第3話 夜襲と朝食
朝に薬屋と別れたその日の夜、レラの馬車は一日の移動を終えて、街道から少し離れた草原で休息をとっていた。
その馬車に近づく者がいた。空に星もなく、漆黒の闇の底にある草原を、まるで昼の町のなかを歩いているように、気負いのない足取りで歩いている。だが、その足が草を踏む音はまったく聞こえない。馬車のすぐそばに来ると、二頭の馬が寝ているのを確認し、音を立てず御者台に跳び乗り、馬車の入口のとばりを開き、中へ入る。馬車の中はすでに明かりも消され真っ暗だったが、この男にそれは関係ない。
(寝台に女が一人寝ている。そして、床の上には頭から毛布を被っている犬が一匹…。だが…)
真っ暗な馬車の中の様子を、猫のように夜目が利くその眼で確認した。報告のとおりだ。ゆっくりともう一歩、中に進もうとしたその瞬間、男めがけて白刃が走る。暗闇の中でも、男の眼には閃光に映った。慌ててとびのいて、白刃をかわす。
「何者だ? おまえ」
続いて声がした。レラが起き上がって、寝台の前に立っている。手には抜き身の剣を握っている。
(バカな。いつ剣を抜いた? たしかに女は寝ていたはずだ)
男が思った。それは正しい。レラはほんの一瞬前まで寝ていた。そして、まさにいま目を覚ましたのだ。
いま、目を覚まし、いま、剣を抜き、いま、剣を振った。
目を覚ましてから、状況を瞬時に判断し、行動した。それだけの事。夜襲や夜盗があたりまえの日々を過ごしているレラだからこその、技とも言えない、反射的な行動だった。
(この女が、報告にあったレラという女か……)
男は、にらみつけてくるレラを、静かに見て思った。報告には無かったが、剣の腕は相当なものだ。先ほどの一振りでそう判断できた。
(だが、それよりも……)
犬がまったく動いていない。これだけの騒ぎなのに…。もちろん、寝ているわけではない。そもそも、あの犬は馬車に入った時から起きていた。それは、気配で察することができた。侵入者が入ってきたのに寝たふりをして、騒ぎを起こしてもまったく動じない。そんな、犬がいるはずがない。
(…とすると、あれは本当にヴァリン・ルドゥなのか)
報告にあったこととはいえ、信じ難かったが…。しかし、これは好機だ。あのヴァリン・ルドゥの首を獲ることができるのだから。男は冷静に考えを巡らせる。
(ヴァリン・ルドゥが動かないのは、最後まで正体を明かしたくないからだろう…。だから、これはあとの問題だ。まず、このレラという剣士のほう)
男は、相対するレラをじっと見て、考える。先ほどの剣技を見れば、侵入と暗殺を得意とする自分がこの女と真正面から闘って勝てる可能性は高くない。それはわかった。ここはいったん退いて、仲間を揃えて出直すのが最善だろう…しかし…。
(これは、好機なのだ。ヴァリン・ルドゥの首を獲る栄誉を独り占めできるかもしれない好機。こんな幸運を逃せるはずがない!)
男は、一生に一度の賭けに出ることを決めた。背中に貼り付けたサヤから短い刃物を二本抜き取ると両手に握って、素早い動きでレラに迫る。正面から斬りかかる…と見せて、寸前で右に体を移動させ斬りかかる。が、レラも体を移動させてかわす。間を置かず、素早く左に移動して左手の刃物を振るが、剣で受けられ、斬り返される。慌てて体をひいてかわした。さらに男は、右に、左に、移動を続けて、両手に持った小回りの利く武器を振るい、手数でレラを圧倒しようとするが、ことごとく対応されてしまう。
(やはり、強いな……)
しかし、男には目論見があった。この広い馬車の中の構造は大体理解した。そこで、左右に激しく体を動かして、レラの眼を横の移動に慣れさせている。そして、レラの剣が大きく振られるのを後ろに跳んでかわし、ほぼ同時に体を反転させると、軽快な動きで背後の壁を駆け上り、天井の板を一歩二歩と踏んでから、体の落下に合わせて強く踏み込み、レラに斬りかかった。
(左右の動きに眼が慣れただろう。上からの速い動きにはついてこれないはず)
ただし、自身の体の動きも、もはや制御できない。捨て身の技。
――しかし、宙でレラと眼が合った。レラはしっかりと上を見ていた。
「天井へ移動したか…そうゆうのは、きのう見たな」
レラはそう言った。
男は、一生に一度の、そして最後の賭けにやぶれたのを悟った。鋭い一閃が視界に飛び込んできて、それが男が見た最後の光景になった。
「いやあ、レラの剣技は見事だったな、素晴しかったよ」
ヴァリンは心から言っていたのだが、レラは答えない。
(あなたは、見ていなかったでしょう)
ヴァリンが最後まで毛布に隠れて顔を見せず、動かなかったのは、当然の行動だ。正体の知れない相手の前に姿をさらすわけにはいかない。それはレラにも分かっていたが、やはり不愉快ではあった。やっかい事を押し付けられ、ひとりで片づけさせられたんだから。
「…それで、アレは何者だったの?」
レラが問うと、ヴァリンは軽く、分かりきったことだというように答えた。
「刺客だよ。わたしを殺しに来たんだ」
そんなことは、レラにも分かっている。あんな物盗りがいるものか。
訊きたいのは――
「なぜ、あなたがここにいることを知っている? 誰も知らないはずだろう」
「誰も知らないことではないな。レラ、きみは知っているじゃないか」
そう言われて、レラは考えた。そうだなあ。こいつがここにいることを知らせれば、喜んでカネを出すヤツはいくらでもいるだろう。帝都に知らせてやれば、カネだけじゃなく、感謝のひとつもされるんじゃないか。ああ、いやいや、それだと、わたしの仕事がやりにくくなるか…。
「…わたしは、あなたのこと、まだ誰にも言っていない、そんなヒマもなかったしね」
レラが真顔でそう言うと、ヴァリンはあきれた顔になった。
「いや、そうじゃない、そうじゃない。わたしのことを知っている者はもう一人いるだろ?」
そうヴァリンに言われて、レラは少し考えた。
(わたしだって、この犬が帝国の王子だとか聞かされたのは、昨日のことだ。あの薬屋に教えられて…ん⁉…まさか)
「あの薬屋か? しかし、あの老人は…」
帝国の王室をずいぶんと崇敬している様子だったし、ヴァリンに会えたことにひどく歓喜していた。あれがウソだとはとても思えない。
「あの男が、帝国を裏切ったというのか?」
「…いや、裏切ったのではないのだろうな。たぶん、あの男は最初から、ヤの国の者だ」
「なんだと?」
ヤの国というのは、昨晩、薬屋が「帝国の敵」と言っていた国か? そう言った薬屋自身がヤの国の者だというのか…。
「ヤの国には、身分を偽って何年も他国に住み、その国に馴染んで情報を集める者たちがいる。あの薬屋は、たぶんそのひとりだ」
ヴァリンの言葉を聞き、レラは驚くよりもあきれた。
(何年も他国に住んで情報を集めるだと? なんて悠長なことを…)
しかし同時に、納得もした。薬屋が帝国王室の事情に詳しかったのは、情報を集めていたからだろう。ヴァリンの顔にすぐ気づいたのも、王室に関することに鋭敏に聞き耳を立てていたからだろうし、行方が知れなかった敵国の王子を発見したのだから、歓喜するのも分かる。
「しかし、それならなぜ昨日、自分の家でわたしたちを襲わなかった? 料理に毒を入れるということもできたろうに。薬屋なんだから」
「薬屋からわたしに対する害意は感じられなかった。わたしたちを殺す気など無かったろうし、もしそんなことをしようとしたら、わたしかレラが気づいていただろ?
だからこそ、ダマされたのだし、気づくのが遅れた。もうすでに、薬屋から連絡がされ、ヤの国の者たちに知られているだろう…」
ヴァリンがすまなそうに言った。
しかし、レラは顔色ひとつ変えることもなかった。
「…そうか、じゃあまた、刺客が来るのだな」
そう言うと、寝台にもぐりこみ、横になった。
「わたしは朝まで寝るから、刺客が来たら、今度は早めに教えてくれよ」
そのまま、毛布を被ると、すぐに寝息を立てた。
ヴァリンはそれを、ありえないものを見る眼で見ていた。
結局、朝になっても次の刺客は来なかった。
朝になって、レラは眼を覚ますと、いつもの通り、馬たちに餌をやり、水を飲ませた。そして、たき火をして、鍋に湯を沸かし、豆のスープを作る。肉のパテを火で少しあぶって、皿に載せた。その皿と鍋を馬車の中に運び、小さなテーブルの上に載せる。パテを切り分けて、パンとともに小さめの皿に盛り付け、鍋のスープを二枚のスープ皿に注いだ。
その様子を、床の上に座って、不思議なものを見る眼でヴァリンは見ていた。
「朝食だぞ」
レラがヴァリンに声をかけた。
ヴァリンは思わず、訊いてしまう。
「レラ、君は…なぜ、朝食を作っているんだ?」
「そんなこと…朝だからに決まっているだろう」
「いや…、昨晩、刺客に襲われたんだぞ。しかも、これからもまた、今すぐにも襲ってくるかもしれない。それなのに…」
「だからこそだよ、ヴァリン」
レラは穏やかな顔つきで言った。
「敵はいつ襲ってくるかわからない。わたしの、あたりまえの日々を壊しにくるんだ。だから、わたしは、いつものあたりまえを全力で守る。それがわたしの戦いかただ」
その言葉を聞き、ヴァリンは
(やはり、この人は強いひとなのだな…)
と、あらためて思った。
ヴァリンはすでに数日をレラと過ごしている。食事も何度か作ってもらっていたが、レラの心を封じていたので、本当の意味でレラと朝食をとるのは、今朝が初めてだった。ヴァリンは少し緊張して、床からイスに跳び乗った。馬車にはイスが一脚しかないので、レラは寝台に腰をかけ、ヴァリンはイスに座って、テーブルをはさんで向かいあう。と、レラが瞳を閉じて、両手を組んだ。
「日々の糧に感謝いたします」
食事の前のお祈り。
(なるほど、これもレラの、あたりまえの日々…なんだな)
ヴァリンは納得して、レラに合わせて瞳を閉じる。
「さあ、それでは、いただくとするか」
短いお祈りを終え、レラが食事を始めようとすると、
「ねえ、レラ、ひとつ聞いておきたいのだが…」
ヴァリンが遠慮がちに言った。レラは始めようとした食事をさえぎられ、露骨にイヤな顔をした。ヴァリンは、犬のままの右前脚を上げて、皿の上の肉のパテを指して言った。
「この、パテって…昨日、薬屋にもらったものだよね?」
薬屋の家に行く前に、馬車にこんなものはなかった。このところ薬屋の店以外には行ってないし、薬屋以外の者に会っていない。とすれば、入手先は明らかだ。
レラは、当然のことのように答えた。
「ああ、そうだけど。毒など入っていない…って、あなた言ったよね?」
「いや、そんなこと言ってないけど…」
「薬屋は、わたしたちを殺す気がなかった、って言ったでしょ? わたしもそう思ったよ。このパテに毒を入れるくらいなら、あの家での食事に入れたでしょ? そうじゃないかな?」
ヴァリンには返す言葉が無かった…ので、心の中で思った。
(そりゃあそうだよ。そうだけれど…、そういう事じゃないんじゃないかな?)
ちらりとレラを見ると、パテをナイフで切り、フォークに刺して、口に放り込んだ。
(本当に、この人は強い人だな…。どうも、強さの底が知れない)
ヴァリンは話題を変えることにした。
「レラ、きのうはすまなかったね」
「なんだ? ああ、刺客のことね。まあ、もうどうでもいいよ」
「これからも、刺客は来るだろう…レラを危ない目に遭わせるかもしれない」
「ああ、そのことなら、そんなに心配しなくていいからね」
レラは、スプーンで皿からスープをすくって口にした。
「狙われているのは、あなたの命でしょ。わたしもせいぜい頑張りはしますけれど、危なくなったらすぐに逃げる。ということなので、よろしくね」
ああ、それも正論だな。返す言葉も無い。だが、ヴァリンは不安を隠しきれずに、つい、訊いてしまう。
「なあ、レラ、わたしのことを、必ず帝都に連れて行く、って言ってくれたのを忘れていないよね?」
「…そりゃあね、昨日のことだもの忘れてないよ。けど、命までかける気はないよ。それとも、『あなたのことを命をかけて護ります』とか、言って欲しかった? わたしは、そんな無責任なこと言わないよ。わたしが殺されちゃったら、誰がヴァリンを帝都に連れて行くの?」
ヴァリンは、訊いたことを後悔したが、もう遅い。レラの追撃が来た。
「でもさ、安心していいよ。ヴァリンが殺されても死体が残ってたら、帝都までちゃんと運んであげるよ。だから、早めに人間の体に戻ってね。今のままだと、いろいろと説明が面倒くさいからさ」
(…これは…もう、怒ってもいいんじゃないかなぁ)
と、ヴァリンは思った。しかし、レラに悪気はない…たぶん。それに、ヴァリンの心はすでに折れかけていた。もう会話をするのはあきらめて、自分も朝食をとることにした。スープを魔法でひと口分すくい、口の中に移動する。
(ん?! なんだこれ、すっごく美味いぞ)
レラの心を封じていたときに作った料理と、まったく違う。味付けが繊細で絶妙だ。豆の滋味が口の中に広がっていく。続けて、魔法を使ってパテを切り、口の中に移動させる。なるほど、パテは脂がほどよく溶けていて、あぶられた表面の肉が香ばしくて、じつに美味しい。間を置かず、パンを魔法でちぎり、口の中に運ぶ、パンにパテの脂が沁み込んで、味を引き立てる。思わず声を出してしまった。
「うん、すごく美味しいよ、レラ。料理が上手なのだね」
ひとりでに幸せな顔になってしまうヴァリンを見ながら、レラは言った。
「ねぇ、ヴァリン、あなたそれ、いちいち魔法使って物を食べるのって、けっこう疲れるんじゃないの?」
「…? ああ、そうだね。少し大変だよ」
レラの質問の意味がわからず、ヴァリンが答えると、
「二人だけだし、もうカッコつけなくていいんじゃない? 皿に顔つけて食べればいいよ。遠慮はいらないからさ」
ヴァリンは、生まれてから、あまり腹を立てた記憶がない。幼いころから、自分を制することが、上に立つ者の責務だという教育を受けてきたからだ。だが、この時、生まれて初めてじゃないか、というくらい語気を荒げた。
「レラ、あなたね! 自分が犬になったと思って、考えてみてください!」
「……」
レラは黙り、考え込んだ。さすがに、自分の非礼な言葉を反省しているのか、とヴァリンは思ったのだが、そうではなかった
「わたしが犬になったら…ね? そんなことになったら、すぐに高いところから飛び降りて死ぬけれど…」
ヴァリンはさらに声を高めた。
「そういうこと、犬にされている者の前で言いますか!」
「いや、だからさ、わたしが犬になったら、って話でしょ。あなたにそうしろとは言ってないよ」
ヴァリンは大きく息をして、自分の中に刻まれた自制を取り戻す。この人…レラ相手に激高しても意味がない。それだけは確かだ。
「…いいですか、犬と人間は顔の構造が違うんです。犬が皿から直接に物を食べられるのは、突き出した口と、長い舌があるからです。人間の顔でやってもうまくいかないんですよ」
そう言うヴァリンは、もちろん試したことがある。それでたいへん苦労した経験があるので、わざわざ食事のたびに膨大な魔力を使っているのだ。
「でもさあ、ヴァリン。人間の体に戻るために魔力を使っているって、言ってなかった? 食事のたびに、そんなに魔力を使っちゃって大丈夫なの?」
レラのその言葉に、ヴァリンは、はからずもまたうなずいてしまう。
犬になる魔法が解けてから、犬の体が人間の体に再生されていく実感があった。そこで、自分の体に再生を促す魔法を使ってみると、人間の体への再生が早まった。もちろん、それはわずかな違いだし、魔力を使えは使うほど、再生が早まるわけではない。しかし今は、再生の魔法に使う魔力はできるだけ確保したい。一日も早く、人間の姿に戻ることが一番重要なのだ。食事のたびに魔力を浪費し、集中力を使い過ぎて、再生の魔法が使えなくなることだけは絶対に避けなければならない。
(しかしなぁ…)
皿に顔をうずめて食事をするのは、食べづらいだけでなく、結構な労力も使う。それに第一、精神的にツラい。一人で食事をして、誰にも見られていないとしても、犬の体で食べ物にがぶりつく自分が、どうしても哀れなものに思えてしまうのだ。
(さて、どうしたものかなぁ…)
ヴァリンが悩んでいると、レラが、フォークに刺したパテをヴァリンの顔の前に突き出してきた。
「それじゃあさ、わたしが食べさせてあげるよ」
「?? え、レラなにを…」
「だからさ、口を開けなよ、さあ早く」
「え、ちょっと待ってくださいよ、レラ…」
「わたしだってね、ヴァリンに早く人間に戻ってもらわないと困るんだよ。だから、おとなしく食べて」
そう言われ、ヴァリンは真剣なレラの顔を見て、次に目の前のパテを見た。
(これを、食べろというのか? わたしに?)
これはこれで、結構な屈辱じゃないのか? わたしは幼児じゃないのだが…。
しかし、レラの言うことは正しい。今はこれが最善だろう。
(どうも、わたしはこの人に逆らえないようだ)
おとなしく口を開き、口の中に差し入れられたフォークからパテを噛み取る。
「美味しい? ヴァリン」
レラが訊いた。
「ああ、美味しいよ、レラ」
ヴァリンが答える。
それから、ちぎったパン、スープをすくったスプーンがヴァリンの口へ次々と運ばれる。ヴァリンは忙しく口を動かしながら思った。
(やれやれ、こんな姿、フェルナには見せられないな…)
そもそも、犬の姿が見せられたものではないのだが、今はなぜだか、妹の笑う顔が浮かんだ。そして、テキパキと手を動かす、レラの顔を見た。
(しかしまあ、今はこれも仕方ないことだよな。…まあ、悪くはない)
レラの胸のうちは複雑だった。少し慣れたとはいえ、ヴァリンの姿に嫌悪感がまだ残っている。ヴァリンを一日でも早く人間に戻すのが、自分のためだと分かっているので、態度には出さないが、心の中では割り切れていない。
(犬を飼う者の中には、好き好んでこういうことをする者がいるらしいが…。気が知れないなぁ)
気分を紛らわせたくて、どうでもいいと分かっていることを訊いてみた。
「ねぇ、ヴァリン、あの薬屋のことはもういいの? 今から戻って、文句のひとつも言ってやりたいと思わないのか?」
「…ん、そうだな。あの店主は面白かった。もう一度、会ってみたいが、それはムリだろう。もうすでに、あの店ごと消えているだろうからね」
(それは、まあ、そうだろうなぁ)
レラにもそれは想像がついたので、何も言わなかった。
「…それに、もらったパテは食べてしまったんだし、もういいんじゃないか?」
ヴァリンとしては、レラへの皮肉のつもりでそう言ったのだが、イヤな作業を自分を抑えてやっているレラに、それは伝わらなかった。
「うん、そうだね…」
と、気持ちのこもらない返事をしたが、上機嫌のヴァリンは、気に留めなかった。
そして、レラはこの献身的な作業を、この後も、食事のたびに行うことになった。
その日の昼、森の中で女性が一人、倒木の上に腰を下ろしている。その目の前には、ハヤブサが一羽、倒木の上にとまり女性と向き合っている。
「そうか、あのヴァリン・ルドゥがこの近くにいるのか…」
女性が言った。
「うん、近くの街道を帝都に向かって移動しているよ、トーコ」
ハヤブサが言った。
ヤの国には、他国には知られていない、国内でも一部の者しか知らない秘術がいくつかある。この「しゃべるハヤブサ」は、そういった秘術の一つが生み出したもの。卵のときから魔力を与え続け、卵からかえったら、エサに秘薬を混ぜ、養育者がつきっきりで教育する。すると、人間と会話のできるほどの高い知能をもったハヤブサができあがる。この秘術が、小国であるヤの国が、強大な帝国に対抗できる理由のひとつになっている。なにせ、人間の数倍の速度で移動する鳥により、情報の伝達ができるのだから。情報の流通技術では、ヤの国は帝国を遥かに上回っている。
「しかしさあ…、ヴァリン・ルドゥが犬にされただなんて…笑っちゃうよねぇ」
人間なみの知能を持つそのハヤブサが言った。
「あはは。まったくだな。だけど、ヴァリン・ルドゥも鳥のおまえには言われたくはないと思うぞ」
トーコと呼ばれたその女性は、笑って答える。彼女はヤの国の戦士。弓使いだ。そして、狩人でもある。最近は争いがないので、帝国の領域まで出て狩りをしていたのだが、そこで旧知のハヤブサから報告を受けたというわけだ。
「おっきな馬車で、女と二人らしいよ」
「そうか、二人だけなのか…」
「どうするの、トーコ? すぐに行ってヴァリン・ルドゥをやっちゃうの?」
「カンタンに言うなよ」
トーコは笑って答えた。たしかに、馬車が移動しているという街道はすぐ近く。そんな大きな馬車なら、見つけるのもそう難しくはないだろう。しかし…。
「だってさ、犬一匹と女一人だけだよ。やるしかないんじゃない」
「そうかもしれない。だけどねぇ…」
ヴァリン・ルドゥはいま犬の姿。ヤの国でも知らぬ者のいない剣士であるヴァリンだが、剣を持つこともできない今ならば…とは思う。しかし、あの光の王子には魔法の力もある。油断はできない。それに、連れの女はもともと一人旅だったという。トーコ自身も一人旅をしている身だからわかる。その女も油断できない。
考え込むトーコの顔を、ハヤブサは首をかしげてのぞき込んだ。
「まあ、いいや。トーコが決めることだもんね。じゃあ、わたしは次があるからもう行くね」
そう言うと、翼を広げ、飛び立とうとする。
「あ、ちょっと待って」
トーコが、ハヤブサを呼び止めて、腰につけた革の袋から、今朝仕留めてさばいておいた小鳥の肉の小片をハヤブサに差し出す。
「はい、これ。お礼よ」
「わあ、ありがとう」
ハヤブサはそれをくちばしで受け取ると、木の上に爪で抑えつけて食べ始めた。
その様子を、トーコは微笑みながら見ている。
(カワイイなぁ…)
トーコは伝令のハヤブサを何羽か知っているが、この子がイチバンのお気に入りだ。仕草と口調が可愛いし、ムダ話にもつき合ってくれる。一生懸命に飛び、話す姿を見ていると愛おしくてたまらない。
「それじゃあ、わたし行くね」
肉を食べ終えるとハヤブサが言った。そして、飛び立つ直前に、
「わたし、トーコのこと大好きだよ」
と言った。
トーコは笑顔でそれを見送り、
(今度は、いつ会えるのかなぁ)
と思った。トーコはしばらくその気分に浸っていたが、すぐに気持ちを切り替える。
(さあて、どうしたものか…)
ヤの国は基本は個人主義だ。報告を受けたからといって、ヴァリン・ルドゥを殺さなければならないわけではない。そもそも「ヴァリンを殺せ」という命令ではないのだ。だから、なにもしなくても罰を受けることもない。しかし同時に、ヤの国の戦士たちは、自分の技能を高めることに誇りをもっており、それを示すことで栄誉を得たい、という欲求が強い。敵国の英雄を倒す好機を逃す者など、まずいない。だからこそ、「命令」でなく「報告」で十分なのだ。
だが、トーコは戦場でヴァリンを何度も見ている。圧倒的な技量でヤの国の戦士たちを倒す姿を。トーコだって、自分の弓の腕にはかなり自信がある。百射百中で多くの敵を倒してきた。それでも…。
(わたしの矢が、あの人に届く気がしない)
悩みに悩んだあげく、「やる」と決めた。自分の技量を示したい、認めてもらいたい、という欲求に抗えなかった。
夕刻には、ヴァリンたちを乗せているという馬車が街道を進んでいるのを見つけた。報告のとおりに、あきれるほどに大きな馬車だ。御者台には、女性が一人で手綱を握っている。
(あれが、ハヤブサが言っていた女だな)
しかし、特に周囲を警戒をしているような様子はない。緊張感なく、ただぼんやりと、つまらなそうに景色を見ている。
(あの女を射て、馬車ごと奪ってしまおうか?)
だが、すぐに考え直した。それで、ヴァリン・ルドゥに逃げられてしまったら、元も子もない。それに、ヴァリンと近距離で一対一になるのも避けたい。トーコの武器はあくまでも弓だ。いま、ヴァリンがどんな状態であろうと、自分の最大限の力で対したい。
(だが、ヴァリンは外には出てくれないよなぁ)
今のヴァリンは奇異な姿になっている。いくら少ないとは言っても、この街道はいくらかは人通りがある。見られる危険は冒さないだろう。
(結局、夜を待つしかないのかな…)
馬車はそれほど速くはない。歩けば離されるが、走ればすぐ追いつく。トーコは距離をとることを意識し、ときおり身を隠しながら、馬車のあとを追った。
夜になり、馬車は街道をはずれて森に入った。ここで夜営をするのだろう。馬車は木々の間に停まった。
トーコは、馬車が停められている場所を確認し、少し距離をとって周囲を移動する。そして、最適な距離で木々の間から馬車を見通せる場所を見つけた。
その場所で、「ふう」と大きく息を吐き、呼吸を整える。そして、弓を持ち、矢をつがえて弦を引き絞る。その状態のまま、さらに集中して矢の先に魔力を込めると、炎が生まれた。火矢だ。これを放って、馬車に火をつけ、馬車から飛び出したヴァリン・ルドゥを射る。周囲は平原ではなく、森だ。木々の間から矢で射られるとは思わないだろう。だが、わたしならできる。木々の間を走り、逃げ回っても、あなたの額を射抜いてみせますよ。ヴァリン・ルドゥさま!
トーコはヴァリンへの恐れを振り切るように矢を放った。
しかし…、矢は、馬車に届く直前で火が消え、速度を失って、ポトリと落ちた。
(え、なぜ?!)
トーコは慌てて二射目をつがえ、同じように放つ。しかし、同じように火が消え、矢が落ちた。呆然と立ち尽くしていると、声がした。
「あの馬車はさ、もともと戦場を駆ける馬車だったんだよね…」
慌てて声のした方を振り向くと、馬車の御者台に座っていた女がいた。
「…だから、矢とか投石とかは当たらない。そうゆうふうにできてるらしいよ。もらったものなんで、持ち主のわたしも仕組みはよくわからないんだけどね」
トーコには理解できなかった。馬車のことだけ…ではない。
(なぜ、この女は、ここにいる? 馬車からは誰も飛び出していないのに…)
その答えは、割とカンタンだ。この女――レラは、最初から馬車の中にいなかった。トーコの追跡に気づき、森に入るとすぐ馬車を降りたのだ。
トーコに戦場の経験があっても、旅の経験では、レラが上回っている。いくら時おり姿を隠していたといっても、同じ姿、同じ顔の者を何度も見かければ、追跡に気がつく。戦場以外での経験の少なさが、トーコの敗因となったのだ。
レラは黙って、剣を抜いた。
(この人がなにをしようとしていたか、だいたいわかった。もう終わりでいいだろう)
トーコは混乱がおさまっていない。
(この女には絶対勝てない。わたしは弓使いだし、今も、弓と矢しか持っていない。弓を捨てて、命ごいしたら、許してもらえるかな? …いや…ムリだろう)
反射的に、レラと反対方向に駆け出したが、すぐにレラに追いつかれ、回り込まれ喉を斬られた。血が吹き出し、一瞬で絶命した。
負けを認めて逃げ出したのだから、もう逃がしてやればいい、という考えはレラにはなかった。この人は、わたしとヴァリンを殺しに来たんだ。だから、全力で殺してあげるのが、こちらの礼儀だろう――それが、レラの考え方だ。
(外だから、後始末は無しでいいのは、ラクだけどな…)
自分が殺した、名も知らぬ女の死体を見て、レラはそう思った。もちろん、気分はよくない。死体から視線をはずして、二度と振り返らず、馬車に向かった。
(明日の朝は、鳥でも捕まえて、焼いてみようかな…)
そう、考えていた。
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