第13話 ジントニック
〘話を少し戻し失踪中の紺野の動きについて記すこととする〙
七月初旬、紺野は出張先の釧路であるひとりの外国人と知り合った。
グルッペというバーのカウンターで、一人で飲んでいると大柄な外国人が入ってきた。
その店のカウンターはL字型になっていて、紺野と外国人は互いに斜め前に相手を見るような配置になった。
外国人はなにを注文しようかと考えるような顔で、紺野が飲んでいたジントニックを指さし「それは何ですか?」と尋ね、「同じものを」とバーテンダーに注文した。
紺野とその男が知り合ったきっかけであった。
同じものを飲み、酒の話やつまみは何がいいとかなどと、酒好きどうしのごく普通の話をしていたのだが、その男が船に大変、関心をもっていることが分かった。
男は自分の名をボスロフといい、日本語がとても上手であった。
船に関係のある話なら紺野にとって、何か仕事に役立つ情報を得られるのではないかと思い、ある約束をしてしまった。
それは「豪華クルーズ船の乗組員として、働きたいと思っている人がいたら紹介してほしい、男性はもちろん女性も大歓迎です、船内は女性の仕事がとても多く働きがいのある仕事です」
原島が「それなら東京で探す方がいいのでは?」と、言うと、
ボスロフは「東京ではナンポーさんがやってくれています」と言った。
ナンポーさんとは誰のことか分からなかったが、「明日、厚岸の町で牡蠣料理の名人の調理師に会う予定なので一緒に行きませんか?」と誘われた。
厚岸の漁船にも何か足がかりを欲しいと思っていた紺野は、「行きましょう」と軽く応えた。
厚岸の町で約束の店へ入ると、その席にはボスロフの他に中年の外国人女性と中年の日本人男性と若い美しい女性がいた。
日本人男性が名人調理師なのだと思ったが、料理の話はあまり話すこともなく終わった。
「いい職人さんは口が重い人が多い」そう思い、気にすることはなかった。
中年外国人女性はボスロフの妻で。、名前はイリーナといった。
紺野が最も気になっていた若い美しい女性は、ボスロフのスタッフの一人で、通訳と対役所関係の仕事をしているといい、名前は「菊池愛子」と紹介された。
紺野はこの時すでにボスロフの目的が、クルーズ船の乗組員を求めているのではない、と分かったが、もうそれはどうでも良かった。
菊池愛子の存在が「この人がいる組織ならなにが目的であっても構わない」と思ってしまった
菊池愛子を見た瞬間に、頭の中がクラクラーッとして、まるで初めてタバコを吸った時に感じたあの十代の頃の、懐かしい感覚に似ていた。
会食が終わり五人が外に出ると、黒い高級なリムジンが停まっていて、外国人運転手が後部座席のドアーを開き横に立って待っていた。
その後部座席に座ったのは菊池愛子であった。
紺野もボスロフに促され、菊池愛子と並んで後部座席に座った。
ボスロフとイリーナは「私たちはホテルが近いから」といって歩いて帰り、名人調理師も同じく「私も家が近いから」といって歩いて帰った。
紺野の目には、菊池愛子が最も偉い人であるかのように見えた。
紺野の宿泊する五味ホテルまではわずか十数分の距離であったが、菊池愛子と並んで座っているだけで動悸が激しくなっているのが分かった。
本当はもっと乗っていたかったのだが、リムジンはあっという間に五味ホテルに到着した。
紺野がリムジンを降りると菊池愛子も降り、「紺野さん、今日はお越しくださいまして本当にありがとうございました」といい深々と頭をさげ、紺野に封筒を差し出した。
その優しい美しい声は、紺野の頭から足の先まで静かに小川のように流れていった。
この封筒の中身は何だろう?受け取ってもいいものなのだろうか?。
しかしすでに、紺野は菊池愛子がいうことは何でも聞いてしまう、奴隷になっていた。
封筒はやや分厚くて書類とは違う重さを感じた。
愛子の化粧品の香りが紺野の鼻をスウーッと流れ、愛子の手に一瞬だけ触れた。
ホテルで封筒を取り出して驚いた。中には10ミリほどの厚さの現金と携帯電話が入っていた。今では少なくなったガラケーである。
背中がスウーッと冷たくなるのが、はっきりと分かった。
このガラケーが、ボスロフとの連絡用であるのは明らかであった。
「ボスロフはこれからどんな要求を出してくるのだろう」不安と恐怖に襲われ、歩いても膝の感覚がなくなっていた。
だがこの金を受け取ってしまった以上、もう後には戻れない。
紺野はこれから起きるであろう、ボスロフの要求を受け入れる覚悟を決めた。
翌朝、そのガラケーが鳴った。
「もう早速か」ドキッとした。
不安な気持ちを抱きながら、恐る恐るボタンを押すとなんと相手は橋本であった。
橋本は開口一番「ボスロフとの話はどうだった?」といった。
橋本は紺野がボスロフと会ったのを知っていたのだ、なぜか少し気持ちが軽くなった。
橋本は全ての事情を知っていた、というよりも計画を立案した本人であった。
「今日からしばらくはボスロフの指示で動いてくれ、由紀子ちゃんには俺がよーく話しておく、だからなにも心配は要らない、お前の仕事は稚内港の漁船に機器を売ることだ、お前の腕なら稚内ですぐにいい客を見つけられる頑張れ、詳しいことはホテルに郵送する」と、どこまでも書にこだわった。
橋本はさらに続けて「もっと大事なことがある、お前だけに話すがうちの会社は解散する。倒産だ。発表は八月末だ、それまでに自分のこれからを考えろ、あー、それからな、お前、狩野と親しいな、だけどこれだけは絶対に言わないでくれ」
「由紀子ちゃんにはおれがよーく話しておく」とくりかえした。
紺野は「橋本は俺のために、会社がなくなる前に金になる仕事をくれたのだな」と感謝の気持ちさえ抱いた。
紺野と橋本は会社統合前も同じ会社にいた。
紺野は橋本の仕事っぷりに惚れていた、みかけによらず面倒見もいい、由紀子とも何度も会っている。
紺野は稚内に移動すると早速、漁業協同組合や造船工場や漁業関係者と交渉をはじめた。
いつもの商談と違うのは売ることよりも、協力してくれる船を見つけることなので価格を通常よりも低く提示することができた。
その結果、ある漁業者と話が決まった。
機器の取付工事に二日間停泊しその後テスト航海をする。
そのテスト航海には東京からくる技術者が乗る。
紺野は敢えて拿捕されるように仕組んだ、組織的な犯罪だとすでに知っていた。
日本からロシアへ何かを運ぶのが目的なのだろう。
それが何であるかは分からないが、いずれにしても会社はもう無くなる。
これが最後の仕事だ。
紺野は会社の倒産を、自分が犯罪に加担することに対する罪悪感への言い訳にした。
心配なのは由紀子のことであるが橋本の「由紀子ちゃんには俺がよーく話しておく」の言葉を信じた。
だが紺野にはそれ以上の理由があった、菊池愛子である。
この仕事をやっていれば、これからも菊池愛子と会えるだろうと期待していたのであった。
しかも連絡用のガラケーも持っている、紺野はすでに恋の奴隷であった。
だから由紀子に自分で話すことができず、後々苦しむこととなった。
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