第5話 代々木上原
原島の仕事は、一層忙しくなっていた。
松野から命令された例の件が、本格的に稼働しだしたのである。
原島は化学薬品製造工場や、電子機器部品工場など、いくつもの業者との打ち合わせや、社内の雑務に追われ、紺野のことに時間を割くのは難しくなっていた。
そんなとき、ジョージィから電話があった。
「久しぶりに時間ができたので今日、逢えないですか?」電話の向こうのジョージィの声は弾んでいるようだった。
「もちろん行きます」の声に、すこし離れたところに席がある奈津美が振り返ったほどだった。
さて、どこの店にしよう、原島はそれほど沢山の店を知っている訳ではない。
考えていると、ジョージィの方から「私の知っている店でいいかしら」と提案があった。
ジョージィが案内した店は、京都風の庶民的な感じの小料理屋であった。
十人ほど座れるカウンターと、四人掛けのテーブルが五席ある小さな店であるが、店内の装飾も控えめで品の良さを感じさせた。
「こんな処でいい?」ジョージィは遠慮するように言った。
原島に無理をさせまいと、敢えてここを選んだのだと理解できた。
高級なフランス料理店など、原島は一度も行ったことがない。
「もちろん、この雰囲気は大好きだよ」本心だった。
ジョージィの気遣いがうれしかった。
はじめ、ジョージィの顔を正面からみるような配置に座っが、ジョージィは自分から移動して原島の横に並んで座った。ジョージィの声が原島の耳元に聞こえ出した。ジョージィは飲み物は「日本酒がいいわ」といった。
原島も日本酒は大好きだ、しかしうんちくを語るような知識はなにも持っていない、全てお任せにした。
料理も冷酒にあう上品な味だった。
「ジョージィとは趣味もあう」幸せに満ち溢れる時間であった。
やがて周りの席もいっぱいになっていた。
隣の席ではいつの間にか、外国人の男女が日本酒を美味しそうに飲んでいた。
ジョージィと原島のふたりは少しずつ、心がほぐれていくのを感じていた。
やがて「私ね、時々省三が分からない言葉で話すかも知れないわ、でもその時は黙ってうなずいていて。それはね、私がまだ省三に話しにくいことがある時なの、分かって」と、言った。
原島にはその気持ちがよく理解できた。
その後は何度か、外国語で話すジョージィに「うんうん」とうなずいていた。
言葉の意味はさっぱり分からない、だから自分にいいように勝手に解釈した。
「でも、これは何語なんだろう?」
ジョージィの声はその意味は分からなくても、まるで母親が赤ちゃんに語る言葉のように 、優しく原島の心の中に溶け込んでいくように感じた。
タクシーは、代々木上原の邸宅の前に止まった。
立派な建物だった。
ここがジョージィの家か、確かジョージィは『今は母親のマリアと一緒に住んでいる』といってたな、この家に女ふたりはもったいないと原島は思ったが、そんなことより「お休み」という前にすべきことがあるだろうと、ジョージィの肩に右手をかけ、自分の方へ引き寄せた。
そして柔らかいジョージィの肌と髪の感触を感じつつ、目を閉じたジョージィの唇に自分の唇を重ねた。
ジョージィは素直に原島に身を委ねている。
ジョージィの胸の鼓動が原島の体に伝わってきて、自分の振動と共振するように感じた。
原島が一層強く、自分の方へジョージィを引くとジョージィは「今度ね」といい原島の体を軽く自分から離した。
夏の薄い洋服の下のジョージィの胸の感触を、このまま感じていたい衝動に駆られながらも、原島はジョーィに聞いた。
「さっきの言葉で〈お休み〉はなんていうの?」
「headooboo」ジョージィは小さな声でいったが聞き取れなかった。
難しい発音であった。しかしジョージィの唇の動きだけで、優しいささやきであることが分かった。
原島は声は出さずに唇の動きだけを真似てみせた「・・・・・」
ジョージィは別の言葉で話した。
声は小さいが日本語であった「aishiteru syouzou」
原島は興奮を必死に抑えつつ、運転手に「向島まで」といった。
この時ばかりは狩野の気持ちが、ほんの少しだけ理解できた。
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