第14話 恩人、トさん

 行方不明として妻や友人達が一所懸命に探している間、紺野は東京にいた。

新大久保の小さなアパートの一室で、隠れるように暮らしていた。

 このアパートの借主は「ト」という名の女性であり、紺野は居候であった。

 紺野がこの女性と知り合いだったわけではない。


 ナンポ―という人の紹介で「一ヶ月間だけここで一緒にいてくれ」と頼まれたのである。

 女性と一緒に住むことを頼まれるというのも妙な話ではあるが、これも橋本の

 計画の一部であった。

 船が無事にロシアに着くまで、身を隠さなければならないからである。

 漁業者に電子機器の話しを持ち込んだのが紺野である以上、捜査の対象から逃れることはできない。


 会社が無事に倒産したあとに戻れば「只、命令に従っただけ」と逃げられる。

 これも、すべて橋本のシナリオに書かれていた。流れるようなあの文字で。

 でも、なぜ女性と一緒に暮らすのか?

 この女性「ト」さんを紹介したのはナンポーさんであった。

 ナンポーさんがいろいろ考えて決めた人事らしい。


 困ったことが一つあった。

 トさんの日本語が紺野にはよく分らない。

 そこで、英単語だけ並べてみると以外にも、これが一番お互いによく理解できた。

隠れている身であるから、外をぶらぶらしている訳にはいかない。

 家の中にこもってしまう。


 だが、トさんは夜、仕事がある。夕方6時頃部屋を出て、12時頃帰る。

トさんは、けっこう几帳面である。部屋の中はよく整理され、一日中なにもすることのない紺野のためにいろいろと尽くしてくれた。

 夜の仕事であるから、朝は遅くまで寝ているのかと思うがそうでもなく、7時頃には朝食の準備ができていた。朝食は二人で食べる。まるで夫婦のようである。

朝食の後トさんは掃除、洗濯とよく働く。

 紺野にとっては、長い一日が始まる。


 そんな暇を持て余す日を一週間ほど続けたある日の昼ごろ、ドアーが少し開きトさんが紺野を呼ぶような目で見ながらあごを少し引いた。

 誘いのしぐさであった。

 退屈で仕方がなかった紺野は、ごく当然と言わんばかりの態度でドアーを開き、中に入った。

 そこにはすでに床の用意がしてあり、足を横に延ばし、右手を床に付けた半身姿のトさんが座っていた。

 紺野は躊躇することなくトさんの横に座ると、これもごく当然のようにトさんの唇に自分の唇を押しつけた。


 その後、半ば強引に荒々しくトさんの体から洋服をはぎ取っていった。

 全ての着衣をはぎ取られたトさんの体は、意外といえば失礼だが胸こそ大きくないものの細い顎に細い首、そして滑らかな肌と色の白さが紺野を興奮させた。

 紺野はトさんを欲求を満たすための便利な存在として、ただセックスの道具のように扱った。

 愛のない本能だけの行為であった。


 その行為の最中にも脳裏にあったのは、半分は菊池愛子であった。

 由紀子のことを考えなかったのではない、でも半分である

 由紀子には只々「許してくれ」というお願いであり、愛というには値しないものであった。

 トさんに対しても、何という無礼なことであろうか。

 札幌で三人でソープへ行った時でも、女性にはもっと敬意を持って接していた。

 ただ単に良く思われたいとか「また、きて下さい」と言われたいだけであったのも事実ではあるが、いまの自分にはそのいたわりの欠片もない。


 愛のない動物のようなセックスが終わった後には、自分が「情けない人間に堕ちてしまった」と思うこともあったが翌日も、またその翌日も同じく愛のない行為をくりかえした。

 結局、この暮らしが一か月続いた。

 札幌へ帰る決心をしたのはやはり自分の意志ではなく、橋本からの電話であった。


「紺野帰ってこい、仕事は全部終わった、もう隠れる必要はない、それに会社の解散発表が近い、お前も帰って準備をした方がいい」


 紺野はようやく帰れるよろこびと同時に、由紀子と狩野、原島にどんな顔をして会えばいいんだろうと、不安な気持ち抱かずにはいられなかった。

 この不安な気持ちはトさんと暮らし始めてからずーっと持っていた。


 理由のひとつはこの新大久保が本社のある新宿に近いことであった。

 わずか一駅の距離に自分を心配している友人がいるのに、自己の都合のために無視を決め込んでいる自分に、罪の深さを感じざるを得なかった。


 別れの日、トさんに何かを贈ろうと思い、一緒に池袋のデパートに行った。

 あえて新宿とは逆の方向へ向かった。原島に対するする後ろめたさが表れていた。

トさんは伝えてあった予算の半分にも満たない額の洋服を選び「アリガト」といった。

 そしてその声は涙声になり「サヨナラ」といい、寂しそうな中に笑顔をみせた。

これまでにも誰かを匿い逃がしてきたのだろう、俺はその中で最も傲慢な男だったかも知れない。

 高圧的ともいえる態度で接していた自分に、なんの見返りも要求せず、匿ってくれた恩人、トさん、ありがとう、感謝の気持ちでいっぱいになった。


 紺野はこの時、約十年前のクリスマスに札幌のデパートで由紀子がやはり同じように廉いマフラーを選んだことを思い出し、涙が止まらなくなった。

 大勢の人がいるデパートの中で本当に泣いた。

 愛子への幻想を完全に断ち切った瞬間であった。


 ひとりの女性によって間違いを犯し、ひとりの女性によって間違いから救われた。

トさん、ありがとう、ほんとうにありがとう。

 紺野が次にすべきことは自分のために努力をしてくれた、狩野と原島に本当のこと打ち明け、お詫びをすることだと思い原島の電話番号を押した。


 原島は「えーっほんとうにお前か」と驚きの声をあげた。

 「今、どこにいる?」

 「池袋にいる、今からお前のところに行く」


 「由紀子ちゃんには?」

 「由紀子には明日帰るって言ってある」


 「俺は後でいい、今からすぐに羽田に行け、今日中に由紀子ちゃんのところへ帰れ!」

 紺野は約一か月ぶりに由紀子が待つ自宅に戻った。





















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