第23話 魚籃坂
この日も厳しい残暑の中、ボスロフのオフィスでは熱いやり取りが交わされていた。ロシア大使館の諜報担当武官の男が訪れ、ある提案を提示し鋭くボスロフに迫った。
「ジョージィを我々に渡して欲しい。これは国家の重要な要請である」
いかに国家の要請といえ、ボスロフがジョージィをこの男の手に渡すことはできない。ボスロフも大きな悩みを抱えることとなった。
☆☆☆
銀座から向島のマンションまで原島の胸中は、あの腹立たしい松野と奈津美に頭を下げて屈辱に耐えながら生きるべきか。ジョージィのよろこぶ顔をとるべきか。
今、ジョージィの待つあの部屋に入ればおれは間違いなく言うだろう。
「安心してジョージイ、新しい仕事に就いたよ」と。
「どうしたの?省三、お酒をのんでるの?」
原島は自分の言葉ではなく、酒に言わせようと明るい時間から営業している浅草の居酒屋でビールを飲んだ。
まわりの席には数人の客がうまそうに飲んでいた。
多分この中で一番苦いビールを飲んでいるのは自分だろう。
アルコールが程よく思考を弱めるのに、数杯のジョッキーを空けた。
マンションに戻るとつとめて明るく、真剣な顔をつくり、
「大丈夫だよ、仕事は決まったよ、お祝いに松野さんと飲んだよ」
原島は悔しさの酒をお祝いの酒と置き換え、ジョージイに報告した。
ジョージィはよろこびの顔を作るも、涙を抑えることができなかった。
よろこびと後悔と騙した罪を詫びる涙を払い。
「省三、わたし、今まで言えなかった。でも、もうこれ以上あなたを苦しめることはできない。聞いて、わたし結婚してたの」
ここまで言うのにどれほど苦しんだであろう、わずか数分で済む言葉に込めた言葉の重さは、なにをもってしても動かすことができない程に、ジョージィの心の底に鎮座していた。
「えーっ!」と声をあげ、原島は絶句した。言葉もなにも息さえも止まってしまう衝撃であった。
数分間の空白の後、「で、相手は誰なの?」と、乾いた喉の奥からようやく声を絞り出した。
「スコットシンプソン、と言う人と、4年前にアメリカで結婚したのよ」
「法律的に正式な結婚なの?」
「そう、正式よ」
「別れることはできないの?」
「ボスロフとイリーナに相談するつもりよ」
☆☆☆
翌日、原島はボスロフとイリーナに会った。
ボスロフとイリーナは、原島のことをジョージイから聞いていたが、今日が初対面である。
ボスロフは原島の目の中になぜか、懐かしい菊池章一郎との交友時代を思い出していた。
あの飯倉片町の小さな店でウオッカを飲みながら、互いに夢を語り合った頃を。
菊池章一郎はその店のジュークBOXでよくザ、スプートニクスの「霧のカレリア」を掛けていた。
そのすぐ近くには今もロシア大使館がある。
この青年もジョージイもロシア大使館の諜報担当者のことをまだ知らない。
このふたりにとって、スコットシンプソン以上に恐ろしい存在があることを、今ここで話すべきか、
「原島君、私の知る限り最高の法律家をそろえるよ、君は私の息子になるのだから」
ボスロフは既にジョージィを気持ちの上では、娘として認識していた。
「よろしくお願いいたします」と、原島は一切をボスロフに託した。
ジョージィはその日はボスロフ邸に過ごすこととして、原島は一人ボスロフ邸をあとにした。魚籃坂をとぼとぼと歩く原島は、わずか二か月間の間に起きたジョージィとの出会いから今日までのできごとを、映画のワンシーンを見る観客のような気持ちで思いかえしていた。
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