。

(まったく、あいつは。なにをやっているんだ)

レラはゆっくりと立ち上がり、剣を持って歩きだした。


 ヤの国の剣士は戦慄していた。

(なんなのだ? 今のは?)

魔法で、目つぶしの砂を巻き上げ、続けて小石を飛ばした。それはわかった。魔術師ならばよくやる手だ。だが、普通それはけん制に過ぎない。たとえ小石が体に当たったところで、どうということはない。しかし、どういう仕掛けかは知らないが、ヴァリン・ルドゥの放った小石は、それらとは明らかに違った。剣で弾くことはできたが、剣を握った両腕に重い感触が残っている。あれを喰らえばただではすまない。

(ヴァリン・ルドゥは、あんなものを詠唱なしで放つのか?)

 剣士は自分に勝ちめがほとんどないことを悟った。周囲には小石など、いくらでも落ちている。次にあれがどこから飛んでくるかわからないし、避けられるとは限らない。避けられたとしても、また次の小石が飛んでくる…。覚悟を決めた。長引けばますます不利になる。

(イチかバチか。刃の届く距離まで突っ込んで、ヴァリン・ルドゥを斬る)

と、考えていると、視線の端にトコトコと歩いてくる人影が見えた。

(…あれは、同行している女か)

まずい。このうえ加勢などされては絶望的だ。剣士は決死の覚悟でヴァリンに向かって走り、剣を振るう。ヴァリンは後方に跳んでかわす。剣士はさらにヴァリンに迫り、嵐のように剣を振るうが、再びかわされる。これを何度か繰り返すが、ヴァリンをとらえることができない。

(くそぅ!)

気持ちがあせる。早くカタをつけなければ。なのに、相手が逃げ回るばかりで…いや、おかしい。

(なぜ、魔法を使わないんだ?)

小石を飛ばすことも、砂を巻き上げることもする様子がない。逃げ回るだけでは、わたしを倒すことはできないのに…それに、

(なぜ、あの女はのんびり歩いている? なぜ加勢に駆けつけないのだ?)

レラは、剣士のすぐ近くまで来ていた。剣士がヴァリンに斬りかかっているのも見えているはずなのだが、駆けてくるどころか、歩みを速める様子もない。そのまま足を進め、にらみ合う剣士とヴァリンまで、数歩の距離までくると、剣士の方をつまらなそうにチラリと見てから、ヴァリンに言った。

「ねぇ、ヴァリン。わたし、あなたに、『魔法を使うな』って言ったよね?」

「え?! …いや、言われてないけれど」

ヴァリンが答えた。本当に言われてはいない。「魔法を使うなよ」という態度があふれてはいたけれど、実際に言われたのは、今が初めてだった。だが、レラにそんなことを言っても意味はない。

「とにかく! あなたはもうおとなしくしていてね」

ぴしゃり、と言った。

 レラとヴァリンの会話を聞いて、剣士は考えていた。

(なるほど、どんな理由かは知らないが、ヴァリン・ルドゥは魔法を自由には使えないようだな…)

ヴァリンを見て、少しだけ笑い、安堵した。

(ならば、勝機はあるかもしれない)

そして、レラに視線を移して、

(あとは、あの女だが…)

と、考えていると、レラがいきなり斬り込んだきた。慌てて、剣で受ける。

(お! 速いな)

踏み込みも、剣閃も速い。続けて、二撃、三撃…凄まじい剣の嵐が来る。

(ほぉ、なかなかの腕じゃないか。だがな…)

剣士は、レラの嵐のような連撃をすべて受けきり、にやりと笑った。


「おとなしくしていて」とレラに言われたヴァリンは、四本の脚を伸ばし、地面に腹をつけて、レラと剣士の闘いをのんびりと眺めていた。

(ああ、レラの剣は本当に速いなぁ)

レラの剣が、怒涛のように剣士を襲っている。

(まあ、なんか、容赦がないと言うか、遠慮がないと言うか…)

しかし、その容赦ない剣撃を、ヤの国の剣士はすべて確実に受け止めている。見方によっては、剣を振り回す子ども相手に遊んでやっている親…くらいに見えなくもない。

(あの剣士、相当にやるなぁ)

と、考えながら、ヴァリンは首を地面におろした。地面に四肢を伸ばし、へたり込むような格好。これが、いちばんラクだ。

(今日は疲れたな…いろいろと)

まだ昼前だというのに。

(ひと任せというのは、本当に疲れるものだ)

二人の闘いを、ぼんやりと眺めていた。


 激しく、絶え間なく襲ってくるレラの剣撃を、剣士はすべて受け止めていた。

(速い。鋭い。なかなかたいしたものだ。だが…、相手に剣が届かなければ、なんの意味もない)

剣士には、レラの剣は純粋で懸命なものに見えた。だから、いくらでも受け止められる。

(闘いは駆け引きだ、いかに相手に剣を届かせるか。ズルさも必要なんだよ)

間断なく繰り出されるレラの攻撃を剣で受けながら、大きく踏み込んでくる一撃を待った。それを剣で受けるふりだけして、体を横にそらしてかわし、踏み込んで前のめり気味のレラの体に、上から剣を振り下ろす。

(攻撃に夢中になっているところを、かわして一撃。これは剣技の基本)

基本。単純な技ではある。しかし、レラは自分の放っていた激しい剣撃の勢いで前のめりの体勢。そこに視線の届かない背後上部から剣が来るのだ。ふつうならば、避けようがない。

 しかし、レラは前のめりの体勢のまま、当たり前のように上半身だけをひねり、その剣を受け止めた。

(ほう、これを受け止めるとは…)

剣士は、レラを甘く見過ぎていたことを悟った。


(レラはなぁ…ホントにカンがいいんだよなぁ)

レラが剣を受け止めるのを見て、ヴァリンはそう思う。相手の行動を感知し、それに即応する。その能力が並外れて高い。まるで、予知でもして、相手の行動をあらかじめ知っているかのように。それに、あんな勢いのついた前のめりの体をひねるなど、ふつうの人間ならできるはずもない。レラは時おり、異常とも言える体躯の動きを見せる。カンの良さと、それに対応できる体の柔軟さ。それがレラの剣の強さだと、ヴァリンは感じていた。

(剣技というよりは、獣の技だよな…まるで)

そう思って、笑った。

(レラにこんなこと言ったら、怒るかな…いや、「そんなことはどうでもいい」って、言うんだろうな。レラはそういう人だ)

一人で、そう納得した。


 剣士は、困惑していた。

 最初の一撃、防戦一方と見せかけてからの意表をついた反撃は、ムリな体勢から剣を受け止められてしまった。それならばと、こちらから攻撃に出たが、まるで当たらない。避ける余裕など与えないつもりで繰り出した連撃は、からかわれているんじゃないか、と思うような、やわらかな体の動きで、ことごとくかわされた。必殺の意を込めて、死角をついて繰り出した一撃も、まるでこちらの剣が相手の剣に吸い取られたかのように受け止められた。

(なんなのだ? この女は)

といって、こちらが受けに回れば、激しい攻撃がくる。まるで自由に、奔放に。

 剣による闘いとは、いかに相手に剣を当てられずに、相手に剣を当てるかに尽きる。だから、相手の意図を読み、動きを読んで剣を振るのは当然のことだ。しかし、この女からはそんなものが感じられない。ただ自分が振りたいように剣を振っているだけだ。それでいて、剣を避けて反撃しても、スキだらけにみえる体勢にこちらから攻撃を仕掛けても、すべて対応されてしまう。

 剣士は、幼いころから「勝利とは相手を知ることだ」と教えられてきた。相手の力量を知り、意図を知り、相手が何をしてくるのかを知って、それに最適な対応をすることが勝利につながるのだと。そのような修練を積み、実戦を重ねてきたからこそ、今まで生き残ってこれた。だから、剣士には、この女 ―― レラが悪魔に見えた。自分がこれまでに積み重ねてきたものを、否定しにきたのかと。

(だが…、まだ屈するわけにはいかないな)

もちろんだ。まだ、闘いに負けたわけではない。

 剣士は、体を引いて、意識して間合いを大きくあける。レラは躊躇なく走ってきて、剣を左から右に大きく振るう。それをギリギリで見切ってかわし、そのままレラへと体ごと突っ込んだ。剣を振る気はない。そのために体の動きを遅らせれば、レラにかわす余裕を与えるだろう。体当たりでいい。それでレラの体勢を崩せれば、勝機が生まれる。剣は左から右に大きく振り切られている。そこから剣を止めて、左に振り戻しても、間に合うはずがない。

 が――。

 レラは左から右に振った剣の勢いを止めずに、くるりと体を一回転させた。剣も一回転して、目の前に迫ってくる。剣士は突進をやめて、慌てて後退すると、剣が目の前を通り過ぎていく。剣士はその場に呆然と立ち、平然と立っているレラを見た。


(めちゃくちゃだなぁ。敵の目の前で体を回転させるなど…)

ヴァリンは、呆れながら、そう思った。

 敵の前で体を回転させたりすれば、当然、相手から眼が離れる。しかも、一瞬とはいえ、相手に背を向けることになるのだ。そこを突かれたら、どうするというのだろう…。まあ、一度ならば、相手の意表をついたのならば、ないことはない…かな。私なら絶対にやらないけれど。だが、レラはどうなのだろう? レラならば、二度でも三度でもやりそうな気もする…。


 ヤの国の剣士は、ヴァリンとほぼ同じことを考えていた。

(敵の眼前で体を回すなど、バカげたことをするものだな)

しかし、それで、体を当てて体勢を崩すことは防がれたのだが…。ではもし、こちらがまた同じことを仕掛けたら、どうやって対応するつもりなのだろう? すでに体を回転させるところを見せたのだから、バカなマネは繰り返さないかもしれないが、それならば最初の思惑のとおりに、体当たりで相手の体勢を崩して勝機を得ることができるはずだ。

(仕掛けてみるか、もう一度)

剣士は、再び、レラとの間合いをあけて相手の出方を待った。

 レラはさきほどと同様に、剣士に駆け寄り、左から右に大きく剣を振った。

 剣士にもヴァリンにも、レラがそうするだろうという予感はあった。レラは相手の行動に対応する絶対的な自信をもっている。だから、自分からの行動は変えたりしない。自分の攻撃に相手がどんな反撃をしてきたとしても、防ぎきる自信がある。だから、攻めるべきときは当然のように攻めてくる。

 剣士は、レラの振った剣をさきほどと同様に寸前でかわした。

(ここで、剣の振りを止めるなら、このまま体当たりだ)

だが、剣が止まる様子はない。そのままレラの体が回転し始める。

(そうか…、それならば)

レラの体が回転して、剣士に背を向けた瞬間、その背に向けて剣を突き出した。しかし、レラは体を回転させたまま足の踏み位置を変え、しゃがむように体勢を低くしてそれをかわした。

(まったく、この女は背中に眼がついているのか…)

剣士は驚いた。驚きはしたが、まあこのくらいのことはするのだろう、という予感もあった。どちらにしろ、剣を回転させた軌道は先ほど見て知っている。いま、自分が立っている位置ならば、ギリギリ当たることはない。

(それで? 次はどうするつもりなのだ)

間もなく眼の前を回転させた剣が通りすぎるだろう。そして、剣の回転も体の回転も終わる。その瞬間は明確にスキが生じる。

(そこを斬りつけてやればいい)

剣士はそう思っていた。それでも、この女は剣で受け止めるかもしれない。だが、相手のしゃがむような不自然な体勢と間合いを考えれば、こちらが圧倒的に有利になったな――と考えていると、スッと剣が喉元に伸びてきて、突き刺さった。それがレラの剣だということまでは理解できたが、それまで。何が起こったかを理解することなく、ヤの国の剣士の命は尽きた。


(やれやれ、まったくメチャクチャをするもんだな)

闘いのすべてを見ていたヴァリンは、レラの技とも言えない動きにあきれていた。体を回転させながら体勢を低くする。それだけで驚異的なのに、さらに右手で振っていた剣を、相手に背を向けた瞬間に左手に持ち替えた。右手で回転させていた剣を、左手で直線の動きに変え、相手の喉に突き刺したのだ。

(なぜあんなメチャクチャができるんだ。闘いのさなかに敵の眼の前で剣を持ち替えるなんて。持ち替え損ねたら、そこで終わりじゃないか…)

と思った。でもきっと、レラは持ち替え損ねたりしないのだろうなぁ――と気が付き、思わずタメ息が出た。あんなメチャクチャに倒されたヤの国の剣士が気の毒になってきた。

(あの男はたいした技をもっていた。修練を重ねて、相当に実戦を積んできたのだろう。それを、あんな閃き一発のイチかバチかで、わけもわからぬままに倒されるとは…。本当に無念だろうなぁ)

 ヴァリンが、自分を殺しに来た男に心の底から同情していると、剣を収めたレラが歩み寄って来て、ひと言だけ告げた。

「昼食にしましょう」


 魚が釣れなかったということで、その日の昼食は肉料理になった。ベーコンと干し肉を重ねて、少しあぶったもの。ベーコンの脂が溶けて干し肉に沁みこみ、口の中で絡みあう。そして、森の果実を使ったスープ。溶け込んだ果実の酸味が調味料で引き立てられている。パンも軽くあぶってあり、つぶした果実が添えられていた。

「とても美味しいよ、レラ」

ヴァリンは、レラが料理を口に運んでくれるたびに歓喜した。

(魚料理が食べられなかったのは残念だったが、これならば十分に満足だ)

と、思ったが、すぐに考え直す。

(いやいや、だからこそだ。レラの魚料理も食べてみたい)

その時、ヴァリンの眼の前にスプーンを差し出しながら、レラが言った。

「わたしねぇ、あなたといる間はもう釣りはしないよ」

ヴァリンは口に運ばれたスープを飲みながら、納得した。

(なるほど、レラも釣りなどしている場合ではないと、わかってくれたのだな)

だが、事実はちょっと違う。ヴァリンと一緒では釣りを楽しむどころではないと、レラが気づいたのだ。自分のしたいことをするレラでも、楽しめないのではやる意味がない。

 ヴァリンも残念ではあった。これで、レラの魚料理は諦めるしかない。

(いやしかし、レラが「魚を食べたい」と言っていたのを、ガマンする、と言ってくれているんだ。わたしもそれくらいはガマンしないとな…)

と、自分を納得させていると、

「わたしはねぇ、ヴァリン。魚料理が作りたかったんだよ!」

と、レラが言った。

(あれ? 朝、言ってたことと、ちょっと違うな…)

とヴァリンが思っていると、そこからレラは情熱を込めて話しはじめた。

 今まで旅をしてきて出逢った魚料理のことを。ヴァリンが聞いたことのない、素晴しく美味しい料理たちの話。そして、研究を重ねて、それらの料理を忠実に再現できるようになったこと。さらに、研究の末にたどり着いた自作の魚料理もあるという。その調理法が詳しく語られ、その料理がどれだけ素晴らしいものかが語られた。

 もちろん、今までレラの料理を味わってきたヴァリンにはわかった。その料理が素晴しく美味しいものだということが。そして、その時から、ヴァリンは叶えられることのない、レラの魚料理への欲求に苦しめられることになった。

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