3 霊験

 この宿の朝はひどく冷えた。窓ガラスには結露が生じ、朝陽ちょうようを乱反射させ部屋に導いた。その光は目覚めを誘い、私は毛布を蹴り上げた。


 朝陽の差す外湯は、冷えた空気を暖めて、思ったよりも過ごしやすくしていた。ちょっとだけ湯に浸からず、太陽に向かって仁王立ちをした。特に理由など無い。ただやりたかっただけだ。

 お湯の温もりは、昨日の彼女の体温に似ていた。昨日のことは夢に出てくるほど印象的で、私は彼女のことを一切の憐れみ無く愛しているのだと確信した。


 朝の縁側から感じる景色は、以前とは全く変わっていた。沢の音は相変わらずだが、蕾をちょっと開かせた朝顔。その上にポツリと載る露。そして、その露に朝陽を取り込み各方面へ光を放つことで明るくなった木陰。私の隣の彼女も例外ではない。

「おはようございます」

 彼女は幾分と落ち着いた調子で、お辞儀をした。

「おはよう。朝早いね」

「箭本さんも」

 彼女は漸く幼さを覗かせた。

「毎朝来ているのかい?」

「いいえ、今日だけです」

「そうか」

 私は一回頷いて、彼女の膝に頭を載せた。

「まぁ、子供みたい」

 彼女は手で口を隠し笑った。

「こう云う仲だろ」

「えぇ、まぁ」

 そして、彼女の繊細な手は私の頭を滑り、私はとても落ち着いた。

「毎日、こうして欲しいな」

「私もしたいですよ」

「なら、一緒に暮らさんか」

「またまた」

 彼女はこの手の話を受け流すようだ。

「悲しい、悲しい」

「すみませんね」

 冗談めかしいその返事は、彼女の諦めに似た悲しい表面を持ち合わせるものでもあった。


 朝食の世話はやはり彼女であった。赤い茶衣着に薄化粧、一つに結んだ髪の後ろからは昨日の項が見える。

 白米を摘まんで口に運ぶ。今日も彼女が装ったそう。

「美味しい?」

「美味しいよ」

「実はね、このお味噌汁、私が作ったの」

「そうか」

 味噌汁を持ち、啜った。

「優しい味だ。料理上手だな」

 彼女は照れたように俯き、次の料理を取りに行った。


 朝食後、昨日の晩のように彼女と二人、窓際に座っていた。

「今日はお昼、出掛けられるんですか?」

「あぁ、上の神社に登ろうと思ってね」

「へぇ、あそこは道がごちゃごちゃしてますよ」

「そうなのかい。そりゃあ困るな」

「私が案内しましょうか?」

「仕事は良いのか?」

「女将に云えば大丈夫です。いつ頃出られます?」

「そうだな……。九時半にでも」

「分かりました。じゃあ、云ってきますね」

 と彼女は駆けて部屋を出た。


 「準備できました」

「じゃあ行こうか」

 玄関の大きな庇の下、赤い半纏に白シャツを覗かせ、黒ズボンを履いた装いで現れた。

「寒くないか」

「えぇ、お構い無く」


 少し歩いて立ち止まる。

 「ここが入り口です」

 と彼女が教えてくれたのは整備された石段だった。

「ここを真っ直ぐ道なりに登れば着きますの」

「ごちゃごちゃしとるんじゃ無いのか?」

「それは、……聞かぬが華ですよ」

 そう笑みを浮かべた彼女は早速石段を登りはじめた。


 「疲れとらんか?」

「偶に登ってるんで。それに若さも」

「僕も若いぞ」

「箭本さんより若いです」

 序盤はこう楽しく話をしていたものの、終盤へ差し掛かるにつれ二人とも脂汗を流し、息を上げながら階段に足を登っていた。

 ふと立ち止まって後ろを向いてみた。下に旅館が見える。そして音だけしか知らぬ、沢の流れも見ることができた。

「あんな清流が流れてたんだな」

 隣の彼女は息を切らしながら、えぇと応えた。

「あの沢、見ても美しいのに音まで惚惚ほれぼれさせるなんて羨ましいですよね」と続けて云ったので、

「君もその美しさを持って嫉妬するなんて、中々の強欲じゃないか?」と返した。

 その言葉に彼女はいつかのように、顔をカッと赤く染め、反転して階段を登りはじめた。私のことを嫌な人間と思っただろうか。決して態と云った訳ではないのだが……。急いで彼女の後を追った。


 神社に着いた。名を三山さんざん神社と呼ぶその境内は、その名の通り中央の山、その左右の山々を奉った神社で優に千年を越える歴史があると云う。

 まず、お詣りをしようとガマ口から百円玉を取り出し投げ入れた。彼女は現金を持ち合わせておらず私の百円を投げ入れた。

 彼女が何を願ったのか。聞かずとも分かるが、あぁ、神様いるのならばこの願い成就させて頂きたい!


 彼女はいつしか、何もなかったように振る舞っていた。私をあるところへ連れたいと云う。付いていくと社殿の横、事務局みたいなところで止まった。

 彼女はそこのドアを勝手に開け、靴を脱ぎはじめた。

「いいのか?」

「いいの」

 彼女は躊躇う私の手を引っ張り、靴紐解いて中へ連れた。

 進んだ先に居たのは、お茶を注ぐ眼鏡の神官白衣を着た中年男だった。

「神主さん、お邪魔します」

「おぉ、花ちゃん、久しぶり。あら、……そちらは?」

「お客さん」

「お客さんを連れ回しちゃいけないよ」

「許可はもらってるの」

「ほんとに?」

 人の良さそうな神主の男は、目を丸め此方を見た。

「……まぁ」

 私の返事に口を開き、頑張れと口だけ動かした。

「それで今日は何の用だい」

 彼女は神主の出したお茶を少し口に含んで、「デッキでお茶でもしたくて」と応えた。

「そりゃ、怠慢だねぇ」と神主も呆れつつ、いいよと許可した。

 事務局に入って神主の部屋のその先、一つの入母屋があった。

 そこに入り、暗くて急な階段を登りきると右手に外の明かりが見えた。その方へ床を鳴らしながら一歩一歩期待に胸膨らませつつ行くと、そこには絶景が望める断崖の広々としたデッキがあった。

 「ここは?」と聞くと、「私の秘密基地よ」と返ってきた。

 詳しくは詮索せず、取り敢えず欄干に腕を載せ、その絶景を興じた。今日は雲霧一切無く、その空の両翼を逞しく広げた鳶の甲高い泣き声、その奥の山頂から流れ吹く山風に青々とした葉が掠れる音。風景だけでも酒のつまみになるのだが、その場にいるからこそ感じる自然の動き。云うなれば、地球の血流を眼前にすることで、未曾有の感動を得ることができた。

「ここにいると、心洗われるでしょう?」

「あぁ。暫く眺めていたいよ」

「分かった。お茶注いでくるわね」

 彼女はデッキから離れ、下へ降りた。

 私は今一人、自然と対峙している。すぐにでも淘汰されそうだが、心做しか隣に霊神が居り、守ってくれるような気がする。この不可思議なる現象は彼女が戻るまでの数分間続いた。

「熱々のコーヒーを淹れました。その方が良いでしょう?」

「あぁ、ここは寒い」

 少し啜って、欄干に載せた。

「君、ここは誰の何なんだい?」

「神主さんのご自宅よ」

「あぁ、羨ましいな。こんなところでずっと愛する人と慎ましく過ごして見たいものだ」

「あら奇遇ね、私もよ。でも、叶うにはまだ早いわ。今、ちょっとの時間楽しみましょ」

「そうだな」

 私と彼女は近くにあった木製の椅子に腰掛け、欄干の隙間から崖下を見下ろした。

「高いなぁ。愛する人が私のものに成らなかったら、一思いにここから飛び降りて死んだがマシだ」

「そんなこと云わないで。私は貴方のモノよ。貴方以外の誰にも貴方以上に愛さないわ」

「嬉しいよ」

「私も」

 私たちの視線は下から横へ……。側に霊神が居るかのように、私たちは急激に近付いた。

「明日帰るんだ。悲しいか」

「悲しいわよ。当たり前よ」

「君と離れるのは死ぬより辛い」

「私もよ。貴方のその目を何時までも眺めてたいの。……でも、いけない」

 彼女は急に暗くなった。

「恩義を感じない人間に私は為りたくないの」

 その言葉の意味することがよく分からなかった。

「僕への愛を上回るのか?」

「申し訳ないけど……」

「よく分からないが、これだけは分かった。君は僕を愛していると」

 私は立ち上がった。彼女も少し恥ずかしがって立った。

「キス……していいか?」

「断ると思う?」


 それが私のファーストキスであり、最後のキスとなった。

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