【R-15】(踏み越える)

Route C - どこよりも、暖かい場所

1. どうしても、それが必要だったから(千秋視点)

 死神からなぎの不幸体質の真実を知らされ、それまでの曖昧な関係に終止符を打つ覚悟を決めたあの日から一週間。


 凪は相変わらず突然の雨に降り込められたり、洗ったばかりのスニーカーを泥だらけにしたり、晴れているのにトラックに水溜りから泥水をかけられたりして、千秋の家にたどり着くなりシャワーを浴びる羽目になる日が片手では足りない——つまりほぼ毎日だった。

 普通に考えれば散々な日々だが、本人に言わせれば、「出刃包丁やサバイバルナイフが飛んでくるより遥かにまし」で、おおよそ平穏な日常が戻ってきたとでも思っているらしい。


 そんなわけで今日も敷居をまたぐなり、もう慣れた様子で風呂へと向かった凪が上がってきたのを見て、千秋は思わず顔を顰めた。凪の左の頬は、はっきりとそれとわかるくらい赤く腫れ上がっていた。

「お前、その顔……!?」

「あ、大したことないですよ。ちょっと変な人たちが喧嘩してるところに行き合っちゃって」


 そっと通り過ぎようとしたのだが、殴られてよろけた方の肘がたまたま横を歩いていた凪の頬にクリーンヒットしたらしい。凪は状況に慣れている。危機の察知も回避能力も鍛えられて高いはずなのに、それでもなおこんな怪我を負ってしまう。

 普通なら、それでも運が悪かったと笑い話で済むのかもしれないが、ざわりと心臓が騒ぐ。


「……千秋さん?」

「見せてみろ」

「え、別に平気ですって」

「いいから見せろ」


 自分でも思った以上に険しい声が出て、凪が驚いたように肩を震わせる。怯えさせたいわけではなかったのに、と内心で舌打ちしながら手を伸ばして凪の頭を撫でた。風呂上がりのまだ濡れた髪は、艶やかで柔らかい。

「口の中、切れたりしてないか?」

 今度はもう少し穏やかな声が出た。凪はあからさまにホッとした様子で、顎に触れた彼の手に促されるままに口を開いた。

「大丈夫です。ほら」

 凪の言う通り、表面に見えるほど、怪我はひどくなかったらしく口の中は綺麗なものだった。柔らかそうな舌が誘うようにのぞいて、衝動のままに口づける。

 万が一にも痛みを与えないように、軽く啄むように何度も繰り返しているうちに、凪が身じろぎして、閉じていた口が薄く誘うように開かれた。そのまま抱き寄せて、深いキスを繰り返す。


 肩を縋るように掴まれて目を開けると、見上げてくる顔は、困惑の色を浮かべていて、なぜこんなことに、と考えているのがありありと伝わってきた。千秋自身も、まあまあ同じ思いなのだからなおさらだ。


 適度な距離を保って、適当に数日に一度会って飯を食わせてやったり、どこかにでかけたり。多分そういう関係でも、凪を守るためには足りるはずなのだ。それでも、それでは足りないと思う自分がいた。

 それは独占欲だったり、所有欲だったり、もっと直裁な触れたい、という欲だったり。だが、それ以上に、こうして凪が傷を負うたびに、何度も失いかけたことへの不安を思い出してしまうことが一番大きいのだろう。凪は、そんなことには全く気づいていないけれど。


 行き倒れていた凪を初めて拾った時は、何だか苦労していそうな若者が哀れになって世話を焼いてやっただけのつもりだった。とはいえ、口移しに経口補水液を飲ませたのはまあまあやりすぎだった自覚はあるし、もし凪の性別が男でなかったら、もっと早くにそういう関係になっていただろうとも思う。


「凪」


 名前を呼べば、肩が震える。戸惑うくせに、逃げようとはしない。男同士で、歳も一回り以上離れていて。出会ってからこれまで、互いのことなんてほとんど詳細は知らないままで、そのくせ、たぶん誰よりも凪の本音に近く、懐深く入れてしまったのは自分だという自覚がある——あの死神の男を除けば、だが。


 あの男が何者なのかは、知らない。けれど、凪に対して執着と、それ以上の感情を持っているように見えた。凪自身も悪態をつきながらも、その心の距離は自分たちが思っているよりもずっと近いようだった。

 だから、首に巻かれた黒い輪に感じたのは、目が眩むほどの——あれはきっと嫉妬だ。自分のものに手を出されたような、不快感。


「千秋……さん?」


 その顔に、微かに浮かぶ怯えに、これ以上踏み込まないでいてやる方がいいのだろうとわかってはいたけれど。


 手を伸ばして傷を負った頬に触れる。揺れる眼差しは、それでも千秋を拒まない。ゆっくりと顔を近づけて、それから貪るようにもう一度深く口づけて舌を絡めれば、戸惑いながらも肩を掴む手に力がこもる。拒絶してくれれば、諦めもつくのに。

 だが、凪は快楽にひどく弱く、流されがちだ。男に抱かれるなんて、想定外にもほどがあるだろうに。眉根を寄せた顔が、それでも嫌悪や忌避する色を浮かべていなかったから、もう彼も覚悟を決める。


 何度もキスを繰り返しながら、凪の腕を引く。一度も、凪に踏み入れさせたことのない、自室の奥のベッドまで。


 シャツの隙間から手を滑り込ませれば、びくりとさらに怯えたように体が震えたが、離した唇から漏れてきたのは、凪らしい馬鹿馬鹿しい台詞だった。

「千秋さん、一人でこんないいベッドで寝てたの⁉︎」

 クイーンサイズのまあまあいいスプリングのベッドは、確かに凪がいつも寝ている布団とは比べ物にならないだろう。

「もっと早く一緒に寝たかったか?」

 冗談めかして言うつもりが、思った以上に掠れた声になって、自分でも呆れる。凪は一瞬呆気に取られたようにぽかんと口を開けて、それからすぐに真っ赤になって慌て始めた。

「いや、ちが……そういう意味じゃないし! っていうか、ねえ千秋さん本当に——」


 言いかけたその口をもう一度塞いでやる。眼鏡を外して、繰り返し深く口づけながら、服を剥ぐ。どこからどう見てもその体は男で、けれど潤んで戸惑う眼差しを見れば、がっつり下半身が反応してしまって、気づいた凪が腰を引いた。


「あ、あの……千秋さん」

「何だ?」

「……千秋さん、もしかして、他にも男としたことあんの?」

「ない。男に欲情したのもお前が初めてだ」

「よ、よく……」

 あえて率直に言ってやれば、あわあわと顔を赤らめて、ついには両手で顔を覆う。


 ——乙女か。まあ気持ちはわからなくはなかったけれど。


 頭を撫でながら、額に、髪に、それこそ優しく初めての女の子にするように唇を這わせると、さらに頬が赤くなりながらも指の間からこちらを見上げてくる。

「……そばにいるだけじゃ、だめですかね?」

「どうしても無理だって言うなら、無理強いはしないがな」

「大体、千秋さん無理じゃないの?」

「無理じゃないから反応してんだろ?」

 自分でもまあまあ信じられないことだが、腰のあたりを押し付けてそう言うと、うわああとまた乙女みたいに顔を隠す。その手を取って、左手の指を絡める。

「僕、男なんですけど」

「しょうがねえだろ、可愛いと思っちまったんだから」

 それこそ死ぬほど恥ずかしい台詞だったが、必要ならば仕方がないと、ここまできたら思い切り優しく甘く囁いてやる。どうせ相手は凪だ。ロマンスのかけらもない相手に、押し切るにはこちらが譲歩するしかない。


 本当はそばにいるだけでも構わなかった。優しくして、甘やかして。それでも——。


「どうしても、嫌か?」

 静かに尋ねれば、凪は観念したようにじっとして、こちらを上目遣いに見上げてくる。

「……痛いのは、嫌、です……」

 そんな仕草にぐらつく理性に呆れながらも、ゆっくりと絡めていた手をほどいて、頬から首筋に、それから鎖骨のあたりへと手を滑らせる。その度に、びくびくと震える体がまるで初めて男を迎える処女おとめのようで、何やら罪悪感が湧いてくるが、額に唇で触れながら、優しく囁いてやる。

「しない」

「何でそんなに自信ありげ……⁉︎」

「気持ちよくしてやるから」

 頬に触れながらそう囁けば、素直にびくりと体が震える。おずおずとこちらを見上げてくる顔は、探るようで、ついでに言えばもうあと一押しに見えた。

「凪」

「な、何です……?」

「好きだ——抱かせろ」

「何それ率直すぎでしょ!」

「もっと甘い台詞がいいのか? なら——」

「わーっ、嘘です絶対耐えられない無理だからいいです!」

「いいのか?」

「え?」

「優しくしてやるから」

 じっと見つめると、しばらく瞬きを繰り返して、目を泳がせながらもついにはこくりと子供みたいに小さく頷いた。恥じらう目元がやたら可愛く見えて、自分でも重症だな、と思った。


 それから、初めて一夜を共にして。


「……信じない! 千秋さんの言うことなんてもう絶対信じないからな!」

「何だよ人聞きの悪い」

「や、優しくするって言ったくせに!」

「痛くなかったろ?」

 ニヤニヤ笑って言えば、そういうことじゃない、と腕の中で叫ぶ。それでも逃げ出さないのは、ご満足いただけた証拠だろうか。

「ちげーよ、動けないんだよ‼︎ この絶倫……!」

「お褒めにあずかり光栄だな」

 この銀縁眼鏡無精髭! と罵倒なんだか何だかよくわからない叫びを上げているが、構わずに抱きしめて少し目を閉じる。さすがに疲れたのは彼も同じだったので。その温もりに絆されたように、すぐに凪が静かになる。見下ろせば、あっさりと寝息を立てている、穏やかな、それこそ子供のように無防備な寝顔があった。


 その寝顔を見ながら、ふと思う。

 一線を越えたのは、あかしが欲しかったからだ。愛なんていう不確かなものが、凪を守るために必要だと告げられたあの時からずっと。


 ただの知人や保護者の関係で済ませるには、不安が大きかったのだと、いつかちゃんと言えるだろうか。体を繋ぐことも、言葉も本当は何でもよかった。

 ただ凪を奪い去ろうとする運命だとか世界のことわりだとか。そんなものに対して、自分が凪を守るのだと宣言して、立ち向かえるのなら。


 それくらい、お前のことが大切で、失いたくないのだと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る