犬の尾公の帰還

はりはら

第1話 勇者の森

 勇者の森を、巨大な馬車が進む。夜の闇の中、そそり立つ木々の間を押し開くように。

 まるで家をそのまま引っ張っているような、この巨大な馬車を曳くのは、二頭の黒い馬。御者台の上には男がひとり。しかし、手綱を握ってはいない。馬たちはこの男にまるで関心がないかのように黙々を脚を進めている。

 御者台の男は胸に抱えた弦楽器を鳴らす。静寂な森に音が響く。

「ねぇ、キミ。この森がなぜ『勇者の森』といわれているか知っているかな?」

男が話しかけているのは、馬車の中にいる人物。だが一切、返事はない。

(やれやれ…、愛想のないことだな)

男はため息をつく。男は吟遊詩人。たった一人の観客とはいえ、拍手くらいは欲しいところだったが、まあ仕方ない。

(さて、初語りだ)

 吟遊詩人は楽器の響きにのって語りはじめる。勇者の森の物語を。    


 その森はかつて「魔王の森」と呼ばれていた。

 森に住む絶大な力をもった魔術師が、森を訪れる者をその魔法の力で追い払っていた。森に迷い込んで命を失ったり、獣に姿を変えられた者もいたという。森の近くの村の住人たちは、この森を恐れ、近づくことすらしなかった。

 だがある日、一人の青年が村の長の前に現れる。

「悪い魔術師にお困りとのこと。私がお力になれますでしょうか?」

そう言った。

 その青年はずいぶんと若く見えた。顔には傷ひとつなく、幼くさえ見える。背は高いが、体にそれほど肉は付いておらず、剣をたずさえてはいるが、闘いをしたことがあるのか、いや、本当に剣を振ったことがあるのかも疑わしい。これまで森の魔術師に退けられた屈強な剣士たちに比ぶべくもない。

 村の長はふうとため息をついた。やれやれ、どこで森の魔術師の話を聞いたのかは知らないが、これは早々にお引き取りいただかないと。

 村の長は、魔術師の恐ろしさ、強さを、力を込めて語った。帝都から魔術師討伐に来た数名の兵士たちが、森の片隅に裸でころがされていたこと、魔術師に会いに森に入って、そのまま姿を消した者のことなどを。青年は真剣な顔でその話を聞いていたが、話が終わると、にっこりと微笑む。そして、

「わかりました。では、行ってまいります」

そう言うと、村人たちが止めるのも聞かずに魔王の森に向かってスタスタと歩いて行った…

 村人たちはみな、青年が命を失わずに帰ってくることを祈るしかなかった。

 青年が森に入ると、少しして光が閃いた。魔術師が使う魔法の紅い光輝。村人たちには見慣れたもの。数回だけ輝き、今日もすぐに終わるはず。

 が、その日はすぐには終わらなかった。いままでに見たことのない銀色の光が紅い光と交わるように閃き、何かが風を切る音と森の木々を揺らす音。金属どうしがぶつかり、響き合うような音が村まで聞こえてきた。そして、あの青年のものと思われる叫び声も。森の高い木々の頂の、さらに上の空に、ぶつかり合う二つの人影を見た、という村人もいた。

 その光と音は陽が沈んでも止むことはなく、夜明け近くになって、やっとパタりと途絶えた。

 朝、村人たちは恐る恐る森に近づいてみた。いつものように、魔術師に森から追い払われることはなかった。

 そして、こと切れた魔術師を見つけた。だが、青年の姿はどこにもない。森の中をすみずみまで探したがどこにもいなかった。魔術師と相討ちになり体ごと消し飛ばされたのか? それとも、あの恐ろしい魔術師を倒したというのに、誇ることもせずに去っていったというのか?

 村の長が口を開いた。

「思えば、あの方は高貴なお姿であった。きっと、天が、悪い魔術師を討つために使わされた勇者さまであったのだ。お役目を終えられ、天に帰られたのだろうよ」

 村人たちはみな、その言葉にうなずいた。

 そして、魔術師の遺体は祟りを恐れて森に丁重に埋葬され、この森は「勇者の森」と呼ばれるようになった…

 今も、そして、これからも。


 物語を歌い終え、吟遊詩人はふうと息をついた。うんうん、いい出来じゃあないかな。勇者の物語があると伝え聞いて、ここまで詳しい話を集めに来たのだが、その甲斐はあったな。で、あとは観客の反応だが…さて、どんなものかな?

 吟遊詩人は、再び、馬車の中にいる人物に声をかける。

「なあ、キミ。歌はどうだったかな? よければ感想を聞きたいのだが…」

と…

 吟遊詩人の座っている御者台の床板、足を置いているほんのすぐそばに、短いボウガンの矢が飛んできて突き立った。

「あ!?」

吟遊詩人が呆然としていると、御者台と馬車の中を仕切るとばりをめくり、人影が飛び出てきた。

「やかましい。誰が歌など歌えと言った?」

飛び出してきたのは女性。左腕には先ほどの矢を放った装着式のボウガンを付けている。とばりの向こうから、吟遊詩人の脚を貫くことなく、あれほど間近に矢を射てたのだ、ボウガンの腕は相当なものなのだろう。右腕には剣を持ち、それを吟遊詩人の鼻先にピタリと突きつけた。

「帝都まで道案内ができる、そう言うからお前を乗せたんだ。歌など必要ない」

刃を突き付けられて、一瞬だけ、蒼白になった吟遊詩人だったが、すぐにその目は剣を突きつけている女性に惹きつけられた。

(美しい…)

肩の辺りできれいに切り揃えられた、みずみずしい黒髪。着こなされてしなやかな体の線に沿った革の鎧、深紅のマント。そして、強い意志を感じさせるその顔立ちと燃えるような眼光。怒鳴り声を吐き出すその口も、怒りをたたえたその瞳も、吟遊詩人には好ましいものにしか見えなかった。その姿をいつまでも見ていたいところだったが、まあ、このまま黙っているわけにもいかない。

「…ああ、すまない、女剣士殿。だが言っただろう、私は歌うのが仕事だと」

女性は「ふん」と言って、剣を引き右肩に乗せた。

「こんな森の中、誰もいない所でお仕事とは熱心なことだな」

そのまま、吟遊詩人に背を向ける。

「とにかく、私も仕事で考えねばならないことがあるのだ。村に着くまで静かにしていてもらおう。それから…わたしのことは女剣士などと呼ぶな。レラだ、そう名乗ったはずだが?」

「ああ、わかったよ、レラ。村に着くまで、この森の静寂に負けないくらい、静まりかえっておくことにするさ」

「…ふん」

レラは言い捨てると、とばりを乱暴にめくり、馬車の奥へ姿を消した。

 吟遊詩人は、突き立てられたボウガンの矢を引き抜き投げ捨てると、ごろりと御者台に寝そべった。腹の上に乗せた楽器をポロリと奏でる。

(やれやれ、女剣士どのは歌物語をお好きではないか…)

楽器から手を放し、両手を組んで枕にする。

(だが、まあ、そんなことはどうでもいいな)

ニヤリと笑う。

 あの女剣士どのは面白い。帝都まで同行して話を聞ければ、物語の二つや三つ作れそうだ。帝都に着いたら、さらに旅の同行を申し出てみようか。そうすれば、もっともっと…

 吟遊詩人は楽しみでしょうがないと一人笑った。

 村での生活も楽しかったが、平穏で少し退屈もした。帝都に向かえば事件のひとつも起こるのではないか。女剣士どのの闘う姿をぜひ見てみたい。華やかの活劇を。

(私のこの望みは、きっと叶うに違いない)

吟遊詩人はまた一人、ニヤリと笑った。

 だが、残念なことに、吟遊詩人の望みが叶うことはなかった ――


 女剣士 レラは馬車に置かれた簡素なイスに座り、小さなテーブルの上で手を組んでいた。

 そうしていると、先ほどの吟遊詩人の歌が頭によみがえってくる。

(美しい歌声だったな…)

帝都では名のある詩人なのだと自分で言っていたが、あながちホラではないのかもしれない。物語も悪くなかった。魔王と勇者の激しい闘い。森の魔王を倒した勇者。少なからず心が弾んだ。

 と、そこまで考えて、顔を両掌でパンパンと叩いた。

 いかん、いかん。歌に聞き入ってしまったせいで、考えがまとまらなかったのだ、もうじきに村に着いてしまうのに。村に着くまでにいろいろウソも仕込んでおかなければならないし、帝都の情報を聞き出すすべも考えなければならない。帝都にたどり着くまでにはまだまだ日があるが、そろそろ警備兵にも出くわすことも考えておかねば…

 レラがあれこれと悩んでいると、突然、馬車がガタリと揺れ、動きが止まった。

「ヒン」と短く、馬がいななく。(警戒しろ)という合図だ。

 用心深く、ゆっくりと御者台に向かった。吟遊詩人がぐったりと倒れていた。

「おい、どうした? 何があった?」

近づいてみると、御者台の上に赤い血が飛び散っている。

「!!」

吟遊詩人の体は赤く血に染まっていた。喉笛の部分の肉がゴッソリなくなっている。鋭い牙で咬みちぎられた跡だ。

(これは…獣か?)

レラがそう考える間もなく、暗い水底から急激に浮かび上がってきたかのように、黒い闇の中から影が飛び出し、眼前に迫ってきた。レラは流れるように身をかわすと、黒い影にむかって剣を薙いだ。

「ぎゃん」

確かな手ごたえ。狼だ。一匹仕留めた。しかし…

 続けて数匹の狼が二頭の馬に襲いかかるのが見えた。馬たちは体を起こし、前脚を振るって応戦する。狼たちを蹴りで弾き飛ばした。だが、狼たちはすぐに起き上がり、木の陰へと身を引いた。

(これは…マズいことになったな)

 狼たちは、最初に吟遊詩人を殺したことで、こちらを簡単に皆殺しにできると思っただろう。しかし、反撃に遭い仲間を一匹失った。相手が思いのほか手ごわいことがわかり、慎重になっている。こちらを取り囲んで木の陰から隙をうかがっているのが手に取るように分かる。うかつには襲ってこないだろうから、このまま進んで、村にたどり着き助けを求める、という手もあるが、村の場所を正確に知る者が殺されてしまったし、取り囲んだ狼たちは、たやすく村に着かせてはくれないだろう。迂闊に動くわけにはいかない。このまま立ち止まって応戦するしかないだろう。やっかいだし、時間がかかりそうだな。

 レラは狼たちへの警戒をゆるめぬまま、目の端で吟遊詩人の亡骸をとらえる。

 狼は賢い生き物だ。私と馬たちを殺すのが難しいことは理解したはず。しかし、狼たちは馬車を取り囲み、退こうとはしていない。それは、最初に倒した獲物、吟遊詩人の死肉を得るためだろう。今日の食事にありつくこと、それは、狼たちが生き抜いていくために簡単にゆずれることではない。

 それならば――

(吟遊詩人の亡骸を狼たちに向けて放り捨てれば、逃げられるかな)

レラはそう考えた。今日の肉にありつけさえすれば、狼たちもそれ以上のムリはしないはず。たとえ量が少々足りなかったとしても。

(…でも、まあなあ、そうもいかないよなぁ)

レラは心の中でため息をつくと、森の中に潜んでいる狼たちに向き合った。


 それなりに時が過ぎた。狼たちは、時折しびれを切らして仕掛けてきたが、そのたびに、レラがボウガンで撃退した。ボウガンの矢は魔法で補充される。スキをつくることはなく、連射もできる。狼を仕留めることはできなかったが、数匹を戦闘不能にできた。残りの狼は五匹。数を減らしはしたが、まだこちらから仕掛けるわけにはいかない。吟遊詩人の遺体のそばを離れれば、狼たちが遺体を奪って逃げ去る恐れがある。狼たちを確実に殲滅できるようになるまで待つしかない。

(腹が減ったなあ…狼たちは、戦いに勝てば今日の食事にありつける。わたしは勝ったところで、なんのトクもない。やってられないよなぁ…)

レラは心の中でグチっていた。

 しかし、夜明けは近い。朝になれば、狼たちは闇にまぎれることができなくなる。こちらから仕掛けて、狼たちを追い払うこともできるだろう。

 狼たちもそれをわかっているのか、二匹が木陰から飛び出した。交差するように体を動かし、こちらとの間合いを詰める。

 レラは矢を放つ、二射。当たらない。だが、当てる気もない。威嚇で十分。二匹は再び木陰に隠れる。

(今さら間合いなど詰めてどうする? さあ残り五匹すべてでかかってこい。そうすれば、わたしは朝飯にありつける。お前らの肉など食わんがな)

 狼五匹くらいなら倒す自信はある。それは過信でもおごりでもない、経験に基づいた確かな判断だ。

 しかし――

 後方にいた狼が一匹、木陰から出て、ゆっくりと前に歩いてくる。他の狼たちよりひと回り大きい。いままでの動きからして、たぶんこいつが狼たちのボスだ。

(よしよし、そのまま駆けてこい、飛びかかってこい)

矢は、あえて射たなかった。近づかせて、確実に剣で仕留める。

 だが、その狼は他の狼たちより前に出ただけで、そこで動きを止めた。木の陰に隠れようともせず、全身をさらして、じっとこちらを見ている。

(うん?! どういうつもりだ? スキをみて、飛びかかってくるつもりなのか? それとも、矢を射ってこいと? わたしの弓は連射できる、矢切れも無いのだがな)

レラはにっと笑った。

(まあ、いい。射てというなら、こちらから射ってやろう。そうすれば、飛びかかってきてくれるのだろう? このまま待っていてもいいのだが、話が早いほうがありがたい)

狼の眉間を狙って矢を放った。矢は狼に向かって吸い込まれるように飛び、狼に突き刺さる――直前、狼の前脚が矢を叩き落とした。

(なに?!)

狼は人間より数段すばやく動ける。しかし、前脚で矢を叩き落とすなど、できるはずがない。

 レラは驚愕し、二射目を放つことを忘れた。

 そのとき、狼の口の端がぐにゃりと歪み、笑った――。

 いや、狼は笑ったりはしない。狼の口の端がさらに歪むと、口が大きく開かれた。口の中に赤く渦巻く炎が現れ、火球となってレラへと放たれた。

(魔法の火球…だと!?)

よける余裕はなかった。とっさに背中のマントをつかみ、体の前に広げる。その赤いマントには魔法を防御する力がある。その力は火球を四散させ、熱をやわらげた。しかし、マントにはじかれた火球はまばゆい光を放ち、レラの視力を一瞬くらませた。

(くそ、狼が魔法を使うとか、聞いたこともない)

 かすれる視界の中、あの狼がこちらに駆けてくるのがわかった。他の狼たちも後を追ってくる。視力が戻らないうちに、一斉に飛びかかられたら…

(だが、やるしかない)

 レラは覚悟を決めて剣を握る。ボス狼の黒い巨体が、数歩の距離まで迫っている。 

 そのとき、突如、銀色の光が眼前を横切り、黒い巨体にぶつかった。視力はまだ戻りきっていないが、黒い狼と白いなにかが、からみ合っているのがわかった。

(白い……犬?)

白い犬が、ふた回りも大きい黒いボス狼に挑んでいる。素早い動きで狼を翻弄していた。他の狼たちは、突然の乱入者に混乱し、ボス狼に加勢すべきなのかも判断できずに、一瞬、立ち止まっていた。

(いま!!)

レラは戻りかけた視力で、立ちつくす狼たちをとらえ、矢を四連射。

「ぎゃん!」

矢は四匹の狼に一本ずつ当たり、狼たちはようやくレラへの敵意を取り戻したが、レラは、狼たちに瞬時に迫り、狼たちが動き出すより早く、剣を一撃。一匹を仕留める。続いて、飛びかかってきた狼に二撃め。レラの右脚に咬みつこうとした狼を蹴り上げ、踏みつけて三撃め。背後から飛びかかってきた狼を、振り向くことなく、低い姿勢でかわした。そして、宙に浮いていた狼の体に下から四撃めを振るい、倒した。

 四匹を倒したレラは、息もつかせず、ボス狼に向けて振り返る。黒い狼は白い犬との闘いを続けている。体をぶつけあい、再び離れ、お互いに相手のスキを見逃すまいと、激しい動きを繰り返していた。その二匹に向かって、レラはボウガンを向けた。

(あの犬に当てないようにしなくてはな)

…などとは、まったく考えなかった。

(助けられたような気はするが、味方とは限らないし…。まあ…犬だしな)

なんのためらいもなく、矢を放つ。だが、白い犬はまるですべてを理解しているかのように、矢の射線を隠す位置に自分の身を移動する。そして次の瞬間、さっと身をかわし、体をぶつけて狼を矢の射線上へと導いた。矢は狼の眼に突き刺さる。声も上げられず、身悶える狼に、レラは疾風のように駆け寄って、剣を振り下ろした――

 視線の端で、白い犬が、跳び退くのが見えた。


 レラは冷えた地面に両脚を伸ばして座り、少しだけ笑った。

(やれやれ、なんとか片付いたな。さて、村に向かわなくては…)

もう少しで夜が明ける。朝陽が射してきた。これなら、なんとか村を見つけられるだろう。とりあえず進んでみようかと立ち上がる。と、

「わん」

犬の声。先ほどの白い犬がじっとこちらを見ている。

「なんだ? 礼が欲しいのか? 干し肉くらいならあるが…」

白い犬はレラの言葉に反応することなく、ただじっとレラの顔を見ている。そして、再び「わん」と吠えると、くるりと背を向けて歩き出した。

「ん?! ついて来いというのか?」

レラがためらっていると、馬車を曳く二頭の馬たちが、当然のことのように白い犬のあとに従い、歩き始めた。

「え?! おい、おい」

仕方なく、レラは馬車を追い、御者台にかけ上がった。


 馬車がしばらく進むと人家が見えてきた。村に着いたのだ。白い犬は村の誰かの飼い犬なのだろう。

(本当に村まで案内してくれたんだ。助かるなぁ)

 そして、村に入ると、思わぬ歓迎が待ち受けていた。村びとの皆が皆、白い犬を目にすると、近づいて声をかけた。

「シロ、また旅の方を案内してきてくれたのか、お前は本当にエライな」

村の人々はそう言うと、犬を頭をなでたり、抱きついたり、結構な騒ぎになった。

(この犬、シロというのか。ずいぶん村びとに好かれているんだな。しかし、犬一匹にこの騒ぎとは平和そうな村だ。これなら話も聞き出しやすいだろう)

 レラは村びとの話の輪の中心になっている女性に、吟遊詩人が殺されたことをそっと告げた。女性は驚き、悲痛な表情を浮かべたが、騒ぎ立てることなく、村の長の家に案内してくれた。


「そうですか…吟遊詩人さまが、狼に…それは、たいへん悲しいことです」

村の長は心から底から悲しそうに言った。

 レラは、村の長の家に招き入れられ、テーブルをはさんで村の長と向きあっている。そして、村の長の隣には、シロと呼ばれたあの犬がペタリと床の上に座っている。

「あの吟遊詩人さまは、帝都ではたいそう高名な方だとか…。村にも知っている者がおりましたので、『勇者の森の話を聞きたい』と村を訪れられたときには、大騒ぎになりまして…。子どもたちに物語を歌ってくださったりして、本当にお優しく、明るい方でしたのに…」

(なるほど。あの吟遊詩人の言ってたことは本当だったんだな。帝都の有名人なら、いろいろ、わたしの役にも立ってもらえただろうに…残念だ)

 レラは、ふるまわれた温かいお茶を口に運んで、自分の知りたいことを聞き出そうと、話題を変えた。

「実は、わたしは帝都に荷物を運んでいるのですが、少し急いでいる。どこか、早道はないでしょうか?」

「それは、とても無理でございましょう。近道となれば、山越え、峠越え。馬車では、とてもとても。素直に街道を進まれるのがよろしいかと」

「ですが…いま、街道は警備の騎兵も多いのでしょう? 出会うたびに止められ、荷物を調べられていては、ますます遅れてしまう」

「確かに。いまは、戴冠の儀の前ですからな…。それでは、こうゆうのはいかがでしょう?」

村の長は、レラに真剣な顔で、言った。

「先ほど申し上げたように、吟遊詩人さまは帝都からいらっしゃった高名なお方。ご遺体はこの村でいったん葬るとして、亡くなったことは帝都に知らせねばなりません。その知らせの書状を帝都にお届けいただきたい。私が署名して、証しとなる手紙も添えますので、それを警備兵にお見せになれば、荷物を調べられることもないでしょう」

レラは右の手のひらを口もとに当て、真剣な顔でその話を聞いていた。

「いかがです? お引き受けいただけますか?」

「なるほど。それはなかなか、責任が重いですね…」

答えたレラの口元は、手のひらの陰で笑っていた。

(やった! これで帝都に入る口実ができた。しかも、街道で荷物を調べられることもないとは。これは運が向いてきたな)

「うむ、いいでしょう。わたしも吟遊詩人さまとはご縁がある。お引き受けいたしましょう」

「それは、ありがたい。では書状は明日の朝までに用意いたしますので」

レラは、少し浮かれた気分なのをごまかしたくて、村長に尋ねた。

「…ところで、その白い犬は、あなたが飼っているのですか?」

レラは椅子から立ち、シロの頭を撫でた。

「いえいえ、この犬はいつの間にか村に住み着いて、いつの間にか名前をつけられ、獣から村びとを救ったり、森で迷っている子供を探し出してきたり、困った村びとをいろいろ助けてくれています。でも、気まぐれなヤツでひとつの場所には落ち着きません。村の皆で飼っているようなものです」

「なるほど、わたしもこの犬には助けられましたから…」

そう言うと、レラは床の上にかがみ、両腕をシロの首にそっと回した。シロはそういったことには慣れっこらしく、まったく動じない。シロの体を抱いて、温かいぬくもりを感じていると、夜明け前に起きたことがバラバラと思い出された。勇者の森のこと、狼たちとの闘いのこと。そして…、吟遊詩人の姿が浮かび、その美しい歌声が頭の中に甦ってきた。

(あの歌…もう一度、聞かせて欲しかったな…)

シロの首に回した腕の力が少しだけ強まった。そして、腕の中にあったその犬の頬に、そっと口づけをした。シロの体がブルリと、一瞬、震えた。


 広いベッドの上で大の字に手脚を伸ばし、レラは至福を味わっていた。締め付ける革鎧は脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替えた。剣もボウガンも今日はもう用済みだ。

 レラが村の長に宿としてあてがわれたこの屋敷は、ふだんは村を訪れた賓客が使うものなのだという。レラが泊まれるようなところではないのだが、村の長に帝都への使いを頼まれたことで、特別に「どうぞ、お泊りください」ということになったのだ。

 ふかふかのベッドの上で、ゴロゴロと転がってみた。馬車の固い寝床で寝るのが常の身には、なによりもありがたい。

(ほんとうに幸運が巡ってきたなぁ。通行証の代わりになる村の長の書状も手に入る。これで堂々と帝都に入れるし、警備兵もごまかせる。あとは、帝都へと進むだけ。ここまでいろいろとあったが、ここから帝都までは、もう大した苦労はないのではないかな?)

 浮かれた気分になって、また、広くてやわらかなベッドの上をゴロゴロと転がる。今夜はもうすることはない。明日のために早く眠ってしまった方がよいのだが、この幸せな気持ちをもっと味わっていたい気もする。

と…

「レラ殿…、レラ殿…」

屋敷の外から声が聞こえてきた。玄関の方だ。

「来客か? 誰だろう?」

よそ者であるレラに、来客の心当たりはない。村の長の使い、といったところだろうか。

 剣を掴んで、玄関に向かった。扉のすぐ外からまた声がする。

「レラ殿、レラ殿」

「誰だ?」

「お話ししたいことがあります。開けてください」

男の声だ。もちろん聞き覚えはない。少し迷ったが扉を開けることにした。誰かに訪れられる覚えもなかったが、襲われる覚えもない。

 扉を開けると、犬が一匹座っていた。月の光を全身に受け、白い毛が銀色に輝いて見えた。シロだ。

 レラは、辺りを見まわしたが他に誰もいない。思わずシロに訊いてしまう。

「おまえだけか? 連れはどこにいるのだ?」

すると、シロが、その犬が、答えた。

「わたくしだけです。レラ殿にお願いがあってまいりました」

その犬は、自身の口で、ハッキリとそう言った。

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