海の魔女なのに、陸の王子に溺愛されてしまった

つきかげみちる

とある海の魔女の話


「よかろう。今からそなたを人間にしてやろう」


 暗い海の底で、ヴェドーラは低い声でそう言った。彼女は海底王国の人魚で、外見は若く見えるが実年齢は三百歳程になる。妖しげな長い黒髪と、艶やかな漆黒の鱗を持つ海の魔女だ。

 そしてそんな魔女に臆さず対峙し、瞳を輝かせている一人の若い人魚がいた。彼女は海底王国の第七王女リリアン。彼女は若くて愛らしいが、この物語の主人公ではない。

 リリアンはヴェドーラの言葉を聞いて満面の笑みを浮かべていた。


「やったぁ!! これで人間になれるのね! ふふっ! ありがとう、ヴェドーラおばさん!」

「お、おば……」

 

 威厳ある海の魔女が「おばさん」呼ばわりされたことに軽くショックを受けながら、ヴェドーラは魔法の書を開いた。


 リリアンは今、恋をしている。それも人間界の王子に。事の発端は一週間前に遡る。彼女はある日、海で溺れていた人間の男を助けた。彼は陸の王国の王子で、リリアンは彼に一目惚れしてしまったのだ。

 恋をしたリリアンは頭の中は、サンゴ礁のごとく華やいでいた。彼女は周囲の反対を押し切り、海の魔女を訪ねた。そして『人間になって王子と結ばれたい!』という欲望を魔女に叶えてもらおうとしているのである。

 そんなリリアンを冷めた瞳で見ているヴェドーラ。彼女は内心うんざりしていた。


(はあ……これで七人目だ。どうしてこの国の姫様達は人間の男を簡単に好きになってしまうのだ……)


 ヴェドーラは溜息を吐いた。実はこの案件はこれで七回目。この国の数多いる姫達を人間にすることはこれが初めてではなかったのだ。

 この季節になると、なぜか人間の王子を助けた姫がヴェドーラの元にやってくる。だからもうこの手の話は飽き飽きしていた。

 しかし相手は王女だ。断るとその後が面倒なので、ヴェドーラは仕方なく彼女の望みを叶えることにした。


「その人間の王子のことだが……名前は分かっているのか?」

「ええ、もちろん! 家臣にユーリ様と呼ばれているのを聞いたわ!」

「……」


 “ユーリ”という聞き覚えのありすぎる名前にせいで、軽く頭痛がした。


(ああ……ユーリって……またあの坊やか……)


 人間界のユーリ王子。ヴェドーラは彼をよく知っていた。出会いはもう十五年前になる。

 当時七歳だったユーリは、嵐の夜にヴェドーラの住む海の底に落ちてきた。ヴェドーラは住処を人間の死体で穢されたくないと思い、渋々彼を沖まで運んで助けた。そしてそれから暫く彼のことは忘れていた。

 しかし数年後、彼はまた海に落ちてきたのだ。そしてその次の年からは何故か自ら海に身を投げるようになったのである。そして毎回この国の律儀な姫達に助けられているのであった。


(あの死にたがりめ……こっちの迷惑も少しは考えてくれ)


 ヴェドーラは身勝手な王子を恨めしく思いながら、魔法の契約書を取り出した。


「よいか? 魔法で陸に上がれば、そなたは人間と会話することができなくなる。そして……」

「分かってるわよ。三日以内に王子とキスをしないと泡になっちゃうんでしょ?」

「……そうだ。それでも本当によいのか?」


 最終確認として凄みをきかせてそう言ったが、リリアンは相変わらず平然としている。


(はあ……ここで踏みとどまってくれればいいのに)


「あはは、全然オッケー! 去年人間になったお姉様だって今はピンピンしてるし!」

「うっ……」


 痛いところを突かれてしまった。実は『泡になる』というのはただの脅し文句で、本当は『恋心が泡のように消えてなくなっていく』ということなのである。だから三日以内にキスができなくても、王子への恋心が消えて人魚に戻るだけなのだ。リリアンはさすがに七人目なのでそれを知っていたようだ。


「でも私って超可愛いから、キスなんて余裕だよ! ふふっ」

 

 頭の中がサンゴ礁なリリアンは、屈託のない笑顔でそう言い放った。


「はあ……おめでたい頭で羨ましいよ。じゃあ魔法をかけるぞ。目を瞑れ」


 ヴェドーラはそう言って人間に変化する呪文を唱えた。するとリリアンの下半身は魚体から二本の足に変わった。


「うわー! すっごーい! ありがと……っぐっへぇ!! ゴボゴボッ……」


 人魚から人間になったリリアンは、突然肺呼吸になったせいで咽せた。そして手足をばたつかせて地上へと上がっていった。


「はぁ……疲れた。と言っても本当はここからが大変なんだがな」


 静まり返った海の底で、ヴェドーラは小さく呟いた。

 そう、彼女の仕事はここで終わりではない。



「リリアンはもう陸へ行ったのか?」

「ああ、さっき行ったところだ」


 彼女の元を訪ねてきたのは、鍛え上げられた肉体が眩しい顎髭の男。彼は海底王国の国王であるソームだ。彼はヴェドーラとは幼馴染で、腐れ縁の仲なのだ。


「ヴェドーラ、今回も頼んだぞ。可愛い娘を人間なんぞにやるわけにはいかん」


 ソームは娘の行動を先回りしていた。ヴェドーラは最初から『リリアンと王子が結ばれないように妨害してほしい』と依頼を受けていたのだ。


「例年通り謝礼はたんまりするぞ。今回もあの人間との仲をぶち壊してくれ」

「ああ、任せておけ」

(……と言っても、かなり面倒な仕事だ。だがソームは国王だし、誰よりも金払いがいいからやるしかないな)


 ヴェドーラは結局いつもそういう結論に至る。そして彼女は再び呪文を唱えた。今度は自分が人間になる番である。


 ヴェドーラの作戦はこうだ。陸に上がり、まず王子に「先日貴方をお助けしたのは私です」と申し出る。すると王子はヴェドーラに感謝し、義理堅い彼は結婚を申し込む。リリアンはそれを聞いてショックを受けて恋が冷め、人魚に戻る。こういう流れだ。そして最後は、魔法で王子の記憶からヴェドーラと過ごした時間を消す。これで仕事完了だ。


(もうこの仕事にも慣れたな)


 人間の姿に変わったヴェドーラは淡々とそう思いながら、地上へと上がっていった。



 一方こちらは陸の宮殿。そこにはアンニュイな表情で窓の外を眺める金髪の美青年がいた。彼こそがこの国の王子であるユーリだ。

 彼には忘れられない人がいた。それは十五年前の嵐の夜、海で命を救ってくれた黒い鱗の人魚だ。


(今度こそ“黒い鱗の人魚 あの人 ”の手がかりが見つかるだろうか……)


 城の外の海を眺め、彼は想いを馳せていた。そんな彼の元に、家臣の一人が息を切らせてやって来た。


「ユーリ様! 大変です!」

「どうした?」

浜辺に美女が流れ着きました!」

「そうか……昨日流れ着いた娘の知り合いかもしれない。助けてあげてくれ」


 美女が浜辺に流れ着くと言う非常事態にも、ユーリは冷静だった。なぜならこれは毎年恒例の出来事だからである。

 ユーリは、ある年から毎年海に身を投げるようになった。そんな奇行をする理由はただ一つ。黒い鱗の人魚に再会するためである。

 だが人生はそんなに甘くない。彼はいつも別の人魚に助けられてしまうのだ。そして決まってその人魚は人間になって再び現れる。これがあの“黒い鱗の人魚”だったらいいのに……と内心思いながらも、彼は義理堅い人間なので毎年助けてもらったお礼として浜辺に流れ着いた娘たちをもてなした。

 しかし、毎回その後の記憶が何故か曖昧なのである。特に別れ際の記憶がない。そして何故か益々、例の“黒い鱗の人魚”への気持ちが大きくなっているのだった。


 昨日浜辺に打ち上げられた美しい娘が、あの“黒い鱗の人魚”を知っているかもしれない。彼はそんな期待を胸に、その娘を保護していた。

 そして今日、また浜辺に別の娘が流れ着いた。おそらく人魚の仲間だろうとユーリは思っていた。人魚であれば、その人物も何かを知っているかもしれない。更なる手がかりを探すべく、彼は浜辺に行こうと足を進めた。しかしその途中、家臣に呼び止められた。


「ユーリ様、お待ちください。昨日流れ着いた娘がユーリ様に何か言いたげです」

「言葉を話せるようになったのか?」

「いえ、声は出ない様子です。ですがジェスチャーを駆使して何かを伝えようとしています」

「何……?」


 家臣の一言によって、ユーリはその娘と再び対面した。娘は若くて美しく、言葉が話せないがとても愛嬌があった。


「……! ……!」


 娘は口を前に尖らせて執着に唇を指さした。そして足をばたつかせて一生懸命に何かをアピールしている。


「タコが、踊る? タコを踏みつける……? いや違うか」


 ユーリは彼女の必死のジェスチャーを読み解こうとした。しかし、全く解読できない。


「すまない。必死に何かを伝えたいことは分かるのだけど……」

「……! ……!」

「今、浜辺にまた誰かが漂着したらしいんだ。僕が長年探している想い人のことを知っているかもしれない……ちょっと行ってくるよ」

 

 ユーリは申し訳なさげにそう言い残し、娘を置いて砂浜へと向かってしまった。


「ちょ、なによソレ〜〜〜!!!」


 ユーリが去った後、言葉を話せなかったはずの娘が不満げに声を上げた。



 ところ変わってここは砂浜。ヴェドーラはソームからの依頼によって、陸に上がっていた。

 彼女は自身の腰をさすり、慣れない足でゆっくりと立ち上がった。


「はあ……身体が限界だ。本気でそろそろ引退したい」


 ヴェドーラはつい本音を口に出してしまった。


(今回はリリアンの恋路を邪魔するんだったな。あの子は積極的だから手強いかもしれない)


 そう思いながら彼女は周囲を見渡した。すると少し離れた所から城の護衛らしき人影が見えた。

 

「お嬢さん! 大丈夫ですか!」


 護衛の者に声をかけられ、ヴェドーラは即座に儚げな表情を作った。そして普段よりも、か細く高い声を出した。


「め、目眩がする……ああ……ふらり」

「おっ、お嬢さーーん! 大変だ! 待っててください、人を呼んできますから!」


 駆け寄ってきた護衛の者はそう言って周囲の者たちを集めだした。

 彼女はひとまず安心すると、疲れのせいでそのまま眠ってしまった。



 目が覚めると華やかな装飾がされた天井が目に入った。ヴェドーラはあの後、城に運ばれたのだった。


「目が覚めましたか」

「……あ、あなたは」


 ヴェドーラは咄嗟に目を逸らした。目の前にいたのは、目鼻立ちが整った美しいブロンドの青年……紛れもなくユーリだった。彼は心配そうに彼女を見つめている。


「僕はこの国の王子、ユーリです」

(……知ってるさ。もう七回目だぞ)

「海岸で貴女が倒れていたのでここに運ばせました。具合はどうですか?」

「……大丈夫」

「そうですか……よかった」


 ユーリはほっとした様子で微笑んだ。ヴェドーラは彼の突然の笑顔に思わずぎょっとしてしまった。


(ずっと子供だと思っていたが、こうやってすぐ目の前にいるのを見ると随分と雰囲気が変わった)


 ヴェドーラは会うごとに大人っぽくなっていくユーリに少し動揺していた。


(なんだか調子が狂う。ユーリの顔を見たら、今までのことも色々と思い出してしまったし……)


 ヴェドーラには、今日のような出来事の記憶があと六回分ある。そして今までの細かな記憶はなるべく忘れるようにしていたが、それも彼の顔を見ると一気に思い出されてしまうのだ。


(昨年は初めてユーリと花火を見た。その前は庭園で一緒に花を摘んだ。そしてその前は、よく分からない液体に沈められた鯛を食べて気分が悪くなった……ってなぜ今こんな事を思い出しているんだ)


 ヴェドーラは思い出に浸っている自身に少し呆れた。

 もちろんこの記憶はユーリ側にはない。そのためヴェドーラは彼に不自然に思われないように演技をする必要があった。


「えっと、名前を聞いてもいい?」

「シェリルです」


 迷うことなく偽名を口にした。正直に名前を言うと、リリアンに正体が知られる可能性があるからである。


「よろしくシェリル」


 ユーリは何の疑いもなく彼女に手を差し出した。ヴェドーラはぎこちない笑顔でその手を握った。彼の嬉しそうな顔を見ていると、ヴェドーラの胸がちくりと痛む。彼女はこの気持ちが一体何なのかまだ気付いていない。


「あの……もしかして、僕たち以前どこかで会ってる?」


 ユーリは神妙な表情でそう言った。ヴェドーラはその質問に一瞬固まってしまった。


(も、もうその話題をするのか? 今年は随分と早いな……いつもは一日以上経ってから訊いてきたのに。……だがこれはチャンスだ)


 ヴェドーラはにやりと口角を上げた。ここで先日ユーリを助けたのは自分だと申し出て、リリアンになりすまして恩義を自分に向ける作戦だ。


「はい、実はあなたと一度海で会っています」

「……! やっぱりそうか」


 ユーリは驚きとともに頬を緩ませた。


「貴女が……の人魚なんだね」

「ええ、あの時あなたを助けたのは私です」

「初めて見た時から、そうじゃないかと思ってたんだ!」


 ユーリはそう言ってヴェドーラの手の甲にキスをした。


(こんなに簡単にリリアンと私を間違えるなんて、よっぽど記憶力が悪いのか?)

「よかった……やっと貴女を見つけられた。僕はあの日から、ずっとずっと貴女に会いたくて堪らなかった」

(そんな大袈裟な。リリアンと出会ったのはたった一週間前じゃないか)


 ヴェドーラにはユーリの言葉の規模が無駄に大きく感じた。しかしユーリが大袈裟なわけではなく、彼は十五年前に助けてくれた黒い鱗の人魚の話をしている。しかし双方はその食い違いに気付かないまま話を進めていた。


「改めて君にお礼を言わせてほしい。あんな嵐の中、僕のことを助けてくれてありがとう」

「ああ、それは……? どういたしまして」

(一体何の話をしてるんだ? 嵐なんてここ数年来てないのに……まあいい。どうせ今回も最後に記憶を消すんだから)


 ヴェドーラはそれなりに長く生きているせいか、些細なことは気にしなくなっていた。

 一方ユーリは彼女をじっと見つめ、微かに頬を染めている。


「シェリル、その……僕はあの頃からずっと貴女を慕っていました。こんなことを急に言われて貴女は戸惑うかもしれないけれど……」

「いいですよ。結婚しましょう」

「え?」

「あ、しまった……」


 これはヴェドーラにとっては七回目のプロポーズ。彼女にとっては慣れたもの。しかし、逆に慣れすぎていたせいで肝心の言葉をフライングをしてしまった。

 焦って目が泳ぐヴェドーラ。しかし幸い、ユーリはそんな彼女を怪しむことなく、嬉しそうに目を輝かせた。


「はは、すごいな。僕の心の声が聞こえてた?」

「ははは……」


 ヴェドーラはユーリに合わせて笑顔を作った。しかしその頬は引き攣っていた。


(なんだか今回は調子が悪い気がする……)

「ユーリ様、もしよかったらお城の中を案内してくださいませんか?」


 ヴェドーラは例年通り城内を案内してもらうことにした。もはや城の中を知り尽くしているが、これ以上ボロが出ないようにこの話題を終わらせたかったのだ。


「もちろん。……あと、僕のことはユーリと呼んで」

「分かりました。ありがとう、ユーリ」


 ヴェドーラがそう言うと、ユーリははにかんで彼女の手を強く握った。彼の手の温度を感じると、ヴェドーラは何故か心が満たされて幸せな気持ちになってしまう。


(違う。これは人間の体温が海の生き物よりも温かいから……だから変な気持ちになるのだ)


 彼女は自分の気持ちをそう解釈することにした。しかし依然として彼女の心はぽかぽかと満たされていた。



「ここの庭園は海岸に繋がってるんだ」

「わあ、スゴイ……! 本当に海がすぐそこなんですね」


 ユーリに案内されながら、城外までやって来たヴェドーラ。もちろん彼女がここに来るのは七度目だが、初見の演技をした。二人は順調に親交を深めていた。


(ふぅ……あとはリリアンに『僕はシェリルと結婚する』と伝えさせれば任務完了だな)


 ヴェドーラはそう思い、一息ついた。その時だった。


「……!」


 彼女は向かいから歩いてくる人物を見て目を丸くした。


(あ、あれは……リリアン! なぜだ。確か今は部屋にいるはずじゃ……)


 向かいから近付いてくるリリアンは、まだヴェドーラを認識していない様子だ。しかしそれも時間の問題だろう。

 焦りから彼女の身体中には冷汗が伝い、青白かった顔がさらに青白くなった。ユーリはそんな彼女を心配そうに見つめた。


「シェリル、どうしたの? もしかしてまた気分が悪くなった?」

「いえ、大丈夫です。なんでもありません」


 そうは言ったが混乱していた。リリアンはもう近くまで来ている。

 彼女からすれば、唯一の協力者であるヴェドーラが自分を邪魔しているという状況だ。怒り狂ってもおかしくない修羅場である。


(今ここで騒ぎになるのはまずい。一刻も早くここから逃げなければ……)


 ヴェドーラはゆっくりと一歩後ろに下がった。しかしその瞬間、リリアンと目が合ってしまった。逃げようとするヴェドーラを見て、リリアンは早足で近寄ってきた。そして大きく口を開いた。


「ヴェドーラ! なんで貴女が陸にいるのよ!!」

「……これは、その……そなたの父上に頼まれて仕方なく」


 ヴェドーラは迷わず腐れ縁の幼馴染を売った。それを聞いたリリアンは眉を顰めて怒りを父に向けた。


「パパの仕業なの!? 娘の恋路にいちいち首を突っ込むなんて! うざっ!」

「……リリアン、それよりそなた声が……それにその足もどうしたのだ」


 声を取り戻したリリアンの足には、元々あった鱗が少しずつ浮き出てきていた。


(まだ私は何もしていないのに、何故人魚に戻りつつあるんだ?)

「ああ、これね。私、もう王子のことは諦めたから人魚に戻るのよ」

「なんだって?!」


 ヴェドーラは驚きのあまり声が裏返った。

 まだヴェドーラが何も仕掛けていないうちに、自ら人魚に戻るなんてことは今まで一度もなかったのだ。


「だってさ、王子は初恋の人を今も想い続けてるんだよ。いくら私が超絶可愛くても、こういうタイプを三日で落とすなんて出来っこないのよ。だから海に帰るの!」

「はあああ?」


 ヴェドーラは彼女の言い分に仰天して声を張り上げた。


(それでは私は何のために陸まで来たんだ……)


 ヴェドーラは愕然とし、そしてすぐに隣にユーリがいることを思い出した。ユーリは困惑気味で双方を交互に見て声を上げた。


「えっと……シェリルと君は知り合いなんだね。君はどういう……」

「シェリルって誰? もしかしてヴェドーラのこと?」

「え? ヴェドーラって……?」


 ユーリは戸惑いながらそう訊いた。するとリリアンは呆れた様子でヴェドーラを一瞥してから口を開いた。


「王子、ヴェドーラはこの人の名前よ。この人は海の魔女なの。ヴェドーラは私のパパに頼まれて、私が貴方にキスをしないように見張りに来たのよ」

「リリアン、もうそれ以上言うな」


 ヴェドーラが止めに入ったが、リリアンは話すのをやめない。


「私達はね、三日以内にキスしないと人魚に戻っちゃうのよ。ま、私はもう陸に未練ないから海に帰るんだけどね。それで、ヴェドーラはどうするの?」

「どうするも何も、リリアンがもう海に帰るのなら私も帰……ヒエッ」


 そこまで言いかけたヴェドーラだったが、隣にいたユーリから刺すような視線を感じて口を閉ざした。

 先程まで静かに話を聞いていたユーリは、いつの間にか冷淡な顔つきへと変貌していたのだ。今までの彼とはまるで別人のようである。


「シェリル……いや、ヴェドーラと呼ぶべきかな。まさか海に帰るなんて言わないよね?」


 笑顔でそう話すユーリの目は笑っていない。

 彼から殺気のようなものを感じ取ったヴェドーラは、何とか誤魔化そうと笑いかけた。しかしそんな事ではこの状況を誤魔化せなかった。


(まずい、全て知られてしまった。こうなったら手っ取り早くの記憶を消すか?)


 ヴェドーラは魔法で全てなかったことにしようと考えた。しかし魔法を使うには、それなりの準備と時間が必要になる。もちろんユーリは彼女にそんな時間を与えるつもりはない。

 ユーリは彼女の手首を掴み、強い力で引き寄せた。


(……これはかなり怒ってるぞ)

「ヴェドーラ、君は僕を騙してたのかい?」

「騙すなんてっ、まさか……」


 確かにヴェドーラは何度もユーリに近付いて記憶を消したけれど、彼女は決して悪意を持っていたわけではなかった。


(いくら悪意がなくても、当事者としてはいい気分はしないだろうな)


 今までの記憶が巡り、ヴェドーラは彼に罪悪感を覚えた。


「ユーリ、すまない。騙しているつもりはなかったけど、そなたを傷つけてしまったのは事実だ。もう金輪際関わらないようにするから……」

「何それ。僕はそんな言葉を聞きたいわけじゃないんだけど」

「す、すみませんでした!」


 ユーリの圧に負けて、ヴェドーラは改まった口調になってしまった。三百年生きた海の魔女でも陸ではこの有様……もはや威厳など微塵もない。


「ねえヴェドーラ、もう一度聞くけど……海に帰るの? 帰らないの?」


 ユーリの口調は柔らかいが、決して帰るとは言わせない雰囲気を纏っていた。その目はまるで獲物を狩る肉食獣だ。


(今まで散々騙しておいて、ここで逃げるなんて許さないということか……?)


 ヴェドーラは覚悟を決めた。


「大丈夫、……まだ帰らないよ」

?」

「ヒッ、帰らないよ! 安心しなさい!」


 彼女は半ばヤケクソだ。しかしユーリはその言葉に満足した様子で微笑んでいる。

 そして二人のやりとりをずっと見ていたリリアンは、溜息混じりにわざとらしく声を上げた。


「なぁーんだ。二人ってそういう仲だったの」

「はあ? どういう仲だよ!」


 リリアンの意味深な発言にヴェドーラは思わず反論した。しかし昨日までは脳内サンゴ礁だったリリアンも、今は冷静で鈍くはない。王子がヴェドーラへ向ける視線を見れば、ただならぬ感情が含まれていることぐらい理解できたのだ。当の本人は気付いていない様子だが。


「じゃ、私は帰るから。ユーリ王子、いろいろありがと! ヴェドーラもお幸せにね!」


 人魚に戻りつつあったリリアンは、そう言って手を振ると足早に去っていった。ヴェドーラはそれを追おうとしたが、ユーリに手を強く掴まれているせいでそれは叶わなかった。

 

「リリアン……! 待てっ!」

「もう行っちゃったよ」


 ユーリは涼しげな表情でそう言った。そして再びヴェドーラを引き寄せた。


「なっ……」


 ユーリの長い指先がヴェドーラの頬に触れた。突然の接触に、ヴェドーラは壊れた機械人形のように固まってしまった。

 ユーリはそんな彼女を愛おしそうに眺めながら、小さく笑って言葉を発した。


「三日以内にキスしないといけないんだっけ?」

「え?」

「いいこと聞いたな」


 ユーリはそう呟くと、自身の美しい顔をヴェドーラに近付けた。


「は? ちょっ……ええっ? んんっーーーー!!」


 いきなり唇を塞がれてたヴェドーラは、頭が真っ白になった。そして唇から伝わった熱が、身体全身を駆け巡っていた。


「これで君は二度と海には帰れないね」


 ユーリは屈託のない笑顔で恐ろしいことを口にした。突然の出来事にヴェドーラは放心状態だ。


(この私が……人間になってしまった……だと?)


 ユーリからのキスにより、ヴェドーラの魔力は消えた。そして作り物だった足は本物に変わり、完全に人間になってしまったのである。

 そしてユーリにも変化が訪れていた。ヴェドーラの魔力がなくなり、今まで消されていた記憶が全て蘇ったのである。


「……思い出したよ。君は去年、初めて花火を見て驚いていた。その前はここで花を摘んだ。そしてその前は……君は人魚だから魚介スープが苦手だったんだね。はは……全部思い出した」


 ユーリは独り言のように饒舌に思い出を語り出した。


「僕は君に七回もプロポーズしてしまったんだ。道理でこんなに好きなわけだ」

「す……すき?」

「うん。だから、責任とってね」

「へ?」


 ユーリは柔かな表情のまま手際良くヴェドーラを抱えた。彼女はあっという間にお姫様抱っこされてしまったのである。


「な、何をする! 自分で歩けるぞ!!」

「はは、その話し方も可愛いね」

(可愛いだと?! さっきから何を……これはどういうつもりだ? それに先程の“責任とってね”とはなんだ?! 責任って……どうやって取るんだ?)


 ヴェドーラは『責任』という言葉に引っかかっていた。何故なら彼女は人間がどうやって『責任』をとるのか知らないのである。


(まさか……)


 ヴェドーラの頭には、いつしか食べさせられた魚介スープが浮かんだ。それは大きな鯛が丸ごと鍋に沈められていた代物で、城の人間たちに振舞われていた。あの魚たちを思い出し、ヴェドーラの背筋が凍っていった。


「……私を食うつもりか?」

「え?」


 ヴェドーラの予想の斜め上をいく発言に、ユーリは面食らった。そしてその発言に似合わない彼女の深刻そうな顔を見ると、次第に笑いが込み上げてきた。しかしユーリは笑うことを堪え、負けじと真剣な表情を作った。


「さあ、どうだろうね?」

「ヒェッ……」


 ヴェドーラは彼の言葉を真に受けて顔を青くした。

 しかしその後、もちろんヴェドーラがスープにされることはなく、むしろユーリからは過剰な愛情を受けることになるのであった。



【完】

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海の魔女なのに、陸の王子に溺愛されてしまった つきかげみちる @tukikagemichi

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