4 酷別

 久しぶりに登山と云う名の運動を終え、私の足は疲れて張っていた。

「湿布持ってきます」

 彼女の気遣いで少しは良くなったがやはり辛い。暫く玄関の沓脱石に足を載せて居ると、

「こんなときは温泉よ!露天風呂へ行ってください」

 彼女はひらめいたかのように叫び、私を中へ連れた。


 時間も時間であまり浸かれない。が、しかし少しでも浸かれば疲れがとれる。それがここの湯だと思う。

 シャワーで少し汗を流し、風呂の縁に数秒跨がって、肩まで浸かった。

 足を揉みほぐして、身体を浮かばせた。かなり大きく作られた露天風呂は綺麗な長方形で、長い方は端から端まで5メートル位ある。

 空には日が少し落ちてきているような……。もう日暮れも近いのか。私は空の彼方のあの雲が向かいの山頂を通るまで生温かいこのお湯に浸かっていたいと考えた。

 それまでの間、悠揚な時の流れを聴覚だけで楽しんだ。



 「今日は豪勢ですよ!」

 私の部屋にやって来た彼女は明るく膳を運んできた。

「何だい?」

 その膳の中を覗きこんでみた。

「こりゃ……、鯛かい?」

「えぇ、めでたい訳でもないのに鯛ですよ。鯛の煮付け」

「宜しいのかい」

「お召しになって」

 私はその魚の腹の身を箸で摘まんで、彼女の装った白い艶った米と一緒に味わった。

「美味しいよ。絶品だ」

「良かった。煮付けは私の得意なのよ」

 彼女は茶衣着の前掛けをギュッと握り、喜びを抑えているようだった。

「君が作ったのか?」

「えぇそうよ、私が作ったの」

「益々惚れてしまったよ」

「嬉しいけど困ります」

 しかし、彼女は困った表情など浮かべていなかった。

「今夜、同衾どうきんしないか?」

「食事中にそんな……」

「君は何も食べてないだろう」

「身体目的だったの?」

「いや、不熟な人間における最大の顕愛行為。それが同衾することと思っているんだ」

「嫌ね」

「何がだ?」

「私と貴方は不熟なの?それは外見から判断してるんじゃないかしら。私は貴方を真に熟した人間と思っていたのに」

「……あぁ、済まない。欲に任せて俗なことを考えてしまった」

「良いのよ。でも、私は隣に居るべきね」

 彼女は嬉しそうに笑った。

 時に彼女のこの発言は私を避けるものと考えたりしたが、何より最後の一言に尽きる。


 星空の下、隣に先程宿に着いた老紳士と並んで露天風呂に浸かっていた。

「青年。あの白熱灯は消せるのか?」

「ちょっと見てきます」

──パッと、暗くなった。

「ありがとう、どうだ一緒に星を眺めんか?」

「喜んで」

 私はまた浸かり、見上げた。

「天体観望はご趣味で?」

「あぁ、癒されるんだ。美しいものを見ていると」

「あぁ、分かります。癒されますよね」

 私は少し顔が熱くなったが、暗かったので気付かれなかった。

「妻はな……自分で云うのもあれだが別嬪での、それを毎日見れることが幸せじゃった」

?」

「あぁ、今はちぃと可愛くなってしもうた」

 紳士は声高らかに笑う。

「それで星を」

「あぁ」

 私もよくよく考えれば、彼女を目に映すだけで『生活の意義』とまではいかぬが、『我生の興趣』を理解できるような、広義の癒しを感じている。

 続けて、「あの女中とはどんな関係だ」と尋ねてきた。

 実は紳士に私と彼女の仲睦まじい関係、ただの客と女中と思えない様子を脱衣所前で見られていたのだ。

 私が「暫くの癒しです」と答えると、嬉しそうに「そうか」と云った。


 更衣室にて。

「先程の威勢はどこから出るんだ?」

「私の欲と、彼女への信頼です」

「そうかそうか。きっかけとかはあるのか?」

「……特に、自然に」

「それなら、気が合うんじゃろ」

 私は少し嬉しく感じた。

 老紳士は「幸せにな」と云い、先に出ていった。


 最後の月夜。星空もよく見える。私はいつもの縁側で、足を横にして座る彼女の手を握り、静かに寝転んでいた。

「寂しい夜だ」

 私の言葉に彼女は小さく頷く。

「君は癒しを何と心得てる?」

「いきなりね。……今は貴方と居ること、かしら」

 彼女は私の横に寝転んだ。

「今は、か。来週には何になっている?」

 こちらを向いて

「貴方を思い出すこと、よ」と云う。

「きっと僕もそうだ。もう夜も深くなってきた。最後に膝枕をしてくれないか?」

 私は起き上がった。

「えぇ、勿論」

 そう云って彼女も起き、綿の前掛けの皺を伸ばして手招きした。

 顔を横に、ゆっくり膝に下ろす。着いたときふと一筋の悲哀の涙が流れ落ち、彼女の膝で染みになった。

 その様子に気付いた彼女はただ黙って、私の身体を撫でたり軽く叩いたり、まるで赤子をあやすようにしていた。

 ──暫くして、私は眠ってしまった。そして、夢を見た。ずっと彼女の膝枕で寝ている夢だ。彼女がわずかに微笑し私を見つめ、身体を撫でたり軽く叩いたりしてあやすのだ。夢の終わり彼女は私にキスをした。夢の中だったが本当にしたような、そんなキスだった。


 目覚めるとあの縁側にいた。そして、彼女の膝を枕にしたままだった。

「起きられました?」

 私は投石機のように起き上がった。

「君は寝たのか?」

 心配したように忙しく聞く私と対照的に彼女は、

「寝ましたよ。ただ、お風呂に入っていませんので、今から入ってきますわ」と落ち着いて、フラフラと風呂場まで向かいはじめた。

 私は彼女に感服した。それと同時に彼女を追いかけ、風呂場まで送った。


 「身体は大丈夫か?」

「えぇ、お風呂に入ってさっぱりよ」

 彼女はいつもより白く塗った顔を笑顔にして、朝食を運んできた。

「今日は最後。豪勢にいこうと思ったけど、やっぱり普通にしたわ」

「それでいいさ。ありがとう」

 机に置かれた膳を見渡した。白飯、白味噌汁、焼き鮭、しそ漬け胡瓜。旅館としてはそこはかと無く質素であったが、彼女の計らいで或るのかな?と思ったりもして、少し嬉しく思った。

「おかわりはいくらでも」

「分かった」

 彼女は私の服を畳みながら、食事をする私の顔を見て偶に幸せそうにする。その姿はまさに夫婦のようで、きっと他の女中たちが見ていたら彼女を僻むだろう。


 「最後に風呂に入りたい。終わったら直接帰りたいから荷物を玄関に置いてていいか?」

「えぇ、構いませんよ」

 彼女は私の荷物を持って出ていった。背丈は私よりすこし小さく、華奢な身体に一つ結び、やや厚い化粧に端整な顔立ち、いつの間にか少し謙虚になって私を一歩前に立てる彼女を見たのはその時が最後だった。

 そんなことを露ほども知らず、暢気に風呂場へ向かう私。全く空しい奴だ。

 最後の風呂は何の感動もない、ただただ、開放感のある風呂と云うだけ。

 風呂を上がっても気持ち良かったな、と思うだけでいた。


 「すいません。荷物を預けてました、箭本です。」

「はい」

 出てきたのは知らない女中だった。

「こちらですねぇ。帰られますか?」

「あ、はい」

「畏まりました」

 無慈悲に進む出立の手続き。彼女は気配もなく、声も形もない空虚な存在に為ったようだった。


 「では、また」


 それから私が彼女に会うことは無かった。さりとて、一瞬たりとも忘れることも無かった。


 五年後、また休みを取ることにした。

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