第2話 犬の顔

「突然、押しかけてすみませんが、中に入れてはもらえませんか?」

シロは――その犬は、そう言った。

レラは一瞬、言葉に詰まったが、

「ああ、どうぞ入ってくれ」

すぐにシロを屋敷の中に招き入れ、応接室に通した。シロは、当然のようにソファの上に座る。レラはそれに向き合って腰を下ろした。

「夜分遅くに押しかけてまいりました非礼をお許しください。どうしてもレラ殿とお話をしたくて」

そう言うシロを見て、レラは、

(犬のくせにずいぶんと丁寧に話すんだな)

と思った。

 実際のところ、この犬――シロがしゃべったことにはそれほど驚いてはいなかった。まあ、ただの犬ではないのだろうなと感じていたし。いま問題なのは、なんのためにわたしのところに来たのか、だ。この犬は「お願いがある」と言った。ならば、それが何なのかは、聞いておいた方がいいだろう。自分に利益のある話なら、逃がす手はない。レラは仕事柄、こういう事には敏感だった。

「それは、光栄ですね。ちょうどわたしも、話し相手が欲しかったところです」

相手に合わせ、丁寧に口調を変えて対応した。

「まずは、レラ殿に礼を申さねばなりません」

「礼? …ですか? 一体なんのことでしょう。心あたりがありませんが…」

「そうですか…、少しご説明せねばなりませんね」

シロはそう言うと、あらたまって話を続ける。

「じつは、わたくしはもとはただの人間。森の魔術師より罰を受け、この犬の姿に変えられてしまったのです。しかし先ほど、レラ殿から口づけを受けたとき、その術が解けたのを感じました。そして、こうしてレラ殿と話ができるようになった、というわけです」

 ふむ。たしか吟遊詩人が、「魔術師によって、獣に変えられた者がいた」って、歌っていたよな。この犬は、その中の一匹…いや一人というわけか。…しかし、「口づけ」ってなんだ? わたし、そんなことしたっけ?

 レラは村の長の家でのことを思い返した。あの時は、気分が高揚してしまって、犬に何をしたかなんてことまで覚えてはいない…。まあ、覚えていないことは、もうどうでもいいや、と気持ちを切り替える。

(しかし、罰で犬に変えられた…ってなぁ。わたしだったら殺された方がマシだな)と、思ったが、これもどうでもいい。レラは言葉を慎重に選び、返答した。

「魔法が解けたので礼を、ということですか…しかし、そのお姿は…」

(犬のままじゃないか)と言いたかったが、もちろんそれは言わない。

「はい。術が解けましたので、姿もじきにもとの人間に戻るでしょう。多少、時間はかかるでしょうが…」

なるほど。しかし、それならば、人間に戻ってから来てほしかったなぁ。やはり、犬が相手では話しづらくて困る。

「それは実に幸いな事ですね。しかし、どちらにしろ、わたしは知らずにしたこと。礼などを言われる立場では…」

「いえいえ、それではわたくしの気持ちが済みませんので」

(まったく。なんて回りくどい。挨拶ついでの礼など、どうでもいい。早く本題に入れ。一体、わたしに何を頼むつもりなのだ?)

レラは少しイラついたが、態度には出さず、慎重に言葉を返した。

「本当に、礼などもういいではありませんか。あなたは勇猛果敢に狼からわたしを救ってくださった『命の恩人』なのですから」

 交渉においては、相手を誉めておけばまず間違いない。そうすれば、相手が気分をよくして話に乗ってきてくれる。これは、レラが数多くの交渉をこなしてきたことで得た技術だった。しかし、今回はいつもと少し違っていた。

「そうですね。わたくしはあなた命をお救いした『命の恩人』です。これは、わたくしにとって、誇りと言っていいでしょうな」

シロはレラの言葉を繰り返し、なんの恥じらいもなく自らを『命の恩人』と言い切った。

(…くそ、やられた。この犬め) 

レラは心のうちで歯噛みをした。『命の恩人』とこちらから言い、それを言質に取られては、これからどんなにこちらに不利な頼みごとをされても断りづらくなる。どうやら、こういう言葉を引き出すように、話を進められてしまったようだ。やはり、この犬、ただ者ではない。レラは自分の目つきが鋭くならないように気をつけながらシロを見た。犬の表情などわかるはずもないが、シロは平然と話を続けた。

「わたくしは、犬になっている間も、人間だった記憶はありました。だが、心は犬そのもので…。ただただ、犬として過ごしておりました。このたび、人間の心を取り戻し、わたくしのやるべきことを思い出しました。わたくしは帝都に戻らなければなりません。聞けば、レラ殿は帝都に向かわれるとのこと。どうか、わたくしを一緒にお連れいただきたいのです」

(なんだ、そんなことか)

レラは少し気抜けした。そんなことなら、たやすいことだ。連れに犬が一匹増えるだけだしな。だが口には出さず、黙ってシロの話を聞き続けた。

「帝都までお連れいただければ、お礼は十分にいたしましょう。人間に戻していただいたお礼もあわせまして」

(礼はする、ねぇ…そんなこと犬に言われてもなぁ)

レラはソファに座る姿勢を崩し、頬杖をついた。

「いかがでしょうか? レラ殿」

とシロが問うと、

「お断りいたします」

と、レラは命の恩人の頼みをきっぱりと断った。「なぜ?」とシロが言葉を返すより早く、レラは言葉を続けた。

「人にものを頼むときは、まず名乗るのが礼儀…ではないですか?」

「いや、それは…」

シロが言い返そうとするのを無視して、レラは話し続ける。

「もちろん、あなたは礼儀を知らない方ではないのでしょう。だが、もともと人間だった、と言うなら、まず真っ先に自分が誰であるかを名乗るはず。それをしなかったということは、なにか話せない事情がおありなのでしょう?」

シロは黙ってしまった。レラはかまわず続ける。

「わたしも帝都で仕事がありますので、面倒ごとは困ります。命を救っていただいた方の頼みをお断りするのは心苦しいのですが…」

とだけ言って、レラも口を閉じ、顔を伏せた。レラとシロの間に沈黙が降りる。

「どうやら、わたしはあなたを甘く見ていたようだ…」

先に沈黙を破ったのはシロ。だが、レラは顔を伏せたまま。腹を立てているわけではない。頼みは断った、もう引き受ける気はない、という意思を示したのだ。

(仕事がうまくいくメドはついているんだ。やっかい事はお断り。この話はもう終わりだ。さて、どうする? シロ殿。世間話なら、少しくらい付き合ってやらんこともないが)

「…わかりました。諦めましょう」

そうシロが言うと、レラは間を置かずに顔を上げ、

「そうですか、おわかりいただけましたか」

と答えた。

(よし、これで面倒な仕事を押し付けられずに済んだな)

しかし、レラが顔を上げ、シロと視線を合わせると、レラはその犬の瞳に吸い込まれるような力を感じた――。そして、次の瞬間、自分の中のなにかが、「プツン」と切れたのがわかった。

「すまない、レラ殿。わたしには他に方法が無いんだ…。わたしは、諦めるわけにはいかないんだよ」

シロがそう言ったのが聞こえた。しかし、レラはそのときすでに、その言葉に返答することはできなくなっていた。

 

 その数日あと、レラの巨大な馬車は、帝都へと向かう街道を走っていた。御者台には、レラが座り、ぼんやりと手綱を握っている。

 後方から二騎の騎兵が駆け寄り、馬車をはさむように並走して、手でレラに馬車を止めるように合図をした。レラはまったく表情を変えることなく馬車を止めた。

「帝国の警備の者です。ご協力をお願いします」

二人のうち若い騎士がそう言った。二人は本来は帝都の警備兵なのだが、今は、帝都から遠く離れたこの街道の警備をしている。

「どちらへお向かいですか?」

上司である年上の騎士がそう問うと、

「帝都へ」

レラは一言だけ答え、かたわらの荷物の中から、村の長に与えられた書面を取り出し、二人に差し出した。

「なるほど、帝都へ書状を届けに行かれるのですか…」

書面に怪しいところはない。村の長の署名も真正なものだ。しかし、なにか怪しい…いや、なにかがおかしい。兵士に調べを受けたら、たとえやましいことがなくても、少し身構えるくらいはする。それなのに、怯えるでもなく、不快な様子でもなく、こちらに媚びるようすも、隠しごとをしているふうでもない。

「いやあ、ずいぶんと大きな馬車ですなあ」

「……」

話しかけてみても、レラは答えない。

(なんなのだろうな、この女は?)

年上の騎士は、レラから眼を離さないように気をつけながら、部下である若い騎士に合図を送り、馬車を外側から調べるよう指示する。しかし、なにも見つからない。

「馬車の中をあらためさせていただけますか?」

わざと語気を強めて言ってみた。だが、レラはそれにも表情を変えない。

「どうぞ」

それだけ言って、二人を馬車に招き入れた。外見の通りに中は驚くほどに広い。だが、置いてあるのは小さなテーブルに椅子が一脚だけ。狭い簡易的なベッドが一台。食器や衣服が置いてある。それと、ボウガンが一挺。怪しい物、正体がわからないものはない。

 ただ、白い犬が一匹、床の上に寝そべっていた。なぜか頭からすっぽりと布の袋を被せられている。

「犬をお連れなんですね?」

若い騎士が聞くと、

「ええ、狼よけにね」

とレラが答えた。

(狼よけだと? たった一匹の犬で?)

不審に思い、年上の騎士が尋ねる

「なぜ、袋など被せているんです?」

「ええ、狼と闘って、顔に大きな傷を負ってしまってね…可哀想なので被せているんです」

「顔に傷…ですか」

「ええ、それは酷い傷でして…ご覧にならない方がよろしいでしょう」

(おかしい。いままであれだけ口数が少なかったのに、なぜ犬のことだけはそんなに詳しく話すんだ?)

年上の騎士は、レラの表情が変わっていないかを確認したが、そんな様子はない。

(口数が増えて、「可哀想」などとも言ったのに無表情のままか…。不自然すぎるな)

年上の騎士は、レラをにらみつけるように言う。

「犬の顔の袋を…、犬の顔を隠している袋を、取ってもらえますかな?」

レラが拒否するかと思ったが、その様子もない。表情も相変わらず変えない。…しかし、「ハァ」と大きなため息が聞こえた。え? …誰だ? レラでも、若い騎士でもない。レラはためらいなく犬に近寄り、顔に被せられた袋を取った。

 二人の騎士は、その犬の顔を見た瞬間、驚愕で顔を歪めた。しかし、それと同時にその犬の瞳と視線が合い、驚愕を心ごと吸い取られ、表情を失う。

「やれやれ、どうもわたしは人をだますのが下手なようだ…」

その犬 ―― シロはそう言い、「ハァ」とまた大きくため息をつく。

「帝国の騎士が有能なのは、喜ばしいことだが…。すまない、今日だけは見逃してくれ…本当にすまない」

シロがそう言うと、二人の騎士は黙って馬車から出て、馬にまたがり、走り去った。

二人は馬車を止めたことも、レラとシロに会ったことも、もうすっかり忘れて、街道を駆けて行った。

 馬車の中のレラは、無表情のままでシロの顔に再び袋を被せた。シロはペタリと体を床に伸ばし、袋の中の顔を前脚の上にのせ、ため息をついた。


 また、数日ののち、レラは薬屋を訪れた。扉を押して店の中に入ると、白いひげの年老いた店主が、「いらっしゃい」とも言わずに、ジロリとレラの顔を見た。そして、不審げな様子でそのままレラの顔をにらみつける。

 レラは店主に近づくと、抑揚のない声で注文をする。

「飲み水と、食べ物になるものを。それから、体の再生を早める薬を」

「体の再生を早める薬…ですか? 傷を治す薬のことでしょうか?」

店主が問い返すと、

「体の再生を早める薬を」

感情なく、そのまま繰り返したレラの顔を、店主は遠慮なくじっと見つめ続ける。レラの表情はまったく動かない。そして、納得がいったというように、店主がにやりと笑う。

「そうか、そうか、なるほど。これは、これは…」

レラにではなく、ひとりごとでそう言ってから、レラに声をかける。

「いま、品物をお出ししますのでな。しばらくお待ちください」

そう言うと、店主は奥へと引っ込んだが、しばらくして手にゴブレットを持って戻ってきた。

「これは気分の晴れる薬です。どうぞお飲みください」

液体の入ったゴブレットをレラに差し出す。レラは、その液体がなんなのか問いただすこともなく黙って受け取り、なんのためらいもなく口にする。ひと口、ふた口…。すると、レラの顔に、瞳に、生気が戻ってくる。そして、叫んだ

「なんだ、これは! わたしはなにをしているんだ?」

店主はその様子を黙って楽しそうに見ている。

「いや、わたしはいったいなにをされたんだ…」

今日までのこと…いや、今の今までのことは、すべて覚えている。しかし、あの、シロと話した夜、最後にあの犬の眼を見たときから、心が動かなくなった。まるで窓の外の景色を眺めているように。

「…蠱術ですな」

店主がにこにこと笑いながら言う。

「蠱術……だと?」

「人間の心を奪い、意のままに操る術。禁忌の魔法、いや、呪い…ですかな。これだけ高度の術をかけたとなると、その方は、よほどの…」

レラはそこまで聞いて、すべてを理解した。顔に戻った生気が怒気に変わり、あふれかえる。

「あの、化け物!!」

憤然と立ち上がり、店の外へ飛び出した。

「おやおや、お客さま。お代はいただきませんとね…」

店主は、楽しくてたまらないというように、その後を追った。


 馬車の中に残っていたシロは、顔に被った布の袋を通して、近づいてくるレラの足音を聞いた。まるで怒りを踏みつけるように近づいてくるその足音を聞いて、すべてを察した。

(…術が解けてしまったか、これは困ったな)

レラは勢いよく馬車に入ってくると、流れるような動作で壁に立て掛けてあった剣を手に取り、そのまま白刃を放った。いつ鞘から抜いたのか、まったく見えない。馬車の中であり、レラはこの中を知り尽くしている。白刃は大きく振られ、シロに逃げ場など無い…はずだったが…

「いきなりか…。少し、言葉くらいは挟んでいただけないかな?」

シロは四本の脚で、大きすぎる馬車の高すぎる天井にさかさまに張り付いていた。そして、さかさまになったその顔から布の袋がはずれ、パサリと床に落ちた。

 そこにあったのは、犬の顔…ではなく、人の顔、人間の顔だった。白い犬の体にヒゲだらけの男の顔がつながっている。

 レラはこの数日間ずっとこれを見てきた。犬の顔が、少しずつ人間の顔に変わっていく様を。しかし、心を封じられていたので、驚くことも、嫌悪することもなかった。今、心の封が解かれ、あらためてそれを眼にして、嫌悪が一気に噴出した。

「この、化け物めが!!」

そうとしか呼べない姿のシロをにらみつけ、レラが再び剣を振ろうとしたそのとき、馬車に入ってきた者がいた。レラを追いかけてきた薬屋の店主。犬の体と人間の顔がつながったシロの姿を見ると、当然、大きく目を見はり、驚愕の表情になる。言葉など、出るはずもない。…だがしかし、わずかな時間を置いて、声を上げた。

「ヴァリン・ルドゥ!!」

と、叫んだあと、慌てて自分の口を手でふさぐ。そして、人間になったシロの顔をじっくりと見つめると、姿勢を正して、

「あなたは、ヴァリン・ルドゥさま? 光の王子、ヴァリン・ルドゥ公ではありませんか?」

と、人の顔の犬に話しかけた。

「ほう…、こんなところに、わたしの顔を知っている者がいるのか…」

シロいや、ヴァリン・ルドゥは天井に張り付いた姿のままで、そう言った。

(光の王子だと…?)

レラは、その様子を怪訝な顔でみつめ、手にした剣を下ろした。


「ヴァリン様にお目にかかれるとはなんたる光栄。本当に今日は素晴しい日です」

と、その老人――薬屋は言った。

「いや、こちらこそ。わたくしの顔と名をお知りいただいているとは、たいへん光栄ですね」

と、犬の体に人間の顔のヴァリンが答える。

 レラは二人が会話する姿を、イヤな顔を隠そうともせずに見ていた。

 馬車での騒ぎのあと、薬屋に、シロではなく、ヴァリン・ルドゥという名前らしい人間の顔をした犬を斬ることを止められた。心を操られた怒りはおさまらないが、あの犬が帝国の王子なのだと熱弁されれば、剣を引かざるをえなかった。そのうえ、どうしてもとせがまれ、薬屋の家に招待までされた。カタチはどうであれ、レラは助けられた身だ。どうも断りにくかった。

 そうして、人の顔をした犬と薬屋が、会話するさまを見せられるハメになった。

「わたしは、幾度か帝都に出かけ、王室の行事も拝見したことがございます。ヴァリン様のご尊顔を忘れるはずはございませんよ」

と、薬屋の老人は嬉しそうに笑いながら言った。

(まったく、この老人の神経はどうなっているんだ)

レラには、まったく理解できない。「ご尊顔」などというが、首から下は犬の身体なんだぞ。そのうえ、顔自体もヒゲが伸び放題なのに、ナゼ顔の見分けがついたんだ? 

…いや、まあ一度、落ち着こう。怒りに任せてあの犬を斬ったところで、なんの益もないのは、確かなことだ。ここは状況をよく理解して、なにが自分の利益になるのかをしっかりと見極めるべきだろう。今のところ、わからないこと、理解できないことが多すぎる…。

「王室は、帝国の民の誇りですからな。あまたの戦場で武勲を誇り、善政で強大な帝国を築かれた先王『厳格公』。剣術、魔法、武術、学問において、その才に比類なしと謳われ、戦場においても、先王以上の勲功を挙げられている、『光の王子』ヴァリンさま、そして…」

薬屋の言葉に、レラが割り込んだ。

「『光の王子』とは、ずいぶんと誇り高いお名前ですね。シロ殿。ああ、いや、ヴァリン殿でしたかね」

皮肉のひとつも言ってやらなければ、気持ちがおさまらなかったのだが、ヴァリンは平然と答える。

「『光の王子』は帝国の民がつけてくれた呼び名なのですよ。民から与えられた名は甘んじて受けなくてはならない――それが、帝国王室の掟なのです。レラ殿」

ヴァリンはにこりと、レラに笑いかけたが、レラは慌てて視線をそらした。まだ、ヴァリンの姿に慣れてはいなかった。

「…しかし、先王『厳格公』が、突然お亡くなりになるとは…いたましい限りですね」

 レラに話をさえぎられ、薬屋は話題を少し変えた。帝国の王が、少し前に死んだことは、帝国の民でないレラも知っていたが、その事情は知らないし、あまり興味もない。だが、息子であるヴァリンは、もちろんそうではないだろう。

「本当に。わたくしも父の死に立ち会うことができなかった…不孝な息子です…しかし、突然のことではないのですよ。父には戦場の古傷があり、何年も前から、体を壊しておりました。それなのに、連日、激務をこなし…心労が重なったのでしょう」

レラは、それを聞くと、口元を隠し、ほんの少し唇を歪める。

(そりゃあね、自慢の息子が長い間ゆくえ知れず、となれば、心労も重なるというものだろう)

そんな皮肉を思い浮かべたが、さすがに口にはしない。しかし、少しだけ、怒りがおさまった気がした。

「間もなく先王の喪が明け、戴冠の儀が行われる。妹君の『憂いの姫さま』が王位を継がれる、というお話ですが…」

薬屋が言った。戴冠の儀のことも、レラは知っていた。というか、戴冠の儀があるから、帝都に向かっているのだが。

「『憂いの姫さま』か…。妹は、フェルナは、今、そのように呼ばれているのか…民も容赦がないな…」

苦い木の実を嚙み砕いたような顔で、ヴァリンが言った。

「…ですが、それは仕方のないことでしょう。兄上のヴァリン様の行方が知れないうちに、お父上までを亡くされたのですから…。学術に優れ、芸術を愛し、明朗で民に愛されていた妹姫さまも、最近は民の前に姿を見せていない、とのことですし」

ヴァリンは変わらず、苦い顔で黙っている。薬屋はあせった様子で、話を続けた。

「しかしながら、こうしてヴァリンさまが健在でおられたのですから…ヴァリンさまがお戻りになれば、妹姫さまも、きっとお元気を取り戻されるでしょう」

「そうだな。わたしは帝都に戻らなければならない。戴冠の儀までに…」

そのやり取りを聞いて、レラは納得した。なるほど、王位を妹に継がれる前に帝都に戻りたいというわけだな。この期におよんで王位が惜しくなった…と。まあ、ずいぶんと勝手な話だが、わからなくはないな。

「…もちろん、ヴァリンさまがおらねば、帝国は治まりますまい。『ヤの国』のこともありますからな」

と、薬屋が言った。ん? 『ヤの国』だと? なんだそれは? レラは率直に尋ねた。疑問はできるだけ残したくない。

「その、ヤの国というのは、なんなのだ?」

「ヤの国は敵、でございますよ。いまだに帝国に逆らい続ける愚か者どもです」

と、薬屋が吐き捨てるように言った。

「いや、しかしな…、わたしは何度かヤの国との戦いに加わったが、小国とは言え、あの国は侮りがたい。戦士たちは武に優れ、士気も高い。帝国には無い武技や魔法も持っている。…簡単にはいかない国だ」

ヴァリンがそう言うと、薬屋は、まるで、はしゃぐように言った。

「なればこそ! ヴァリン様が先頭に立ち、ヤの国を討たねばなりません」

その言葉に、ヴァリンは少し不安そうな顔になり、薬屋に尋ねた。

「しかし、わたしがいた時にヤの国との諍いはおさまったはず…わたしが不在の間に、また、ヤの国との戦いが起きたのか?」

「いえいえ、そんなことはありません。しかし、ヤの国が帝国に恭順していないことに変わりはありません」

薬屋の答えに、ヴァリンは安心した様子で言う。

「そうか、それならば…、もうわたしの出番はないのではないかな?」

そのヴァリンの言葉を聞いて、薬屋は興奮して言う。

「冗談ではありません。ヤの国がいつまでおとなしくしているか知れたものではない。ヴァリン様には一刻も早く帝国にお戻りいただき、ヤの国との戦いに備えていただかねばなりません」

薬屋の言葉に押され、ヴァリンは黙り込んでしまう。

「すぐにでも、早馬を用意いたしましょう。馬を乗り継げば、数日で帝都へ着きますよ」

勢い込んで話す薬屋に、ヴァリンはぽつりと答える。

「それは、できないな…」

それはなぜなのか、と薬屋が訊く前に、レラが言葉をはさんだ。

「店主どの、あなたはずいぶんと魔法に詳しいようですね?」

なぜ今そんなことを訊くのか、と薬屋が戸惑っていると、レラは答えを待たずに続けた。

「あなたは、魔法に詳しい。だからこそ、王子が犬の姿であるのは魔法のせいだとすぐに理解できたし、その顔を見分けることもできた。今の王子の姿に臆することなく接することもできるし、じきに人間に戻る、と言われて納得もできるのでしょう」

薬屋は、レラがなにを言おうとしているのか理解できず、ただ、黙って聞いている。

「だがねぇ、ふつうの人間はそうではない。王子を知っている者ならばなおのこと、今のその姿を見たら卒倒しかねません。これがヴァリンさまなのだ、と言ったところで信じないかもしれないし、じきに人間に戻るから、と言って納得する者など、いないでしょうね」

 ヴァリンは、頼もしそうにレラを見た。レラが自分のために薬屋と話しているわけではないことはわかっていたが、自分の口からは言いにくいことを、薬屋に言ってくれたのがありがたかった。

「なるほど…、ヴァリンさまの姿がもとに戻るまで、時が必要ということですね」

薬屋も納得して、そう言った。

「ならば、姿が戻るまで、この家におられてはいかがでしょう?」

「いや、それでは間に合わない」

今度は、ヴァリンが言った。

「わたしの姿がもとに戻るまでどのくらいかかるのか、ハッキリとはわからない。だが、ここで時を過ごしていては、戴冠の儀には間に合わないだろう。だからこそ、わたしはレラ殿をあやつるような真似までしたのだ…」

そう言うと、ヴァリンはレラの前に四本の脚で立ち、犬の首を曲げて人間の頭を深々と下げた。

「レラ殿、お怒りなのは承知している。あんなマネをしておいて、頼めることではないこともよくわかっている。だが、わたしには他にすべがないんだ…。いくらでも謝罪はする。ことが済んだら、わたしを斬り捨ててもらって構わない。だから…、わたしを帝都に連れて行って欲しい。お願いだ」

(ことが済んだら、斬り捨てて構わない…って、帝国の王になったヤツを斬れるわけないだろう)

レラは、そう思った。しかし、ヴァリンからこのように頼まれることは予想どおりだった。そして、なんと返事するかは、もうすでに決めていた。

「いいだろう。帝都に連れて行ってやるよ、ヴァリン」

「レラ殿、ヴァリンさまに、なにを!」

薬屋が「不敬だと」慌てて口をはさもうとしたが、レラは気に留めない。これは交渉なのだ。主導権をどちらが握るか。相手が王子だろうと、気おくれなどしたら負けだ。

「ヴァリン、わたしは帝国の民ではない。だから、あなたの命令は聞かない。そして、馬車の中はわたしの〝国〟だ。わたしの指示には従ってもらう」

「…わかった」

ヴァリンは静かに答えた。

「それから、もうひとつ条件がある。わたしが帝都でやることに口を出さない。見たこともすべて忘れてもらう。なあに、大したことはしない。誰かに危害を加えたりするつもりはない。だから、少し大目に見て欲しい、ということだ。いいかな?」

 ヴァリンは少し考えた。レラが帝都でなにをするつもりなのか、知るはずもない。そして、この自分の姿を、誰にも見られずに帝都に向かう方法は他に見つからないだろう。だから、「大したことはしない」というレラの言葉を信じるしかない。

「…わかった」

「よろしい。それでは、決まりだな。約束するよ。わたしは、必ずあなたを帝都に連れて行く。だから、報酬もしっかりと頼むよ。ヴァリン」

レラは得意顔でヴァリンを見下ろし、そう言った。この前は、この犬の正体を知らずに油断し、術をかけられた。だが、もう正体は知れた。二度と気を許したりしない。

 だが、ヴァリンはレラの顔を見上げ、にっこりと微笑んだ。

「ああ、わかったよ、レラ。それで決まりだ。わたしを必ず帝都に連れて行ってくれ。よろしく頼むよ」

そう言った。

(こいつ…)

と、レラは思った。やはり、気を許すなど、できるはずがない。


 その日、レラとヴァリンは薬屋に勧められて、家に泊まることになった。レラとしては、ヴァリンと薬屋が談笑するのを見るのがもうイヤだったので、すぐにでも帝都に向かいたかったが、戴冠の儀までという期限はあるものの、早く着き過ぎるわけにもいかない事情がある。出発するにしても、準備は整えてからの方がいい。仕方なく、薬屋の言う事に従った。

 そして――

「なにぶん、年寄りのひとり暮らしですので、とてもヴァリンさまにお召し上がりいただくようなものではございませんが、どうかご容赦ください」

と、薬屋に夕食をふるまわれることになった。

「ありがとう。喜んでいただくよ」

と、ヴァリンは答えた。テーブルの上には無骨に焼かれた肉とパンとスープ。そして、ナイフとフォークとスプーンが置かれているが、もちろん、ヴァリンはそれらを手に取ることはできない。しかし、肉が端から切り取られ、消える。そして、ヴァリンの口がゆっくりと動いた。魔力で肉を切り、口の中へ移動させているのだ。続いて、パンがちぎられて消え、スープも少しずつ減っていった。

 レラは、このヴァリンの食事の作法を何度も見ている。しかし、心に封がされていたので、なにも感じなかった。しかし、その封が解かれ、目の前でそれを眼にしてて、あらためて思った。

(この化け物め)

 なにげなくやっているように見えるが、このような細かい作業に魔法を使うのは膨大な魔力と集中力が必要になる。それを食事中ずっとやっているのだ。ヴァリンの魔法の才が比類ない、というのは大袈裟ではないのだろう。

(やはり、この犬と旅をするとなると、気を抜けないなぁ。いざとなれば、魔法を使う前に、斬り捨てる。そのぐらいは覚悟しないとな…)

レラがそう思いながら、食事をするヴァリンを見ていると、その視線に気づき、こちらに笑いかけてきた。レラは慌てて顔をそらせた。


 翌朝、出立するレラとヴァリンを、薬屋が馬車まで見送りに来た。

「こちらに、体の再生を早める薬が入っています」

薬屋がレラに包みを手渡した。

「ありがとう。ほんとうに助かりました」

礼を言ったのは、レラの傍らにいた袋を被った犬の姿のヴァリン。犬の姿から人の姿に戻るためには、人間の身体を再生しなければならない。そのために、この薬が役に立つのだという。ヴァリンも自身の魔力を身体の再生のために使っているが、一日でも早く人の姿を取り戻すために、やれることはなんでもやらなければならない。

「本当に世話になりました。ことが済みましたら、必ずお礼に伺いますから」

そうヴァリンが言うと、薬屋の老人は満面の笑みで応える。

「きっと、必ず、おいでください。ヴァリンさまにまたお会いできる日を心待ちにしておりますよ」

 それを黙って見ていたレラは、

(片方が犬の姿でなければ、これも感慨深い光景なのだろうがな)

と考えていた。


 二人を乗せた馬車を見送り、一人になって、薬屋の老人はまだ満面の笑みを浮かべていた。

(あの、光の王子ヴァリン・ルドゥ公に出逢えるとは、なんという僥倖なのだろう…。これで、今まで生きてきた甲斐があったというものだな)

実際に、ヴァリンと会えたことは、薬屋の人生で最大の幸運といってよかった。

(これで、わたしの仕事は終わったな…)

薬屋は満足そうに微笑んだ。

(だが、もうここにいるわけにはいかないだろうな…。急いで戻って、店を片づけてしまわなければな)

そうは思ったが、足を速めたりはしなかった。長い間つづけてきた店を閉めるのは、やはり淋しかった。

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